第陸頁 永続する同盟は在り得るか?
その昔、光栄から人気シミュレーションゲーム『三國志』が一世を風靡した。当時、道場主は友人の勧めもあってPCゲーム雑誌を購読していた時期があったのだが、同ゲームを解説する紙面にて、「同盟」に関する項目があった。
その紙面において、解説者は「戦争」が「悪の外交コマンド」であるのに対し、「同盟」を「善の外交コマンド」としながら、直後に、「「善」は「善」でも「偽善」ですがな(笑。)」としていた。それは、取りも直さず、ゲームをコンプリートする為にはプレイヤー自身が演じる君主以外のすべての君主を屈服せしめねばならなかったからで(殊に初期は敵国君主は首を刎ねるしかなかった)、「同盟」を結んだ相手もいつかは滅ぼすしかなかった。
それゆえ、同ゲームを行うに際して、道場主は余程のことがない限り同盟を結ばなかった。結んだところで反故にされることも多く、こっちが反故にした際には君主の人徳の数値が落ち、部下の忠誠心が落ちるだけで何一ついいことが無かったからである。
そして本作を制作して改めて思ったが、織田信長に限らず、同盟とはなかなかに難しいものであることを改めて実感した。実際、信長の生涯を通じて、徳川家康との同盟は間違いなく成功で、清洲同盟が信長の天下布武に貢献した度合いは極めて大きい。
しかしながら、その清洲同盟ですら、徳川信康・築山殿の死を初め、数々の屈辱を徳川家にもたらし、場合によっては家康が信長を裏切って武田信玄と結ぶ展開だってあり得た。対家康同盟ですらこんな状態だったのだから、他の者との同盟は推して知るべし出会った。
だが、本作の目的は何も信長の同盟をディすることではない。
同盟というものが外交上如何に重要なものであるかを把握し、歴史に学び、未来に活かすことにある。否、同盟に限らず、歴史学の目的時代が「温故知新」にあると云っても過言ではない。
故にこの最終頁では、信長の同盟が持続・破綻した要因を改めて検証し、同盟とは何なのか?未来にどう活かすのか?について検証したい。
最終検証壱 何が同盟を持続させるのか?
同盟とは、基本的に軍事同盟・攻守同盟である。一口に軍事同盟と云っても、一方が他国と戦う際に参戦義務を負うものもあれば、単に相互不可侵を約したものもあるし、その規定があいまいなものも少なくない。
近現代史で云えば、大日本帝国が結んだ同盟としては日英同盟が有名だが、この同盟は、「一方が他国と戦争状態に入った際は、もう一方は中立を守り、二ヶ国以上と戦闘状態に入った場合は参戦義務を負う。」と云うものだった。
この同盟が日露戦争を見据えたものであるのは有名だが、この戦争に先立つ三国干渉に懲りた大日本帝国は、ロシアとの戦争においてドイツ・フランスが加勢するのを何より恐れ、イギリスを頼みとした。それ故、日露戦争において、ドイツ・フランスがロシアに加勢すればイギリスは日本に参戦する義務が生じたが、結局日露戦争は日本VSロシアに終始し、イギリスが参戦することは無かった。
逆に第一次世界大戦において、イギリスがドイツを初めとする複数の国と戦闘状態に入ったことを理由に、大日本帝国は日英同盟の規定に基づいて参戦したが、その目的はドイツの権益を我が物とすることで、中国山東省に駐留するドイツ軍を攻撃し、統治の権益を我が物とすることだった。早い話、火事場泥棒である。これにはイギリスも眉を顰め、その後、四ヶ国条約締結をもって日英同盟は廃止された。
要は、同盟は軍事的利害に立脚したもので、戦争利害が関係無くなれば、同盟は意味をなさなくなる。単純な話、甲国と乙国が同盟を結んだ場合、乙国に滅びれば同盟は自然消滅するし、共通の敵がいなくなることで甲と乙が敵対すれば同盟は瓦解する。
ただ、ここで誤解しないでいただきたいが、薩摩守は何も「同盟」という名の外交を否定している訳では無い。歴史置いて一国が周囲を敵に囲まれる事は珍しい話ではない。すべてを戦うのはどんな大国においても無謀で、逆に一方面の安全が保障されるだけでも一国の命脈が保たれることも珍しい話ではない、古今東西問わず。
織田信長の人生を例に考えれば、「織田は西、徳川は東」に徹したから、家康との同盟に関しては長続きした。信康事件という心中複雑極まりない事件もあったが、信長存命中、家康は西方に野心を抱かず、かつての強敵が統べた駿河、甲斐、信濃にまでその勢力を伸ばし、天下人となった豊臣秀吉ですら、政治的には配下に置けても、力による完全屈服は為せなかった。
