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第参頁 巨頭滅亡偏
武田勝頼(たけだかつより)………勇猛過ぎたばっかりに

【天文一五(1546)年〜天正一〇(1582)三月一一日】
 彼もまた御家を滅ぼした当主である。長篠に父・信玄以来の宿将の多くを失い、最期には血縁の穴山梅雪・木曽義昌にまで背かれ、新羅三郎義光(源義家の弟)以来の甲斐源氏の名家を滅亡に追いやった彼は一代で甲斐を強国に伸し上げた父・信玄との比較もあって、とかく彼は凡将に見られ勝ちである。
 日本一といわれた武田の騎馬軍団を率いていたことも、それを活かし切れなかったということで彼のマイナスイメージになっている。
弁護一 結束力のなさの責任は父・信玄にもあり。
 一般に信玄の跡を継いだ、と云われる武田勝頼だが、実は信玄が死んですぐに甲斐の国主になったわけではない。信玄亡き後の甲斐の国主は勝頼の嫡男・信勝(のぶかつ)だった。

 既に長兄・義信(よしのぶ)、三兄・信之(のぶゆき)は亡く、次兄・竜芳(りゅうほう)は盲目ゆえに僧籍にあり、弟の盛信(もりのぶ)は仁科家を継いでいた。
 兄弟順的にも、消去法的にも四男勝頼が信玄の跡を継ぐのは必然なのだが、その勝頼は正統な後継者ではなく、嫡男・信勝の後見人の地位に甘んじた。

 その複雑な背景は後述するが、武田家の御親類衆も家臣団も信玄亡き後の武田家が新たな国主の元に結束する必要性があり、その中心に勝頼が最も相応しいのは、信玄の弟・逍遥軒信廉(しょうようけんのぶかど。信虎四男)、従兄の典厩信豊(てんきゅうのぶとよ。信虎次男・信繁の嫡男)、馬場美濃守信春(ばばみののかみのぶはる)、山県三郎兵衛昌景(やまがたさぶろうびょうえまさかげ)等も認めていた。
 しかしながら勝頼が信玄の偉業を継ぎ得なかった背景を検証するには武田軍の構成を見る必要がある。

 その構成とは大きく分けて三つに別れる。信廉、信豊、武田信実(のぶざね。信虎七男)、一条信龍(いちじょのぶたつ。信虎八男)、穴山梅雪(あなやまばいせつ。信玄の姉の子、正室は信玄次女)の一門で占められる御親類衆
 馬場、山県、原昌胤(はらまさたね)、甘利信康(あまりのぶやす)、土屋昌次(つちやまさつぐ)、内藤昌豊(ないよとまさとよ)、小山田信茂(おやまだのぶしげ)、といった甲斐伝来の宿将達。
 そして信玄が信濃、上野に勢力を伸ばしていく途上でその勢力下に属した真田信綱(さなだのぶつな)・昌輝(まさてる)・昌幸(まさゆき)、木曾義昌(きそよしまさ)、小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)、秋山信友(あきやまのぶとも)といった国人衆である。

 この三つの異なる毛色の勢力をまとめるのは並大抵ではない。身内の中に一人でも勝頼を認めない者がいると内部分裂は容易く起こるし、宿将は先代の遺言を重んじるし、外様である国人衆は代替わり後の旗色次第では簡単に他の大名に随身してしまう。
そして結果として三勢力全てが勝頼に背を向ける事になった。

 その基となったのはカリスマ的存在であった父・信玄が「自分の死を三年間秘めるよう」遺言し、その間の当主について明確な遺言を残さなかったことにも責任がある。
 元々武田家の嫡流ではない勝頼 (詳細は後述)に御親類衆の穴山梅雪はその命に服さず,当主ではなく身内として接した為、信廉や信豊も肝心な所で勝頼の力とならなかった。
 また宿将達も山県や馬場以外は信玄の遺言を絶対として譲らず、長篠の敗戦後の軍の改編成や作戦変更も進まず、軍の意志統一が図り難かった。
 勿論内部中核がそんな状態では外様である国人衆は尚更心許ない存在となり、彼等の大半が織田・徳川・北条に走った。

