これは光栄の「爆笑三国志」のパクリです。

菜根版名誉挽回してみませんか


 歴史の評価は厳しい。一昔前まではそれこそ「勝てば官軍」という見方一色で、敗者には容赦がなかった。単に悪者にされただけならまだしも、徹底的にカッコ悪く、イヤらしく歴史に書かれた例も少なくはない。
 「終わり悪ければ全て悪し」かも知れないが、運がなかったり、たった一度の油断だったり、長所が裏目に出たり、敵の方が一枚上手だったり、等々と立派な長所を持ちながら殊更その悪い最期が強調され、長所が色褪せたり、人物像が歪められたりもする。
 そこでこの頁では道場主がピックアップした人物に薩摩守の独断と偏見で一般に悪いイメージを持たれてしまった戦国武将・戦国大名にこの道場なりのスポットを当ててみたい。

第壱頁 中国内乱偏(大内義隆 陶晴賢)
第弐頁 東海急落偏(今川義元 今川氏真)
第参頁 巨頭滅亡偏(武田勝頼  明智光秀)
第四頁 戦国終息偏(足利義昭 北条氏政)
第五頁 天下分目偏(石田三成 小早川秀秋)
第六頁 元和偃武偏(豊臣秀頼 松平忠直)
第七頁 元禄激論偏(吉良義央 田沼意次)

第壱頁 中国内乱偏
大内義隆(おおうちよしたか)………文化上の功績大
【永正四(1507)年一一月一五日〜天文二〇(1551)年九月一日】
 長州・周防を中心に中国地方最大の勢力を父・義興から受け継ぎながら、文弱に耽り、終には重臣・陶隆房(晴賢)の反逆に遭って名門・大内家が毛利家に中国の覇者の地位を譲るきっかけとなった人物としてその名は軟弱者としての印象が強い。
弁護一 初めは勇猛だった。

 大内義隆は享禄元(1528)年に二二歳で父・義興(よしおき)の後を継ぎ、周防を本拠に現在の山口、広島・北九州を統べ、その影響力は中国地方はもとより、京や九州にも及んでいた。父・義興は京都と将軍位を追われた室町幕府第一〇代足利義殖(あしかがよしたね)の返り咲きに尽力している。

 この時代、将軍の名の一字を貰った例は枚挙に暇がないが、大概が伊達晴宗・武田晴信・尼子晴久・長尾晴景(足利義晴より)、伊達輝宗・上杉輝虎・毛利輝元(足利義輝より)、などの様に「義○」の「○」の方を貰っていたが、将軍家に対し功績の大きい大内氏は義興の代より将軍から「」の字を貰い、逆に内藤盛(家臣)、毛利元(元就の兄)、陶房(重臣)に「」の字を、義隆は陶房(すえたかふさ。晴賢の初名)、毛利元に「」の字を、という風に家臣や勢力下にある豪族に与えるほどであった。

 そんな地盤を引き継がせるに当たって、義興が義隆に帝王教育を課し、家臣団にもその軽重に合わせて責務や忠義を課したのは想像に難くない。
 義隆はその課せられた政治・文化・経済・軍事の任をよく理解し、父祖の代より引継いだ家臣団を率い、北九州に度々出兵し、安芸守護武田氏を滅亡させ領国化することに成功(この時出家して生き長らえた少年が後年において豊臣秀吉の陣僧・安国寺恵瓊となる)、大内氏の領国の最盛期を迎え、自身の死後もその最大版図は陶隆房が引継ぎ、最終的には毛利家の手に移り、大内氏が滅びて尚、中国地方の大勢力たり得るものだった。

 その手腕が決してまぐれではないことを認められていたため、弱冠三一歳にして室町幕府より時の将軍足利義晴から幕政参加を要請されたことにも見受けられる。
 一時はその気になりかけた義隆だったが、肥大した領土経営に専念すべき、としてこれを辞退した政治的洞察力も無視してはいけないだろう(家臣達の説得を容れた度量も併せてである)。

