足利義昭(あしかがよしあき)………家名だけは渡さない根性
【天文六(1537)年一一月一三日〜慶長二(1597)年八月二八日】
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末代の将軍となった彼はそれだけでとんでもないマイナスイメージの素養を背負い込んでいる(源実朝然り、徳川慶喜然り)。
しかも流浪と書状と、織田信長の力添えで得た征夷大将軍の(名ばかりの)権威を振り翳すその姿からは、文武ともに才能は欠片も感じられない。その存在も大義名分に利用されたイメージが強く、最後には邪魔者扱いにさえされている。血筋と将軍の名にだけ必死にしがみつくその姿は哀れですらある。
だが、そもそも武家の棟梁たる征夷大将軍は凡人が背負い込むには余りにも重い立場である事を忘れてはならないと薩摩守は思う。
まして彼の将軍就任は周知の通り、すんなりいったものでは決してない(室町末期には、すんなり就任した将軍の方が少ない)。
親兄弟さえ油断のならない戦国時代であり、第一三代将軍足利義輝(あしかがよしてる)の実弟ということで、それだけで命の危険さえあったのである。そして六代・義教以降、足利将軍の地位は決して磐石のものではなかった。そのような時勢で実力者達に翻弄されつつも、少ないなりの力を振り絞って運命と戦った足利義昭のなかなか認知されていない美点を当たってみたい。
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弁護一 命の危機を即座に察知。
室町幕府第一二代将軍足利義晴(あしかがよしはる)の次男に生まれた義昭は、嫡男である兄の義輝が将軍位を継ぐことから、母方の伯父近衛殖家(このえたねいえ)の猶子となって出家し、一乗院の門跡となり、覚慶(かくけい)と名乗っていた。
が、永禄八(1565)年五月一九日に兄の義輝が三好長慶(みよしながよし)・松永久秀(まつながひさひで)の謀反に遭い、鬼神もかくやという剣豪振りを発揮した奮闘の果てに惨殺されたことから彼の運命は激動した。
義輝に限らず、第六代義教(よしのり)以降将軍の地位は決して磐石ではなかった。
義教暗殺後、第七代義勝(よしかつ)は在位一年を経ずして夭折し、第八代義政(よしまさ)は早々に政治への情熱を失って文弱に耽り、第九代義尚(よしひさ)は応仁の乱の果てに就任したものの、近江在陣中に早世し、第一〇代義殖(よしたね)は第一一代義澄(よしずみ)に将軍位を追われ、周防守護大内義興の助力で義殖は再び将軍となり、義澄はその地位を追われる、といった有り様だった。
将軍でさえその有り様だったのだから、管領以下もその政争は熾烈を極めた。
義輝を暗殺した三好・松永は自分たちに都合のいい将軍として義輝・義昭の従弟の義栄(よしひで)を将軍に立てた。言うまでもなく完全な傀儡政権である。
そうなると前将軍の実弟として血統的にも将軍位に相応しい義昭の存在は三好達にとって邪魔な存在だった。
一応、出家しているものの、第六代義教が出家していたのを還俗して将軍となった例や、第八代義政は実子に恵まれなかった為に弟の義視を還俗させて譲位しようとしたところ、実子義尚が生まれて、これが為に応仁の乱が勃発した例からも、「出家している」、という事は三好・松永達にとって、安心材料とはなり得ないのである。
当然の様に三好達は一乗院にも軍勢を差し向けた。だが寺院はある意味治外法権の地にあり、身の危険を察知していた覚慶は院の助力を得て三好勢の侵入を拒んだ。
止む無く三好勢は院を見張ることで覚慶を幽閉状態に置いた。
勿論そのような状態は双方にとって安心できる状態ではなかった。
覚慶は院からの脱出を試みた。その行動において才を余り感じさせない義昭が命の危機を察知して院の協力を取り付け、京からの脱出を逸早く図っていたことに続いて、細川藤孝(ほそかわふじたか)を味方につけていたことが、単なる権威を誇示するだけの男でなかったことを感じさせる。
