これは光栄の「爆笑三国志」のパクリです。

菜根版名誉挽回してみませんか


第五頁 天下分目偏
石田三成………好かれるも嫌われるも極端につき

【永禄三(1560)年〜慶長五(1600)一〇月一日】
 徳川家康に牙を剥いた彼は江戸時代を通じて完全な悪者にされた。豊臣秀吉に仕えるようになったきっかけは有名だが、それがために茶の汲み方を始めとするお追従で出世したかのようなイメージが強い。
 武断派と言われた加藤清正・福島正則等を敵に回したことからも戦場働きもないのに秀吉の寵愛を傘に着て踏ん反り返っていたイメージは更にクローズアップされている。歴史漫画では痩せぎすのクソ生意気を絵に書いた石田三成像が何度書かれたか数え切れない。
 何せ秀吉の側で彼の命を伝えるとして大名達に無理難題を吹っかける役は大抵三成なのだ(事実はどうあれ)。そして関ヶ原の戦いで小早川秀秋を始め、多くの大名にそっぽ向かれて敗北したことからその人望の無さは強烈なイメージを持ち、彼のイメージは長年に渡ってひどいものがあった。

弁護一 豊臣家に対する絶対の忠誠。
 先に「明智光秀」の項で、一般に現代の我々が抱く「忠義」のイメージは江戸時代に確立された物である事を触れた。それゆえに「裏切者」のレッテルを貼られている多くの戦国武将に対して、とんでもない悪人的に見るのは慎まなければならないが、石田三成の豊臣秀吉・秀頼に対する忠誠心はいつの時代の忠義観に照らし合わせて見ても微塵も恥じるところはないだろう

 関ヶ原の戦いの直後に敗残の身を大津城城門前に晒された彼は、福島正則・加藤嘉明等の東軍諸将の嘲笑に対しても一歩も怯むことなく、「亡き太閤殿下におぬし等の事を話すのが楽しみじゃ。」という一言の前には誰もぐうの音が出ず、小早川秀秋はまともに顔を合わせることもできず、逆に黒田長政は忠義の為に戦いつつも時代の前に敗北した彼を憐れみ、陣羽織を懸けてその身を慰めるほどであった
 まあ、この房を訪れる程歴史が好きな方々にくどくどした説明も不要だろうから、一つ彼の主家に対する忠誠心を経済的観点から見てみたい。

 戦国時代ならずとも大名・領主の多くは自国領から生産される産物から富を成さんと励んだ。
 「税収−国家運営費>0」ならばそのプラス分は正当な報酬である。つまり財を成さんとすれば増税・搾取で税収を多めに取るか、国家運営の為の必要経費を節約することで収支をプラスにすることが必要になる。
 勿論税収を増やそうとするものは領民に嫌われ、経費節約に努める者は名君とされる訳だが、三成はその収支バランスを「プラス」ではなく、「0」にしようと努めたのだった
 彼の信念によると、
 「主君から頂いた経費はこれすべて主君の為に使うべきであって、自らの懐に入れるのは不忠の極みである。かといって、頂戴した経費で間に合わすことができず、他から借金をするのは馬鹿である。」
 となる。
 彼のこの信念を無欲と受け取るか、馬鹿と受け取るか、堅物と受け取るかは個々人の考え次第だが、豊臣家に対して三成が半端じゃなく真剣に忠誠を尽くして万事に取り組んでいたことに疑いの余地はないだろう。


弁護二 家臣・領民には慕われた。
 近年、故隆慶一郎氏の小説を漫画化した数々の作品の為、島左近勝猛(しまさこんかつたけ)の存在は有名である。関ヶ原の戦いにおいて壮絶な討死を遂げた訳だが、石田三成を守って壮絶な討死を遂げた者として蒲生郷舎(がもうさといえ)の名も忘れてはならない。
 そして三成を守って最期まで奮戦したこの両名だけでなく、次々と裏切りの起こる信じられない戦況悪化の中で彼を落ち延びさせる為に多くの将兵がその身を賭して奮戦したのである。