 だがその二年後、吉田郡山城の戦いでは尼子氏を撃退した勢いに乗じた出雲遠征にて月山富田城で尼子晴久に大敗したため彼は軍事への情熱を失い、文弱に耽った。
 一般的な彼のイメージはその後のものである。確かに一度の大敗で力を落とし、そこから終生立ち上がれなかったことや趣味の世界に逃げ込んだ態度は褒められたものではなく、弁解の余地はない。だが、それゆえに若き日の彼の勇猛ぶりを無視するのは片手落ちと言えるだろう。
 若き日の勇猛な姿を知る陶隆房が謀反を起こす直前まで彼の再度の勇躍を願って諫言し続けた事は言うまでもない。


弁護二 戦乱の世に平和な山口京都を築いたのは彼である。

 戦に破れて文弱に走ってから文化に精通するようになったのではない。元より彼は儒学詩歌に秀で、有職故実に通じていた。勿論父の代より室町将軍に頼りとされていた訳だから京文化にも通じていた。彼の文政は趣味だけに根差されていたものではないのだ。

 更には地縁も彼に味方した。周防は国内・国外の両面に関して交通(特に水運)の要衝だった。本州から九州、逆に九州から本州も四国経由や瀬戸内海海運を別にすれば周防・長門は無視できない。これは現代でも同様である(飛行機を除けば)。
 そして北九州、山口は大内家の統治下にあった。更に対馬の宗氏にも大きな影響力を持っていたことから李氏朝鮮・明との交易も活況を呈した(余談だが、後に日清戦争の講和条約は下関で結ばれている。全権伊藤博文の地元ということもあるが、中国から来易い場、という事もあるだろう)。

 更に忘れてはいけないことがある。文化が発展するには平和が欠かせない。明日にも命を落とすかも知れない戦乱状態では自ずと文化に割ける時間的・精神的ゆとりに限界が生じる(開き直って刹那的に趣味に走ることもないではないが)。
 また、交通の要衝は外敵に狙われやすい用武の地でもある。つまり義隆自身の芸術精通度と周防の政治的・軍事的安定があればこそ、人々は文化を享受でき、また戦乱を避けた文人達も集い得たのである。文化は文化に優れているだけで成り立つわけではないのだ。

 そして彼を認めたのは日本人だけではない。それは日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルである。天文一八(1549)年に薩摩に上陸したザビエルは日本での布教の為、島津家の許可を得た後に京都に上るが、京都の荒廃ぶりにザビエル一行は失望した。
 その時、ザビエルは山口行きを決断する。伝統と名はあっても力と安定のない京よりも上洛途中で見た山口の繁栄振りに賭けたのである。ザビエルの謁見を受けた義隆は彼に布教を許し、そのために山口は従来の京文化、貿易通じて大陸から来る明・朝鮮のアジア文化、キリスト教がもたらす西洋の文化が融合し、独特の発展を遂げた
 そしてそれらの交易から得られた莫大な利益は文化振興は勿論、朝廷・幕府への献金にも使われ、大内氏は守護として最も国家に貢献した守護大名となるのである。
 その貢献度に朝廷・幕府も応え、左京大夫筑前守太宰大弐、と九州縁りの官職が与えられ、左兵衛佐兵部大輔伊予介侍従と続き、最後は兵部卿となった。
 これは源頼朝が征夷大将軍就任直前についた近衛大将に次ぐ官位なので、兵部卿が事実上、当時の武士の官位では限界に近かった
 更に注目すべきは、当時の武士達がミドルネームとした官職(官位や国司名)が自称だったのに対し、義隆は本当に就任した上で名乗っていたのであったということである。

