これは光栄の「爆笑三国志」のパクリです。

菜根版名誉挽回してみませんか


第四頁 戦国終息偏
足利義昭(あしかがよしあき)………家名だけは渡さない根性

【天文六(1537)年一一月一三日〜慶長二(1597)年八月二八日】
 末代の将軍となった彼はそれだけでとんでもないマイナスイメージの素養を背負い込んでいる(源実朝然り、徳川慶喜然り)。
 しかも流浪と書状と、織田信長の力添えで得た征夷大将軍の(名ばかりの)権威を振り翳すその姿からは、文武ともに才能は欠片も感じられない。その存在も大義名分に利用されたイメージが強く、最後には邪魔者扱いにさえされている。血筋と将軍の名にだけ必死にしがみつくその姿は哀れですらある。

 だが、そもそも武家の棟梁たる征夷大将軍凡人が背負い込むには余りにも重い立場である事を忘れてはならないと薩摩守は思う。
 まして彼の将軍就任は周知の通り、すんなりいったものでは決してない(室町末期には、すんなり就任した将軍の方が少ない)。
 親兄弟さえ油断のならない戦国時代であり、第一三代将軍足利義輝(あしかがよしてる)の実弟ということで、それだけで命の危険さえあったのである。そして六代・義教以降、足利将軍の地位は決して磐石のものではなかった。そのような時勢で実力者達に翻弄されつつも、少ないなりの力を振り絞って運命と戦った足利義昭のなかなか認知されていない美点を当たってみたい。
弁護一 命の危機を即座に察知。
 室町幕府第一二代将軍足利義晴(あしかがよしはる)の次男に生まれた義昭は、嫡男である兄の義輝が将軍位を継ぐことから、母方の伯父近衛殖家(このえたねいえ)の猶子となって出家し、一乗院の門跡となり、覚慶(かくけい)と名乗っていた。
 が、永禄八(1565)年五月一九日に兄の義輝が三好長慶(みよしながよし)・松永久秀(まつながひさひで)の謀反に遭い、鬼神もかくやという剣豪振りを発揮した奮闘の果てに惨殺されたことから彼の運命は激動した。

 義輝に限らず、第六代義教(よしのり)以降将軍の地位は決して磐石ではなかった。
 義教暗殺後、第七代義勝(よしかつ)は在位一年を経ずして夭折し、第八代義政(よしまさ)は早々に政治への情熱を失って文弱に耽り、第九代義尚(よしひさ)は応仁の乱の果てに就任したものの、近江在陣中に早世し、第一〇代義殖(よしたね)は第一一代義澄(よしずみ)に将軍位を追われ、周防守護大内義興の助力で義殖は再び将軍となり、義澄はその地位を追われる、といった有り様だった。
 将軍でさえその有り様だったのだから、管領以下もその政争は熾烈を極めた。

 義輝を暗殺した三好・松永は自分たちに都合のいい将軍として義輝・義昭の従弟の義栄(よしひで)を将軍に立てた。言うまでもなく完全な傀儡政権である。
 そうなると前将軍の実弟として血統的にも将軍位に相応しい義昭の存在は三好達にとって邪魔な存在だった。

 一応、出家しているものの、第六代義教が出家していたのを還俗して将軍となった例や、第八代義政は実子に恵まれなかった為に弟の義視を還俗させて譲位しようとしたところ、実子義尚が生まれて、これが為に応仁の乱が勃発した例からも、「出家している」、という事は三好・松永達にとって、安心材料とはなり得ないのである。
 当然の様に三好達は一乗院にも軍勢を差し向けた。だが寺院はある意味治外法権の地にあり、身の危険を察知していた覚慶は院の助力を得て三好勢の侵入を拒んだ。
 止む無く三好勢は院を見張ることで覚慶を幽閉状態に置いた。
 勿論そのような状態は双方にとって安心できる状態ではなかった。

 覚慶は院からの脱出を試みた。その行動において才を余り感じさせない義昭命の危機を察知して院の協力を取り付け、京からの脱出を逸早く図っていたことに続いて、細川藤孝(ほそかわふじたか)を味方につけていたことが、単なる権威を誇示するだけの男でなかったことを感じさせる。