 勿論そこまで慕われるからには家臣達にそこまで奮戦させるものが三成にはあった。
 全部を書くには長くなるし、薩摩守の研究不足もあるので一例だけを挙げると、三成は島左近を近江水口四万石の領主時代に召抱えているのだが、自分にない「武」を託す為に三成は全幅の信頼の証として左近に二万石を与えたのである。
 知行地の半分という誠意に左近は命懸けの奮闘で答えた

 家臣の次に領民に目を転じたい。
 「三成は領民に慕われた。」−こう書くと現代の感覚で見れば別段不思議ではない気がする。だが、現代の政治家は国政の上でいくら悪政を布いても地元で選挙に当選すれば国会議員になれるのから地元を大切にするが、秀吉政権以降の大名は関白や将軍の顔色を窺う事の方が大切だった。つまりはいつの世の政治家も権力の素を与えてくれる人間に尽くす訳だが、それを考えれば豊臣時代の大名が領民に慕われるのは現代以上に立派なことであることを失念してはならない。
 その証拠が関ヶ原の戦い直後に三成の逃走経路上にあった村々の人々が何人も彼を匿おうとしたところに見られる(勿論匿ったことがばれれば極刑であったのにである)。小西行長や安国寺恵瓊が匿われたなんて話は聞いた事がない(笑)。


弁護三 大谷義継との友情。
 豊臣秀吉をして「百万の軍隊を指揮させてみたい。」と言わしめた男・大谷刑部少輔吉継(おおたにぎょうぶしょうゆうよしつぐ)。
 文武両道に優れ、兵站補給という地味ながらも重要な役割にも長け、ハンセン病に犯されて輿に乗るのがやっとの体になっても衆人が抱いたその頼もしさは些かも揺らがなかった。また誰からも好かれる男だった。唯一嫌われたのがハンセン病発病後に幼い秀頼に感染することを恐れた秀吉ぐらいだった(苦笑)。
 そんな吉継がもっとも友諠を尊んだのが石田三成だった。

 勿論馴れ合いの友情ではない。
 吉継は三成のことを真に想えばこそ苦言も忌憚なく呈した。
 徳川家康が会津の上杉景勝征伐に出征した隙を突いて挙兵しようと相談を持ちかけたとき、吉継は三成を止めた。
 しかし三成の決心が翻らないと悟ると三成の人望の無さを挙げて、家康と同じ五大老の毛利輝元か宇喜多秀家を総大将に立てることを勧め、一度は佐和山城を出るも、結局は三成と供に西軍として関ヶ原に布陣した。

 その後関ヶ原の戦いが開始され、島津、小西、小早川、毛利、吉川などの諸将が日和見を決めこんだり、裏切ったりする中、石田・宇喜多・大谷隊のみが獅子奮迅の働きで倍近い東軍と堂々と渡り合い、吉継は戦場の露と消えた。
 こんな男気溢れる吉継に三成も苦言に臍を曲げることなく良く耳を傾け、その友諠に応えた。

 こんなエピソードがある。
 ある茶会に参加した吉継が碗を取ったところ不覚にもハンセン病特有の吹き出物から膿が滴り茶碗の中に落ちてしまった。うろたえる吉継、しかし三成はその碗を取ると何事もなかった様に茶を飲み干した。勿論中には吉継の体から出た膿が入っているのである。
 どんなに悪気が無くても膿の入った茶なんて普通に考えれば身内の者でも、無毒であることが科学的に証明されたものだったとしても口をつけ辛い、というか考えられもしないことである。
 だが、三成は口を付けただけではなく、全部飲み干し、更に三成「余りにも美味いので、皆飲んでしまい申した。」と言って、茶碗を取り返させ、吉継だけではなく、出席者全員の面子が立つようにしたのである。
 これ程の気遣いが百分の一でも他の諸将に対して生きれば豊臣家は盤石だっただろうに………。