後々の歴史が証明するように藤孝(後の幽斎)は生き残るということに極めて優れた才を発揮した男で、和歌・政治的駆け引き・人柄・洞察力その全てが生き残りの為に遺憾なく発揮された。
話が後々に飛ぶが「織田信長に逆らうな」という彼の忠告を無視したために藤孝に逃げられた義昭は将軍の地位を終われ、信長が倒れた時に息子・忠興の舅・明智光秀から合力を迫られた際も父子で剃髪して信長への弔意を示して光秀への強力を拒絶した為、秀吉政権下でも厚遇され、関ヶ原の戦いの際には丹波で西軍に百倍の軍勢に攻められるも和歌の際を惜しんだ天皇の仲裁で危機を脱し、戦後は忠興の活躍もあって細川家は躍進し、豊臣恩顧の大名でありながら改易の危機にさらされることもなく、加藤家改易後の肥後を継ぎ、幕末まで存続し、平成の世に総理大臣まで輩出した。
そしてその総理大臣となった細川護熙氏は政争に利あらずと見るとさっさと引退して悪名を背負うことなく悠々自適の生活を送っている(平成二六(2014)年に東京都知事選に出馬して落選していたが)。
全く細川家の人間は生きるのが上手い(笑)、いやこれは本気で褒めているのである。それだけ上手い生き方をしながら殆ど人に迷惑をかけていないのだから…。
いつもながら話がそれまくって申し訳ないが、藤孝の助力を得て院を脱出した覚慶は還俗して義秋と名を改めると越前の朝倉義景を頼った。
結局義景が頼りにならず、藤孝が明智光秀に繋ぎを付け(このときになって義昭と名を改める)、信長を頼って将軍になったのは周知の通りだが、危険を逸早く察知し、寺社や能臣といった自分の力となり得る存在を見極めて行動した義昭は果たして無能と言えるだろうか、否、言えやしない(反語)。
弁護二 プライドよりも将軍家の存続。
足利義昭の人生は逃走に継ぐ逃走であり、また剣豪として昨今注目されている兄義輝に比べるのが可哀想なぐらい自ら刀を振るっていない。そこにカッコ良さを感じる人は皆無だろう。
そして朝倉を頼り、織田を頼り、将軍にしてくれた信長が自分を利用しているに過ぎないと見るや、武田・上杉・石山本願寺・延暦寺・浅井・朝倉と協力を要請し、逆に京都を追われると毛利を頼った。正に他人に頼りっぱなしの人生である。
だが、考えて欲しい。義昭の行為はその緻密さにおいて褒められる点は少ないが根本指針まで間違っていると言えるだろうか?
いっそ彼が一般にイメージされている通りのバカ殿なら信長の傀儡であることにすら気付かず、必要とされなくなったところで足利家諸共始末されていたのではないだろうか?
力も敵意もないと見れば自分が殺した今川義元の息子・氏真さえ殺さなかった=無駄な殺しは行わない信長のことだから、可能性としては小さいが皆無ではないだろう。
義昭の使命は足利幕府の存続であった。
ただ生き残るだけなら国家権力の外にあった一乗院に篭っていた方が安全で敢えて「将軍の器にあらず」と後ろ指刺されることもなかったのではあるまいか?
また将軍に相応しいプライドを選ぶなら天正元(1573)年の填島挙兵失敗=京都追放・室町幕府滅亡の際に息子を信長への人質に差し出してまで生き残りを図らず、自害していた方が格好はついただろう。
結果として彼は最後の将軍となり、その座に返り咲くことなく生涯を終えた。
それゆえに彼を無能呼ばわりする声は現在も多い。だが、彼は最後の最後まで諦めなかった。そして室町幕府存続の為に、「自らが生き残ること」と「将軍に従わざる勢力を滅ぼすこと」の両方を求められた彼に手段を選んではいられなかった。
彼はすっかり力を失った後にも天下人豊臣秀吉を前に敢えて将軍として振る舞った。それは無意味どころか命をも失いかねない危険な行為だった。
義昭は必要とあらばプライドを捨て、必要とあればプライドを前面に出し続けた。能力云々とは別の問題としてこのプライドに関する彼の行為はある種の強さとは言えないだろうか?