逆に共通の敵を失くしたり、別の敵に味方したりしたことで武田信玄・浅井長政・毛利輝元ととの同盟は瓦解した。
勿論、軍事的な打算や利害だけが同盟存続を左右する訳では無い。
同盟には、同盟を盤石化する為に政略結婚が伴うことが多く、中には個人と個人の仲が同盟を強化した例もある。もし斎藤道三が息子の義龍に討たれなければ、信長は伊勢に京への道を求めたことだろう。それだけ信長と道三は馬が合った。一方で浅井長政は信長の片諱を取って「賢政」から「長政」に名を改める程、彼自身は信長に好意的だったが、朝倉氏との同盟を重んじる父・久政を初めとする反信長的な周囲の潮流に逆らい続けることが出来なかったことで、信長との同盟は瓦解したが、最後の最後までお市の方は愛し続けた。
改めて、歴史とは人が作るもので、利害だけで括れる単純なものでないことが分かる。
信長の人生を通し、様々な同盟を検証すると、(信長に限った話では無いが)同盟の根本は軍事的な利害に立脚しており、互いの利害が補完し合えると思う内は、同盟は維持されるし、その利害関係がなくなるか、その関係を上回る対立関係が生じれば、同盟は瓦解されるということが分かる。
となると、現状、国家間の軍事同盟でもそうだが、企業間の同盟的な取引や、時には個人と個人の交流にあっても、それを保持したいと望むなら、自己が相手にとって利益となる存在であることを認識させ続けることが肝要となる。勿論相手との交流に利益を感じないなら、それを切るのは自由だが、切られた相手がどう思うか?本当に手切れによる不利益や利益損失がないか?は充分に認識しておく必要はあるだろう。
最終検証弐 本作以外の信長の同盟
当たり前と云えば当たり前だが、本作で採り上げた同盟者だけが織田信長と同盟した者ではない。一時的な同盟を結んだ者や、具体的な交流がなくとも、表面上友好を保った例は枚挙に暇がない。
一例を挙げれば、信長と伊勢の北畠具教(きたばたけとものり)との交流は興味深い。北畠家は室町幕府統治下における名家で、信長の父・信秀の事態には「東の今川、北の斎藤、西の北畠」と云われる程油断のならない存在だった。
正面衝突した例が少ないから余り印象的ではないが、木下藤吉郎が斎藤攻めの為に墨俣に一夜城を築いた際に、藤吉郎は予め大量の木材を用意したが、乱波(間者)に「木材は伊勢の北畠を攻める為に集めている。」と噂させたというから、当時の信長にとって、北畠具教は「いつ戦端を開いてもおかしくない相手。」と周囲に認識されていたのだろう。
そんな北畠家に対して、信長は娘しかいなかった具教に、次男・信雄を娘婿として送り込み、信雄を「北畠信雄」と名乗らせ、養子入りさせることで和睦した。
勿論この友好は偽り・詭謀で、具教は信雄によって死に追いやられている。時は天正四(1576)年のことで、既に信長は将軍家を追放し、浅井・朝倉を滅ぼし、前年に武田勝頼を大破して畿内における勢力を盤石化していた。
一方で、人間性はともかく、そんな精強な信長と敵対するのは得策ではない、或いは、「敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼もしい。」と考える者も少なくなく、武田家滅亡時には徳川家康を仲介として北条氏政も信長と同盟を結んだし、遠隔地ゆえに正式な同盟関係では無かったが、上杉謙信も信長からの要請に応じて朝倉義景を領国に帰還せしめ、反信長包囲網瓦解に一役買ったこともあった(信長はこの仲介に感謝して謙信に大量の鉄砲を送っている)。
そして遠くは米沢の伊達輝宗が早くから信長と誼を通じ、鷹や馬と云った陸奥の特産品を信長に贈り、懇意に勤めていた。米沢の輝宗と安土の信長とでは丸で接点がなかった。それどころか伊達家は輝宗の先々代・稙宗が艶福家で、奥州の諸大名に娘を嫁がせまくっていたので、どの家を見ても「身内」で、同時に「血の繋がり」が当てにならなかった。そんな状況下で信長との友誼を重んじた輝宗はかなり先見の明がある男だったと云える。
恐らく、信長が本能寺に倒れず、天下を取っていれば、輝宗はいち早く織田家に味方した者として、徳川政権下における政宗以上の大大名となっていたのではないだろうか?