 平成の世になってさえ馬鹿なホテルが患者の宿泊を断って問題になるぐらい「感染する」と偏見の目で見られた病である。それも今から四〇〇年以上も前の迷信深かった世でのことである。  この友情は三成も見事なら、吉継も見事である。メロスとセリヌンティウスにも劣ることのない友情に異議を挟む者はいないだろう。三成がそれほどの友情を築き得た男であったという事実と供に。


弁護四 文弱の徒にあらざる大奮戦。
 確かに石田三成自身は豪傑・猛将とは程遠い「文弱の徒」であった。北条征伐では戦の上での失敗もある。
 だが猛将・島左近を配下に持ち、彼の為に捨命必勝せんと戦働きをした将兵の奮戦は石田勢と戦った黒田長政・加藤嘉明・田中吉政隊に凄まじいまでの大抵抗を見せた
 黒田・加藤勢は豪傑肌の大将に率いられ、天王山・賤ヶ岳・朝鮮半島で数々の修羅場を潜り抜けた屈強の軍勢であった。その強兵を前に殆ど初陣にありながら一歩も退くことなく戦い続けた石田勢を誰が弱いと言えるだろうか?
 田中隊は三〇〇メートルも押し捲られたと伝えられている。そしてその猛攻は側面銃撃を行った黒田隊の前に島左近が戦死しても尚続いた。
 宇喜多・島津・大谷隊の奮戦を予想した者でも石田隊がここまで戦うことを予想した者がいただろうか?くどいが黒田・田中・加藤勢が弱かったのでも戦意がなかったのでもない。歴戦の猛者にして「三成憎し」の意に凝り固まっていた彼等は普段以上に高い戦意を保持していた筈で、それでも石田隊は小早川の裏切りまで優勢に戦い続けたのである。
 もはや誰も石田勢が弱いとは言うまい


弁護五 大志のため最後まで命を惜しむ。
 石田三成は関ヶ原からの敗走後、伊吹山中にて捕らえられ、最終的に六条河原にて刑場の露と消えたわけだが、その護送中に一つの有名なエピソードを持っている。

 知る人も多い有名な話だが一応紹介しておくと、護送中に咽喉の渇きを覚えた三成は警護兵に白湯を求めたが、あいにく用意出来なかった為に、警護兵の一人が白湯代わりとして干し柿を差し出した。
 が、三成はそれを「胆の毒」と言って断った。
 数時間後には刑死する身であるのに健康を気遣う有り様を警護兵達は嘲笑った。それに対して三成「大事を思う者はその最期の時まで身を大切にするものだ。」と言ってその信念を少しだけ語ったのだった。

 その身は戒められていても、世の中次の瞬間には何が起こるか分らない、最後の最後まで死なない限り再起の可能性は全くのゼロではない。大志の為に、いざという時の為に五体満足な体を保つ為細心の注意を払うのは彼なりの欠かすべからざる信念だったのだ。
 だが、彼は自らの行動には極力「生」を保つべく動きつつも、敵に対しては「生」を求めなかった。
 慶長五(1600)年一〇月一日、京都六条河原にて小西行長・安国寺恵瓊と供に斬罪に処された彼は辞世の句も残さず、十念(死刑を前に僧侶が授ける念仏)も断って、従容として死の旅についた。その首は小西・安国寺、既に自害していた長束正家の首と供に晒された。


