第伍頁 毛利輝元………前将軍を巡る集合離散
同盟者file伍
名前 毛利輝元(もうりてるもと) 支配地 安芸 同盟締結期 永禄一二(1569)年 同盟終焉期 天正四(1576)年 同盟目的 相互不可侵 人的条件 無し 同盟瓦解理由 足利義昭来訪 対信長友好度 五
同盟の背景 自国の足固めが終わったとき、尾張の織田信長と安芸の毛利輝元にはまず接点がなかった。を行ったのは有名だが、その密書にて光秀は自身を「先の将軍の為に戦う者」とし、輝元のことも同様の存在(=先の将軍の為に戦う者)としていた。如何に輝元並びに毛利家にとって室町将軍の存在が大きいかの証左と云えよう。
輝元が元服したのは永禄八(1565)年、一三歳の時で、二年前に急死した父・隆元の後を受けて毛利家の家督を継ぐ展開を受けてのことだった。一三歳での元服は珍しくなかったが、明らかに父の急死による急ごしらえの家督相続・元服で、まだ健在だった祖父・元就と、二人の叔父・吉川元春、小早川隆景が貢献したのは当然の成り行きだった。
この翌年、輝元は尼子氏を降伏に追いやり、中国に覇を唱えたものの、中央・畿内とはほぼ無関係だったが、この年、輝元に「輝」の一字を与えた将軍・足利義輝が殺され(永禄の変)、時代は大きく動き出し、そのことが信長と輝元を接近させた。
周知の通り、将軍義輝殺害を受けて、その弟・義昭が京を脱出し、最初は越前の朝倉義景を、次いで美濃を取ったばかりの信長を頼り、彼が義昭を奉じて上洛し、第一五代征夷大将軍の座に据えた。永禄一一(1568)年のことである。だが、義昭が頼ったのは義景・信長だけではなく、輝元を後見する元就にも支援を要請していた。
まあ、言葉悪い云い方をすれば、義昭は頼れるものは誰でも頼ったのだが(苦笑)、将軍就任後にも義昭は信長に次いで元就・輝元にも助力させんとして、上洛を求めたが、大内氏や尼子氏残党の動きが油断ならない状況ではまず足元を固めるべしとして、元就は応じなかった。
ともあれ、義昭を後見する立場で天下人への第一歩を歩み始めた信長だったが、義昭の将軍就任直後、京はまだまだ不穏だった。先々代将軍足利義輝を弑逆し、その従兄弟・義栄を将軍に据えて覇権を握らんとしていた三好氏には残党が残っていて、実際に信長が岐阜に戻った隙を付いて残党が義昭を襲撃したこともあった(本圀寺の変)。
そんな状況にある信長にとって、東は徳川家康、北は浅井長政と同盟を結んだことで越前の朝倉義景とも事実上の休戦状態となり、警戒すべきは西と南だった。故に、毛利家との同盟は西方の安心を得られるというメリットがあった。
一方の、毛利家にとって、こちらも三好氏ならぬ尼子氏の残党に手を焼いていた。かつて毛利家を挟んでいた二大勢力である大内・尼子の両氏を滅亡に追いやった毛利家だったが、大内氏は九州の大友家と縁が深く(大内家最後の当主は大友宗麟実弟)、山中鹿助率いる尼子残党がしぶとく毛利家に抵抗したのは有名である。
そんな毛利家と中央である京の間には浦上・宇喜多・山名といった、決して大勢力では無かったが、室町政権下の名家が侮れない勢力を保持していた。西方の戦いに集中したい元就・輝元にとって、東方の抑えとして中央の信長と手を結ぶことでそれらの諸勢力を牽制出来るのは都合の良い話だった。
対人関係 かくして織田信長と毛利輝元とで利害の一致が見られたことから両氏は永禄一二(1569)年中頃より交流し始めた。
同年六月に毛利軍が九州北部に出兵した際、但馬山名氏の支援を受けた尼子氏残党が出雲に侵攻。信長は木下藤吉郎(羽柴秀吉)を丹波へと出兵させて毛利を支援し、毛利と大友を調停し、和睦させた(敵対する阿波・讃岐の三好氏に対抗する都合もあった)。
永禄一三(1570)年三月、輝元が朝廷から右衛門督に任ぜられた際、義昭からも御内書が発給され、信長がこれに祝意を表し、輝元が浦上氏を攻撃する際には信長が機を見て出兵することを約束した。
元亀二(1571)年四月、輝元は元就との連署で、尼子氏に味方して出雲・伯耆沿岸部に襲来した丹後・但馬の海上勢力に停止命令を出して欲しいとの書状を信長に送り、信長は義昭との連名で停止命令を出した。
翌月、義昭・信長が毛利と敵対していた篠原長房(阿波三好氏家臣)と毛利家に無断で和睦をしたことに抗議したり、その翌六月一四日に元就が死去したり、と毛利家には好ましからざる展開が相次いだが、同月二〇日に信長から長房との和睦が本意ではなく、長房の方で和睦を受け入れることは無いであろうとの旨を記した書状が届き、何より東西から敵勢力に挟撃されることを避けたい輝元は信長との交流を引き続き重んじた。
同年九月、信長は小早川隆景宛に元就への弔意を示す書状を送った。かように、敵対勢力残党の掃討に集中したい信長と輝元は利害の一致から友好関係を結んだが、書状のやり取りや、和睦の斡旋がメインで、具体的な軍事行動は皆無に等しく、信長にとっても数ある交流の中でも輝元とのそれは優先度の高い方では無かった。