 後々の歴史が証明するように藤孝(後の幽斎)は生き残るということに極めて優れた才を発揮した男で、和歌・政治的駆け引き・人柄・洞察力その全てが生き残りの為に遺憾なく発揮された。
 話が後々に飛ぶが「織田信長に逆らうな」という彼の忠告を無視したために藤孝に逃げられた義昭は将軍の地位を終われ、信長が倒れた時に息子・忠興の舅・明智光秀から合力を迫られた際も父子で剃髪して信長への弔意を示して光秀への強力を拒絶した為、秀吉政権下でも厚遇され、関ヶ原の戦いの際には丹波で西軍に百倍の軍勢に攻められるも和歌の際を惜しんだ天皇の仲裁で危機を脱し、戦後は忠興の活躍もあって細川家は躍進し、豊臣恩顧の大名でありながら改易の危機にさらされることもなく、加藤家改易後の肥後を継ぎ、幕末まで存続し、平成の世に総理大臣まで輩出した。
 そしてその総理大臣となった細川護熙氏は政争に利あらずと見るとさっさと引退して悪名を背負うことなく悠々自適の生活を送っている(平成二六(2014)年に東京都知事選に出馬して落選していたが)。
 全く細川家の人間は生きるのが上手い(笑)、いやこれは本気で褒めているのである。それだけ上手い生き方をしながら殆ど人に迷惑をかけていないのだから…。

 いつもながら話がそれまくって申し訳ないが、藤孝の助力を得て院を脱出した覚慶は還俗して義秋と名を改めると越前の朝倉義景を頼った。
 結局義景が頼りにならず、藤孝が明智光秀に繋ぎを付け(このときになって義昭と名を改める)、信長を頼って将軍になったのは周知の通りだが、危険を逸早く察知し、寺社や能臣といった自分の力となり得る存在を見極めて行動した義昭は果たして無能と言えるだろうか、否、言えやしない(反語)。


弁護二 プライドよりも将軍家の存続。
 足利義昭の人生は逃走に継ぐ逃走であり、また剣豪として昨今注目されている兄義輝に比べるのが可哀想なぐらい自ら刀を振るっていない。そこにカッコ良さを感じる人は皆無だろう。

 そして朝倉を頼り、織田を頼り、将軍にしてくれた信長が自分を利用しているに過ぎないと見るや、武田・上杉・石山本願寺・延暦寺・浅井・朝倉と協力を要請し、逆に京都を追われると毛利を頼った。正に他人に頼りっぱなしの人生である。

 だが、考えて欲しい。義昭の行為はその緻密さにおいて褒められる点は少ないが根本指針まで間違っていると言えるだろうか?
 いっそ彼が一般にイメージされている通りのバカ殿なら信長の傀儡であることにすら気付かず、必要とされなくなったところで足利家諸共始末されていたのではないだろうか?
 力も敵意もないと見れば自分が殺した今川義元の息子・氏真さえ殺さなかった=無駄な殺しは行わない信長のことだから、可能性としては小さいが皆無ではないだろう。

 義昭の使命は足利幕府の存続であった。
 ただ生き残るだけなら国家権力の外にあった一乗院に篭っていた方が安全で敢えて「将軍の器にあらず」と後ろ指刺されることもなかったのではあるまいか?
 また将軍に相応しいプライドを選ぶなら天正元(1573)年の填島挙兵失敗=京都追放・室町幕府滅亡の際に息子を信長への人質に差し出してまで生き残りを図らず、自害していた方が格好はついただろう。

 結果として彼は最後の将軍となり、その座に返り咲くことなく生涯を終えた。
 それゆえに彼を無能呼ばわりする声は現在も多い。だが、彼は最後の最後まで諦めなかった。そして室町幕府存続の為に、「自らが生き残ること」と「将軍に従わざる勢力を滅ぼすこと」の両方を求められた彼に手段を選んではいられなかった
 彼はすっかり力を失った後にも天下人豊臣秀吉を前に敢えて将軍として振る舞った。それは無意味どころか命をも失いかねない危険な行為だった。
 義昭必要とあらばプライドを捨て、必要とあればプライドを前面に出し続けた。能力云々とは別の問題としてこのプライドに関する彼の行為はある種の強さとは言えないだろうか?


