第弐頁 藤原薬子……重祚教唆の罪や如何に

名前藤原薬子(ふじわらくすこ)
同上
生没年?〜大同五(810)年九月一二日
主な立場東宮宣旨
藤原種継
藤原縄主
藤原貞本、平城天皇妃
悪女とされる要因兄と共謀した専横、謀反教唆
参考系図
略歴 藤原式家当主・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の娘に生まれたが、生年は不明。
 延暦四(785)年九月二四日、長岡京造営に尽力していた父・種継が暗殺される、と云う悲劇に見舞われつつも長じて、同じ式家の藤原縄主(ふじわらただぬし)の妻となり、三男二女の母となった。

 長女が桓武天皇の皇太子・安殿親王(あてしんのう)の宮女となり、それを補佐する形で東宮宣旨(高級女官)として仕えるようになった。ところが安殿親王の注目は娘ではなく、薬子に向いた。
 安殿親王は寵愛していた年上の后に死なれてから意気消沈の日々で、次々宛がわれる若い女性に見向きもせずにいたが、当時三〇歳過ぎと見られる薬子の虜となったらしい。程なく、二人は道ならぬ恋仲となった。
 桓武天皇はこれ怒り、薬子は東宮から追放された。

 延暦二五(806)年三月一七日、桓武天皇が崩御して安殿親王が即位した(平城天皇)。
 同時に、薬子は再び召され尚侍となった。夫の縄主は大宰帥として九州にあり、薬子は平城天皇の寵愛を一身に受けた。

 やがて薬子は平城天皇の寵愛をいいことに政治に介入するようになり、専横を極めたため、兄の藤原仲成(ふじわらなかなり)ともども余人の怨みを買った。
 とともに専横を極め、兄妹は人々から深く怨まれた。

 大同四(809)年四月一日、平城天皇は病気のために同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して、旧都・平城京に移った。程なく、薬子と仲成は平城上皇に復位を勧め、平城上皇もこれに色気を見せた。

 平城上皇が天皇のときに設置した観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことに平城上皇が怒りを示した。このことを薬子仲成は煽った。
 薬子は尚侍として、天皇による太政官への命令書である内侍宣の発給権を握っており、上皇と天皇の関係においても当時は職権分割による上皇の参画傾向が強かった。
 ゆえに薬子が職権濫用して内侍宣を出して太政官を動かす事態も考えられた。これを警戒した嵯峨天皇は大同五(810)年三月に蔵人所を設置し、同年六月には観察使を廃止し、平城上皇はこれに怒りを覚えた。

 同年九月六日、平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。
 驚いた嵯峨天皇だったが、一先ず詔勅に従う振りをしながら、坂上田村麻呂、藤原冬嗣、紀田上等を造宮使に任命した。彼等を平城京に送り込み、平城上皇を牽制することが目的だった。
 四日後、遷都拒否を決断した嵯峨天皇は、伊勢、近江、美濃の国府と関を固めさせ、仲成薬子を捕らえて罰する旨の詔を発した。
 同時に嵯峨天皇は造宮使だった坂上田村麻呂、藤原冬嗣、紀田上達に、仲成を捕縛させた。

 翌日(九月一一日)には密使を平城京に送って若干の大官を召致した。これを受けて藤原真夏や文室綿麻呂等が帰京。
 嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴いて挙兵することを決断した。中納言・藤原葛野麻呂等が上皇派の家臣達はこれを諌めたが、上皇は薬子とともに東に向かった。
 平城上皇の動きを知った嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じ、この日の夜に仲成は射殺という形で処刑された。ちなみに仲成刑死後、保元元(1156)年における保元の乱にて源為義、平忠正等が斬首されるまで、中央官界では死刑が行われなかった(地方では残存し、中央でも、制度としては残っていたが、常に「帝の温情により、罪一等減じ…」となっていた)。

 平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り、勝機がないこと悟って平城京へ戻った。
 翌九月一二日、平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家。薬子は毒を仰いで自殺した。
 かくして薬子の変は終結。皇太子だった高岳親王(平城上皇の皇子)は廃太子となり、嵯峨天皇の弟・大伴親王(後の淳和天皇)が立てられた。
 累は藤原式家の面々にも及び、夫・縄主(ただぬし)は処罰を免れたが、長男・貞本(さだもと)は飛騨権守に左遷され、弟・安継(やすつぐ)は薩摩権守に左遷され、他にも近縁の者達が何人も日向に流された。

 この変において、当時真言宗を開いたばかりの空海は嵯峨天皇方の勝利を祈願し、鎮護国家の儀式を執り行ったため、この後、嵯峨天皇との良好な関係を築くこととなった。

 弘仁一五(824)年七月七日、平城上皇崩御に際し、嵯峨上皇(←このとき既に退位していた)は、淳和天皇に天皇の名で関係者の赦免が行われるよう要請し、実現した。



第壱検証:娘として 藤原薬子の父・藤原種継は桓武天皇の信頼が殊の外厚かった。長岡京造営中に暗殺された際に桓武天皇は怒り心頭に達し、下手人・大伴継人を斬首しただけでなく、事件前に亡くなった大伴家持も官籍から除名させ、皇太弟・早良親王も流罪となるほどだった(早良は流される途中に抗議の絶食の果てに落命)。

