第壱頁 斎藤道三………似た者同士の舅と婿?
同盟者file壱
名前 斎藤道三(さいとうどうさん) 支配地 美濃 同盟締結期 天文一七(1548)年 同盟終焉期 弘治二(1556)年四月二〇日 同盟目的 和睦、北方の不安除去 人的条件 道三の娘(濃姫)との婚姻 同盟瓦解理由 斎藤義龍による道三殺害 対信長友好度 七
同盟背景 織田信長、というか、織田家にとって美濃は北に構える強国で、しかもその地を統べるの斎藤道三は「蝮」と渾名された稀代の曲者だった。油断のならない相手であると共に、味方にすれば頼もしい相手で、幾度となく干戈を交えた信長の父・信秀は争うよりも、和を請うことを考えた。
というのも、この時の信秀・信長父子は国外のみならず、国内にも敵を抱えていた。
割と有名な話だが、信長と道三が同盟締結に至った状況を考察するのに、当時織田家が置かれた状況を今一度把握する必要があるので述べたいが、そもそも尾張守護は斯波氏である。斯波氏は室町幕府三管領家の一つで、尾張以外にも越前などにも領国を持っていたが、基本は京にて室町将軍を補佐するのが主任務である。
それ故、尾張には守護代が置かれ、それを担ったのが織田氏である。それも織田伊勢守家と織田大和守家が半国ずつ統治していて、信秀は大和守家の三奉行の一人に過ぎなかった。
それが下剋上で大和守家に取って代わり、信長の代でようやく尾張統一を果たした。信秀はそんな状態で駿河の今川氏、東三河の松平氏、西三河の水野氏、伊勢の北畠氏、美濃の斎藤氏と争っていた。
実際、信秀は当初、美濃を追放された土岐頼芸を支援することを大義名分に道三と対立し、同じく土岐一族の一人を保護していた越前の朝倉孝景と連携して美濃を攻め、一時は大垣城を奪った。
しかし天文一三(1544)年、信秀は道三の居城・稲葉山城の城下まで攻め込んだが、反撃を受けて大敗(加納口の戦い)。四年後の天文一七(1548)年に道三は三河岡崎の松平広忠、犬山城の織田信清、楽田城主・織田寛貞等が信秀に反旗を翻したが、これは道三の働き掛けによるものだった。信秀はこれらを破ったが、道三はこの間隙を縫って、大垣城を奪還した。
信秀は大垣城を救援せんとしたが、大和守家の織田信友も古渡城に攻め寄せたために敵わなかった。さしもの信秀も四面楚歌、内憂外患は対応しきれないと見て、同年道三と和睦し、その条件として信長と、道三の娘・濃姫との婚姻が決まった。
翌天文一八(1549)年二月二四日、濃姫が織田家に輿入れ。大垣城は正式に道三の支配下に戻った。
対人関係 織田信長と斎藤道三に「似た者同士」の匂いを感じる人は多いのではあるまいか?
実力主義で、権威を恐れず、時には非情な手段を辞さないところが両者に共通しているが、同じような性格の人物は世にごまんと存在する。そのことを踏まえた上で両者は「馬が合った」とも感じられる(関係ないが、信長は午年生まれ(笑))。
まず、信長と濃姫の婚姻には斎藤家中に反対する者も少なくなかったことを抑えておきたい。信秀後継者と定められていた信長と道三の愛娘である婚姻は、織田・斎藤両家の姻戚を結ぶに当って極めて妥当な人選である。通常、二つの家が婚姻を通じて結びつくのであれば、それが政略結婚的なものであればある程、各々の家にて時代の筆頭となる者同士となるのが双方の栄誉となる。
ただ、信長の場合、早くから信秀による鶴の一声で後継者の地位が確定していたとはいえ、当時は音に聞こえた「うつけ者」だった。織田家中にも信長が織田家を継ぐのを不安視し、弟の信行が継ぐべきと考える者が決して少なくなかったのだから、斎藤家の面々にしてみれば、「いくら後継者とはいえ、何であんなうつけ者に殿の愛娘を嫁がせねばならんのだ?」と不満を抱く者がいても全くおかしな話では無かった。
道三にも一抹の不安はあったのだろう。
嫁ぐ前夜濃姫に懐剣を渡し、「いざという時はこれで信長を刺せ。」と云ったところ、濃姫が「この懐剣は父上に使うことになるかも知れません。」と返したのは有名である。一介の油商人から美濃国種の座を奪った戦国下剋上の代表選手(?)だった道三のこと、濃姫に信長の寝首を掻かせることを含め、腹に二物も三物もあった上での娘を嫁がせたであろうことは想像に難くない。
そして道三は家臣の声に応えるように信長の賢愚を鑑定すべく、天文二二(1553)年、正徳寺(聖徳寺とも云う。現・愛知県一宮市)にて舅と婿は会見した。
事前に道三は正徳寺に向かう信長をとある家屋の中から観察し、武装の異様(長槍と鉄砲の多さ)に驚きつつも、噂通りの異装でいる信長に対し、「あんな男に会うなら略服で良かろう。」と考えた。だが、いざ会見に臨んだところ、信長は正装で道三を待っていた。
現代風に云えば、チャラい格好をした相手を見て、ブレザー・ノーネクタイであったら、相手はスーツを着ていたようなものと云えようか?
会見後、尚も信長を「噂通りのうつけ」と云う家臣に、道三が「儂の子はあのうつけの門に馬を繋ぐことになるだろう。」と云って嘆息した話は有名である。このとき、信長に度肝を抜かれた道三が信長の能力を恐れてそう云ったのか?それとも、信長になら我が子が仕えるようになっても良いと信長を気に入ってそう云ったのか?その真意は微妙だが、道三が信長を認め、その後両者が良好な関係を続けたのは周知の通りである。
ちなみに薩摩守個人的にはやはり道三が信長を気に入ったと見ている。如何に優れた人物と云えども、我が子を傘下に収めかねない相手が気に入らない人物なら、道三なら早々に濃姫に信長の寝首を掻くよう密使を送るか、過去にそうした様に今川・松平・水野・弾正忠家以外の織田諸氏を結んで信長を討つ様に動いた筈である。
同盟の終わり 早い話、斎藤道三の死と共に織田・斎藤の同盟は自然消滅した。
天文二三(1554)年頃、道三は嫡男である義龍に家督を譲り、隠居したが、父子の仲は良くなかった。義龍には道三が追放した土岐頼芸の愛妾が、頼芸の胤を宿したまま道三に嫁いだとの説があり、道三の子でもあり得、頼芸の子でもあり得るとされていた。
真偽はともかく、道三は義龍よりも、間違いなく彼の子と断言出来る次男・孫四郎龍重、三男・喜平次龍定の方を可愛がり、義龍廃嫡を考えるようになったと云われている。
一方の義龍も道三を実の父でない(故に冷遇されている)と考えるようになり、弘治元(1555)年一一月二二日、仮病でもって二人の弟を呼び寄せると見舞いに来た二人を謀殺し、公然と道三に反旗を翻した。
仰天した道三は兵を集めて敢然と義龍と対峙。しかし多勢に無勢で弘治二(1556)年四月二〇日に道三は敗死した(長良川の戦い)。道三の危機を聞いた織田信長は援軍に駆け付けたが、間に合わなかった。
最期を悟った道三は側近に信長に美濃を譲る遺言を託したと云われているが、これは少し出来過ぎを感じる。もっとも、愛息を皆殺しにされ、義龍憎しの情が度を過ぎれば、娘婿の方に感情移入したとしても完全否定は出来ないとも思うが。
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令和六(2024)年一〇月三〇日 最終更新