 偉大過ぎた信玄が何をもって三年としたかは不明だが、激動極める戦国の世で三年は長過ぎた。武田家の滅亡の僅か三ヶ月後に信長が命を落とし、ニ年を経ずしてその地盤はそっくり羽柴秀吉に引継がれた例を見れば三年の長さが窺い知れるというものである。
 少なくとも信玄には勝頼の微妙な立場は充分分かっていた筈である。勝頼以外の者が当主になったとしても勝頼には砕心すべき点は多かった筈である。それを為さなかった信玄の責任は決して小さくはないだろう。


弁護二 父・信玄以上の戦上手だった。
 武田勝頼は父・信玄に比して政治家的な面より、祖父信虎の猛将としての資質を色濃く受け継いでいた面がある。
 信玄の存命中に初陣にて従弟の信豊と供に先頭にたって突っ込み、「大将らしからぬ振る舞い」として信玄から叱責されたこともある。良くも悪くも彼は勇猛過ぎる男だった。
 それゆえ徳川家康は信玄の時以上に徳川軍単独で武田勢と当たる事を極力避けた。勿論三方ヶ原の大惨敗が主要原因であることは間違いない。
 が、家康自身、信玄死すの噂の真相を確かめるために長篠や駿河に出兵を繰り返した末の結論であることを忘れてはならない。

 また織田信長は信玄の死の直後に朝倉義景・浅井長政を滅ぼした勝利に乗じて、美濃−信濃間で武田勢と戦った折に、信廉勢に勝利を収めたものの、このままではよくない、と勝頼の跡目相続を武田家中が認めるや攻勢守勢は逆転した。
 新進気鋭の真田昌幸(正確にはこの時は武藤昌幸)・曾根内匠(そねたくみ)を巧みに起用した勝頼は織田勢に快勝を収め、その快勝振りに世の人々は「代替わり飛ぶ鳥落とす御威勢は勝つより(勝頼)他になしと見えたり」と歌って誉めそやした。

 それを知った信長は必殺の鉄砲隊が充実するまで家康の援軍要請に対しても言を左右にして、時には家来に黄金を持参させて詫びてまで援軍を渋り、武田との全面衝突を避けた。
 そしてその織田・徳川の恐れを尻目に勝頼は駿河・遠江の国境にある要衝で、父・武田信玄さえも落とせなかった高天神城を陥落させることに成功した。
 高天神城の攻防以外では二俣城や長篠城、岩村城など、織田・徳川が戦略的に取り戻した城もあるが、長篠以前に武田本隊と正面切って戦術的に取り戻せた城は皆無である。

 長篠の戦で多くの勇将を失い、その後鳴かず、飛ばずで滅亡を迎えた勝頼だが、御親類衆が裏切り、国人領主に背かれ、勝ちに乗じて勢いに乗る織田・徳川を前に戦略的には既に完敗を喫していた。
 だが、人(勇将)・土地(領土)・物(金山)を失った勝頼が長篠の後曲がりなりにも七年間、国を持ち堪えたのは彼の戦の強さの証明にはならないだろうか?
 はっきり言って天目山の戦いは戦いと呼べるようなものではなく、残党狩りに近いものがあった(そのせいか、昨今では「武田崩れ」と呼ばれることが多い)し、事実勝頼が鍛えに鍛えた武田軍団は後々徳川家康の大いなる戦力アップに貢献したことに勝頼の勇猛さの見るべき点があると薩摩守は考える。


弁護三 血の因縁に彼の不幸あり。
 武田勝頼が信玄の遺言状においても、家中にあっても、家督上の問題でも確固たる地位を築き得なかったのには血統上の事情がある。

 通常家督は長男、正確には正室の長男である嫡男が継ぐ。その意味で武田太郎義信は正室三条夫人との間の長男であり、血統的にもまた能力的にも何の問題もなかった。
 が、後に信玄との意見対立から謀反の容疑で東光寺に幽閉され自害した(病死説もある)。

 これは前述した話だが、同じ三条夫人の子で次男である竜芳は盲目ゆえに出家しており、異腹の三男信之は早世していた。となると当然兄弟順から言っても勝頼にお鉢が回ってくるわけだが、そう簡単に行かない事情が彼の母方の血筋にあった。

 諏訪四郎神勝頼というのが、武田勝頼の初名である。
 そう、元服当初彼は「武田」姓を名乗っていなかった。というより、名乗れなかった。その複雑な背景を探るには母の実家である諏訪家というものを見ていかなくてはならない。