それが為、輝元も敵対勢力との戦闘はほぼ単独で行わざるを得ず、両者の同盟は姻戚関係もなく、軍事同盟としての色合いは薄かった。
同盟の終わり 話を分かり易くする為に極端に云い表すと、織田信長と毛利輝元の同盟は「足利義昭に始まり、足利義昭に終わった。」と云える。
つまり、義昭を奉じたことで洛中に勢力を持った信長は、洛中安定の都合から輝元と手を結んだが、その義昭が信長と仲違いし、毛利氏を頼ったことで信長と輝元との友好にもひびが入ったのであった。
元亀元(1572)年九月、信長は義昭に対して御内書の無断発給を問題視し、同盟関係にあった毛利氏との交流も監督下に置こうとした。
とはいえ、両氏の同盟関係が急速に瓦解した訳では無かった。
同年一〇月、輝元は義昭の名で為された仲介により、輝元は備前の浦上宗景、宇喜多直家との和睦を実現し、浦上氏を事実上屈服させ、その包囲網を瓦解させることに成功した。
だが、義昭は信長への反感から輝元取り込みを着々と目論んでいた。義昭は元亀四(1573)年二月九日、朝廷に働きかけて輝元を右馬頭に推挙し、任じられた。勿論輝元を味方につけんとする工作の一環であった。
これに対して、輝元は表面上有難く拝受しつつも、事実上の実力者が信長であることを把握しており、信長を敵に回すことを説く作とせず、同年六月に義昭から兵糧支援を求められた際もこれを断った。
結局、七月一八日、義昭は槙島にて信長打倒の兵をあげるも、呆気なく敗れ、義昭は京を追放され、室町幕府は事実上滅亡した。
その五日前である七月一三日付の書状で信長は、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」とした書状を輝元に送っており、将軍追放後もすぐに両家の関係が瓦解した訳では無いことが分かる。
その後も書状を介した信長と輝元の交流は続き、輝元も単に中央勢力である信長に唯々諾々と従った訳では無く、書面で義昭に対する処遇を批判したり、義昭を京に戻す為に仲介する意思があることを述べた書状を羽柴秀吉に送ったりもした。
輝元と周辺勢力の諍いは続いており、それらの戦いを有利に進める為にも輝元は信長とは通じておくべき、と見ていた。
実際に、同年一一月五日、和泉堺にいた義昭の元に信長から羽柴秀吉と朝山日乗、輝元から安国寺恵瓊が派され、義昭と面会し、信長との和解・義昭帰京について話し合われた。しかし、帰京を許す条件として信長が義昭に人質を求めたため、交渉は決裂した。
信長と輝元が義昭の元に使者を送ったのも、京を追われた義昭がかつての様に大大名を頼って還都を目指すことを危ぶんだからだった。殊に義昭が輝元を頼ると、信長と輝元の全面戦争になりかねず、両者ともそれは避けたかった。
だが、その懸念は現実のものとなってしまうのだった。
その頃、両者が挟む位置にある備前・播磨では宇喜多直家と浦上宗景が敵対し、前者を輝元が、後者を信長が密かに支援した。つまりこのとき既に両者はいずれ戦わざるを得ない仲になることをある程度見越していた。
表面上、同盟は維持されていたが、やがて直家が宗景に勝利し、備前が毛利の勢力下に入ったことで、播磨に勢力を伸ばしていた信長と接することとなった。信長は柴田勝家を通じて尼子残党を支援する但馬山名氏を支援するという、過去とは真逆の行為を密かに進めた。
そして天正四(1576)年二月、義昭が備後・鞆にやってきたことで同盟は名実ともに消滅の時を迎えた。鞆はその昔、京を追われた第一〇代将軍足利義稙がその地を拠点に将軍位を取り戻した、室町将軍にとってゲンのいい地であった。
同月八日には早くも義昭は吉川元春に幕府復興を依頼し、何の前触れもない義昭来訪・援軍優勢に輝元は苦慮した。というのも、信長との同盟を維持したい輝元は義昭を受け入れないことを信長に約束していたからで、そこへ義昭の方から勝手にやってきてしまった。
とはいえ、室町将軍を代々立てて来た毛利家としては義昭に対して無碍に接する訳にもいかない。
結局、四月には輝元も正式に義昭の要請に応じ(ざるをえず)、五月一三日、領国の諸将に義昭の命令を受けることを通達し、西国・東国の大名等にも支援を求めた。勿論、信長はこれを受けて同盟破棄を決心。輝元の方でも、義昭の問題を抜きにしても、播磨・備前・但馬に介入してくる信長とこれまで通りの関係を維持するのは不可能と捉えていた。ここに同盟は完全に終結したのだった。
後年、本能寺の変に際して、信長を討った明智光秀が輝元に密書を送り、羽柴秀吉を挟撃せんとして、その密使が捕まったことで秀吉が本能寺の変中国大返し
令和六(2024)年一一月一五日 最終更新