弁護六 江戸時代に歪曲された人物像。
 戦国時代の次に到来した江戸時代は言うまでもなく徳川の世で、徳川幕府成立を前にその障害となった存在は「悪玉」とされた。
 そして豊臣方を悪玉とする世は二六〇年の長きに渡った。そして戦略上、家康は豊臣恩顧の大名(加藤・福島・黒田・細川・池田・浅野等)を味方につける為に石田三成「君側の奸」として位置付けたのである。
 勝者が編纂する歴史の中でそれに敗れた者がどの様に書かれるかはここまでこのサイトにお付き合い下さった方々には余計な説明は野暮と言うものだろう。
結論 一言で言って石田三成は生真面目過ぎました。
 彼が加藤清正や福島正則といった秀吉子飼いの武断派に嫌われたのも元々が無謀な朝鮮出兵の際にも生真面目に通常通りの軍監に務めたためでもありました。
 それゆえに出世を競ったり、また個人だけではなく家中のことを考える立場から長い物に巻かれることも考えなければならなかった大名達は三成との間に溝を生じてしまいました。
 逆に職務上三成の力を必要とした者達−上司(秀吉)・同僚(小西行長)・部下(島左近・蒲生郷舎・領民)は彼の生真面目に魅せられました
 そう考えると彼は戦国の名残を残す大義とそれ以上に利を考えて動かなければならなかった時代の犠牲者だったのかもしれません。



小早川秀秋………若造には重過ぎた荷

【天正一〇(1582)〜慶長七(1602)一〇月一八日】
 関ヶ原の戦いで決定的な裏切りを為し、それが人生最大のイメージとなっている彼の生涯はその二年後に彼の頓死により、御家も嗣子なきがゆえに改易となったために御家を潰した益体なしでもある。
 戦場にて最後まで裏切りを躊躇った優柔不断振りも武将として誉められたものではなく、その姿は多くの歴史漫画でも必要以上にカッコ悪く描かれ、およそ彼をカッコよく描く漫画は皆無である(肖像画からしてたれ目の変な顔である)。秀吉の養子となり、行動如何では関白も夢ではなかっただけにギャップの激しさは悲劇ですらある。
弁護一 少年を翻弄した二人の天下人。
 豊臣秀吉と徳川家康の間に立たされた、と聞けば大半の人間が物凄い重圧の場に居ると同情するのではないだろうか?小早川秀秋とはその双方から異なる恩を受けた男なのだ。

 まず秀吉の養子となった者達の運命を見ればその重圧が窺い知れる。長く実子に恵まれなかった秀吉は養子達を殊の外溺愛した。
 甥(姉の子)秀次は関白になった(実子の死後だが)。
 結城秀康は彼を疎んじた実父の家康より秀吉に懐き、一説には秀頼も義兄として勇猛な彼を頼った。
 宇喜多秀家は同じく秀吉を養父とする豪姫(前田利家四女)と娶わせられ、一〇代にして五大老に序せられた。

 当の秀秋は秀吉が天下を統一した翌年に僅か一〇歳にして参議に任官、右衛門督を兼ね、丹波亀山一〇万石の領主に、翌1592年には従三位権中納言に進み、以後秀秋金吾中納言と呼ばれるようになった。更に朝鮮出兵では名目上とはいえ遠征軍の総大将に任じられる(詳細後述)。
 勿論、才能とは何の関係もない、「秀吉の(養)子」であることだけでの任官だが、普通に考えるなら物凄い重責である。

 だが翌文禄二(1593)年に秀吉に次男秀頼が生まれると養子達の待遇も激変した。
 関白秀次は自暴自棄から奇行愚行が目立ち、後に関白職を剥奪され、高野山に追放され、切腹、一族も皆殺しとなった。
 実家の宇喜多家に戻った秀家はいい方で、秀康は結城晴朝の養子とされ、「豊臣」にも「徳川」にもなれない立場に立たされる羽目にあった(彼の最後の姓は「松平」である)。
 そして秀秋には西国の雄・毛利輝元の養子としての縁組が浮上した。

 だが実際に秀秋が養子に行ったのは周知の通り小早川家である。「好色で暗愚なお坊ちゃんに大国毛利の命運を委ねる訳にはいかない。」とした故に小早川隆景が小早川家の養子に、と秀吉に直訴した、と言われている。
 勿論それはそれで真実なのだが、もう一つの説、秀吉による毛利家乗っ取りを警戒した、という方が比重として大きいと薩摩守は見ている。かつて毛利元就が同様にして吉川家・小早川家をそうした様に…。秀秋が輝元の跡取りとなれば五大老の内二人までを元養子で占める事になり得たわけでもあるから。

