今川義元(いまがわよしもと)………呆気なく死んだばっかりに
【永正一六(1519)〜永禄三(1560)五月一九日】 |
桶狭間の戦いは自身の最期になったばかりでなく、織田信長の名を成さしめ、御家の滅亡の始まりとなった。更に駿河・遠江・三河の三国に威を轟かせ、武田信玄・北条氏康の両雄と盟約をもって結び、その版図を磐石にする等、威勢があっただけにその呆気ない死はより強く感じられる。
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弁護一 信玄も氏康も彼を恐れた。
五男でありながら急死した兄・氏輝(うじてる)の家督を弱冠一四歳にして継いだ今川義元はその際に彼を若年と侮る福島一族(父・氏親側室の実家)が外戚の力を背景に義元の異母兄・玄広恵探(げんこうえたん)を擁立したのに対抗して、僧籍にあった時の師・雪斎禅師をブレーンに迎え、祖母寿桂尼、岡部(おかべ)氏・瀬名(せな)氏・孕石(はらみいし)氏といった有力豪族を味方につけた。
そして福島正成が甲斐の武田信虎と死闘を繰り返してきたことに目をつけ、武田、更には北条氏綱の後援を受け、玄広恵探を自害に追いこみ、駿河・遠江守護の地位だけではなく、武田・北条に「今川侮りがたし、味方にして頼もし」の印象をも植え付けたのである。
天文五(1537)年、義元は武田信虎の娘と結婚し、今川・武田両氏の同盟が成立した。この後信虎は義元と会見し、その上洛を、そしてその為に天皇家・将軍家・公家との連携を視野にいれて京文化を駿河に築き上げていることにその将来性を見込み、折り合いの悪くなった嫡男晴信(信玄)を今川に預けようとするが、義元を見込んでいたのは他ならぬ晴信で、信虎がその後義元の下に追放されたという周知の事実は歴史の大いなる皮肉といえるだろう。
一方で、武田の仇敵ともいえる北条は今川と武田の接近を苦々しく思った。義元の祖母・寿桂尼が北条家の出身であることもあり、今川と北条の仲は良好だったが、北条氏綱は駿河東部へ侵攻、富士川以東の駿河・富士二郡を占領し、義元は信虎の助けを得て兵を送った。
しかし氏綱を撃退出来ず、劣勢が続いたものの氏綱は天文一〇(1541)年に病没してし、家督を継いだ、氏康からは四年後に奪われた河東地域を信玄と供に取り戻した。
この戦いで初めて義元と会った信玄も父・信虎同様、義元の器量に驚き、彼の意のままに行動する規律正しい今川家臣団に度肝を抜かれた。
義元と信玄の共通点に城らしい城を築かなかったことが挙げられる。両者とも無駄な戦が国力を低下させることを充分に承知し、家臣団の結束がしっかりし、国に入られる前に敵を叩けば本拠地に要害を築く費用もそれを維持する費用も節約できる、と考えていた。
信玄は義元の考えに共感するだけではなく、その国法・行政手腕を恐れ、見習った。
信玄が分国法として制定した「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」は全二十六か条の内、十二か条を義元の作った「今川仮名目録」(いまがわかなもくろく)を手本としていた。
義元もまた勢力争いに勝った信玄から父信虎を預かる為の費用を引き出し、山本勘介をスパイとして送り、結果として武田との友好関係を磐石にし、北の憂いをなくした。
そしてこの後の激しい戦いも含め、義元・信玄と戦い続けた北条氏康も関東制覇を続ける内に今川との戦いを得策ではない、と悟り、信玄の上杉謙信との対峙、義元の東への進出から三者の思惑が一致し、雪斎禅師の提案・仲介の元、有名な三国同盟が義元の育った善徳寺においての三巨頭会談の末に締結された。
弁護二 京かぶれも駿河の平和にあり。
今川義元の治世は駿河国内に東西南北からの憂いをなくし、平和の内に京文化に似た駿河文化を築き上げた。義元自身顔に化粧をし、歯は鉄漿(おはぐろ)で染めていた。有名な義元のこの姿を胴長短足も手伝って、貴族化・平和ボケした姿と見る向きも多いが、何故義元がそうしたか、またそう出来たかの背景を無視してはいけないと思う。
こんなエピソードがある。
ある年、武田信虎は駿河まで義元に会いに来た。娘の夫がどんな男なのか気になってのことである。そして京都の将軍家の豪邸のような駿府館のきらびやかさに圧倒された。
建物や庭園、調度品だけでなく、公家・連歌師・その他の文化人が数多くいたことも京都そのものであった。
小京都ともいえる駿河の姿に信虎は初め文弱として嘲笑したが、これが上洛を睨んだ天皇家・将軍家・公家とのコネクション作りの元と聞いて仰天した。義元は単に戦乱を逃れてきた貴族を保護したわけではなかった。上洛の為の大切な情報源であり、大義名分であり、上洛後の手駒でもあったのだ。そんな彼等とうまく付き合う為に義元は京文化への理解を示して見せた。
そしてそれが可能だったことは彼の統治が平和な駿河を生んでいたことの証明である。彼は目的と手段の双方を併せ持っていたのである。
弁護三 最後の最後に見せた一辺の意地。
生来、胴長短足だった今川義元は肥満し、馬にも乗れなくなった体で上洛の途についたと云われている。
周知の通りこの上洛の徒上に彼は桶狭間にて信長の奇襲を受けその命を今川の家運とを供に落とした訳だが、ここでも単純に結果だけを見てはいけない。
日本史上最も名高い奇襲戦とされている桶狭間の戦いだが、有名な割には謎も多い。まずよく言われるのは兵法にも通じた義元ともあろうものがあのような大軍の動きの封じられる必敗の地に布陣したかである。
ある人の説によると十分の一の兵力しか持たない信長が打てる手は篭城と奇襲しかないと見た義元が忍者の報告から信長の出撃を既に察知していて、敢えて信長を誘い込む為に窪地に布陣したとのことである。
そう、本来桶狭間の戦いは信長に勝機のある戦いではなかったとの見解である。それを証明するかのように旧陸軍が何度もこの桶狭間の戦いをモデルにした奇襲のシミュレーションとしての模擬戦闘を行ったが、一度として成功しなかったらしい。
それでも結果として信長が勝てたのは突然の豪雨を呼んだ信長の悪運と勝機のなさに破れかぶれになって突撃したのが結果として奇襲になった、との事だが真相はどうなのだろか?
