第壱頁 持統天皇……天智・天武の狭間で

名前持統天皇(じとうてんのう)
鸕野讃良(うののさらら)
生没年大化元(645)年〜大宝(703)二年一二月二二日
主な立場第四一代天皇
天智天皇
天武天皇
草壁皇子
悪女とされる要因大津皇子謀反事件を始めとした実子の政敵排除振り
略歴 大化の改新が起き、日本史上最初の年号が制定された大化元(645)年に、中大兄皇子の皇女に生まれた。母は遠智娘(おちのいらつめ。蘇我倉山田石川麻呂の娘)。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。

 大化五(649)年、讒言で謀反人とされた祖父・蘇我石川麻呂が中大兄皇子に攻められ自殺し、それを深く悲しんだ遠智娘もまもなく病死し、鸕野讚良は幼くして母と祖父を失った。

 斉明天皇三(657)年、叔父・大海人皇子に嫁いだ。
 天智天皇元(662)年、夫に随行して行った筑紫で草壁皇子を出産。
 天智天皇六(667)年、姉であり、自分と同じく大海人皇子の妻となっていた大田皇女(おおたのひめみこ)が亡くなり、大海人皇子の妻の中で最も高い身分に立った。

 やがて、即して天智天皇となった父と、夫・大海人皇子の仲が険悪化した。
 身の危険を感じた大海人皇子が天智天皇一〇(671)年に政争を避ける為に出家して吉野に隠棲した際には、草壁皇子を連れて夫に従って自身も吉野に行った(←それじゃあ、出家にならないんじゃあ……?)。

 ほどなく、天智天皇が崩御。皇位は天智天皇の皇子・大友皇子が即位したが、大友皇子改め弘文天皇は吉野に隠棲して尚、人気のある大海人皇子を警戒し、害意を抱くに至った。
 それゆえ、弘文天皇元(672)年に大海人皇子は決起した。所謂壬申の乱である。
 鸕野讚良大海人皇子と行動を共にし、自分が生んだ草壁皇子、他の后が生んだ忍壁皇子、都(大津宮)から大海シンパによって秘かに連れて来られた高市皇子、大津皇子等を連れて、吉野から美濃への強行軍を行った。

 壬申の乱大海人皇子側の大勝利に終わり、弘文天皇は自害、大海人皇子は即位した(天武天皇)。それに伴い、鸕野讚良は皇后となった。そして皇后として常に天武天皇の側にて、政治への助言を行った。

 天武天皇一〇(681)年、天武天皇は律令の編纂を始め、草壁皇子を皇太子にすることを布告した。数多くいる天武天皇の皇子の中で、次期天皇を能力的にも、人望的にも有力視されていたのは大津皇子だったが、殆ど能力を見せてもいなかった草壁皇子の立太子には鸕野讚良の強い押しがあっとしか思えなかった。

 天武天皇一四(685)年頃から、天武天皇は病気がちになり、鸕野讚良は政治を代行し、天武天皇一六(686)年七月に、天武天皇から鸕野讚良草壁皇子が共同で政務を執ることを命じられた。

 朱鳥元(686)年九月九日、天武天皇が崩御。後は草壁皇子の即位を待つだけとなっていたが、宮中における大津皇子の人気は絶大なものがあった。
 そんな中、同年一〇月二日、川島皇子の密告により、大津皇子は謀反の嫌疑で逮捕され、そのまま自害を強要されると云う事件が起きた。
 事件については後述するが、これで草壁皇子の皇位継承争いのライバルが消えた形になったが、鸕野讚良草壁皇子をすぐには即位させなかった。恐らくは大津皇子事件の治まりを見計らっていたのだろう。

 その間、二年三ヶ月の時間を掛けて天武天皇の葬礼が行われ、草壁皇子は皇太子として官人を率いた。
 ところが、直後の持統天皇三(689)年四月一三日に草壁皇子が二八歳の若さで急死した。
 夫に続く愛息の死に慟哭した鸕野讚良草壁皇子の子で、自身の孫である軽皇子(かるのおうじ)を皇太子とした。このときまだ七歳だった軽皇子を即位させるのは無理があったので、鸕野讚良は中継ぎとしてみずから即位した(持統天皇)。

 天皇となった彼女の行ったことは、基本は天武天皇治世の続行であった。
 特に力を入れたのは、藤原京造営と歴史編纂事業で、藤原の宮は平城京に先駆けた日本の固定された首都となり、歴史編纂事業は『日本書紀』として後世に貴重な資料として残された。
 その他は、外交では良くも悪くも新羅との関係を重視し、戸籍充実や、天皇集権の為に皇族による大臣任命を重視する人事を行った。