 彼の死はその二年後で周知の通り、彼の文弱に愛想を尽かした重臣陶隆房が彼の幼子・奇童丸(きどうまる)を擁立して武家・大内氏の再興を期して敢えて謀反を起こし、菩提寺である大寧寺にて自害した。
 皮肉にも陶が一縷の望みを託した奇童丸は父・義隆と運命をともにした。歴史に仮定は禁物だが、この時に義隆か奇童丸が生き長らえていたらその後の山口はどうなったであろうか?そんな思いを後世の人々に思い起こさせるのは義隆が単に芸術に耽るだけの男ではなかった事の証明にはならないだろうか?
 武将として失格者となった彼が如何にそれ以外の道で持てる限りの力を発揮していたかが窺い知れるだろう。文化人として、政治家として、財界人として、軍事さえ抜けば彼は満点に近い大名なのだ。もっとも、戦国の世は最後の欠点を一番の問題とした訳だが。


弁護三 広辞苑に曰く、「文化上の功績大」

 少々蛇足な気がするが論述したい。かつて道場主が辞書の代表である『広辞苑』で「大内義隆」を調べた時に特に目を引いたのがタイトルにもつけた「文化上の功績大」との記述である。
 戦国時代には応仁の乱で荒れ果てた京文化より地方で大大名の統治下で繁栄した三大文化がある。一つは言うまでもなく大内義隆山口文化で、後の二つは今川義元・氏真の駿河文化、朝倉義景の越前文化である。
 だが、この四名の項目のいずれを見ても大内義隆以外に「文化上の功績」には触れられてはいない。文化を好んだことだけが書かれている。やったことだけを書かれるのとその功績まで触れられるのは大きな違いがある。

結論 天下を取った人物でも「功績」として記述されることは少ない(やったこと自体が功績の事も多いが)。それを考えればはっきりと「功績大」と書かれる大内義隆。勇名を称えよとは言いませんが、文弱だけの男との認識はいい加減改められるべきであると考えます。



陶晴賢(すえはるかた)………主君より御家の信念
【大永元(1521)年〜天文二四(1555)年一〇月一日】
 彼の悪名は何と言っても「裏切り者」の一言に尽きる。有名な厳島の戦いでその後の中国地方の覇者となった毛利元就に裏切者誅滅の名のもとに討ち取られたことから尚更裏切者としての彼の悪いイメージは強い。

弁護一 体を張って主家を守った。

 平成一〇(1998)年のNHK大河ドラマは『毛利元就』であり、陣内孝則氏演ずる陶晴賢は単なる「裏切り者」としての彼のイメージをかなり変えたのではないだろうか?

 勿論大内義隆に対する裏切りに弁解の余地はない。彼は紛れもない裏切者である。だが、我々が単純に抱く、私利私欲や権力欲の果てに主君をも手にかける一般的な裏切者像と彼の姿はかなりかけ離れている。

 まず第一に挙げられるのは陶晴賢は何よりも「大内」を一番に想っていた事である。
 彼の父・陶興房(すえおきふさ)は主君・大内義興から「興」の一時を貰うほど主君の信任が厚かったが、陶晴賢も初名・陶隆房の「隆」の一時を義興の長男・義隆から貰っていた。親子二代の宿縁がいかに強いものかが窺い知れる。

 親の代から主家に強い忠誠心を抱いていた陶隆房は「主」より「主」を重視し、戦場での命を張った働きや、家臣の統率と言った通常の重臣としての任務は当たり前にこなし(「西国無双の侍大将」と呼ばれる程だった)、文弱に耽る義隆に諫言する事も厭わなかった。
 それどころか、幼子をあやす義隆に「御家の為とあれば御世継ぎに刃を向けることも厭いませんぞ。」と言い放った。
 それに対して義隆は怒るどころか、幼子を隆房に抱かせて、「儂は誰より隆房を信じている。」と微笑みかけた。隆房は複雑な想いで、「あれほど信用されてはわしが大内を守るしかないではないか…。」と苦笑して呟いていた。単純に考えて、このような男が主人に刃を向けたとは信じられないものを感じさせる。

