第玖頁 徳川吉宗……数奇な兄弟仲が持った複雑感情

末弟File玖
名前徳川吉宗(とくがわよしむね)
生没年貞享元(1684)年一〇月二一日〜寛延四(1751)年六月二〇日
徳川光貞(とくがわみつさだ)
浄圓院(じょうえんいん)
綱教(つなのり)、 次郎吉(じろきち)、頼職(よりもと)
官位・立場紀伊藩第五代藩主、徳川幕府第八代征夷大将軍
兄弟仲基本良好


略歴  拙サイト戦国房を立ち上げたのは平成一三(2001)年で、曲がりなりにも本作制作時点で二二年以上経過しているが、この徳川吉宗を採り上げるのは初めてなんだよなあ。逆に将軍家としてはマイナーである家重の方が採り上げたことがある。我ながら何に関心を持ち、人間がどう関連するかは単純ではない(しみじみ)。

 個人的感傷はさておき、徳川吉宗は貞享元(1684)年一〇月二一日、紀州藩第二代藩主徳川光貞を父に、巨勢利清の娘・お紋の方を母に四男に生まれた。幼名は源六
 お紋の方は和歌山城大奥の湯殿番で、そこで光貞の手がついたことで源六が出来たとされている。
 その出生故か、光貞の子として育てられることが憚られたようで、源六は家老・加納政直の元で五歳まで育てられた。後に次兄・次郎吉が病死したことで光貞の実子として認知され、名を新之助と改めて江戸紀州藩邸に移り住んだ。

 元禄九(1696)年、一三歳で元服し、松平頼久と名乗り、従四位下右近衛権少将兼主税頭に叙せられた。翌元禄一〇(1697)年四月、時の征夷大将軍徳川綱吉が紀州藩邸を訪問し、頼久は将軍に初めて謁見し、三兄・頼職とともに越前丹生郡内に三万石が与えられ、葛野藩主となるとともに名を頼久から頼方と改めた(ちなみに頼職は高森藩主となった)が、実際には葛野藩は家臣を和歌山から派遣して統治するだけで、頼方は和歌山城下に留まった(頼職も同様)。

 宝永二(1705)年五月一八日、長兄にして第三代紀伊藩主であった綱教が逝去。綱教は綱吉の一人娘・鶴姫を正室に迎えており、一時は六代将軍とも目されたが、前年に子を成さないまま鶴姫に死なれており、他に側室もいなかった。
 紀伊藩は急遽頼職を末期養子として跡を継がせること認められ、改易は免れた。頼職紀伊藩後継により、頼職が藩主となっていた高森藩は幕府に収公され、そこから一万石が頼方の葛野藩に加えられ、石高は四万石となった。
 だが、その後紀伊家を相次いで襲った不幸は一万石の加増どころではなかった。綱教の死から三ヶ月も経たない同年八月八日、既に隠居していた七九歳の光貞が綱教の後を追うように天寿を全うした。
 光貞危篤の方に接した頼職は幕府の許可も得ずに大急ぎで和歌山に戻ったが、真夏の強行軍で体を壊し、辛うじて父の臨終には間に合ったものの、自身もそのまま床に伏してしまい光貞の葬儀に参列も出来なかった(喪主は頼方が務めた)。
 そして光貞の死からちょうど一ヶ月後である同年九月八日、頼職も二六歳の若さで逝去した。

 紀伊藩は僅か数ヶ月の間に第三代藩主、第二代藩主、第四代藩主を失い、改易の危機に瀕した。幸い鶴姫の縁もあって綱吉が紀伊家に好意的だったことから頼方頼職の末期養子として認められ、二ヶ月後に新藩主として綱吉に謁見した頼方は、綱吉から「」の字が与えられ、第五代紀州藩主徳川吉宗となった。
 だが、吉宗はとんでもない状態に置かれていた。頼職の死により、吉宗は父・兄・姉妹をすべて失い、天涯孤独に近かった(生きていた身内は母と、叔父・松平頼純一家)。しかも紀州藩は短期間に三人の歴代藩主の葬儀を行ったことで莫大な出費を重ねており、財政は火の車だった。