 勝頼の母・湖衣姫は信玄に滅ぼされた諏訪頼重の娘だった。諏訪頼重は信玄の妹を室としており、降伏勧告に従ったにもかかわらず切腹を命じられ、頼重は憤死し、妹も信玄への抗議に絶食の果てに命を落とした。
 当然諏訪家の関連者には武田への根深い恨みが残った。故に信玄が側室として湖衣姫を娶るのに反対の声も少なくなく、信玄も諏訪派の懐柔の為にも二人の間に生まれた男子を諏訪家の跡取りとすることにした。これが神勝頼である。「」とあるのは諏訪家が諏訪大明神の大祝(おおほふり)の家系である事に由来する。
 血縁も無視して殆ど騙まし討ちに近い形で諏訪を殲滅した信玄がその懐柔にいかに気を遣っていたかが窺い知れるというものである。

 勝頼は武田と諏訪の不穏な間柄にあって極めて微妙な立場に立たされていた。一端武田家当主の座を辞退させられた者が当主の座に就くのは相当無理がある。勝頼ではなく勝頼の嫡男信勝が信玄の跡取りで、成長するまでの一〇年間勝頼はその後見人、という変則的な立場に甘んじたのにはそういう背景があった。

 もちろん勝頼に反感を抱く者や、独自路線を築きたがる者は彼の血統を理由に命に服さなかったり、彼を暗に正統と認めない立場・行動を取り、これが武田軍の団結を弱める事となった。
 しかしながら現実直視の観点から勝頼は当主の座に就き得たのは逼迫した情勢はさることながら、勝頼の大将としての資質に家中の望みが託されたからとは言えないだろうか?奇しくも武田家は信勝が当主に就く筈の一〇年目に滅亡した……。


弁護四 余りに運がなさ過ぎた。
 端的に言って「相手が悪かった。」という理屈である。結果論から言って織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、とその後の天下の覇者は推移するが、彼等の能力を疑う者はいないだろう。武田勝頼はそんな偉人達を敵に回していたのである。

 勿論父・信玄も彼等に加えて上杉謙信・北条氏康・今川義元といった難敵を抱えていたが、その頃の信長や家康はまだ未熟だった。
 また信玄病没直後に朝倉義景・浅井長政が滅ぼされ、足利義昭も京を追われるなど、武田は京都近くの頼りになる盟友を失った。
 信玄没後に和解した上杉謙信も程なく病没し、その跡目を争う上杉景勝(謙信の姉の子)対上杉景虎(謙信の養子で北条氏康七男)の御館の乱が起こり、その対応の誤りから勝頼は北条との関係を悪化させたが、これも結果論に過ぎない。
 北条氏政の妹を室に迎えていた勝頼は決して生半可な考えで景勝に味方したわけではない。氏政の妹は夫と兄との関係悪化を嘆きつつも最後の最後まで勝頼と運命を供にしている。氏政の正室だった信玄の長女・黄梅院(おうばいいん)が武田と北条の関係悪化の際に実家に追い返されたのとは好対照である。

 話が逸れたが、勝頼の能力を超える事態が続発したのである。運命のせいにするのは正しくないかもしれないし、薩摩守も嫌いだが、ほんの少し運が悪かったが為に信長は命を落とし、長く実子に恵まれなかった家庭運が豊臣政権の早期崩壊をもたらした事実を考えると、勝頼の運のなさに一考の余地ありと薩摩守は考える。
結論 武田勝頼は勇猛過ぎました。『徳川家康』(原作:山岡宗八、漫画:横山光輝)には勝頼の最期を描いたときのタイトルを「戦い過ぎた男」としています。
 勝頼はその勇猛さゆえに、偉大なる父・信玄の跡目を継いだ重圧に、離れゆく親類・重臣・盟友を繋ぎ止める為に、退く事ができなかったのです。そしてその奮闘は凡人にはついていけないものでした。
 信玄の遺言や彼の血統も大いなる足枷となり、それを脱却するためにも勝頼に出来たことは「戦うこと」で自分の先代に劣らぬ勇猛振りをアピールし、日本最強武田軍の存在を保つことに邁進せざるを得ないことでした。
 正直このサイトを作るまでもなく、勝頼の勇猛さを疑う声は殆どありません。薩摩守として願わくはその勇名が亡国の当主としてのイメージを上回って欲しいものです。



明智光秀(あけちみつひで)………先に裏切ったのはどっちだ?