弁護三 あの状況で何が出来たと言うのだ。
権力の座とは魅力的なものである。それゆえにそれを狙う者も多く、その座の推移には誰しもが納得の出来る順序付けが肝要になる(そうしないと保てないから)。
時に長子相続を基とする世襲制であり、時に選挙制であり、時に絶対君主による指名であり、時に宗教的権威による承認であったりする訳だが、逆を言えば資格にあらざる者が権力に固執する態度を見せるのはそれだけで暗殺等の危険を孕んだ。
第三代義満(よしみつ)の息子で第4代義持(よしもち)の弟達は四人とも出家していたが、義持の嫡男で第五代将軍だった義量(よしかず)が早世した為、弟達にお鉢が回って来た。
つまり、前もって全員が出家していたのも要らざる権力争いに巻き込まれない為だろう。そしてこの四人の中から籤引きで第六代将軍に選ばれたのが義教である。
足利義昭が覚慶として一乗院にいたのも恐らくは同じ理由で世間に対して世俗を離れている、との意志表示をしていたのだろう。
それゆえに三好達の魔手を逃れて京都を脱出した時の義昭は殆ど身一つだった。
大事を為すには人(家臣・軍勢・領民をひっくるめて)・物(兵糧・金・武器などの軍需物資)・才(それこそありとあらゆる才)が求められるが、当時、義昭が持ち得たのは人は細川藤孝他数名・物は皆無・才は僧侶としての修業しか積んでいなかった為に将軍の弟という立場による大義名分だけだった。
元より兄義輝が不慮の死を遂げなければ、義昭は数奇な運命に翻弄されることもなかったし、その為の才を持つ必要もなく、御仏に仕えて徳を積む事に邁進できたのである。
確かに今川義元や上杉謙信のように還俗を求められ、その重責を立派に果たした例もあるが、義昭ほどに逼迫した状況のものでもなければ、義昭ほどの権威ある立場でもなければ、背後につく家臣や軍も多かった。
織田信長の元に亡命した時の義昭は一〇〇〇貫文の銭・名馬一頭・名刀一振りに涙を流してその謝意を述べた。
また将軍就任後には「自分にはそなたに報いるほどのものを持ち合わせていない。」と言ってせめてもの感謝の意として彼のことを「父」と呼んだ(ちなみに義昭は信長に対して僅か三歳の年少)。
裸一貫で才にも物にも恵まれなかった彼が持てる限りの手を尽くした努力を後世の我々はもう少し買ってやってもいいと薩摩守は思う。
弁護四 最後の最後まで諦めず。
諦めの良さが肝心か、最後まで諦めないことが大事か、一概に断じるのは難しい。
道場主の恋愛経験を見ていても……ぐほっ!!(←道場主からボディーブローを食らったらしい)、ゴホッゴホッ…あ、いやいや。まあ一言で言えばTPOによる訳だが、ここは当コーナーの「名誉挽回」の主旨に従って、足利義昭の諦めない気持ちを尊重した解説を行いたい。
江戸幕府最後の将軍徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いを放棄し、江戸城無血開城後に上野・寛永寺に謹慎し、明治新政府に逆らわなかったのに比して、逃走に次ぐ逃走を繰り返し、朝倉→織田→朝倉→武田・浅井・朝倉・延暦寺・石山本願寺→毛利と諸大名を頼りに頼った義昭の辞書には「諦める」という言葉はないらしい。
彼の行動を「往生際が悪い」と言って嘲笑する人も多いと思うが、それでも彼は諦めないだろう。逆に恥も外聞も捨てて流浪を繰り返す姿は逞しくすらある。
晋の重耳や蜀の劉備の様に流浪の果てに君主の地位をつかんだ人物も存在する。彼らも亡命生活の最中に生涯を終えていれば嘲笑され、義昭も将軍の地位に返り咲いていれば尊敬する声も多かっただろう。
単純に「諦めが悪い」と揶揄するのは既に結果を知っている後世の無責任な発言である。義昭は文字通り死ぬまで頑張ったのである。
薩摩守が言いたいのは恥や外聞に囚われた時にどれだけの人間が義昭程に諦めずに頑張り続ける事が出来ただろうか?ということである。
結果として彼は信長に追放され、それによって室町幕府の歴史に終止符を打たされたが、実は彼が信長に逆らったのは一度ではない。
