第捌頁 島津義弘‥……鬼の威名は海を越えて

名前島津義弘(しまづよしひろ)
生没年天文四(1535)年七月二三日〜元和五(1619)年七月二一日
身分大隅国主。一説に薩摩島津家第一七代当主
通称又四郎、鬼石曼子
略歴 天文四(1535)年七月二三日、薩摩島津氏第一五代当主・島津貴久の次男に生まれた。
 元服後、初めは忠平(ただひら)と称したが、後に室町幕府第一五代将軍足利義昭から「」の字を賜って義珍(よしたか)と改め、最終的に義弘と改めた。

 天文二三(1554)年に、二〇歳という当時としてはかなり遅い年齢で初陣。それを皮切りに主に日向伊東氏との戦いに転戦・尽力した。
 次男という立場から、兄・義久が家督を継ぐとこれを補佐し、天正五(1577)年に伊東義祐を日向から追放することに成功し、翌天正六(1578)年には耳川の戦いで大友氏を破り、天正一三(1585)年には八代の阿曽氏を降伏させ、島津家の勢力拡大に大きく貢献した。
 だが、この間中央では室町幕府が滅亡し、織田信長が本能寺の変に倒れ、豊臣秀吉が信長の事実上の後継者としてその勢力を急速に拡大させており、義弘に敗れた大友氏の要請で秀吉は九州に大軍を率いてやってきた。

 勿論これに黙って従う義弘及び島津家ではなかったが、さすがにこれは相手が悪かった。天正一五(1587)年五月八日、兄にして当主である義久が秀吉に降伏し、徹底抗戦する気でいた義弘も兄の説得を容れて五月二二日に高野山の木食応其を仲介として秀吉に降伏し、自らが治めていた大隅を安堵された。

 その後秀吉に気に入られた義弘は、秀吉の厚遇に応えて朝鮮出兵では厳寒と食糧不足に苦戦する日本軍の中にあって、急先鋒加藤清正以上に明・朝鮮軍に恐れられる奮闘ぶりを示した(詳細後述)。

 秀吉没後、徳川家康が台頭する中、慶長五(1600)年に家康が上杉景勝征伐の軍を起こすと島津家も出兵を命じられた。
 この少し前、島津家では内紛があり、義久が反豊臣、義弘が親豊臣だったことも相俟って家中は複雑な状態にあり、如何に戦場で活躍して中央で覚えの目出度かった義弘でも群に関する決定権は掌握し得ず、結果として上洛時に一八〇〇の寡兵しか率いられなかった。勿論この兵数は関ヶ原の戦い従軍大名中最低クラスの少なさであった。

 当初は家康に味方するつもりだった義弘だが、加勢せんとした伏見城の鳥居元忠は「聞いていない。」として島津勢の入城を銃撃でもって拒んだ。
 これにより義弘はなし崩し的に西軍に従軍することとなったが、元々乗り気でなかった上に、寡兵であることから石田三成に軽く見られたことから関ヶ原の戦い本戦において島津勢は掛かってくる敵兵には果敢に戦ったが、自分達の方から積極的には攻め込まなかった。

 そして戦は有名な小早川秀秋の裏切りで一気に東軍優位に傾き、石田三成・小西行長は逃亡、宇喜多勢も総崩れとなって一時は戦場に散らんとした宇喜多秀家も重臣の説得を容れて逃亡し、大谷吉継は戦死(正確には自害)した。
 事ここに至って義弘は有名な敵中突破を決断した。

 意表を突く突撃に、戦傷気分だった東軍諸将はこれとぶつかることを避け、義弘もまた敵の総大将・徳川家康を前に転身し、南方に退却路を求めた。
 だが退却の難しさは追撃をかわすことにあり、島津勢は「捨て奸り(すてがまり)」と云う決死の殿軍を次々繰り出すことで敵将の井伊直政・松平忠吉等を負傷させて戦線離脱に成功したが、その過程にあって義弘は甥の島津豊久と、重臣の長寿院盛淳を失い、戦地を脱した際に行動をも共にしていた兵は八〇名にまで減っていた。