 前置きが長くなってしまった。まず一言言いたいのが彼が武断派の筆頭だったという事である。彼は生涯体に戦傷を刻んで戦い続けた。すべては「大内の為に」であった。
 天文九(1540)年に親大内氏の安芸国主毛利元就が尼子晴久の侵略を受けたとき、元就の嫡男・隆元が人質として大内家にいたにも関わらず、旗色悪しと見た大内義隆は援軍を見合わせようとするが、隆房は同盟の信義と自らの奮戦、毛利の有能を訴え、兵一万を率いて出陣。
 元就と連携し、尼子軍を撃退に成功した。

 しかしその直後、五万の兵を率いて尼子との雌雄を決しようとした月山富田城の戦いで大敗し、主君・義隆が文弱に走り、文治派(筆頭は相良武任)を重用し出したことから、義隆・隆房両名の悲劇が始まった。

 その後一一年に渡って隆房は義隆にかつての彼に戻ることを諫言し続けたが、通じなかった。隆房は武将としての奉公しか出来ない男だった。
 それゆえ国政の上で文弱に走る義隆と軍事的発言を繰り返す隆房との間の溝はどんどん深まったが、かといって義隆の隆房に対する武将としての信頼度、家を守ってくれる忠義の臣との信頼は些かも揺らがなかった。そしてその義隆の信頼に間違いはなかった「家を守ってくれる」との一点においてのみだったのだが…。


弁護二 謀反人について行った人々

 陶隆房は文弱から戻れそうにない大内義隆の主君としての能力に見切りをつけ、義隆の嫡男・奇童丸を擁立するために義隆への謀反を考えるようになった。
 そしてついに天文一九(1550)年九月には隆房が「謀反を企図している」という噂が城下で満たされることとなる。
 このとき隆房は必死に弁明、何より義隆が彼の謀反など全く考えていなかったことから許され、その許しに対し、隆房はこの年の一一月に山口を離れ、知行地の周防都濃郡富田へ帰り政治に参加することを止めた。

 しかしついに翌天文二〇(1551)年八月二七日、義隆に対し謀反(二九日説あり)を決行し、九月一日、義隆は嫡男奇童丸と供に菩提寺である大寧寺にて自刃した。奇童丸の道連れは隆房の大誤算だったことであるのは言うまでもない。

 さて、ここで触れたいのは主殺しが大罪であり、如何にその信念、その後の行動が認められようとも「謀反人」の三文字は消えない、にも関わらず、そんな彼の為に命懸けでついて行った武将達がいたことである。
 隆房が義隆に謀反した際に大内家中の中には義隆と運命を供にしたものもいれば、内藤興盛の様に静観を決め込んだ者もいる。だが、大半は隆房 (この後「晴賢」と改名)に追随した。
 そりゃあ勿論古今東西を問わず謀反人に多くの人がついて行った例は枚挙に暇がないが、度腐れ外道についていく者はついていく者も度腐れ外道であることが大半である(勿論例外もある)。だが、晴賢について行った者には錚々たるメンバーが揃っている。

 知勇兼備の将・江良房栄(えらふさひで)は後に毛利家との対陣中に内通を疑われて晴賢に殺されるが、それまでは晴賢に頼りにされ、毛利にも恐れられていた(本当に内通していた説もある)。
 終焉の地・厳島にて最後の最後まで奮闘した果てに討死した弘中隆兼(ひろなかたかかね)は晴賢が江良房栄を疑った際に彼の命でこれを殺害する一方で厳島では毛利勢と戦おうとした晴賢を諫めるが容れられずも最後まで奮戦したのは前述通りである。
 毛利勢は晴賢を討ち取った後も三日三晩、この弘中の存在を恐れた。ちなみに道場主はこの弘中の末裔をメル友に持つ(笑)。同じ分身でも薩摩守よりはダンエモンの方が親しい。

 話が逸れたが、陶晴賢の信念に命懸けで追随した将達の奮闘に目を向けることもまた晴賢への名誉挽回になると薩摩守は見る。


弁護三 義隆は滅ぼしても大内は滅ぼさず。

 一般に「忠義」と言えば江戸時代の『忠臣蔵』に代表されるような問答無用の忠義、または太平洋戦争中の「大日本帝国万歳」的な忠義が連想され易い。が、戦国以前の忠義は同様に語るのは不可能である。そして忠義を何に置くかによってもその観点も変わる。