弁護三 あの状況で何が出来たと言うのだ。
 権力の座とは魅力的なものである。それゆえにそれを狙う者も多く、その座の推移には誰しもが納得の出来る順序付けが肝要になる(そうしないと保てないから)。
 時に長子相続を基とする世襲制であり、時に選挙制であり、時に絶対君主による指名であり、時に宗教的権威による承認であったりする訳だが、逆を言えば資格にあらざる者が権力に固執する態度を見せるのはそれだけで暗殺等の危険を孕んだ。

 第三代義満(よしみつ)の息子で第4代義持(よしもち)の弟達は四人とも出家していたが、義持の嫡男で第五代将軍だった義量(よしかず)が早世した為、弟達にお鉢が回って来た。
 つまり、前もって全員が出家していたのも要らざる権力争いに巻き込まれない為だろう。そしてこの四人の中から籤引きで第六代将軍に選ばれたのが義教である。
 足利義昭覚慶として一乗院にいたのも恐らくは同じ理由で世間に対して世俗を離れている、との意志表示をしていたのだろう。

 それゆえに三好達の魔手を逃れて京都を脱出した時の義昭殆ど身一つだった。
 大事を為すには(家臣・軍勢・領民をひっくるめて)・(兵糧・金・武器などの軍需物資)・(それこそありとあらゆる才)が求められるが、当時、義昭が持ち得たのは人は細川藤孝他数名・物は皆無・才は僧侶としての修業しか積んでいなかった為に将軍の弟という立場による大義名分だけだった
 元より兄義輝が不慮の死を遂げなければ、義昭は数奇な運命に翻弄されることもなかったし、その為の才を持つ必要もなく、御仏に仕えて徳を積む事に邁進できたのである。
 確かに今川義元や上杉謙信のように還俗を求められ、その重責を立派に果たした例もあるが、義昭ほどに逼迫した状況のものでもなければ、義昭ほどの権威ある立場でもなければ、背後につく家臣や軍も多かった。
 織田信長の元に亡命した時の義昭は一〇〇〇貫文の銭・名馬一頭・名刀一振りに涙を流してその謝意を述べた。
 また将軍就任後には「自分にはそなたに報いるほどのものを持ち合わせていない。」と言ってせめてもの感謝の意として彼のことを「父」と呼んだ(ちなみに義昭は信長に対して僅か三歳の年少)。
 裸一貫で才にも物にも恵まれなかった彼が持てる限りの手を尽くした努力を後世の我々はもう少し買ってやってもいいと薩摩守は思う。


弁護四 最後の最後まで諦めず。
 諦めの良さが肝心か、最後まで諦めないことが大事か、一概に断じるのは難しい。
 道場主の恋愛経験を見ていても……ぐほっ!!(←道場主からボディーブローを食らったらしい)、ゴホッゴホッ…あ、いやいや。まあ一言で言えばTPOによる訳だが、ここは当コーナーの「名誉挽回」の主旨に従って、足利義昭諦めない気持ちを尊重した解説を行いたい。

 江戸幕府最後の将軍徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いを放棄し、江戸城無血開城後に上野・寛永寺に謹慎し、明治新政府に逆らわなかったのに比して、逃走に次ぐ逃走を繰り返し、朝倉→織田→朝倉→武田・浅井・朝倉・延暦寺・石山本願寺→毛利と諸大名を頼りに頼った義昭の辞書には「諦める」という言葉はないらしい。
 彼の行動を「往生際が悪い」と言って嘲笑する人も多いと思うが、それでも彼は諦めないだろう。逆に恥も外聞も捨てて流浪を繰り返す姿は逞しくすらある
 晋の重耳や蜀の劉備の様に流浪の果てに君主の地位をつかんだ人物も存在する。彼らも亡命生活の最中に生涯を終えていれば嘲笑され、義昭も将軍の地位に返り咲いていれば尊敬する声も多かっただろう。
 単純に「諦めが悪い」と揶揄するのは既に結果を知っている後世の無責任な発言である。義昭は文字通り死ぬまで頑張ったのである。