 義弘の帰国した薩摩では表では徳川家への謝罪に努め、自分達が負傷させた井伊直政に敢えて和睦仲介を依頼し、裏では武備と国境の守りを固め(関ヶ原に僅かしか派兵しなかったので、国元には一万を超える兵が残っていた)るという面従腹背で事後に備えた。
 これに対して一度は島津征伐令を発動した家康も、負けないにしても征伐に掛かる費用・犠牲・時間を計算した結果、まだまだ豊臣家が健在な中、対島津戦における消耗を得策とせず、島津家は本領を安堵された。

 その後、義弘及び島津家に目立った動きは無かった。関ヶ原の戦い参戦時に既に六六歳だった義弘は大隅加治木に隠居し、そのまま大坂夏の陣をもって戦国の世は終結した。
 その三年後、元和五(1619)年七月二一日島津義弘逝去。享年八五歳。



鬼の働き場 ズバリ戦場である。
 島津勢の精強振りは武田勢と並んで有名である。
 「島津に暗君無し」との世評があるが、源頼朝の世以来薩摩を統べ続けた誇りを胸に、「チェストー!」の掛け声で有名な薩摩示現流に裏打ちされた武力を引っ提げ戦い続けた島津家の例に漏れず、島津義弘もまた若き日より戦いに明け暮れた。

 家督自体は兄・義久が継いだことから、義弘自身はその補佐役として別動隊を率いての戦いが多く、寡兵を率いての奇襲や遊撃戦に出ることが多かった。
 それゆえ形勢不利な場に立つことも多く、初陣の三年後に大隅で蒲生氏と戦った際には初めて自らの手で首級を挙げる一方でその身に五本の矢を受け、義久や弟・歳久とともに挑んだ伊東義祐との総力戦では敵の挟み撃ちに遭って重傷を負ったこともあった。
 勿論、そんな戦いを繰り返す日々に在っては個人の武勇と、軍としての強さの両方が無ければ生き延びられるものではなく、同時に戦の度に義弘及び彼の率いる島津勢は鍛えられ、精強さを増し、耳川の戦いでは「日州一の槍突き」と名高かった柚木崎正家を自らの手で討ったのだから、個人としての武勇も一流だった。

 かくして九州最強の勢力を誇った島津家は、さすがに天下取りにほぼ王手を掛けていた豊臣秀吉には抗し得なかったが、朝鮮出兵関ヶ原の戦いにてその「」振りを発揮した。
 朝鮮出兵に在っては四番隊に属し、国元の騒動もあって全力を傾けられない状況下にありながら日本軍が終始劣勢を強いられた海上戦においても戦果を挙げた。
 慶長の役当初、朝鮮軍では名将・李舜臣(イスンシン)が讒言に遭って司令官から外され、元均(ウォンギュン)がその地位にあったが、義弘は藤堂高虎と共に朝鮮水軍を撃破し、元均を討ち取った。
 皮肉にも元均討ち死ににより李舜臣が復権し、日本水軍は更なる劣勢を強いられたが、最終決戦の露梁海戦で大打撃を受けながら、李舜臣を討ち取ったのは島津勢だった(しかも順天城に孤立した小西行長を救出した上で!)。

 陸戦においても、泗川にて島津勢は僅か七〇〇〇の兵で朝鮮・明連合軍を撃破している。敵軍は明側の記録では二万九〇〇〇で、島津側の記録では二〇万なのだが(笑)、良くも悪くも軍勢の誇張は良くある話で、それを差っ引いても島津勢が三倍以上の敵軍を撃破したことに変わりはなく、この時の島津勢の精強振りを徳川家康は「前代未聞の大勝利」と評しており、このことが家康に「島津侮り難し」との認識を与え、関ヶ原の戦い後の本領安堵に繋がったことは想像に難くない。