 宝永六(1709)年一月一〇日に綱吉が薨去すると将軍職は甥である家宣が継いだ。翌宝永七(1710)年四月に初めて藩主として和歌山に入った吉宗は、質素倹約を旨とした藩政改革に着手し、自らも木綿の服を着て率先した。上述した歴代藩主の葬儀費用や天災による被害もあり、幕府からも一〇万両の借金をしていた紀伊藩だったが、吉宗主導の下、財政を再建し、借金の返済にも成功した。
 一方で、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めた(これらの政策は征夷大将軍になった後も用いられた)。

 この間、正徳二(1712)年一〇月一四日に家宣が逝去すると、その一人息子でまだ四歳だった家継が第七代征夷大将軍となったが、家継は正徳六(1716)年四月三〇日に八歳で早世。勿論子がいる筈もなく、江戸幕府は秀忠以来の血筋が途絶えると云う初めての事態に誰を第八代征夷大将軍にするかで紛糾した。
 吉宗将軍就任に関する背景は本作の主旨ではないので割愛するが、史実として吉宗は家継が薨去したその日に将軍後見役に就任し、七月一三日に正二位権大納言に昇進し、五日後の同月一八日に征夷大将軍・源氏長者宣下を受け、同時に内大臣・右近衛大将も兼任した。

 通常、一藩の藩主が将軍職に就任した場合、その藩は廃藩となった。実際、綱吉が治めた上州舘林藩も、家宣が治めた甲府藩も将軍継嗣となるとともに幕府に収公され、藩士達は幕臣となった。
 しかし、吉宗は紀伊藩を廃藩とせず、従兄の松平頼致(光貞実弟・頼純の子)に継がせ、頼致は徳川宗直と名を改めた。同時に紀州藩士の内から加納久通(←育ての親・加納政直の息子)・有馬氏倫等大禄でない者を四〇名余り選び、側役として従えただけで江戸城に入城した(この後吉宗が和歌山に戻ることは遂になかった)。

 吉宗が他の御三家を押さえて将軍位を得た背景には様々な説があるが、一般に紀州藩主時代の善政を大奥首座の天英院(家宣正室)に認められ、家継時代に将軍側近として大きな権力を握った新井白石・間部詮房等に反発する幕臣を吉宗が巧みに取り込んだからと云われている。
 吉宗は間部・新井の両名を罷免し、紀州藩主時代からの経験を活かす形で水野忠之を老中に任命して財政再建を始め、定免法上米令、新田開発推進、足高の制と云った数々の法令を発し、司法面では大岡忠相を登用して公事方御定書を制定させることで訴訟の迅速化を進め、江戸町火消しを設置する等の火事対策も進めた。所謂、享保の改革である。
 そのすべてが上手く行った訳ではないし、後々の世に悪影響を及ぼしたものもあったが、それでも幕府財政をある程度立て直し、大奥の整備、目安箱の設置、それから生まれた小石川養生所設置、洋書輸入の一部解禁等の成功例もそれなりにあり、吉宗は「幕府中興の祖」と讃えられた。

 延享二(1745)年九月二五日、吉宗は将軍職を長男・家重に譲り、大御所となった。
 薩摩守は個人的に決して家重を馬鹿とは思っていないが、家重は生来言語不明瞭で、政務にも決して積極的ではなかったため、吉宗も安心して隠居出来ず、死去するまで大御所として実権を握り続けた。
 だが、寄る年波には勝てず、大御所となって六年後の寛延四(1751)年六月二〇日に薨去した。徳川吉宗享年六八歳。