 薩摩守が言いたいのは恥や外聞に囚われた時にどれだけの人間が義昭程に諦めずに頑張り続ける事が出来ただろうか?ということである。
 結果として彼は信長に追放され、それによって室町幕府の歴史に終止符を打たされたが、実は彼が信長に逆らったのは一度ではない。
 二度目に細川藤孝の助言に従わず、信長に対して挙兵したものの、戦らしい戦にすらならず、京都を追われた訳だが、信長の性格を考えればよくこれで殺されなかったのものである。
 そしてその後毛利輝元を頼って中国地方に逃れている。ここまで来ると「諦めが悪い。」と見るか、「根性が有る。」と見るかは個々人の観点の違いになるが、生半可な想いで続行出来ることではないのは間違いない
 勿論、薩摩守は足利義昭の最後まで諦めなかった心根を買っているが、かと言って将軍の座をあっさり放棄して無用の犠牲を避けて日本の近代化を促した徳川慶喜の英断を褒めこそすれ馬鹿にするつもりは毛頭ない。
 最後まで諦めない根性にしろ、潔い決断にしろ、その心根にある真剣な想いを尊重したいのである。


弁護五 家名は決して譲らない。
 室町幕府を滅ぼした織田信長が本能寺に倒れ、足利義昭が頼りとした上杉・毛利も上洛して彼を将軍に就任させるほどの成果は為し得ず、天下は羽柴秀吉の手に帰した。
 そして義昭は秀吉の招きで帰京し、信長打倒の挙兵を行った填島(まきしま)に一万石が与えられた。
 元征夷大将軍の立場を考えればはっきり意って捨扶持である。生き残る為とはいえ、義昭のプライドはズタズタだっただろう。
 何故義昭は卑しい身分の出として蔑んでいた秀吉の保護を受けたのか?成り上がり政権が早期に瓦解することが多いことに期待していたのだろうか(実際豊臣政権は二代もたなかった)?
 真相は不明だが、秀吉が義昭を招いた理由ははっきりしている。征夷大将軍となるためである。

 征夷大将軍は源氏の出でないとなることが出来ない。その為徳川家康は系図をでっち上げて、征夷大将軍就任の際に朝廷より「源氏の長者」にも任命させてその権威付けに躍起になった事実がある(家康に限らず、戦国大名の大半が源平藤橘の末裔を自称していた)。
 だが代々農民だった木下家の出だった秀吉に源氏の血筋などデッチ上げようもなかった。そこで秀吉が考えたのが前将軍である足利義昭の養子となることだった。
 少し話が飛ぶが、将軍になることを諦めた秀吉は関白になるためにやはり五摂家の一つである近衛家の近衛前久(このえさきひさ)の養子となり、藤原朝臣秀吉と名乗ってから関白の位と供に朝廷より「豊臣」の姓を与えられた。

 話を戻すと、秀吉が将軍位を諦めたのは義昭断固として養子縁組を拒否した為である。その際、秀吉が如何なる手段を取ったかは薩摩守の研究不足で不明だが、天下人・秀吉は武力で脅すことも、財力で魅せることも、貴族との付き合いから義昭を懐柔することも行い得たのである。
 だが、結局義昭は断固として足利の家名を秀吉に譲らなかった。流浪の果てに秀吉のもとに落ち着いた彼の経歴を見れば当然の意地とも、最後の意地とも取れる
 秀吉が世を去る一年前の八月、最後の室町将軍足利義昭はその波瀾に富んだ生涯を享年六一才で終えた。
結論 結局の所、足利義昭が歴史に果たした役割とは何だったのでしょうか?
 彼の意に反し、彼は最後の足利将軍となってしまいましたが、勿論その責任は彼だけに求められるべきではありません。室町幕府の崩壊は彼の生まれる半世紀以上も前から始まっていたのです。
 「室町幕府再興の為に」と口先では言っても心からそう思って義昭に協力を誓ったものが何人いたか極めて疑わしいです。
 義昭は生まれながらの将軍ではありません。
義持の三人の弟の様に、僧としての生涯が本道でした。
 突然の運命の変転、裸一貫の境遇、流浪に次ぐ流浪と彼を取り巻く野心の数々…。そんな中で最後まで将軍家の再興のために恥も外聞も無視して流浪し続けた義昭の根性はもっと温かい目が注がれて然るべきだと思います。
 少なくとも私達は戦乱の世に生きていた人々の様な、自分のことしか省みれない余裕のない存在ではないのですから。