 そしてこの養子行き・隆景の逝去・小早川家相続をきっかけに秀秋への時代の翻弄が始まった。
 筑前名島(なじま。福岡県福岡市)城主となり、筑前及び筑後の一部三五万石(五〇万石とも)を治める太守となった秀秋は蔚山(ウルサン)の戦いで自ら抜刀して十数名の首を挙げたが、石田三成を通じて「総大将らしからぬ振る舞い。」とされ、秀吉の不興を買い、筑前名島三五万石から越前北庄(きたのしょう。福井県福井市)一五万石への左遷が命ぜられた。
 これには秀秋を可愛がっていた秀吉によって褒められる筈が、秀頼への対抗勢力になることを恐れた三成がその旨を告げ、敢えて彼の行いを「非」としたとの見解がある。それゆえ秀吉も彼を疎んじたと。

 だが、意外な所から救いの手が差し伸べられた。徳川家康であった。
 三成の讒言、と思い怒る秀秋を宥め、元の地位の復帰を約束した家康は程なく秀吉が薨去すると五大老会議で秀秋の罪を不問と決議した。秀秋が恩を感じたのは言うまでもない。
 そしてこの家康の厚意が秀吉亡き後の台頭を狙う狸親父の一人でも味方を増やす為の深慮遠謀であると考えるのは決して無理な考えではない、と薩摩守は考える。
 この大き過ぎる境遇の変化に、秀秋は一一歳から一七歳に掛けての多感な少年期に襲われたのである。腹心らしい腹心が稲葉正成一人(勿論秀吉から監視の任も帯びている)しかつけられなかった彼に…。


弁護二 荷の重過ぎる初陣。
 前項で触れた様に朝鮮出兵の後半慶長の役において小早川秀秋は名目上の総大将とされた。そして自ら抜刀して戦ったことを咎められた。
 だがここで視点を変えて欲しい。総大将として渡海した当時、秀秋は弱冠十五歳に過ぎなかった。初陣として珍しい年齢ではない。しかしたいていの初陣には父なり、教育係なりが背後か側につく。既に養父小早川隆景はなく、元養父秀吉は肥前名護屋にあり、彼の側にはいなかった(結城秀康、宇喜多秀家達は秀吉と一緒の初陣だった)。
 確かに参謀として同行した黒田如水の存在は心強かっただろうが、それでもかつてない大軍、かつてない異国の兵が対戦相手であることに相当な重圧があったことは想像に難くない。
 叶わぬ相談とはいえ、真の総大将にして養父の秀吉が側にいれば、最後の養父にして碧蹄館の戦いで劣勢の中の奮闘で朝鮮だけではなく明軍をも恐れさせた名将・小早川隆景がいれば随分勝手は違っただろう。
 歴史の結果として名将と称えられた偉人達もこの時の秀秋と同じ立場に立たされたていたとして、果たして何人が立派な総大将として振る舞えただろうか?