 朝鮮出兵において、加藤清正、小早川隆景等、開戦当初や局地戦にて大勝利を収めた武将は多いが、中でも島津勢は朝鮮・明の両軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれ、文字通りの如く恐れられた。
 後世、中国では日清戦争・対華二十一か条要求・満州事変等にて領土浸食を繰り返す日本人に対して「東洋鬼子(トンヤングイズ)」との蔑称を叫んだ。
 被害を受けた意味では、同じ「」呼ばわりでも、純粋にその武力を恐れての「」と、侵略・収奪を繰り返す強欲・横暴振りを指しての「鬼」は別物としたいところである。
 そして朝鮮兵にとって「」だった義弘は帰国後、高野山に敵味方区別なく戦死した「仏」の霊を祭る供養塔を建立したのだった。

 そして島津義弘率いる島津勢がその精強振りを示した最たるものが関ヶ原の戦いにおける敵中突破だった訳だが、これは「略歴」に記したので、ここでは繰り返さない。



鬼の裏側 島津勢に鬼の如き戦働きの裏には、それこそ鬼のような犠牲があった。
 関ヶ原の戦いにおける敵中突破に在っては、総大将である島津義弘の首を敵に渡さない為、「捨て奸り」にて多くの将兵が命を捨て、その中には甥・島津豊久と重臣・長寿院盛淳も含まれていた。
 義弘自身、兄・義久を立てる中、何度も死線を彷徨った。

 そんな命が幾つあっても足りないような戦乱の日々にあって、島津勢が義弘の為に喜んで命を捨てた鬼の裏側には、義弘による常日頃の配下への労りがあった。
 精強なる島津勢を編成し、率いる日々あっては、義弘も軍律違反を犯した配下を死罪にしたり、鉄拳を振るったりしたこともあるだろう。だが、それ以外では義弘は極めて配下に優しく、思い遣りのある厚情の大将だった。

 兵卒と共に囲炉裏を囲む程、一兵卒に対しても親しく接し、それが為に朝鮮出兵のおいて多くの日本兵が厳寒の中に凍死者が続出しても、島津勢に凍死者は独りも出なかった。
 家臣に子が生まれると、義弘は生後三〇日頃に家臣夫婦を館に招き、子供を膝に抱いて、「子は宝なり。」としてその将来を祝福した。
 そしてその子供達が元服する際には親の事績に応じて激励の言葉を掛けたのだが、その気遣いが振るっていた。
 例えば、元服する者の親が手柄を持つ者の場合には、「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう。」と励ました。
 そして親に手柄が無い場合にも、「お主の父は運悪く手柄と云えるものは無かったが、お主は父に勝るように見えるから手柄を立てるのだぞ。」と励ましたと云う。
 そして義弘が逝去したとき、既に殉死は禁じられていたにもかかわらず、一三名が追い腹を切った。

 一兵卒に対してまで情の厚かった義弘は当然家族に対する愛情も強かった。
 義弘には当主だった兄・義久と、歳久・家久という二人の弟がいて、各々武勇に優れた四人は「島津四兄弟」として有名で、島津と敵対した者達は兄弟仲を裂かんと目論む者も多かったがそれらはことごとく失敗に終わった。
 そして妻に対しても、朝鮮出兵中に送った手紙にて子供達の行く末を案じ、妻子の為を想えばこそ奮闘出来る旨を記していた。
 そんな義弘だからこそ、関ヶ原の敵中突破に在って、豊久も盛淳もその他の将兵も喜んで義弘の為にその命を捨てたのだろう。それゆえか、敵中突破後、生き残った将兵が即座に薩摩に変えることを促すも、義弘は大坂にて西軍監視下にある島津家中の家族の無事を確認するまで薩摩に帰らなかった。

 そして「」の如く各地の戦場を東奔西走した島津義弘は八五歳の天寿を全うした訳だが、さすがに晩年は体の衰えが顕著で、歩くことや食事さえ困難に陥っていた。
 だが、家臣達が「殿、戦でございます。」と告げ、兵達が鬨の声を上げるやそれを聞いた義弘は目を大きく見開き、忽ち大量の食事を平らげたと云う。
 例え体が如何に衰えようとも、「」の心意気は生涯持ち続けたと云えようか。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新