歴史の結果、冷厳な史実として織田信長は本能寺の変に斃れ、生き残った信長の息子達は信長の覇業を継ぎ得るほどの器では無かった(←と云い切るのはチョット、可哀想だが)。
信長が本能寺に斃れず、その後も覇道に邁進していたなら、家康、輝宗、毛利輝元、更には長宗我部元親、北条氏政、龍造寺隆信、島津義久もどんな人生を歩んでいたかは何とも云えず、ありとあらゆる展開が予想される。それだけ、歴史とは能力にがどうあれ、たった一人の人間の力のみで展開される訳では無く、様々な対人関係が影響し合うことがよく分かるのである。
最終検証参 現代日本国の「同盟」はどうあるべきか?
史実として、織田信長は斎藤道三に始まり、毛利輝元に及ぶまで様々な大名と同盟を結び、時にそれを持続させ、時にそれを解消させた。大名に限定しない国人衆相手の同盟や、同盟ならずとも一時的な和睦や停戦を結んだ相手、更には朝廷・公家・寺社勢力・外国人まで含めれば、信長と交流を持った存在は夥しい数となろう。
勿論これは信長に限った話ではない。ただ、一代で天下統一に王手をかける直前まで勢力を拡大し、その過程で大小長短問わず数々の同盟を締結した故に織田信長故に「同盟」というものを検証するのに注目する人物として、白羽の矢が立った。そうでなければ薩摩守は嫌いな信長以外の人物を選ぶ(苦笑)。
いずれにせよ、本頁の冒頭でも触れたように、信長の人生における「同盟」に注目したのも、信長を褒めたい訳でも、信長をディスりたい訳でもなく、最終的には未来に活かしたいからで、それこそが歴史を学ぶ意義と云えよう。
さて、現代に視点を移すなら、日本国にとって良くも悪くも一番重要な同盟のは日米同盟である。これは日米同盟に対して好意的であろうと、悪意的であろうと、日本の外交や安全保障を少しでも真剣に考える人間なら異論はないだろう。
勿論、「日米同盟」という名の軍事同盟は正式には存在しない。存在するのは親日米安全保障条約という名の日米間の、名前の通り安全を保障する条約なのだが、ポツダム宣言受諾に引き続いてアメリカ軍が日本国内に駐留することを認めたこの条約を「対等な日米同盟」と見做す者は皆無と思われる。もし、「対等」と断言する者がいるなら、そ奴は間違いなく阿呆である(この際、断言してやる)。
建前上は日米両国の友好に立脚した、アジア・太平洋の平和と安寧を守る為に相互に協力し合うことを約したものだが、その力関係は織田信長と徳川家康の清洲同盟以上に力関係がはっきりし過ぎている。勿論日本が虐げられているのである。それを認めたくない人は、まずは日米地位協定の存在を直視して欲しい。
戦後、日本国がアメリカとの関係を最優先したのは正解でこそあれ、間違いだったとは思わない。「長い物には巻かれろ」的な考えは好きじゃないが、焼け野原と化し、人口も激減し、資源もない日本が再生するには、当座はアメリカに依存するしかなかったのは止むを得ない選択肢だったと思っている。
だが、サンフランシスコ平和条約を締結して七〇年を経て尚、アメリカに尻尾を振る関係が続いているのは、その後の対米外交が上手く行っていないと断じざるを得ない。推測だが、恐らく終戦以来日本政府はアメリカに何らかの急所を押さえられているのだろう。
戦後、日本の政権を担ったのは決して自由民主党だけではなく、他の野党が一時的に政権を握ったことがあったが、それでも対米関係に大きな変化が起きたことはない。たとえ自民党の一党支配がずっと続いていたとしても、すべての自民党員がアメリカにぺこぺこしている者ばかりだとはとても思えない。にもかかわらず、数々の事件を経ても日米地位協定にも、日米安全保障条約にも大きな変化はなく、GHQ主導で交付された日本国憲法で戦争放棄・戦力不保持が明記されながら、自衛隊が生まれ、海外派兵すら行われた。すべてアメリカの都合で、憲法に「新解釈」が加えられてのことである。
歴代自民党政権は何度も「憲法を改正する。」と訴えて来た。偏に、自衛隊の立場が日本国憲法第九条に反し、領空領海侵犯に強く出れず、海外に兵力を送っての国際協力が出来ない故である。