弁護三 若造のせいにするなよ。
 道場主が新卒新入社員としてある企業に入社した時のことである。研修期間を経て道場主が配属された課の課長は道場主と同じ日に入社した人物で社長の甥だった。道場主はこの上司の長所も短所も見て概ね立派にその任に当たっていたと見ている。
 さすがに当時は同じ新卒採用の同僚達と供に「いい身分じゃねぇか。」、「親の七光りだな。」などと陰口を叩いたこともある。だがその後職務上、多くの二代目社長を見てきた道場主は親の七光りによる重職からのスタートも良し悪しと考えるようになった。
 先の課長は他社で約三年の経験を経て道場主の勤めた会社に入社したから一応の社会人経験を経て課長職についたが、当時の道場主がいきなり役職を与えられたら係長はおろか主任さえ務まらなかっただろう。そう重職には重責が伴うのである。七光で重職についた者は必然的に失敗すれば「それ見たことか。」との嘲笑にさらされる。そして仮に彼等は功績を挙げたところで「元々その役職に就く予定だったのだから出来て当たり前。」と見られ,その能力が絶賛されることは稀である。
 同じことが小早川秀秋を始めとする偉大過ぎる人物によって若くして重責を負わされた人間全般に言えはしないだろうか?繰り返すが小早川家に行った秀秋には事実上心許せる腹心は皆無だったのである。
 本来恩人である家康につこうとしていたのが成り行き上、西軍に属さざるを得なかった(島津義弘も同様だったという説がある)こと、関白職をちらつかされて東西の狭間で迷ったこと、西軍を裏切って西軍大敗の直接原因となったこと全てを秀秋のせいにしていいのだろうか?
 やり手・徳川家康・石田三成・黒田長政というとんでもない人物に糸引かれた事、稲葉正成・平岡頼勝といった重臣が散々諫言した挙句に最後の決断は秀秋に課したやり方、秀秋の裏切りに便乗して大谷隊に襲いかかった小川祐忠・赤座直保・朽木元綱・脇坂安治のせこさ……秀秋への情状酌量の余地及び秀秋同様に断罪されるべき者達がいることを薩摩守は提言したい。
 「総大将」は最終的な責任を負わされるのは世の必然である。しかし総大将だけが責任を負わされるべきでないのもまた世の必然なのである。


弁護四 謎の多い死が生む邪推。
   関ヶ原の戦いで西軍を裏切り東軍大勝に貢献した小早川秀秋は戦後その功により備前・美作に五十万石という破格の恩賞を得たものの、大谷吉継の「小早川金吾人面獣心なり、必ずや三年の内に祟りを為さん!」の呪詛を始めとする「裏切者」の罵声を浴び続ける余生の果て、僅かニ年で秀秋は夭折する。
 一般に裏切者の汚名と大谷吉継の祟りへの脅えから酒色に耽って体を壊し、疱瘡(天然痘)を患って病死したとされている。が、秀秋への注目度が様々な邪推を生んだ。
 よく挙げられる秀秋の死因には以下のものがある。@無礼討ちにしようとした農民の逆襲で股間を蹴られ即死。A以前に備前を領有していた宇喜多家残党による暗殺。B毛利家からの刺客(小早川家が改易された結果を考えると信憑性は薄い)。C大谷吉継の怨霊に脅えた狂死。D同じく亡霊に脅えた自害。E同じく亡霊に脅えた酒毒による病死。等々がある。
 確かな事実として秀秋は杉原紀伊守を斬殺し、その為に稲葉正成は逐電した(後に彼の妻が春日局となる)。勿論これにも謎が多く、両名が関ヶ原の裏切りでの責任者とされた為とも、狂った秀秋の酒乱に巻き込まれた為とも言われている。
 重圧の下に生きた人生が二年でしかなかったことが彼の不幸の一因であることに間違いはない。長生きすればいい所にも少しは目を向けてもらえるものなのだから。
結論 天下人豊臣秀吉の養子になった小早川秀秋にはそれ以外の拠り所が余りにもなさ過ぎました。秀吉の養子とは能力の如何に関わらず大変な注目度がありました。まして齢ニ十一にして重大事件(関ヶ原の戦い)から程なく没した彼には見るべきものも殆ど残されていません。
 さすがに彼に関しては「名誉挽回」の主旨に反して同情すべき点を上げる程度に留まってしまいました。ただわかって欲しいのは後から歴史を見て結果を知る我々は好き勝手が言えて、そこに何の重圧もない事の方が大半だということです。いつの時代にも夭折した人物の存在は枚挙に暇がありませんが、自らを遥かに超える偉人達にただただ翻弄されただけの人生に少しは同情することも人間として大切ではないでしょうか?


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平成二六(2014)年六月七日現在 最終更新