 持統天皇一一(697)年八月一日、持統天皇は一五才となった軽皇子に譲位した(文武天皇)。退位した彼女は初の太上天皇(上皇)となった。
 勿論、この手の人物が譲位後も実権を手放す訳はなく(笑)、持統上皇・文武天皇の両輪体制で政治が行われた(まあ文武天皇の若さを鑑みれば妥当ではあったが)。

 そして、大宝元(701)年八月三日、日本初となる律令・大宝律令が制定された。周知の通り、律令制度は唐に習ったもので、持統政権は唐との交流を持たなかったが、唐自体には大いに学び、この頃になると藤原不比等の様な中国文化に傾倒した若い人材が台頭し出した。
 大宝二(702)年一二月一三日、病を倒れた持統上皇は同月二二日に崩御した。持統上皇享年五八歳。ちなみに彼女は一年間の殯(もがり。葬儀)後に、火葬され、天武天皇の墓に合葬されたが、天皇の火葬はこれが初のことだった。



第壱検証:「娘」として 一言で云って、「父・天智天皇に似ている。」である。
 天智天皇中大兄皇子と呼ばれた頃から、中臣鎌足(藤原鎌足)を片腕に乙巳の変に始まる大化の改新にて蘇我入鹿を殺害したのを機に、古人大兄皇子を初めとする政敵を次々と倒した。中には有間皇子や岳父・蘇我倉山田石川麻呂の様に、害意の無い者や功労者までが半ば謀られる様にして死に追いやられた者もいた。
 これらに関する事の是非は問わないが、天智天皇が行動的な人物であったことは疑い様が無い。

 別の云い方をすれば、「敵」と見たものは排除に動き、「敵なる可能性がある」と見た人物にも容赦なく攻撃・謀略を仕掛けた人物でもあった。その辺りも娘として、持統天皇、といより鸕野讚良天智天皇に似ていた。
 壬申の乱前後における戦闘への協力振りも、息子の政敵となると見た大津皇子への陰謀も天智流に近いものがあった。


第弐検証:「妻」として 鸕野讚良は叔父である天武天皇に嫁いだ。この時代、従兄妹(または従姉弟)同士はおろか、叔父と姪(または甥と叔母)の婚姻も珍しくなかった。だが、異様なのは鸕野讚良以外にも三人の姉妹が天武天皇に嫁いでいたことである。
 つまり天智天皇が、鸕野讚良を含む四人の娘を弟に嫁がせた訳で、たった一人相手にここまでやったのは平安時代の藤原家にも例が無い。

 少し話が逸れるが、天武天皇には生年を含め謎が多く、「天智天皇の弟」という素性にも疑問を呈する学者がいる。
 ただ、そんな天智天皇の娘にして天武天皇の妻達の中で、大海人皇子が兄の魔手を逃れて吉野に隠棲したときから絶えず側にいたのが鸕野讚良ただ一人だった。
 「妻達」と来ると「夫の寵愛を巡る諍い」と来そうだが、その辺りははっきりしない。ただ、苦難の時代を夫と共にしたことが、妻の中では「皇后」という絶対的な立場を築いたことははっきりしている。

 薩摩守は人物として持統天皇は決して好きな人物ではないが、妻としての在り様には感心しているし、多数いる妻の中で最も寵愛を得たことも納得している。そしてそれと同等か、それ以上に鸕野讚良天武天皇を愛していたのだろう。
 前述した様に、即位後の政治方針は天武天皇のそれを踏襲したものだったし、天武天皇崩御後の殯の長さは異例で、持統上皇崩御後に天武天皇の陵に合葬されたことは自他共に認める天武天皇への愛情があったればこそだろう。
 天武天皇の死後、持統天皇は何度も夫との思い出の地・吉野を行幸していた。

 少なくとも、「妻」としての持統天皇に非の打ち所は無い。『天上の虹』(講談社刊。作者は里中満智子氏)なんて漫画が生まれるのも頷けるものがある。


第参検証:「母」として 薩摩守が嫌悪感を抱くのはここからである。
 天武天皇が自らの後継者を検討(当時は必ずしも長男が継ぐとは決まっていなかった)する段階で、天武天皇自身にとっても、廷臣達にとっても最有力候補は大津皇子だったが、これを叩き潰したのが鸕野讚良だった。

 大津皇子立太子を潰したのは、我が腹を痛めて産んだ草壁皇子天武天皇後継者としたがった母親としてのエゴに他ならない。気持ちは分からないでもないし、「草壁皇子の母」以前に、「天武天皇一番の妻」としての矜持と発言権を持っていた(と思っていた)面もあるだろう。
 実際、天武天皇自身、草壁皇子の立太子に賛同し、天下に布告もされたのであったから。