北条氏政(ほうじょううじまさ)………五代百年最大の版図は彼にあり

(天文七(1538)年〜天正一八(1590)年七月一一日)
 彼もまた御家滅亡時に存命したこと、その責任者とされたことにそのマイナスイメージがある(実際その通りなのだが)。
 北条家滅亡時には彼は既に隠居し、嫡男・氏直(うじなお)が当主だったのだが、実際に北条の指針を握っていたのは彼である。父・氏康(うじやす)が武田信玄・上杉謙信・今川義元と堂々と渡り合い、生涯に一度の負け戦もなく、五代の中にあって初代・早雲(そううん)に匹敵する知名度を持つことからも必然御家を滅ぼした彼は立つ瀬がない。
 評判の悪い「小田原評定」の生みの親になってしまったのも致命的であった。

弁護一 北条家全盛期は彼が築いた。
 後に徳川家康がその領土を受け継いだことから「関八州」と言われる関東一大王国が北条氏の勢力範囲だった(実際に全土を支配した訳ではない)。
 俗に北条五代百年のと云われる北条政権期は初代早雲が小田原城を占拠した事に始まり、二代目氏綱(うじつな)に至って初めて北条姓を名乗って関東管領上杉家と死闘を繰り広げ、三代氏康は武田信玄・今川義元と結んで関東を地固めし、生涯一度も負けた事はなかった(持久戦の末引き分けに持ち込んだのが多いが)。
 そして有名な河越夜戦の大勝に乗じて関東における上杉の勢力を縮小させ、逆に北条の版図はそれまでの相模・武蔵から上野・下野・常陸・上総・下総・安房の八州に及んだ。
 そして永禄二(1559)年に氏康より家督を譲り受けた北条氏政が歴史に登場する(←まだ今川義元が生きている時期であることに注目)。
 家督を継いだ翌年には上杉憲政(うえすぎのりまさ)を関東から追っ払った(この憲政が越後に逃れて長尾景虎に関東管領の地位と「政」の一字を与え、上杉政虎=後の謙信が誕生する)。
 更に翌永禄四(1561)年には上杉憲政を奉じた長尾景虎が上野の国人をはじめ武蔵忍の成田氏、武蔵岩槻の太田氏、常陸小田の小田氏、常陸太田の佐竹氏、下野の宇都宮氏、そして海上からは安房の里見氏の越後・関東連合軍は九万六千を率いて小田原城を包囲するも篭城の果てに守り抜き、景虎撤退後に関東の国人領主は再び北条に属した。
 その後上杉との一進一退を繰り返し、多くの国人領主を服属させていく中で永禄一二(1569)年に三国同盟を破棄して武田信玄が今川氏真(いまがわうじざね)を攻め、今川に味方した北条は武田・上杉の戦国の両巨頭を敵に回した。
 さすがにそれでは分が悪く、弟の氏秀(うじひで)を人質兼養子とすることで同盟を締結し、上野を返却したものの、関東の勢力盤石化に成功した。
 しかしながら武田と縁を切るけじめの為に氏政は泣く泣く五人の子を産んでくれた正室黄梅院(おうばいいん)と結婚一六年目にして離縁を余儀なくされ、ほどなく夭折した彼女の為に墓所を建立するなど、面の裏に妻への愛と涙を隠して奮闘を続けたのであった。
 その後武田との戦いでは日本一の騎馬軍団の前に敗戦を度々味わいながらも要所要所で譲らず、この時も小田原篭城で名城の難攻不落さを世に示した。

