最終頁 鬼と悪魔の相違
複雑なる「鬼」の定義と役割
「鬼!悪魔!人でなし!」との罵声を浴びせられたとすれば、その対象者は極めて無慈悲且つ横暴な者であろう。とはいえ、種々の伝説を含め「鬼」の在り様は極めて多彩であり、その点では「悪魔」とは大きく異なる。
「鬼」の語源は「隠(おん)」らしく、古来人は人智の及ばない大いなる存在や、目に見えない大きな力を「鬼」とし、それゆえ「鬼」は時に化け物で、時に神の使いで、時に(特に中国では)亡者を意味した。
一般にイメージされる二本角に金棒を振りかざす巨人としての鬼は日本を代表する化け物で、西洋における食人鬼・オーガー(ogre)に共通する。
愛知県北設楽郡で行われる花祭り(灌頂会ではなく、霜月神楽)では「地固め」と称する足踏みによる舞で五穀豊穣を祈るのに巨大な面を付けた鬼が活躍する。
秋田の超有名名物であるなまはげはれっきとした神の使いで、御当地では子供達を逞しく、礼儀正しい子に育てる教育的指導に欠かせない存在である。
そして、本作にて取り上げた者達が往々にしてそうである様に、敵に回して恐ろしく、味方にして頼もしい猛将達には「鬼」の通称が冠された。
戦国の時代が終わった後も、強く、猛々しく、大きな存在を様々な形で「鬼」に擬え、「鬼コーチ」、「土俵の鬼」、「仕事の鬼」、といった表現が現在でも用いられている。
その一方で、「悪魔コーチ」という表現は無く、「土俵の悪魔」や「仕事の悪魔」なんていたら思い切り嫌である(苦笑)。ああ、そう云えば「男色の悪魔」なんてフレーズを持つ芸人コンビがいたっけ?(笑)
一般に「悪魔」と云えば、黒山羊や蝙蝠をモチーフにした、西洋のデーモンのイメージが強いが、日本史に在っては仏教を妨げる悪心に由来し、「色魔」も「邪魔」も元は仏教に由来する。
そして「鬼」が「強い」、「大きい」の意味合を色濃く持つのに対し、「悪魔」を初めとする「魔」はただただ「悪い」という意味合いが強い(例:「通り魔」や「強姦魔」)。
「鬼瓦」が「魔除け」であることを挙げれば両者の立ち位置が分かり易いかも知れない。強さや厳しさを指して「鬼」と呼ばれることを喜ぶ者は少なくないだろうけれど、芸風や立ち居振る舞い等にて敢えて悪しき在り様を辞任するものでない限り、「悪魔」と呼ばれて喜ぶ者はまずいないだろう。
となると、「鬼」と呼ばれた猛将が多い中、「魔王」と渾名された織田信長の在り様を見つめ直すのも一興かもしれない。
本当に忌むべきものは?
人間、出来れば怖い思いはしたくないし、痛い思いもせずに済むならそれに越したことはない。所謂「鬼コーチ」や「鬼上司」に鍛えられたり、しごかれたりしたことを結果論的に感謝することはあっても、接している時間は辛いものである。
薩摩守は弱い人間だから、出来るなら「鬼」に遭遇したくないと思っている(苦笑)。
だが本当に忌むべきや避けるべきや逃げるべき相手は「鬼」ではない。接せずに済むにしても、「鬼」を「知るべき」だとは思う。
人の痛みや苦しさを知らねば思いやりのない人間になってしまい、親や教師に叩かれることなく育てば自らの暴力を疑問に思わない人間になってしまうように、恐ろしさを知らねば安易な好奇心で薬物に手を出してしまったりするように、知らなければならい痛み・辛さ・苦しみ・恐怖は確かに存在する。
つまり「無知」や「相手を思い遣らない」ということこそが真に忌むべきものだろう。
法や倫理を守り、人を傷付けずに生きて行く上で角や牙や金棒は必要ない。
だが、知識として、想いとして、心根として角・牙・金棒のもたらす恐怖や痛みは知らなければならないと思う。戦争自体は断固として拒んでも、戦争の恐怖や愚かしさは学ばなくてはならない様に。
平和な世に「平和ボケ」の弊害を叫ぶ人は数多く存在する。だが平和な世に暮らしつつも平和ボケに陥らないことは決して不可能なことではないと薩摩守は考える。
歴史を正しく学び、本当に恐ろしいこと、本当に忌むべきことを知ることが有史以来実在した「鬼」達の犠牲になった人々の命に意味を持たせることになると思うのだが、如何だろうか?
人は「鬼」にも「仏」にもなり得る
上述にて、「鬼」と似て非なる存在として「悪魔」に触れたが、「鬼」と対照的な存在として「仏」がある。
本作でも触れたが、本多作左衛門重次が「鬼の作左」と呼ばれたのに対し、同じ三河三奉行の一人だった高力清長は「仏高力」と呼ばれた。
単純に厳しさや威圧的な様から「鬼」と呼ばれるのと対照的に、優しさや懐の深さで「仏」と呼ばれる人は数多く存在するが、注目したいのは作左衛門の「鬼」も、清長の「仏」も奉行としての在り様と敬意から生まれた呼ばれ方ということである。
「鬼」の在り様が多様で複雑な様に、「仏」の在り様もまた多様で複雑である。何せ、仏教が伝播する過程においてその地域の土着の神や悪鬼羅刹が仏教に帰依して新たな「仏」となった者まで存在する。
これ以上は複雑になるので割愛するが、「鬼」や「仏」が多種多様である故に、「鬼」・「仏」以上に多種多様である人間も生き方・信念・性格次第で「鬼」にも「仏」になり得る。
どちらになるも、或いはならないも個々人の価値観や生き方次第だが、そこに深い考察と強い信念は欠かしたくないものである。
様々な価値観が混在し、如何なる生き方にも賛否が浴びせられる世の中である故に、「鬼」と呼ばれるも、「仏」と呼ばれるも、どちらに徹することが出来なくても人それぞれだが、考えもなく、信念もなく、無慈悲・無軌道・無秩序に好き勝手やる者こそが自分の為にも、他人の為にも、誰の為にもならない本当の悪魔にして世の害物と云えよう。
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戦国房へ戻る令和三(2021)年六月一〇日 最終更新