年 | 月日 | 出来事 |
明治一〇(1877)年 | | 足尾銅山が民間に払い下げとなり、これを購入した古河市兵衛の経営となる。 |
明治一一(1878)年 | | 鮎の大量死発生。 |
明治一八(1885)年 | | この年までに大鉱脈が発見され、西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンを数える東アジア一の銅の産地となった。一方で、鮎の大量死が再発した。 |
明治二三(1890)年 | | 栃木県足利郡吾妻村(現在・佐野市吾妻地区)の村議会が足尾鉱山の操業停止を求める決議を採択。
栃木県議会も足尾銅山の調査を求める議決を行う |
明治二四(1891)年 | | 田中正造が国会で鉱毒問題を初めて質問。政府、積極的な鉱毒対策を行わなかったどころか、吾妻村民等によって刊行された鉱毒の記録集『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸事情』を発刊直後に発売禁止にする等、露骨な言論封殺が敢行。 |
明治二五(1892)年 | | 古在由直等が鉱毒の主成分を調査。結果は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸。 |
明治二六(1893)年 | | 古河鉱業が、農民に示談を持ち掛ける。
示談金を払い、明治二九年六月末までに対策を行って鉱毒をなくすという内容での示談を図る。
だが、田中正造は、「一切の鉱毒被害請求権を永久に放棄する」という古河鉱業側にとって虫のいい内容だったためこれに応じないように農民達を説得。農民達もこれに応じた。
直後に大洪水で鉱毒が拡大し、効果的な対策が為されていないことが判明、農民側は示談契約書を根拠に再度交渉を行った。
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明治二九(1896)年 | | 田中正造、再度国会にて鉱毒質問を行う。
群馬県議会が足尾銅山の操業停止を求める議決(『鉱毒ノ儀ニ付建議』)を行った。 |
一〇月四日 | 正造の主導の元、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・館林市下早川田町)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県の鉱毒事務所が作られた。 |
明治三〇(1897)年 | 三月二日 | 鉱毒被害地の農民が大挙して上京し、鉱毒被害を陳情。 |
三月二四日 | 農民達、再度の上京・陳情。 |
同月 | 世論の高まりを受けて政府は足尾銅山鉱毒調査委員会を設置、数度の鉱毒予防令を出した。 |
五月 | 第三回の予防令で、古河側に、排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置、煙突への脱硫装置の設置を命令。
工事自体はそれぞれ数十日の期限付きで、「一つでも遅れた場合には閉山する。」という厳しい姿勢で命ぜられ、古河側も二四時間体制で工事を行い、期限内に間に合わせた。
だが、突貫工事が裏目に出たものか、これらの装置は、満足に役には立たなかった(ちなみに政府が予防令による工事が鉱毒問題解決に不充分であったことを認めたのは平成五(1993)年の『環境白書』でのこと)。 |
明治三一(1898)年 | 九月 | 被害民の一部が鉱毒予防工事の効果はないものとみなして再び反対運動に立ち上がり、大挙して上京請願。 |
明治三一年 | 九月二六日 | 被害農民、三回目の上京請願。 |
明治三二(1899)年 | | 群馬・栃木両県鉱毒事務所が鉱毒によるカドミウム中毒で死者・死産は推計で一〇六四人と発表。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。 |
明治三三(1900)年 | 二月一三日 | 被害民、四回目の上京請願。途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)にて待ち受けていた警官隊と衝突。流血の惨事となり、多数の逮捕者が出た(川俣事件)。 |
二月一五日 | 田中正造が国会にて川俣事件に関する質問を行う。 |
二月一七日 | 正造、再度川俣事件に関する質問を行う。総理大臣山縣有朋、極めて不誠実な対応で質問を無視する。 |
明治三四(1901)年 | 一二月一〇日 | 東京日比谷にて田中正造が明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴せんとして馬車に走り寄る。
警備の警官に取り押さえられ、正造を精神病患者と云うことにして事件の矮小化を図ったが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られた。
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| 足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村(これに前後して隣接する久蔵村、仁田元村も同様の経過で廃村となった)。
また同年より昭和二(1927)年にかけて対策工事が行われ、表だった鉱毒被害は減少するも、渡良瀬川に鉱毒は流れ続けた。 |