【享禄元(1528)年〜天正一〇(1582)六月一三日】
 天下統一を目前にした織田信長の僅かな隙を突いて討ち、日本史上にも最も有名な裏切者として有名過ぎる明智光秀。倒した相手が相手だし、その後の天下の趨勢に与えた影響があまりにも大きいこともあって、彼は裏切者の代名詞にさえされている。
 勿論彼は信長に仕えたからこそ武将としてあれほどの働き場を得ることができた。如何なる理由があろうと裏切者であることに変わりはない。しかし彼が通り一辺倒の裏切者でない証拠はこれでもかと出て来る。
弁護一 苛めとしか思えない信長の仕打ち。
 もはやここで採り挙げるべき問題ではないという気すらする有名な話である。

その一−衆人監視下侮辱事件
 織田信長の短気は有名であり、実際彼に暴力による折檻を受けた部下は枚挙に暇がない。秀吉でさえ何回か殴られていた。勿論その場の気分で手討ちにされることも珍しくなかったこの時代のこと、暴力による折檻は信長ならずとも日常茶飯事だったろうけどTPOをわきまえなくては意味がない。
 現代社会でも会社社長は部長を係長以下の地位の人間の前で無闇に怒鳴ったりしないものである。信長は武田家滅亡の直後に諸将達と供に「武田が滅びたのも長年の我等の苦労の賜。」と言った光秀に対し、「お前が何をしたのだ!」と言って彼を殴っている。卑しくも城持ち大名たる彼の立場も慮っていなければ、戦勝で皆が気を良くしている場であることも考慮していない。
 はっきり言って殴られた光秀が信長の性格だったらその場で刀が抜かれたことだろう。

その二−人質見殺し事件
 八上城攻略の際、光秀は城主の波多野秀治(はたのひではる)に彼の身の安全を保障し、その証に母親を人質に入城させた。が、全ての事情を知らされていながら信長は波多野との約束を保護にし、怒った城兵によって報復に光秀の母は殺された…。これ以上の説明は不要だろう…。

その三−徳川家康接待事件
 武田家滅亡の祝賀と駿河一国拝領の御礼言上に徳川家康が安土城を訪れ、光秀はその接待役を命じられた。
 信長の威厳を示しつつ、家康を喜ばせると言う大役に明智家中は羽柴秀吉の毛利攻略に劣らぬ大役と自分達に言い聞かせて全力を尽くしたが、信長の不興を買い、光秀は接待役を解任され、秀吉の後詰を命じられた。
 詳細は省くが、この信長の裁定に光秀配下は家康に御馳走すべく用意した山海珍味の材料を堀に投げ込んで怒りを露わにした。
 おまけに怒る信長にその事情の説明を求めて登城した光秀を信長は小姓の森蘭丸に光秀を打擲させて辱めた。
 城持ち大名たる主人が小姓ごときに打擲され、光秀配下の怒り様は光秀が宥めるのに苦心したほどだった。

その四−突発性解任及び確約なき昇進事件
 家康接待役を解任し、羽柴秀吉の毛利攻めの後詰を光秀に命じ信長は光秀の領国丹波亀山を召し上げ、石見・出雲の領国を与える、という辞令を送った。
 石高で見れば加増になるのだが、この時石見・出雲はまだ毛利の領土であり、光秀は苦心して統治した領土を取り上げられて、手に入るかどうかわからない名目だけの領土を与えられてたことになった。

 道場主はかつて勤めた会社で面と向かって解雇を言いにくい年配の部長に、部下のいない名目だけの部署・役職を与えて実質的な業務を奪い、自主退職に追い込んだ例を見たことがある。
 勿論その部長の退職後にその部署は消えた。その例を見てもこんな辞令で部下に付いて来い、と言うことの無理が光秀の場合にも窺い知れると言うものである。

 薩摩守が光秀だったら何日信長の部下が務まっただろうか(苦笑)?