二度目に細川藤孝の助言に従わず、信長に対して挙兵したものの、戦らしい戦にすらならず、京都を追われた訳だが、信長の性格を考えればよくこれで殺されなかったのものである。
そしてその後毛利輝元を頼って中国地方に逃れている。ここまで来ると「諦めが悪い。」と見るか、「根性が有る。」と見るかは個々人の観点の違いになるが、生半可な想いで続行出来ることではないのは間違いない。
勿論、薩摩守は足利義昭の最後まで諦めなかった心根を買っているが、かと言って将軍の座をあっさり放棄して無用の犠牲を避けて日本の近代化を促した徳川慶喜の英断を褒めこそすれ馬鹿にするつもりは毛頭ない。
最後まで諦めない根性にしろ、潔い決断にしろ、その心根にある真剣な想いを尊重したいのである。
弁護五 家名は決して譲らない。
室町幕府を滅ぼした織田信長が本能寺に倒れ、足利義昭が頼りとした上杉・毛利も上洛して彼を将軍に就任させるほどの成果は為し得ず、天下は羽柴秀吉の手に帰した。
そして義昭は秀吉の招きで帰京し、信長打倒の挙兵を行った填島(まきしま)に一万石が与えられた。
元征夷大将軍の立場を考えればはっきり意って捨扶持である。生き残る為とはいえ、義昭のプライドはズタズタだっただろう。
何故義昭は卑しい身分の出として蔑んでいた秀吉の保護を受けたのか?成り上がり政権が早期に瓦解することが多いことに期待していたのだろうか(実際豊臣政権は二代もたなかった)?
真相は不明だが、秀吉が義昭を招いた理由ははっきりしている。征夷大将軍となるためである。
征夷大将軍は源氏の出でないとなることが出来ない。その為徳川家康は系図をでっち上げて、征夷大将軍就任の際に朝廷より「源氏の長者」にも任命させてその権威付けに躍起になった事実がある(家康に限らず、戦国大名の大半が源平藤橘の末裔を自称していた)。
だが代々農民だった木下家の出だった秀吉に源氏の血筋などデッチ上げようもなかった。そこで秀吉が考えたのが前将軍である足利義昭の養子となることだった。
少し話が飛ぶが、将軍になることを諦めた秀吉は関白になるためにやはり五摂家の一つである近衛家の近衛前久(このえさきひさ)の養子となり、藤原朝臣秀吉と名乗ってから関白の位と供に朝廷より「豊臣」の姓を与えられた。
話を戻すと、秀吉が将軍位を諦めたのは義昭が断固として養子縁組を拒否した為である。その際、秀吉が如何なる手段を取ったかは薩摩守の研究不足で不明だが、天下人・秀吉は武力で脅すことも、財力で魅せることも、貴族との付き合いから義昭を懐柔することも行い得たのである。
だが、結局義昭は断固として足利の家名を秀吉に譲らなかった。流浪の果てに秀吉のもとに落ち着いた彼の経歴を見れば当然の意地とも、最後の意地とも取れる。
秀吉が世を去る一年前の八月、最後の室町将軍足利義昭はその波瀾に富んだ生涯を享年六一才で終えた。
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結論 結局の所、足利義昭が歴史に果たした役割とは何だったのでしょうか?
彼の意に反し、彼は最後の足利将軍となってしまいましたが、勿論その責任は彼だけに求められるべきではありません。室町幕府の崩壊は彼の生まれる半世紀以上も前から始まっていたのです。
「室町幕府再興の為に」と口先では言っても心からそう思って義昭に協力を誓ったものが何人いたか極めて疑わしいです。
義昭は生まれながらの将軍ではありません。 義持の三人の弟の様に、僧としての生涯が本道でした。
突然の運命の変転、裸一貫の境遇、流浪に次ぐ流浪と彼を取り巻く野心の数々…。そんな中で最後まで将軍家の再興のために恥も外聞も無視して流浪し続けた義昭の根性はもっと温かい目が注がれて然るべきだと思います。
少なくとも私達は戦乱の世に生きていた人々の様な、自分のことしか省みれない余裕のない存在ではないのですから。
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