| 松本隆海(編集者)が『足尾鉱毒惨状画報』で、安蘇郡界村字高山(現・佐野市高山町、当時の人口約八〇〇人)で、五年間における兵役合格者が僅か二名しか出ておらず(適齢者は延べ五〇名)、しかも、その合格者の内1名も入隊後一〇日で病気除隊となったという逸話を紹介。 |
明治三五(1902)年 | 二月一九日 | 被害地の農民、上京・請願(五回目) |
三月二日 | 被害地の農民、上京・請願(六回目) |
| 世論の高まりに慌てた政府が第二次鉱毒調査委員会を設置。 |
明治三(1903)年 | | 第二次鉱毒調査委員会が、六年前の予防令後、鉱毒は減少したと(勝手に)結論づけ、洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な「遊水池」を作るべきとする報告書を提出した。
※実際、その年、同地は豊作だった。これを受けて同委員会は「予防工事の成果」としたが、田中正造はこれを否定。豊作の要因は大洪水による山崩れで、新しい肥えた土が被害農地にかぶさったためだと抗弁した(現在、国土交通省も正造の説を支持している)。
逆に群馬県山田郡側では鉱毒被害は増加。詳細は不明だが、大正時代、製錬方法の変更で渡良瀬川を流れる鉱石くずの粒が細かくなり、浮遊したまま川を流れるようになったため、上流部の渡良瀬川右岸に多く流れ込んで堆積するようになったとの説もある。
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明治三九(1906)年 | | 谷中村、強制廃村となり、藤岡町に合併。 |
明治四〇(1907)年 | | 谷中村の強制破壊開始。 |
大正二(1913)年 | 九月四日 | 田中正造逝去。 |
大正六(1917)年 | | 谷中村村民全員の強制退去完了。
渡良瀬川から農業用水を取水していた待矢場両堰普通水利組合が、「渡良瀬川には鉱毒はなくなっていない」とする意見書を群馬県知事に提出。 |
大正一三(1924)年 | | 旱魃発生を受けて、原因が水源地・足尾の山林が荒廃して保水能力を失ったため、と考えた待矢場両堰普通水利組合・三栗谷用水普通水利組合は個々に署名活動を行う(内容は鉱害による損害賠償請求が行えるようにして欲しいというもの)。 |
大正一四(1925)年 | | 待矢場両堰普通水利組合・三栗谷用水普通水利組合、群馬県側の農民ら数千人から集めた署名を貴族院、衆議院、内務大臣、農務大臣宛てに請願書が提出。
当時は原告に立証責任があったため、彼等が裁判で勝つ見込みがなかったが、この要望は昭和一四(1939)年に実現した。 |
大正一五(1926)年 | | 三栗谷用水が鉱業取り締まりや鉱業法改正の嘆願書を内務・農林・商工大臣宛に提出(この年から昭和八(1933)年までほぼ毎年提出された)。 |
昭和一一(1936)年 | | 三栗谷用水は古河鉱業から事業資金の一部八万五〇〇〇円を供出させ、取水口の改良工事を行う(それまでの渡良瀬川からの直接取水から、伏流水を主に取水する方式に変更)。
この工事に際して、古河鉱業は見返りに永久示談を要求し、今後一切現金提供を求めないという条文が契約書に盛り込まれた。
※工事は昭和二五(1950)年の第四次工事まで続き、最終的に古河鉱業は総工費三二〇〇万円の四分にあたる一一九万円を負担。第四次工事による中川鉱毒沈砂池設置によって下流部の鉱毒被害は激減した。だが鉱毒防止装置の維持費は、その後も「用水利用料増加」という名目で農民の負担となった。
尚、工事自体は第五次まで続いたが、これには古河鉱業は金銭を負担していない。 |
昭和一三(1938)年 | | 渡良瀬川で大洪水があり、鉱毒が農地に流れ込む。 |
昭和一四(1939)年 | | 渡良瀬川で大洪水があり、鉱毒が再度農地に流れ込む。これをうけて渡良瀬川改修群馬期成同盟会が結成。内務省に対して渡良瀬川の河川改修や水源地の涵養などを求める陳情が行われた。
※陳情は翌昭和一五(1940)年までに二二回行われ、政府はこの事業に予算をつけたが、第二次世界大戦のため、大改修が行われたのは戦後であった。 |
昭和二一(1946)年 | | 群馬県東部の渡良瀬川流域の農民が集まり、足尾銅山精錬所移転期成同盟会が結成(程なく鉱害根絶同盟会と改称)。古河鉱業と直接交渉を行い、鉱毒反対運動を続けた。 |
昭和二二(1947)年 | | カスリーン台風を受け、渡良瀬川全域に堤防が作られる。以後、現在に至るまで渡良瀬川では大規模な洪水は起きていない。 |
昭和二八(1953)年 | | 鉱害根絶同盟会が官製の対策委員会に吸収される形で消滅した。対策委員会は古河鉱業から土地改良資金の二〇分の一に当たる八〇〇万円を受け取って解散。 |
昭和三三(1958)年 | 五月三〇日 | 足尾町オットセイ岩付近にある源五郎沢堆積場が崩壊。崩れた鉱石くずが渡良瀬川を流れ、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現・太田市毛里田)の田畑に流れ込んだ。
以後、この地で再び鉱毒反対運動が盛んになる。 |
六月一一日 | 毛里田村の農民達が足尾を訪れるが、古河鉱業は自身に責任はないという主張を繰り返し。 |