 元亀二(1571)年一〇月三日に名将だった父・北条氏康は癌に没し、名実供に氏政が北条家の首領となった。
 これを機に上杉を離れ、武田と和解(氏康の遺命でもあった)。二年後には武田信玄も没したが、氏政は着々と関東を固め、長年苦労した古河公方領をもその掌中に収めた。
 この間、長篠の戦、謙信の急死、御館の乱(上杉景虎こと北条氏秀自刃)が起き、武田とは再び決別した。

 天正八(1580)年に至って、信長と接触を持つことが避けられなくなったり、真田昌幸が上野で不穏な動きをするなど、新たな戦いが見え隠れすれなかで氏政は氏直に家督を譲った(勿論、氏康同様実権を手放さなかったのはお約束)。
 その後は氏直を後見しながら徳川家康と結び、武田の滅亡、本能寺の変の動乱の中で関東での勢力を益々強めたが、小牧・長久手の戦いを経て家康が秀吉に従うと、臣従を命ずる秀吉に家康を仲介したり、伊達や佐竹と結んで対抗を講じるも時勢に抗し得ず、天正一八(1590)年に滅亡の時を迎えたのは周知の通りである。
 長々と氏政の経歴を追ってきたが、彼が如何に戦略戦術を尽くし、同盟と決別を繰り返す中で激動の戦国の世で関東制覇に邁進していたかがご理解頂けると信じて敢えて余計な批評は控えたい。


弁護二 本当に氏康はそんなこと言ったのか?
 有名な話だが、ある日の食事の際に、北条氏政汁かけ御飯を食べるのに、御飯茶碗に二度汁をかけたのを見て、父氏康が嘆息して「北条も儂の代で終わりか…。」と嘆いたと云われている。
 その理由は毎日食べている筈の飯の汁加減を一回で調整出来ない様で、どうして関八州を切り盛りできようか、というのが氏康の嘆きらしかったのだが、薩摩守は氏政が御家滅亡時の当主(くどいが立場上は隠居の身)だった歴史的事実から生まれた俗説と見ている。
 普通に考えて毎日汁かけ御飯にしているのなら始めからかけていそうなものだし、汁の量や味の濃い薄いなんてその日の気分や季節でいくらでも変わりそうなものである。
 例えば汁かけ御飯を味わった後で、固い御飯を食べたくなっても、もう少し濃い目の汁かけを楽しみたくなっても薄めのそれを楽しみたくなっても、その時の気分次第もあり得れば、全くの個人の自由の筈である。
 少なくとも薩摩守の知る限り、北条家の家訓に汁かけ御飯の汁の濃淡について定めてあるなんて話は聞いた事がない(笑)
 後から作られる伝承や民話には敗者に惨く当たる物が多い。もしこの伝説が事実なら北条氏康の死因の癌はストレス性の胃癌に違いない(笑)。


弁護三 「小田原評定」は悪しき意味にあらず。
 通常「小田原評定」と言えば「意見のまとまらないだらだらした会議を続ける事」をいい、豊臣秀吉との対戦に当たって徹底抗戦と降伏かで揉めに揉めて結局は降伏した為に「潔くなかった」との意見も手伝ってすっかりよくない会議の代名詞になってしまっている。

 だがこの「小田原評定」は、北条家が居城である小田原城内で国政に当たって評定制を確立したことから名付けられた物で、要は小田原城内での評、というそのまんまの単語だったのである。全国に支社を持つ会社の全国会議を東京で行ってそれを「東京会議」と名付けたのと何ら変わらない。

 それこそ氏政名誉の為に付記したいが、骨肉の争いが珍しくなかったこの時代に北条一族にそれが全くなかったのは氏政がこの評定制を遺憾なく活かしたからである
 評定そのものは激論も交わされたが、一決するや、君臣供に一丸となってその決定事項に従って事に当たった
 確かに対秀吉戦での評定はカッコのいいものではなかったが、これだけを指して小田原評定を悪しき代名詞とするのは氏康・氏政に失礼と言えるだろう。
 敗者に厳しいのは歴史の常だが、戦国最後の敗者に対するそれは目立つ分殊更厳しい様である。