 藤原四兄弟が祖となった南家・北家・式家・京家は、平安時代初期に在っては式家が大きな発言力を持っていた(最終的には北家が大きく前進し、藤原道長が全盛期を築いた)。
種継の叔父・藤原良継・藤原百川は光仁天皇(桓武天皇の父)が即位するのに尽力した功績あってのことで、ある意味種継の暗殺が式家斜陽の第一歩となっていった(その後の没落は仲成薬子等の自業自得だが)。そんな父に想うところがあったのか、薬子は大同四(809)年、平城上皇に働きかけて、亡き父・藤原種継に太政大臣を追贈させた。


第弐検証:妻として これはもう話にならない。
 藤原薬子が皇太子・安殿親王と道ならぬ仲になったことには、親王に道場主と似た熟女好きと云う趣味があり、皇太子に求められたらその場では抵抗出来なかったことも充分考えられる。安殿親王の非も大きいが、その後も打算で道ならぬ仲を続けたことに対しては、婦道に悖ると云わざるを得ない。
 事件とは直接関係無いが、薬子には平城上皇に仕えていた藤原北家の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)とも私通していたと云われている。三男二女を産んだ身でこの不貞に弁護の余地はなかろう。

 前述通り、桓武天皇の激怒を受けて一時宮中を放逐された際、桓武天皇は薬子のことを「妖にして義を凌ぐ者」(妖艶な色仕掛けで人の道を踏み躙る者)と評して罵ったと云う。

 記録に残っていないが、正式な夫・藤原縄主はどのような気持ちだったろうか?
これは薩摩守の推測に過ぎないが、薬子の変に連座して、藤原式家の人間が次々と処罰される中、縄主が連座を免れたのは、普段から酒好きながらも職務に真面目な性格を認められていたことと、薬子乱行の被害者として同情されたからではなかろうか?(その点、義兄の仲成とは対照的で、没後には従二位を追贈された)。
 少なくとも、「妻」という側面に対しては、藤原薬子は庇えない。


第参検証:妹として 薬子の変、もう一人の中心人物は藤原仲成であった。仲成薬子の兄だったが、様々な藤原一族が名を連ねる中でも、この人物ほど評判の悪い人間も珍しい。
 父・種継が桓武天皇に寵愛されている最中に暗殺されたことの同情もあって、順調に出世を重ねた人物だが、その性格は欲深く、礼儀知らずで、妻の叔母を強姦したことまであるとんでもない人物だった。

 薬子はそんな兄と似ていたのだろう。当初、薬子が安殿親王に見初められたことを、親王の性癖による被害者と見るなら、その後何がしかの抵抗があって然るべきだが、仲成薬子もこれを利用することを考えた。兄妹の相互に協力姿勢はあっても、諌め合う姿勢は欠片も無かった様である。


第肆検証:母として 藤原薬子には三男二女がいて、安殿親王の妃となった娘の補佐として宮中入りしたことが親王に見初められることになったと前述したが、その後も娘は親王妃であり続け、自分よりも母が寵愛されるという事態にどのような気持ちでいたかは定かではない。

 また、結果として起きた薬子の変に長男・貞本が連座した訳だが、薬子仲成に比べればかなりの軽刑で済んでおり、後には許されて、可もなく不可もない貴族人生を送ったことから、変には殆ど、或いは全く関係していなかったのだろう。

 いずれにしても、母としての薬子が子供達をどう想い、どう想われていたかは判然としない。何せ子供達の思考や性格が詳らかではないので。
 推測するに、薬子は専横を振るい、平城上皇に復位を唆しながら、腹の内では「失敗したらやばいことになる…。」と云う自覚はあったのではあるまいか?
 藤原南家・北家・式家・京家の中で、他家に負けない式家の権勢をのし上げる野心を薬子は確かに持っていたが、その成否は壮大な博打で、それゆえ子供達を巻き込まず、兄だけをパートナーとしたところに、「母」としての薬子の愛情があったと見るのは穿った物の見方だろうか?


第伍検証:悪女とされる要因 藤原薬子『日本三大悪女の一人』と云う汚名を背負っている(後の二人は日野富子と築山殿)。
 単純に史実だけを見れば、彼女は嵯峨天皇に対する謀反人である。

 少し話は逸れるが、現代日本では暴力団組長や新興宗教教祖が部下や弟子に命じて人を殺させた場合、命じた組長や教祖は「共同正犯」(所謂「共犯」)の名の下に実行犯よりも重い刑罰を科される。
 つまり、自分の手を汚さずに人に悪事をさせる様な外道に対して現行刑法はより厳しい対処に出ている。
 近代以前の法と云うものが、その辺りをどの様な概念を持っていたかまでは薩摩守の研究不足にして調べ上げ得ていないが、それでも平城上皇をそそのかした藤原薬子藤原仲成の兄妹が凄まじくダークなイメージで見られているのは間違いない。