兄弟  徳川吉宗は四人兄弟の末弟に生まれた。上述した様に当初は「家臣の子」として育てられたので、三人の兄とは顔を合わせることも無かった(と思われる)。
 吉宗の父は紀伊徳川家第二代藩主徳川光貞で、正室との間に子は無かったが、数人の側室を持ち、一九歳歳上の長兄綱教吉宗が生まれたときまだ藩主ではなかったが、翌年に将軍綱吉の一人娘・鶴姫を正室に迎え、六代将軍になるかもしれないと目されていた。
 次兄の次郎吉は早世し、生年も享年も明らかではない。ただ、この次郎吉の早世で吉宗は光貞に認知されて紀伊徳川家の人間に復した。
 三兄で四歳歳上だった頼職は紀伊家の人間としては吉宗と似た人生を送った人物だった。藩主在位僅か三ヶ月にして二六歳の若さで亡くなったため、知名度の割には人物像の分かりづらい人物だが、人生の大半は長兄・綱教の陰に隠れている。
 上述したが、綱教・鶴姫存命中に将軍綱吉が紀伊藩邸を訪問したことが有った。この訪問で普通は藩主とその世子ぐらいしか将軍との謁見が叶わないところを頼職吉宗は綱吉に謁見できたばかりではなく、各々三万石の藩主となった(実際には現地には赴任しなかったが)。そして兄の死によってその養子となって紀伊藩主となった経緯も頼職吉宗は似ている。

 少し話が逸れるが、江戸時代を通じて多くの藩が改易となった。その理由として多かったのが、無嗣断絶である。武家諸法度違反や将軍の勘気を被って藩主が処罰される形での改易は親藩には殆んどなかったが、無嗣断絶には例外が無く、江戸時代初期にあっては家康の子である松平忠吉や武田信吉も例外ではなかった。
 ただ、由比正雪の乱を経て、簡単に改易することで牢人を数多く世に生じさせることは考え物と見た幕府では末期養子を認める等して、無嗣断絶を極力避けるようにはした。もし時代が少し早ければ、綱教逝去時の紀伊藩改易も全くあり得ない話ではなかった。

 その由比正雪の乱において、紀伊藩始祖徳川頼宣は一時其の関与を疑われた。これに対して頼宣は「疑われたのが我が藩で良かった(他の藩なら疑われた時点で有罪無罪に関係なく終わり)。」と笑い飛ばす形で疑念を回避した。
 勿論、本当に疑いが解けた訳では無かったろうし、頼宣が由比等を裏で糸引いていたか否かはここでは語らないが、幕閣はそれ以上頼宣を追求しなかった。そしてこの事件が関連しているか否かは不明だが、紀伊藩は一面、親類筋である尾張家や水戸家から一歩距離を置いて近しい一族内の結束を固めていたのではなかろうか?
 初代藩主である尾張義直・紀伊頼宣・水戸頼房は実の兄弟で、二代藩主の光友・光貞・光圀は幼少の頃から顔を合わせる従兄弟同士だった。だが、三代目綱誠・綱教・綱条辺りになると父や祖父の代程には結束も強くなかったと思われる。
 勿論吉宗も藩主なり将軍なりになった折には尾張の吉通・継友・宗春、水戸の綱条を身内として遇し、年長者にはそれなりの経緯も払った訳だが、心情的には明らかに叔父一家の方と仲が良かった。

 平成七(1995)年放映の大河ドラマ『八代将軍吉宗』では、吉宗(西田敏行)は概ね、長兄・綱教(辰巳拓郎)を慕い、三兄・頼職(野口五郎)とは時々対立し、従兄・宗直(柄本明)と悪友のような関係に描かれていた。ドラマの人間関係をそのまま受け止めたりはしないが、徳川家の中で紀伊家以外の同族と暗闘を繰り広げる中で、肝心なところで協力し合った兄弟仲は実像に近かったと薩摩守見ている。
 作中、綱教逝去時、吉宗頼職の紀伊藩主後継に尽力し、これに対して頼職は病床で礼を述べ、吉宗は「当然のことをしたまで。」と返していた。また、吉宗が征夷大将軍となり、頼致が伊予西条藩藩主から御三家当主となった際に、紀伊藩士達は「(頼致の父である)頼純公が御存命だったらどれほど喜ばれたことだったろう。」と口にしていた。
 かかるシーンが有ったにせよ、無かったにせよ、光貞・頼純兄弟に始まる頼宣ファミリーの絆は吉宗以降の代にまで影響を及ぼし続けていたと見られる。