弁護二 家臣の誰もが謀反に反対しなかった。
 裏切りという行為には後ろめたさが伴う。裏切りを何とも思わない者でも裏切る必要がないに越したことはないと考える。それゆえ、裏切りと言う行為にはその配下がついてくるかということにも気を配らなくてはならない
 それゆえ明智光秀も裏切りの直前まで胸中の思いを家臣に吐露しなかった。そして胸の内を明かしたとき、明智家中の者は誰も反対しなかった

 話が逸れるが一つの例を挙げたい。『三国志』の劉備(りゅうび)の配下に孟達(もうたつ)という武将がいた。元々彼は蜀の劉璋(りゅうしょう)の配下だったが、惰弱の君主を見限り、盟友張松(ちょうしょう)・法正(ほうせい)とともに劉備を迎え入れた。
 その後、劉備の義弟関羽(かんう)の援軍に行かず、関羽の死の遠因となった為に蜀に居辛くなった孟達は魏の曹丕(そうひ)に投降した。
 しかし曹丕に厚遇されたものの次代の曹叡(そうえい)に冷遇された孟達は諸葛孔明(しょかつこうめい)の快進撃もあって、魏に反旗を翻してそれを手土産に蜀に帰参しようと謀った。
 孟達は配下の申儀(しんぎ)・申耽(しんたん)に計画を明かし、両名も了承した。しかし実際の所二人は三度も裏切ることに辟易していた。勿論そんな大事を聞いて拒否すればその場で殺されかねないので「承知」と偽ったのである。
 二人は司馬仲達(しばちゅうたつ)に相談し、魏に二心のない旨を記した連判状を提出した。そしてその連判状には孟達の甥・腹心までもが名を連ねた。孟達の謀反が失敗に終わったことは言うまでもない。彼は申耽に討たれた。

 話を戻すと、本来裏切りなんて誰もやりたくなくて、余程の大義名分と人的魅力がないと配下がついては来ないということであり、裏切り行為は簡単に瓦解する、という事である。
 事実光秀自身、信長を討ち取ったものの娘婿の細川忠興(ほそかわただおき)や盟友の筒井順慶(つついじゅんけい)に協力してもらえなかった。
 彼等にとっては光秀との友諠より信長との主従関係の方が重かったのだろう。だが、光秀の立場をも無視した度重なる彼への仕打ちにその配下は裏切者としての汚名より怒りの方を募らせていた。

 光秀も謀反決行の直前に胸中の秘を明かしたとき、明智左馬助、斎藤利三(さいとうとしみつ)、溝尾庄兵衛(みぞおしょうべえ)、etc…彼等は一様に光秀の意を尊重し、彼と運命をともにした。  裏切りは確かに卑劣な行為である。だが高い立場にいる人間ほど大義とカリスマがなくては裏切りをなし得ない事実も見なくては明智光秀の本質も織田信長の本質も見えないだろう。


弁護三 彼の最初の主君は足利義昭。
 明智光秀は織田信長を倒した後、羽柴秀吉を毛利輝元(もうりてるもと)と挟み撃ちにする為、毛利人陣に使者を送った。
 この密偵が秀吉軍に捕まった為に本能寺の変が秀吉の知るところとなったのは有名な話だが、この密書の中で光秀は自らのことを「先の足利将軍のために戦う者」と記し、当時足利義昭を保護していた毛利輝元への協力を求めていた。
 つまりこの弁護は光秀足利将軍にこそ忠義を尽くすべきとの理屈に成り立っている。
 弁護として少し説得力は弱いが、光秀の経歴を見れば彼が信長より足利義昭を重んじたとしても一片の同情の余地はある。

 もとより光秀の出自ははっきりしない。浪々の身である彼が信長に用いられることにより城持ち大名となり得たのだから、如何なる事情があろうと信長が彼を「裏切者!」と言えばその言葉に対しては反論出来ない。
 しかし明智家は美濃の守護土岐氏支流らしく、その土岐氏はれっきとした源氏の出である。足利幕府の管領家斯波氏の守護代織田氏の三奉行の一人であった織田信秀の子・信長より本家であり武士の棟梁であった足利家に味方したところで充分な大義を持ち得るのである。

 室町幕府第一三代将軍足利義輝が三好長慶・松長久秀に惨殺され、その魔の手を逃れて越前に亡命した弟の義昭は朝倉義景に上洛と賊軍の討伐を依頼するが、越前一向一揆に手を焼いていた義景は動けなかった。
 そしてそんな義景を見限った義昭は細川藤孝(幽斎)の手引きで当時美濃にいた明智光秀を頼り、光秀が信長の正室お濃の方にコネクションがあったことから信長を頼り、その助力で義昭は第一五代征夷大将軍に就任することができた。
 つまり光秀にしてみれば義昭に助力した信長に酬いるのが当然なら、義昭を蔑ろにした信長に反抗したのにも一つの筋があったのである。
 実際の所光秀が信長に反旗を翻した原因には謎が多いが、本来光秀は足利家にこそ忠義を尽くすべきだった、との見方も忘れてはいけないだろう。