 だから、ここまでだったら特に目くじらを立てることもないのだが、天武天皇死後に、宮中の人気から息子の脅威となる恐れあり、と見た大津皇子に謀反の罪を着せて死に追いやったことには怒りを覚える。おまけに彼女には高市皇子を謀殺した疑惑もある。
 ちなみに大津皇子の母は鸕野讚良とは同母姉に当たる大田皇女(おおたのひめみこ)で、彼女にとって、大津皇子は決して他人ではなく、従弟でもあり、甥でもあった。まあ弟(弘文天皇)と夫(天武天皇)が殺し合ったばかりの状況下や時代背景では現代と比べても詮方なきことかも知れないが。

 ただ、ここまでして皇位を継がさんとした草壁皇子が、即位直前に急死したのを見ると、草壁皇子が可哀想である。「大津皇子謀殺の罰が当たった。」と見るにしても、罰が当たるなら鸕野讚良の筈、と薩摩守は考えるからである。

 その後の孫・文武天皇への接し方を見ても、「母」としての鸕野讚良には確かに愛情はあったのだろうけれど、愛情に盲目となって、人の道を踏み外したと云わざるを得ない。


第肆検証:悪女とされる要因 殆ど書いているに等しいが、筆頭は大津皇子謀殺だろう。
 鸕野讚良の夫で、草壁皇子・大津皇子にとっては父に当たる天武天皇は好まざることとはいえ、兄に憎まれ、甥を死に至らしめたことに思うところがあったのだろう。
 草壁皇子立太子に際して、その二年前の天武天皇八(679)年五月五日に、吉野にて六人の皇子(草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子)達に、草壁皇子を次期天皇とし、お互い助けて相争わないことを誓わせた(「吉野の盟約」と呼ばれる)。

 この中で、川島皇子と志貴皇子は天智天皇の子だったが、天武天皇崩御後に、川島皇子が大津皇子を讒言し、川島皇子を「親友」と見ていた大津皇子は彼の裏切りを激しく怒ったと云われている。
 実際、吉野の盟約後、皇位継承者は草壁皇子に決まったが、その後の政治で高市皇子は太政大臣に就任し、人柄・才能ともに諸臣の評判もいい大津皇子も政治に参加し、鸕野讚良にしてみれば、彼等が政敵になることへの懸念を捨てられなかったのだろう。
 大津皇子は立ち居振る舞いと言葉使いが優れ、才学あり、天武天皇持統天皇が編纂を命じた『日本書紀』でさえ、大津皇子に「詩賦の興りは大津より始まる」と云う賛辞を送っているのに対し、草壁皇子に対しては何の賛辞も記していない。このことからも二人の皇子には才能や人望において雲泥の差があったのだろう。
 川島皇子による「大津皇子謀反の密告」は天武天皇崩御の翌月で、大津皇子が自害させられたのは逮捕の翌日だった。ただでさえ、この謀反疑惑は「濡れ衣」と見る傾向が強いのに、このスピード展開では「謀略です」と云っているに等しいし、そのえげつなさも増幅し、彼女の名を貶めていると云えるだろう。



弁護論 持統天皇と云う人物を見る際、良く悪くも彼女に関する記述は軽減させてみる必要がある。
 例えば、『日本書紀』では持統天皇を、
 「深沈で大度」、
 「礼を好み節倹」、
 「母の徳あり」、
 などと記しているが、『日本書紀』天武天皇持統天皇が編纂を命じた史書で、思い切り天武系朝廷のプロパガンダ史書である(笑)。勿論プロパガンダだけが目的ではないだろうけれど、編纂を命じられた側が両者の顔色を伺いつつ記したのは想像に難くない(笑)。少なくとも同時代に成立した『古事記』と僅かながらに相違があるのは間違いない。


 だだ、それらを考慮に入れても断言出来るのは、持統天皇が有能で、行動力もあり、良くも悪くも愛情が強かったと云うことである。
 少なくとも政治家としては、藤原京造営と云う大工事がありながらも、この造営でもって、頻繁に行われた遷都に歯止めを掛けたのだから、長い目で見て彼女のやったことは民の負担も軽減させている。

 万葉歌人としても名高く、『万葉集』にも彼女の和歌は治められており、殊に『小倉百人一首』の第一に出て来る、

 「春すぎて 夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」

 は有名である。
 ちなみに薩摩守は過去に京都府京丹後市にある天橋立にて、ドヤ顔で「春すぎて 夏來にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天橋立という阿呆な間違いをやらかしたことがあるのを白状しておこう(苦笑)。

 まあ、薩摩守個人の過去の恥は置いといて、今少し彼女が草壁皇子のみに注いだ愛情に、吉野の盟約に込められた天武天皇の想いが加味されていれば、ただでさえ例の少ない女性天皇において、彼女は屈指の存在に慣れたと思われるだけに惜しまれる。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新