特別な立場 歴史の結果として、紀伊藩第五代藩主徳川吉宗は第八代征夷大将軍となった。特別過ぎるぐらいに特別な立場である。ただ、本作で注目するのは紀州徳川家の兄弟にあって、吉宗が末弟として置かれた立場についてである(そういう意味では本来本作は徳川吉宗ではなく松平頼方として描かなければならないのかもしれない)。

 上述した様に、当初吉宗はその出生を本人には伏せられ、家老である加納政直の子として育てられた。それが次兄・次郎吉の早世により紀伊家に戻された。このとき、世子となっていた長兄・綱教は江戸屋敷在住で、彼が藩主とならない内はまず吉宗と顔を合わせることは無かった。

 薩摩守個人の推測だが、光貞が五歳の時に吉宗を徳川家に戻したのは、「保険が頼職一人では心許ない。」と考えていたからではあるまいか?何せ当時の幼児死亡率は現代とは段違いだし、実際、光貞は多くの子に先立たれている。中には乳幼児の内に夭折した、歴史に名の現れていない子供がいても全くおかしくない。
 そんな中、長兄・綱教はことが順当に進めば申し分ない立場にいた。他に男児が必要ないように思われるかもしれないが、綱教か、綱教の子が征夷大将軍となれば、それならそれで紀伊家を継がせる男児が必要となる。
 結果的に光貞は綱教次郎吉の二人の男児に先立たれ、他家に嫁がせた娘の中にも先立った者が多かった。そこまで見越したか否かはともかく、光貞は綱教に将軍娘婿としての立場を堅持させつつ、頼職には紀伊を固めさせ、末子である吉宗には自分の従者的な役割を担わせた(大河ドラマではそれに故に頼職吉宗に嫉妬していた)。

 末弟として、相次ぐ兄や姉の死を見てきた者として、吉宗には想うところが有ったのだろう。吉宗自身、父・光貞同様四人の男児を儲け、一人に早世された。息子達は歴史的にも有名な徳川家重・田安宗武・一橋宗尹である。
 この吉宗の息子達に対して、幕閣では言語不明瞭で政治にも後ろ向きな家重が将軍となることを危ぶみ、文武両道に優れて世間の評判も云い宗武を後継とすべしとする者も少なくなかったが、結果的に吉宗は長幼の序を重んじ、時には宗武を登城停止にすると云う家重の不当な要求にも応じた。
 勿論これは家重をべた可愛がりしたり、変に贔屓した者ではない。宗武と宗尹は公式的な立場は「門番」に過ぎず、その門の名前から各々の姓を与えられた。だが、門番でありながら与えられた石高は一〇万石で、家重の次男・清水重好の家を加えた清水家と共に、家重・家治の血統に断絶がった際にはそれを継承する、所謂、「御三卿」の地位が与えられた。
 この御三卿創設には御三家を初めとする大名達の反発もあったと思われる。だが、吉宗はそれを押し切り、家重を将軍として立てる一方で、自分の身内を固めさせ、家重が宗武を処罰するのは黙認しても、家重が宗武・宗尹の子を養子に出させようとするのは許さなかった。

 末に生まれ、若くして多くの父兄の死を見送り、叔父一家との結束を頼りとする人生を送った吉宗だったから、最後の最後まで身内間の在り様には心を砕いたのかもしれず、それこそが一門の者として吉宗が立った一番特別な立場だったのかもしれない(多少過言とは思いますが)。


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令和六(2024)年四月四日 最終更新