はっきり言えるのは義元がむざむざ奇襲にかかったわけではない、という可能性が濃厚だという事である。
そしてその最期の時、彼は最後の奮闘を見せた。有名なシーンだが、奇襲にもかかわらず、義元は一番槍をつけた服部小平太春安の長槍を床几(しょうぎ)に腰掛けたまま、名刀・左文字(さもんじ)を抜きざまに横に振り払う、という居合の技で小平太の膝を槍と供に断ち割った。
小平太が返り討ちになりそうになったところを毛利新介良勝が助勢に入り、新介は義元を組み伏せると小刀でその首を取りにかかった。
そしてその小刀が義元の首を切り取ったわけだが、義元は首の代わりに新介から小指を食い千切った。
本陣にそこまでの侵入を許した時点で義元の運命は決まっていた。彼の最期の奮闘を悪足掻きと見るか、武士の意地と見るかは個々人の判断に委ねるしかないのだが、薩摩守は急速に追い詰められた状況に個人の力でこれだけの対応が出来たことを認めたい。
弁護四 生前頼られ、死後も慕われた。
敵に回して恐ろしい存在とは概して味方につけて頼もしい存在である。
同盟を結んだ武田信玄・北条氏康はもとより、駿河・遠江・三河の国人領主、同じ足利氏の流れを汲む美濃の土岐氏、近江の六角氏、更には時の将軍足利義輝も今川義元を頼りとした。
現在の都道府県の感覚から守護大名は一国を丸々支配していたような感覚があるが、実際には信長・家康の若かりし頃までは大半の戦国大名がようやく一国の支配を築き上げたような状態だった。信長も家康もそれぞれ尾張・三河一国を支配するのに相当な奮戦を強いられた。
東三河では松平広忠(家康の父)が嫡男を人質に取られても今川に随身し、義元もその健気な期待によく応えた。
また、西三河の水野信元(家康の母の兄)も最終的には信長に従ったが、父の代から中途に至るまでは今川派だった。
駿河・遠江の諸豪族が今川家壊滅後、徳川につくか武田につくかで決断に難渋を極めた所にも義元の大きさがわかるだろう。
信長がようやく支配を完成させようとしていた尾張国内にも鳴海城 大高城 品野城 笠寺砦 沓掛城 蟹江城と六つも今川方の出城が存在したのである。
また今川氏は将軍家である足利氏の支流であり、南北朝時代の北朝方の流れをくむ源氏の美濃の土岐氏・近江の六角氏とも同族的結束を持ち得た。
美濃の斎藤道三が嫡子義龍に「自分は道三の子ではなく、道三に追放された土岐頼芸の忘れ形見だ。」として背かれて敗死した裏には織田と斎藤を結束させまいとする義元の謀略があったとの説がある。
その後義龍は数年を経ずして病没するが、その間に義元と同じ治部少輔に朝廷から任命されていて、これを先の謀略の証拠とする人もいる(つまり義元が朝廷に働きかけたと言うわけである)。
足利義輝は義元を管領に任命する、とまで書き記した書状を送って彼の上洛を心待ちにしていた。
生前恐れられ、頼りにされた彼は死後も慕われ、少なからぬ影響を残した。義元戦死後今川を離れた松平元康もいきなり裏切った訳ではない。当初は「義元の仇を討つ!」との大義名分のもと、伯父・水野信元とも刃を交え、氏真の機嫌を取り持った(駿府に人質がいたこともあるが)。
鳴海城守将・岡部元信から「御大将の首を返して頂きたい。」と、申し込まれた織田信長は要求されるがまま駿府に首を送り届けている。また、義元の菩提を丁重に弔わせている。
後年、武田勝頼の首を足蹴にしたことを考えれば、岡部の要請に唯々諾々と従ったのも、これほど家臣に慕われ、侮り難い力を残す今川家の怒りの炎に油を注ぐことを恐れたのではないか?と薩摩守は考えている。
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結論 今川義元一番の失敗は後継者を育てていなかったことだろう。この後に登場する今川氏真とて全くの無能者だったわけではないのだが、日本最強の甲州勢を率いた武田信玄、最終的に天下を取った徳川家康、生涯に一度も負けなかった北条氏康に囲まれた駿河の運命は不運としか言いようがなかった。
逆を言えば義元がこれらの強敵に一歩も退くことなく渡り合った男だったからこそ、氏真は危機感を抱けなかったと見るのは如何なものだろうか?
ここまで書けば今川義元の有能性を疑うものはいないでしょう。せめて京文化にかぶれて貴族化しただけのバカ殿様、とのイメージは払拭したとの自負はあります。はっきり言って他の登場人物達より遥かに楽でした(笑)。
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