だが、もっと大切なことがある。憲法こそは一国のすべての方の基となる大原則で、これに反する如何なる立法も行政も司法も認められない。だが、実際には「新解釈」で大原則である筈の憲法に抵触するか否かが曖昧にされたことが度々あった。そう、憲法を改正するか否か、以前に、他国の都合で解釈がゆがめられることがないということが遵守されなくては、如何なる内容の憲法であろうとも、国民は安心してこれを遵守できないのである。
「平和ボケ!」、「金だけ出して、兵は出さないのか?」、「ミサイル撃ち込まれても、「遺憾です」で終わりか!? 」と戦後、名目上軍隊を持たず、武力による国際紛争の解決を否定してきた日本国は、周辺国との揉め事に武力を行使しない、行使出来ないことで、国の内外から様々な批判を生んだ。一方で、国防の為に軍事力を供する行動を少しでもとれば、中国・韓国・北朝鮮と云った周辺国から、「軍国主義に戻る気か!?」との非難を浴びせられた。
それでも結局昭和二〇(1945)年以降、日本が一度として戦端を開いていないのは、内には日本国憲法の、外には日米同盟の影響が大きい。薩摩守自身、「例え平和ボケでも、八〇年に渡って戦争して来なかったことをどこの国の誰にも非難される覚えはない!」と思う時もあれば、「自分の身ぐらい自分で守らんかい!他国の軍隊を自国内において媚を売る日々をいい加減終わらさんかい!」と思う時もあれば、「日本に軍国主義に戻って欲しくないなら、いつまでも戦時中のことをぎゃあぎゃあ文句云って日本を怒らせるようなことを慎めや!」と周辺国に怒鳴り付けたくなることもある。
薩摩守の個人的な望みは共同存異・非同盟である。
何処の国とも同盟を結ばず、何処の国とも敵対せず、それでも国境を越えて敵対的に入り込んでくる兵器や兵士には「許可なく入ってきたらただでは済まんぞ!」と思わせるだけの備えは保持して、何処の国とも敵対しない代わりに、過剰に親密になる国も作らないことで、如何なる国際紛争にも巻き込まれないことだろう。
ただ、現実には難しい。現代日本に決して友好的とは云えない国々、表面上友好的でも展開次第でいつ的になってもおかしくない国々が複数存在し、そのうちいくつかは核兵器を保有している。それらの国々と戦争になったとき、日本国がそう簡単に滅ぼされるとは思わないが、夥しい犠牲が出るのも避けられない。
まして日本には資源がない。好き嫌いにこだわって国交を軽んじれば、食糧や工業資源において忽ち窮地に陥る。実際、国内自給の問題が解決しないまま、国際競争力が低下したことで、原材料の値上げが抑えられない令和の日本では多くの国民が物価高に苦しんでいる。
現実問題として、日米同盟を初めとする従来の資本主義陣営の国々との交流はこれまで通りに保持し、歴史問題でこじれやすい周辺国との外交は慎重かつ冷静に受け入れるべきを受け入れ、通すべきを通し、国境を接しないことで利害対立が起きない国々とは内政不干渉を基軸に交易を重んじた友好関係を保持すべきだろう。
ただ、残念ながら、常識どころか良識が通用しない者が国のトップに立ち、理不尽さを対日外交に持ち込む国が出て来る可能性は皆無ではない。それどころか、何処の国にもいつ何時とんでもない国粋主義者が政権を握り、日本に対して高圧的・非友好的な態度で臨んでくる可能性は誰にも否定出来ない。
そしてどんな有益な同盟を結んでも、日本に非がある形で解消されることとなれば、それは次の戦争を生みかねない。その戦争も、開戦前に「終わらせ方」をしっかり見据え、泥沼化を防がないと国が亡びることになる。実際、大日本帝国はそれを怠って滅びたと云って良い。同時に同盟もまた、「何ゆえに結ばれ、何がこじれれば瓦解するか」を見据え、保持に努めないと瓦解後に悲惨な展開が待つことになる。
織田信長が結んだ数々の同盟は、決して一時代、一個人に限った問題ではなく、現代の国家間、企業間、民間の盟約にも通じて考えさせられることが内包されている。それらを良く精査し、よく活かしてこそ、同盟保護の煽りを食って戦陣に散った多くの人々の犠牲に意味を持たせることになり、その犠牲も報われるのではないだろうか?と薩摩守は考える次第である。
令和六(二〇二四)年一一月一五日 薩摩守
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令和六(2024)年一一月一五日 最終更新