対公害闘士列伝

第壱頁 田中正造……対足尾銅山鉱毒事件・操業差し止め

公害名足尾銅山鉱毒事件
発生明治一一(1878)年
終焉昭和四八(1973)年二月二八日 足尾銅山閉山
決着昭和五四(1977)一二月 被害者住民と加害企業との間で和解が成立。
責任企業古河鉱業株式会社
公害要因銅山の開発による排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質
主な被害人的被害(カドミウム中毒による中毒死・死産の増加)、農業被害(鉱毒による稲・麦の立ち枯れ。山林荒廃による洪水多発)、漁業被害(鮎を初めとする川魚の大量死)
事件年表
月日出来事
明治一〇(1877)年 足尾銅山が民間に払い下げとなり、これを購入した古河市兵衛の経営となる。
明治一一(1878)年 鮎の大量死発生。
明治一八(1885)年 この年までに大鉱脈が発見され、西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンを数える東アジア一の銅の産地となった。一方で、鮎の大量死が再発した。
明治二三(1890)年 栃木県足利郡吾妻村(現在・佐野市吾妻地区)の村議会が足尾鉱山の操業停止を求める決議を採択。
 栃木県議会も足尾銅山の調査を求める議決を行う
明治二四(1891)年 田中正造が国会で鉱毒問題を初めて質問。政府、積極的な鉱毒対策を行わなかったどころか、吾妻村民等によって刊行された鉱毒の記録集『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸事情』発刊直後に発売禁止にする等、露骨な言論封殺が敢行
明治二五(1892)年 古在由直等が鉱毒の主成分を調査。結果は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸。
明治二六(1893)年 古河鉱業が、農民に示談を持ち掛ける。
 示談金を払い、明治二九年六月末までに対策を行って鉱毒をなくすという内容での示談を図る。
 だが、田中正造は、「一切の鉱毒被害請求権を永久に放棄する」という古河鉱業側にとって虫のいい内容だったためこれに応じないように農民達を説得。農民達もこれに応じた。
 直後に大洪水で鉱毒が拡大し、効果的な対策が為されていないことが判明、農民側は示談契約書を根拠に再度交渉を行った。
明治二九(1896)年 田中正造、再度国会にて鉱毒質問を行う。
 群馬県議会が足尾銅山の操業停止を求める議決(『鉱毒ノ儀ニ付建議』)を行った。
一〇月四日 正造の主導の元、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・館林市下早川田町)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県の鉱毒事務所が作られた。
明治三〇(1897)年三月二日 鉱毒被害地の農民が大挙して上京し、鉱毒被害を陳情。
三月二四日 農民達、再度の上京・陳情。
同月 世論の高まりを受けて政府は足尾銅山鉱毒調査委員会を設置、数度の鉱毒予防令を出した。
五月 第三回の予防令で、古河側に、排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置、煙突への脱硫装置の設置を命令。
 工事自体はそれぞれ数十日の期限付きで、「一つでも遅れた場合には閉山する。」という厳しい姿勢で命ぜられ、古河側も二四時間体制で工事を行い、期限内に間に合わせた。
 だが、突貫工事が裏目に出たものか、これらの装置は、満足に役には立たなかった(ちなみに政府が予防令による工事が鉱毒問題解決に不充分であったことを認めたのは平成五(1993)年の『環境白書』でのこと)。
明治三一(1898)年九月 被害民の一部が鉱毒予防工事の効果はないものとみなして再び反対運動に立ち上がり、大挙して上京請願。
明治三一年九月二六日 被害農民、三回目の上京請願。
明治三二(1899)年 群馬・栃木両県鉱毒事務所が鉱毒によるカドミウム中毒で死者・死産は推計で一〇六四人と発表。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。
明治三三(1900)年二月一三日 被害民、四回目の上京請願。途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)にて待ち受けていた警官隊と衝突。流血の惨事となり、多数の逮捕者が出た(川俣事件)。