 話が逸れるが、江戸時代初期、幕府は殉死−主君の後追い自殺を禁じた。法令で禁じたのは家光の代だが、家康も死に臨んで「頭を丸めるぐらいは許すが殉死はならん。」と遺言している。
 にも関わらず、家光薨去に際して何人かの家臣が殉死した。それを知った徳川光圀は「殉死は先代には忠でも、当代には不忠。」と言って殉死を改めて禁じた。この頃になるとそれほどまでに個人への忠が尊ばれたが、本来武士が守るものは「御家」である。
 それゆえに関ヶ原の戦いに際して真田家はどちらかが勝っても家が生き残れる様に兄・信之は東軍に、父・昌幸・弟・幸村は西軍に味方し、長篠の戦直前にも奥平美作は武田に、子・貞能、孫・貞昌は織田・徳川方についた(これを機に奥平貞昌は徳川家康の長女・亀姫を娶り、後に織田信長の「信」の字を与えられ「信昌」と改名)。

 話を戻します。確かに陶隆房という男は大内義隆−そして不本意ながら大内奇童丸−に対しては「弑逆」と言う最大の罪を犯した言い訳の余地のない不忠者である。
 だが、晴賢の忠義の対象は「大内」にあった。「」にこだわり、敢えて義隆を討った陶隆房は「大内の大忠臣」である。それゆえ彼は奇童丸は殺そうとしなかった。

 だが事は思惑通りに進まず、奇童丸は父と運命をともにした。本家大内家を心ならずも途絶えさせてしまった隆房は九州から大友宗麟(おおともそうりん)の実弟大友晴英(おおともはるひで)を大内家の当主に迎えた。
 晴英の母は大内義隆の姉で、彼は義興の孫にあたり、れっきとした大内家の血筋である。晴英は名を「大内義長」(おおうちよしなが)と改めると、「晴」の字を隆房に与え、隆房は「晴賢」と改めた。改名直後の晴賢は出家したが、これは隆房・奇童丸父子への弔意の表れだろうか?

 よく厳島の戦いは陶晴賢対毛利元就の戦い、と表現されるが、晴賢は決して大内家を乗っ取ってはいない。れっきとした大内対毛利の戦いである。
 自らに課した誓約通り、大内家に生涯を懸け、それに殉じた男なのである。そしてその時の対戦相手の毛利によって大内家は滅ぼされた。大内家は家臣に滅ぼされたのではなく、外敵に滅ぼされたのである。


弁護四 毛利隆元の命を救い、吉川元春と義兄弟に。

 典型的な武人肌の彼は理論より感情が強い傾向にあり、情に厚い男だった。それが彼の長所であり短所でもあったのだが。
 それを端的に示す話がある。前述した様に天文九(1540)年に毛利元就は尼子晴久の侵攻を受け、危機に陥った時の話である。
 本来、元就の嫡男・隆元を人質として差し出されその随身を受けている大内家はそれを保護する義務がある。
 が、義隆は援軍を見合わせようとする。この時隆元は父や家族の身を案じ、尼子に降伏出来るように、と自らの命を絶とうとするが、それを止めたのは隆房である。
 隆房は隆元を義隆の前に引き摺っていき、義隆に毛利救援の許可を求め、それを得ると一万の兵を率い、尼子を撃退した。
 後に隆房は毛利元就の次男にして隆元の同母弟・吉川元春と義兄弟の契りを結ぶが、これには元春が隆房と似た直情的武人肌の男だったこともあるだろうが、兄・隆元の命を救ってくれたことも決して無関係ではないだろう。
結論 ここまでの論述を見て下さった方々に陶晴賢の謀反の事実に目を瞑れ、とは薩摩守は言いません。ただ、彼が血も涙もない非情の男であるとする意見には断固反対するでしょう。「非情である」ということと「非情になれる」という事は似て非なることなのです。



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平成二六(2014)年五月二二日現在 最終更新