弁護四 相手が悪かった…。
 武田信玄、上杉謙信、佐竹義重、徳川家康、織田信長、真田昌幸、豊臣秀吉……このそうそうたる面子が、北条氏政がその覇を競った強敵達である。
 信玄・謙信・家康・信長・秀吉は言うに及ばず、真田昌幸は名将揃いの真田家にあって次男幸村と供に家康の心胆を寒からしめた表裏比興の者であり、余り有名でないとはいえ佐竹義重は伊達政宗と組んでその息子の義宣も石田三成と組んで粘り強く家康に対抗し、減封されたものの佐竹の名を幕末まで存続させた豪の者だった。
 氏政はそんな奴等と戦い続けたのである。

 しかも最後に秀吉に敗れた以外には堂々と、互角以上に渡り合った
 例えば織田信長配下の滝川一益に攻められた時には本能寺の変が起きたのだが、柴田勝家や丹羽長秀のように容易な退却を氏政は許さず、それがために一益は清洲会議に間に合わず、織田家中における彼の発言力は地に落ちた。これを採っても氏政の力が窺える。
 他の例を挙げれば今川氏真は駿河の危機に氏政を頼り、小牧・長久手の戦い以前の家康は次女督姫(とくひめ)を氏直に嫁し、会見の際には国境まで見送り、橋を破却して北条に敵意のないことを示した。
 ちなみにこの友諠により北条家は秀吉による滅亡をかなり先まで延ばすことができた。

 天正一八(1589)年遂に豊臣秀吉は大動員例を発令し、ここまで来ると氏規(うじのり。氏政弟)の釈明も、家康の仲介も功を成さず、秀吉軍が襲来したがその数三〇万!
 戦国全期を通じてもこれほどの大軍が動員された例はなく、難攻不落の名城・小田原城も支城をすべて落とされ、城を包囲するかの様に築かれた城砦群の前に為す術はなかった。
 だがここまでの奮闘に対して氏政を「弱い」と非難出来るだろうか?
 秀吉に膝を屈しなかったことを指して「身の程知らず」というのは簡単かもしれないが、謙信と対立しても、信玄と結んでも、秀吉に硬軟織り交ぜて接したのも、関東公方や関東国人衆との戦いもすべては彼の生涯、北条五代をかけた関東制覇の為だったことを考えると氏政が退けなかったのも無理のない話ではあった。
結論 天正一八(1590)年七月五日に小田原城は開城し、北条氏政はタカ派の筆頭として同じくタカ派とみなされた弟氏照、重臣松田憲秀(まつだのりひで)・大道寺政繁(だいどうじまさしげ)と供に切腹を命じられ、舅・徳川家康の助命嘆願のあった氏直は高野山に蟄居、度々上洛して秀吉の覚えもめでたかった氏規(氏政弟)は小大名として助命されました。

 氏政という男はとかく氏康との比較や秀吉に抗し得ず、御家を滅亡に追いやったことで見られ勝ちです。しかし前述した様に北条家の最大版図を築いたのは彼であり、彼は領有した領土の「北条氏所領役帳」と呼ばれる行政書も作成し、優れた手腕を発揮し、緻密な行政を行いました。
 彼の双肩に課せられた使命は関東立国とその統治でした。その中で外交に軍事に内政に彼は最善を尽くしていたのが見受けられます。秀吉に膝を屈するのは関東を捨てることでした。
 それは彼の生き甲斐だけでなく、先祖の偉業をも放棄する選択で、勿論出きる相談ではありませんでした


 最後に付け加えておきますが、彼の嫡男・氏直は高野山に蟄居後、赦免され一万石を許されますが、一年を経ずして没し、氏政の直系は途絶えました。しかし氏規の家系が続き、小大名とはいえ、北条家は幕末まで存続しました。氏直病没の直前に督姫と依りを戻していたことや、家康との外交が最後の最後で北条家の命脈を救ったのです。
 くどいですが最後にもう一度論述します。関東、という譲れない一線を背負って、北条氏政は出来る限りの手段を尽くし、その命を懸け、散らしたのです。巷間の話だけで彼を語るのはナンセンスです


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平成二六(2014)年六月七日現在 最終更新