 歴史上、「謀反の黒幕」となった人物は数多存在するが、この薬子の変における事後処理は変が「未遂」で終わったことを考えるとかなり妙だ。
 いくら唆されたとはいえ、謀反の張本人である平城上皇が出家しただけで、謀反の本拠地となった平城京に引き続き住むことが許されたのも妙なら、仲成処刑法も「弓矢による射殺」と云う、法で定めた方法に乗っ取らないものだったのも異例だった。

 これには変以前の薬子仲成の専横がかなりえげつなかったためだろう。
 この兄妹には、変の三年前の大同二(807)年に起きた伊予親王の変を裏で糸引いた可能性も示唆されている。
 伊予親王は桓武天皇の第三皇子で、桓武天皇生前は特に可愛がられた人物だった。その伊予親王が、謀反を企てていることを密告一つだけで決め付けられ、幽閉された伊予親王は潔白を主張して服毒自殺を遂げた。
 これに連座して多くの者が処罰されたが、その主だったメンバーは藤原南家の者で、つまりは藤原四家の政争を薬子仲成が裏で糸引いていたと見られている(←確実な証拠は無い)。

 この伊予親王の変の二年後に、平城天皇は発病して退位を決めたが、平城天皇は病の原因を、「伊予親王の怨霊に祟られた。」と考えており、薬子仲成の制止も聞かなかった。
 平城京に移った平城上皇が、薬子仲成の教唆に耳を傾ける様になったのは、病が治ってからのことだった。
 怨霊は、「無実の罪で死んだ者が化けて出て来る」という現象とされていたので、このとき平城上皇、薬子仲成には罪の自覚があったのかもしれない。また伊予親王は死後に「謀反は無実であった」と公式に認定されており、当時の人々も伊予親王に対して、「無実では?」と考える人も少なくなかったのだろう。

 となると、かかる展開に対して世の人々が薬子仲成を快く思わなかったのは必然だっただろう。実際、仲成が半ば面白半分な死刑を執行されたことに対し、「自らの行いが招いたこと」との言が人口に膾炙した。
 仲成の場合、常日頃の素行もかなり悪かったので、専横への世の憎悪に、「謀反を唆した者」とのレッテルを共に背負い込んだ薬子の悪名が、その悪質性を増したこととなったのだろう。

 恐らく、薬子が服毒自殺と云う最期を選んだのも、「失敗した場合には生きる道は無い」との覚悟があり、変は確信犯的に行われたものだったからであり、これらの諸要因は彼女を、時代を越えた「悪女」とするのに充分だったことだろう。



弁護論 無理矢理好意的に考えるなら、「藤原式家の為に世間体もかなぐり捨てて、辣腕を振るい、夫・子供を巻き込まない為に、兄・仲成だけをパートナーに尽力した。」ということになるだろうか?

 何度か名前を出した藤原四家だが、こと政治に関してはこの時期、北家と式家が凌ぎを削っていた。何せ四家は始祖の特徴が反映されているのが面白い。
 南家始祖・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)は博識に優れ、北家始祖・藤原房前(ふじわらのふささき)は政治力に優れた辣腕家で、式家始祖・藤原宇合(ふじわらのうまかい)は情に厚い武人で、京家始祖・麻呂は芸術家肌な人物だった。
 子孫達も面白いほど始祖の血を色濃く引き、南家は学者、京家は文化人として名を残した者が多く、前述した様に政治力に優れた北家が藤原氏最大勢力を後に築いた訳だが、式家は宇合譲りの感情の強さか、結構トラブルメーカーが多かった。
 冒頭の家系図と照らし合わせて頂きたいが、宇合に始まり、九州で乱を起こした広嗣(ひろつぐ)、弓削道鏡と政争を繰り広げた良継(よしつぐ)に百川(ももかわ)、長岡京遷都を強行して造営中に暗殺された種継、と波乱の人生を送った者が多く、それゆえに式家は浮き沈みも激しかった。

 それに比して、北家は派手な浮きは無くとも、極端に沈むことも無く、比較的安定していたので、種継暗殺後に御家の勢力挽回を図りたい式家としては焦りもあっただろう。
 決していいことではないのだが、薬子が北家の葛野麻呂と不倫関係にあったのも、伊予親王の変で南家を陥れたときの様に、北家に対する謀略の一環だったのかも知れない。
 ちなみに薬子の変において、葛野麻呂は平城上皇の挙兵を止めようとしたことが認められて罪には問われなかった。

 事績だけを見れば、藤原薬子と云う女性、妖婦にして、策謀家で、謀反人で、毒使い(毒を使った相手は自分だが)で、「悪女」とのレッテルはこれでもかと云うぐらい出て来る。
 だが、もし、平城上皇の常識外れな求愛を藤原式家の浮沈を賭ける一大好機と見て、悪名を覚悟の上で震える限りの辣腕を兄と自分だけで振るったのだとしたら………………「悪女」のレッテルを完全にぬぐい去るのは不可能だとしても、見るべきは出てくるのではないかと思われる。


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平成二七(2015)年七月三〇日 最終更新