第弐頁 徳川家康………最も長く、重要な相互同盟

同盟者file弐
名前徳川家康(とくがわいえやす)
支配地三河
同盟締結期永禄五(1562)年
同盟終焉期天正一二(1584)年一一月一二日
同盟目的東方の不安除去
人的条件信長娘(徳姫)と家康嫡男(信康)との婚姻
同盟瓦解理由織田信雄と羽柴秀吉との無断和睦
対信長友好度


同盟の背景 永禄三(1560)年、織田信長松平元康(徳川家康)はともに孤立無援状態にあった。信長信長で東方の脅威であった今川義元の侵攻軍を桶狭間の戦いで撃ち破り、敵将・義元の首を取ることで大勝したとはいえ、駿河・遠江・三河の三州を統べる今川家の強大さはまだまだ健在だった。
 しかも西方では伊勢の北畠具教と対立し、北方を見れば、岳父・斎藤道三を弑逆した美濃の斎藤義龍とも対立関係にあった。

 一方の元康は、表向きの立場では今川方に属する部将として岡崎に籠り、信長の侵攻に備えていたが、これは元康の建前で、元康自身は義元の討ち死にを好機として古巣である岡崎城に戻り、「最前線での防衛」を理由として今川氏真からの駿府に戻れとの命令にも応じずにいた。
 勿論、氏真にとって面白い筈がない。父・義元を失った混乱が収まらない状況下で命令不服従をたてに元康を攻めるのも俄かには難しい。とはいえ、駿府には元康の正室・瀬名(築山殿)と嫡男・竹千代(信康)、長女・亀姫(後の加納殿)が事実上の人質として軟禁状態にあった。元康とていついつまでも氏真に対して強硬姿勢や曖昧な態度が許される状態には無かった。
 かくして、互いの利害が自然と一致し、両者は信長の居城・清洲城にて攻守同盟を結ぶに至った。所謂、清洲同盟であった。
 同盟締結と同時に、家康嫡男の信康と、信長の娘・徳姫との婚姻も成約された。


対人関係 「織田信長と同盟を結んだ者は?」と問われれば、大半の人はいの一番に「徳川家康」の名を思い浮かべるだろう。それ程、信長家康の同盟関係は両者の人生においても長く、重要なものだった。だが、双方にとって幸福なものだったか?と問われると微妙である。

というのも、同盟とは、決して対等な関係で結ばれるとは限らないからである。
締結時には対等でも、片方が大きく力を突けるか、元々力関係に大きな差があれば、力の強い方が臣従に近い要求を為すこともしばしばである。日米同盟が良い例であろう。本作を閲覧されている方々の中に、まさかとは思うが日米同盟が「日本とアメリカの対等な同盟」と本気で思われている方がいらっしゃるなら、医師の診察を受けることをお勧めする。

 話を信長家康に戻すが、両者の同盟は締結時こそ対等だったものの、やがて急速に力を付けた信長家康を半ば家臣の様に扱うようになったと見る向きが強い。信長家康自身は清洲同盟を重視し、互いが相手を大切に想い、遇していたが、一族や家中は少し違ったように思われる。
 まず徳川家中だが、織田家に対する感情は様々だったと思われる。何と云っても、主君・家康が幼少の頃に織田家の人質にされ、いつ斬られてもおかしくない立場に置かれた苦い記憶があった。
 織田家の人質となった経緯や、織田家に留め置かれた時の状況は有名な話なので詳細は割愛するが、家康は幼い、まだ竹千代と呼ばれたこの時期に父・広忠に死なれている。
ある程度は信長に可愛がられたとの説もあるが、義元討死に際して「これ幸い。」と岡崎に戻った程人質生活を耐え難く思っていた家康及び徳川家中がかつて人質にされたことのある織田家に面白からざる感情を抱いていたとしてもおかしくなかった。

 織田家に対する感情で云えば、家康正室の築山殿にとって清洲同盟はかなり受け入れ難いものだった。築山殿にとって義元は実の伯父で、氏真は従兄だった。その伯父がまさかの戦死を遂げ、夫が帰って来ないことで築山殿は息子・娘共々何時殺されてもおかしくない状態に陥った。
 幸い、家康が上手く取り計らって、今川部将一族との人質交換の形で駿府を逃れることが出来たが、家康が伯父の仇である信長と結んだことで、実父の関口親永が氏真から切腹を命ぜらた…………。
 そして岡崎で待っていたのは、愛息・信康と、仇の娘である徳姫が夫婦として睦み合うのを傍で座視し続ける日々だった。只でさえ、姑と嫁の間柄は古今東西難しいものが有るのに、愛息と一緒にいるのが「伯父の仇の娘」では堪ったものでは無かったことだろう。この血縁関係と仇を巡る想いがやがて築山殿・信康・徳姫に悲劇をもたらすが、これは少し後に譲りたい。