弁護四 愛妻家・明智光秀
 本能寺の変のインパクトが強い為、良くも悪くも明智光秀と言う男は信長への忠・不忠で見られ勝ちである。
 勿論それも光秀を観察する上での重大なファクターなのだが、ここでは人間として、男性としての明智光秀を紹介したい。

 光秀は大変な家族想いだった。
 彼が信長に反旗を翻した原因の一つに母親が見殺しにされた件があるのは先にも触れたように、彼は親孝行者だった。そして何より彼は愛妻家だった。
 光秀の妻の名は熙子(ひろこ)という。妻木勘解由範煕(つまきかげゆのりひろ)の長女で輝くばかりの美貌の持ち主だった熙子は光秀との縁談もトントン拍子に進み、婚姻は秒読み段階に入ったが、不幸にして病魔が彼女を襲った。
 病魔とはは疱瘡(天然痘)だった。
 昨今細菌テロが危ぶまれる中で最悪の病原体としてその悪名を復活させつつある天然痘−昭和五五(1980)年にWHO(世界保健機構)から撲滅宣言が出されて自然界には存在しないそのウイルスはそれ以前の世界各地で多くの悲劇を生んだ。
 天然痘はその死亡率・感染力もさることながら、その病状・予後にもひどいものがある。高熱の後に体中に現れる水疱は膿んでカサブタとなり、患者を散々苦しめた末に死に至らしめ病である。
 そして病状軽く死を免れたとしても、水疱の後は痘痕(あばた)となって生涯残り、患者の容貌を著しく変貌させてしまった。特に女性にとっては悲劇性も大きく、絶望の余り自ら命を絶つ者も多くいたらしい。
 そんな病魔に襲われて熙子は一命は取り留めたものの、痘痕が残り、父の範熙は破談を恐れて熙子の妹を替え玉に光秀の元に嫁がせたが、切れ者・光秀に露見しない筈がなく、妹はすぐに返された。
 万策尽きたと途方に暮れる範熙だったが、改めて熙子を妻に迎えたい、との光秀の報せが来た。
 「熙子の容貌ではなく、心に惚れたのだ。」と言うのが光秀の口上だった。妻木範熙が、そしてそれ以上に熙子が感激したのは言うまでもない

 当時は男尊女卑の世で女性からの破談や離婚は叶わなかったが、男からは簡単に破談・離縁ができる時代だった。ましてまだ正式に結婚していなかったのである。だが光秀は約束を守った。替え玉を理由に破談にすることも可能だったことを考えれば彼の「心に惚れた」の台詞に偽りがなかったことが窺い知れる。

 その後も光秀は生涯側室を置くことはなく、熙子だけを妻として愛し続けた。ある日、娘の珠子(たまこ。後の細川ガラシャ)が痘痕に覆われた熙子の肌を笑ったとき、光秀は珠子に「父は母の心を好いたのじゃ、どのような肌になろうとも母者の心の美しさは些かも変わらぬ。」と言って娘を窘めている
 ちなみにこの珠子が後に細川家に嫁し、その血筋を平成の世の内閣総理大臣細川護熙に至るまで光秀と熙子の美しい愛の結晶は脈々と受け継がれている。

 愛妻家としての明智光秀に異論を挟む者はもはやいないと確信する。否、薩摩守にキーを打つ指があり、減らず口を叩く口がある限りその異論に沈黙することはない。
結論 明智光秀が織田信長を裏切ったこと事実に弁解の余地はありません。恨みも大きかったでしょうけれど、恩が大きかったことにも間違いありません。事実光秀を討った秀吉がその事実を悪し様に言われる事は皆無です。
 ですがこれほど裏切られるだけの余地を持つ事例が珍しいことと、一人の大将として部下に慕われた、一人の男性として妻と娘に無上の愛を注いだ光秀の姿を無視するのは明らかに片手落ちです。
 道場主がこういうサイトを立ち上げ、薩摩守が明智光秀をエントリーした事に裏切者としての彼だけを見て欲しくない気持ちを汲み取っていただければこれに勝る幸いはありません。



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平成二六(2014)年五月二二日 最終更新