七月一〇日 | 責任を認めていなかった古河鉱業が、国鉄には鉱石くずの流出で線路が流れたことに対して補償金を払っていたことが判明したことに毛里田村住民等が激怒。毛里田村期成同盟会(のちの毛里田地区期成同盟会)が結成される。 |
八月二日 | 毛里田村の動きを受けて、群馬県桐生市、太田市、館林市、新田郡、山田郡、邑楽郡の農民が中心となって群馬県東毛三市三郡渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会が再度結成。
古河鉱業は一五〇万円の見舞金を提示したが、毛里田村民側は賠償金の一部としてでなければ受け取れないと拒否。
交渉過程にて古河鉱業は五年前に土地改良資金を提供したときに、永久示談を行ったと主張し、当時の契約書も提示された(※この契約書に関しては、昭和四一(1966)年、参議院商工委員会で鈴木一弘委員が有効性について農林省、通産省の担当者に問い質した。両省の担当者は、契約書に署名した水利組合理事長に独断でそのような契約を結ぶ権限があったか疑わしく、また、契約後も鉱毒被害が発生していることから、永久示談の成立には否定的な答弁を行った)。 |
昭和三七(1962)年 | | 水質審議会に渡良瀬川専門部会を設け、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会会長の恩田正一が会長を辞職すれば審議会委員に加えてよい、という内容の政治的な妥協がはかられた。
同盟会は「運動の分断を図ろうとするもの」として激しく抵抗したが、恩田はこれを受け入れ、会長を辞職した上で水質審議委員となった。しかし、委員となった恩田の意見は殆ど無視された。 |
昭和三九(1964)年 | 一〇月五日 | 毛里田村鉱毒根絶期成同盟(恩田の後任会長に板橋明治が就任)が再び押出しが行う。 |
昭和四一(1966)年 | 九月 | 足尾町の天狗沢堆積場が決壊。再度、鉱毒が下流に流れる(古河鉱業はこの事実を公表せず、期成同盟会の住民は、群馬県からの連絡でこの事実を知った)。 |
昭和四六(1971)年 | | 群馬県毛里田で収穫された米からはカドミウムが検出され出荷停止。農民等は八〇年分の賠償金一二〇億円を古河鉱業に請求。 |
昭和四七(1972)年 | 三月三一日 | 板橋明治を筆頭代理人とした九七一名、群馬県太田市の毛里田地区の被害農民達(太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会)が古河鉱業株式会社を相手取り、総理府中央公害審査委員会(後の総理府公害等調整委員会)に提訴。 |
四月三日 | 県は古河鉱業が否定した毛里田地区の土壌汚染についても足尾銅山の鉱毒が原因と断定(翌年に、農地三五九.八ヘクタールを土壌汚染対策地域農用地に指定した)。 |
昭和四八(1983)年 | 二月二八日 | 足尾銅山閉山 |
昭和四九(1974)年 | 五月一一日 | 総理府中央公害審査会から事件の処理を引継いだ公害等調整委員会において調停が成立。「百年公害」と云われたこの事件の加害者を遂に古河鉱業と断定、加害責任を認めさせ、古河鉱業は一五億五〇〇〇万円を支払った。
ここに及んで古河鉱業は初めて鉱毒事件の責任を認め、補償金を支払ったこととなった。
※古河鉱業は、銅の被害のみを認め、カドミウムについては認めなかった。
※農民側も農業被害の早期解決を目指し、敢えてカドミウム問題には触れなかった。
※調停の内容に含まれていた土地改良は、昭和五六(1981)年に始まり平成一一(1999)年に完了した。
※公害防除特別土地改良事業として総事業費は五三憶三〇〇〇万円。加害原因者の古河鉱業五割一分を、残りの大部分は国と群馬県が、極一部を桐生市と太田市が負担した。
※調停条項には無いが、被害農民には土地改良費の金銭負担は一切無く、被害農民が受取る補償金を非課税とさせた。 |
昭和五一(1974)年 | 一〇月二五日 | 太田市韮川地区鉱毒根絶期成同盟会の農民五四六人が、一三億円の賠償を古河鉱業に請求。 |
一一月一八日 | 群馬県桐生市で桐生地区鉱毒対策委員会が設立され、農民四四四人が古河鉱業に対し交渉をもった。 |
昭和五二(1975)年 | 一一月一八日 | 桐生地区鉱毒対策委員会と古河鉱業間の和解が成立し、古河鉱業は銅などによる鉱毒被害を認め、二億三五〇〇万円を支払った。 |
昭和五三(1976)年 | 一二月一日 | 太田市韮川地区鉱毒根絶期成同盟会と古河鉱業間の和解が成立。古河鉱業は一億一〇〇〇万円を支払った。 |
昭和五四(1977) | | 毛里田地区で申請漏れになっていた住民が、公害等調整委員会に調停を申請。一二月に三九〇万円で和解が成立した。 |
平成六(1994)年 | | 渡良瀬川鉱毒根絶毛里田期成同盟会(←太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会の改称)と、韮川地区鉱毒根絶期成同盟会が合併。渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会(会長:板橋明治)となった。 |
平成一一(1999)年 | 五月 | 渡良瀬川沿岸土地改良区による公害防除特別土地改良事業竣工記念碑建立(撰文及び揮毫は板橋明治) |
平成一六(2004)年 | | 桐生市議会が足尾町の中才浄水場に自動取水機の設置を求める要望書を採択。 |