 複雑な背景や過去や想いを抱えた清洲同盟だったが、信長家康はこれを重んじ、互いに背後の憂いを失くした状態で他の敵との戦いに集中した。
 東方の不安が亡くなった信長は浅井長政や武田信玄とも誼を通じ、北の美濃・斎藤家への攻略に邁進した。一方の家康も西方の憂いが亡くなったことで三河一向一揆に苦戦したものの、念願の三河統一を果たし、信玄と連携したことで旧主である今川家から遠江を奪った。この時代、二ヶ国を治めていたのはかなりの実力者である。

 だが、信長の勢力拡大は家康のそれを大きく上回った。
 美濃・伊勢・畿内に覇を唱え、将軍足利義昭を今日から追放して室町幕府を滅ぼし時には越前・近江をも掌中に収めていた。
 一方の家康はその間、東の防波堤として最大の敵武田信玄に相対していた。そんな同盟上の重要な役割を果たす家康に対して、三方ヶ原の戦いの際に信長は三〇〇〇の援軍しか送らなかった。
 まあ、これはその時置かれた信長の状況を鑑みれば精一杯の援軍だったと云えるかもしれないが、その援軍の将である佐久間信盛が武田軍の猛攻を前にして殆んど戦わずに逃げ帰ったのだから、織田の部将達がどこまで家康を敬い、同盟を重視していたかが怪しくなる証左と云えよう。
 幸い、信玄は程なく病没して信長家康は最大の危機を逃れたが、それでも武田勢は精強で、家康は極力徳川軍だけで甲州勢と当たることを避けた。そんな家康に対し、信長は高天神城や吉田城が危機に陥った際も(充分な戦備が整っていなかったというのは分かるが)援軍を出し渋り、落城するタイミング(つまり戦わずに済むタイミング)を見越して現れた信長家康が慇懃に迎えるのに内心憤懣やる方無い徳川家中は少なくなかった。

 そして信玄の死から二年を経た天正三(1575)年、織田・徳川両軍は長篠の戦いに臨んだ。歴史の結果だけを見れば、織田・徳川連合軍の代圧勝だったが、そこに至る経緯は薄氷を踏むもので、清洲同盟瓦解の危機さえあった。
 長篠の戦いは東三河の要衝・長篠城を攻める武田勝頼軍を、救援に駆け付けた織田・徳川連合軍が大量の鉄砲を駆使して戦ったものだが、長篠城を救えるか否かは非常に重要だった。
 長篠城の城主・奥平貞昌(信昌)は徳川と武田に挟まれた国人衆・山家三方衆の一人で、弱小勢力故に代々武田に着いたり、徳川に着いたりしていた。そんな中、貞昌は意を決して徳川に随身し、その貞昌に家康は長女・亀姫を与えていた。
 つまり、徳川家にとって長篠を失うことは、軍事上の要衝と主家の娘の命が失われることを意味した。その長篠城に家康信長の援軍と共に駆け付けたが、実際に援軍が駆け付けるまで、奥平勢は心身ともにすり減る難戦を強いられていた。
 攻め寄せる武田勢一万五〇〇〇に対し、城兵は僅か五〇〇。いくら天然の要塞である長篠城でも援軍なくば落城は時間の問題だった。そしてすぐにでも援軍に駆け付けたい家康だったが、またも信長がなかなか重い腰を挙げない。結果的には大量の鉄砲と共に援軍は間に合い、武田勢は大打撃をこうむって撤退し、長篠と清洲同盟は守られた。

 その四年後、清洲同盟を瓦解させかねない家康の人生でも屈指の悲劇が起きた。徳川信康の切腹である。拙房でも過去作で何度か取り上げているが、いまだに謎の多い事件である。概略だけ述べれば、家康の嫡男で、信長にとっても婿である信康とその生母・築山殿が武田家に内通したとして信長家康に対して二人の切腹を命じたものとされている。
 事件を巡っては、「信康・徳姫夫婦の仲が悪くて、徳姫が愚痴の手紙を送ったことに信長が激怒した。」とか、「織田家を怨む築山殿が今川と旧知だった武田と密かに通じ、岡崎入り手引きを目論んでいた」とか、「自分の長男・信忠では将来徳川家を継ぐ信康に抗し得ないと考えた信長が消しに掛かった。」とか、様々な説があるが、いずれにせよ一方の同盟者がもう一方の同盟者に身内を殺せと命じたとは尋常ではない信長家康の関係は対等な立場で結ばれた同盟者で、家康は決して信長の家来ではない。同盟上必要な要請を行う事ならなんぼでもあり得ただろうけれど、命令する権利などどちらにもない。もし信長家康に信康切腹を命じたのであれば、これは完全な従属である。

 まあ、上述した様にこの事件は謎が多い。経緯はどうあれ、最終的に家康は信康に切腹を命じ、築山殿も殺されている。嫡男と正室を共に殺すなど尋常ではない。一般に「命じた。」とされているが、恐らく信長も居丈高に命令した訳では無く、「信康の振る舞いに対して同盟を守る仲間として座視出来ないので処分を要請するという。」感じで、言外に同盟瓦解や、力の差を匂わせて事実上の強要としたものと思われる。
 ただ、信康・築山殿が許せないなら、廃嫡や幽閉といった方法もあり、何も命を奪わなければならないと限った訳では無い。命まで奪えと命じたのなら、家康や徳川家中がそれこそ同盟を破棄し、武田や北条と手を組むことだって出来ないでは無かった。
 それゆえ、最終的に信康が切腹したことに、昨今では「実際に謀反を企んでいた。」とする声も聞かれるが、薩摩守は単純に同盟にひびが入り、廃嫡同然になったことを恥じた信康が自ら命を絶ったと見ている。

 いずれにせよ、これ程の苦難を徳川家に与えた状況を見ても、清洲同盟が対等な同盟関係とは云い難い 。信康の死から三年後、信長家康は武田家を滅ぼし、その直後に安土城で開催された祝賀会が両者もの顔を合わせた最後の時となったのだが、このとき大歓迎を受けた家康が訪問した理由は「駿河一国を与えられた御礼言上。」とされていた。
 これによって三河・遠江・駿河三国の国主となった家康は大大名の一人となった訳だが、それでもそれが「信長によって与えられた。」という体裁を取られた訳だから、家康清洲同盟で大きな利益を得たが、信長の利益はそれを大きく上回り、両者の関係は建前上は対等でも、実際にはかなり信長の力の方が大きく、その背後で家康はかなりの辛酸も舐めていたと云える。


同盟の終わり  織田信長徳川家康の関係は安土城での祝宴直後、本能寺の変信長が横死したことで終わりを告げた。だが、それは個人と個人の関係が終わっただけで、清洲同盟自体は存続し、その影響は更に続いた。

 まず変直後、家康は「信長の同盟者」としてその首を明智勢及び、手柄を求める土民達から狙われた。信長・信忠父子を死に追いやった明智光秀は洛中・機内を押さえにかかったが、この時僅かな供回りで堺見物していた家康主従は格好の標的だった。
 一時は死を覚悟した家康だったが、家臣の説得もあり、伊賀越えで何とか領国三河に帰りつくや信長の仇を討つべく京都に向かわんとしたが、途中で羽柴秀吉(豊臣秀吉)が光秀を討ったとの報を受け、引き返すと滅亡した武田家の旧領、その地に住まう旧臣・国人衆の吸収に当った。

 その間、織田家中では信長の嫡孫三法師(秀信)が後継者とされ、織田領は織田一族・重臣達が分割したが、やがて内紛となり、羽柴秀吉が柴田勝家を下すとともに織田信孝(信長三男)を切腹させるに至った。
 この内紛は織田家中の問題で、家康のあずかり知るところでは無かった。そもそも信長の後継者として誰しもが認めていた信忠も本能寺の変で落命し、その子・三法師が僅か三歳だったことが話を難しくていた。
 織田家家督を巡っては次男の信雄と三男の信孝が対立したが、元々この二人の仲は険悪だった。信長・信忠が存命ならそれも問題なかったが、二人とも落命したことで信雄・信孝の対立に歯止めが掛からなくなった。
 結局、賤ヶ岳の戦いで信孝も命を落としたが、三法師後見人の立場をたてに秀吉が増々でかい面をし出し、秀吉の抗する為に信雄は亡き父の盟友である家康を頼った。

 所謂、小牧・長久手の戦いである。
 家康・信雄連合軍に対し、五倍以上の兵力を動員していた秀吉だったが、下手に仕掛けるのを良しとせず、小牧山にてにらみ合いが続いたと云うから、家康と信雄の連携は悪いものでは無かったのだろう。
 膠着状態を打破せんとした秀吉は密かに別動隊を岡崎城に向かわせ、慌ててこれを救援せんとする家康を本体と別動隊で挟撃する策を立てたが、これは完全に家康に読まれ、家康は長久手で別動隊を奇襲して撃破すると即小牧山に戻り、秀吉軍を翻弄した。

 これに対して秀吉は無闇に戦うのは得策ではないとの考えを増々強くし、まずは戦いの発端となった信雄と和睦した。和睦の詳細を書くと膨大な分量になるので割愛するが、その内容は秀吉が旧主・信長への恩義から信雄への害意がなく、彼を織田家の一大名として立てつつも、その後関白となったことで事実上信雄の上に立つこととなった、秀吉の政治的な勝利だった。
 この和睦は信雄が家康に無断で為されたとも、家康の了承があったとも云われているが、いずれにせよ信雄と秀吉が和睦した上は、家康に秀吉と戦う理由はなくなった。

 その後、紆余曲折を経た果てに家康も大坂城に行き、秀吉の前に膝を折ったが、次男を擁し兼人質に差し出す一方で三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国を統べることを秀吉に認めさせ、豊臣政権下における、その後の天下を握る大勢力を確保した。そしてこれに前後して二代二二年に及んだ清洲同盟は自然消滅したのだった。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和六(2024)年一一月一日 最終更新