二月一五日 田中正造が国会にて川俣事件に関する質問を行う。
二月一七日 正造、再度川俣事件に関する質問を行う。総理大臣山縣有朋、極めて不誠実な対応で質問を無視する。
明治三四(1901)年一二月一〇日 東京日比谷にて田中正造が明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴せんとして馬車に走り寄る。
 警備の警官に取り押さえられ、正造を精神病患者と云うことにして事件の矮小化を図ったが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られた。
 足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村(これに前後して隣接する久蔵村、仁田元村も同様の経過で廃村となった)。
 また同年より昭和二(1927)年にかけて対策工事が行われ、表だった鉱毒被害は減少するも、渡良瀬川に鉱毒は流れ続けた。
 松本隆海(編集者)が『足尾鉱毒惨状画報』で、安蘇郡界村字高山(現・佐野市高山町、当時の人口約八〇〇人)で、五年間における兵役合格者が僅か二名しか出ておらず(適齢者は延べ五〇名)、しかも、その合格者の内1名も入隊後一〇日で病気除隊となったという逸話を紹介。
明治三五(1902)年二月一九日 被害地の農民、上京・請願(五回目)
三月二日 被害地の農民、上京・請願(六回目)
 世論の高まりに慌てた政府が第二次鉱毒調査委員会を設置。
明治三(1903)年 第二次鉱毒調査委員会が、六年前の予防令後、鉱毒は減少したと(勝手に)結論づけ、洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な「遊水池」を作るべきとする報告書を提出した。
 ※実際、その年、同地は豊作だった。これを受けて同委員会は「予防工事の成果」としたが、田中正造はこれを否定。豊作の要因は大洪水による山崩れで、新しい肥えた土が被害農地にかぶさったためだと抗弁した(現在、国土交通省も正造の説を支持している)。
 逆に群馬県山田郡側では鉱毒被害は増加。詳細は不明だが、大正時代、製錬方法の変更で渡良瀬川を流れる鉱石くずの粒が細かくなり、浮遊したまま川を流れるようになったため、上流部の渡良瀬川右岸に多く流れ込んで堆積するようになったとの説もある。
明治三九(1906)年 谷中村、強制廃村となり、藤岡町に合併。
明治四〇(1907)年 谷中村の強制破壊開始。
大正二(1913)年九月四日 田中正造逝去。
大正六(1917)年 谷中村村民全員の強制退去完了。
 渡良瀬川から農業用水を取水していた待矢場両堰普通水利組合が、「渡良瀬川には鉱毒はなくなっていない」とする意見書を群馬県知事に提出。
大正一三(1924)年 旱魃発生を受けて、原因が水源地・足尾の山林が荒廃して保水能力を失ったため、と考えた待矢場両堰普通水利組合・三栗谷用水普通水利組合は個々に署名活動を行う(内容は鉱害による損害賠償請求が行えるようにして欲しいというもの)。
大正一四(1925)年 待矢場両堰普通水利組合・三栗谷用水普通水利組合、群馬県側の農民ら数千人から集めた署名を貴族院、衆議院、内務大臣、農務大臣宛てに請願書が提出。
 当時は原告に立証責任があったため、彼等が裁判で勝つ見込みがなかったが、この要望は昭和一四(1939)年に実現した。
大正一五(1926)年 三栗谷用水が鉱業取り締まりや鉱業法改正の嘆願書を内務・農林・商工大臣宛に提出(この年から昭和八(1933)年までほぼ毎年提出された)。
昭和一一(1936)年 三栗谷用水は古河鉱業から事業資金の一部八万五〇〇〇円を供出させ、取水口の改良工事を行う(それまでの渡良瀬川からの直接取水から、伏流水を主に取水する方式に変更)。 
 この工事に際して、古河鉱業は見返りに永久示談を要求し、今後一切現金提供を求めないという条文が契約書に盛り込まれた。
※工事は昭和二五(1950)年の第四次工事まで続き、最終的に古河鉱業は総工費三二〇〇万円の四分にあたる一一九万円を負担。第四次工事による中川鉱毒沈砂池設置によって下流部の鉱毒被害は激減した。だが鉱毒防止装置の維持費は、その後も「用水利用料増加」という名目で農民の負担となった。
 尚、工事自体は第五次まで続いたが、これには古河鉱業は金銭を負担していない。
昭和一三(1938)年 渡良瀬川で大洪水があり、鉱毒が農地に流れ込む。
昭和一四(1939)年 渡良瀬川で大洪水があり、鉱毒が再度農地に流れ込む。これをうけて渡良瀬川改修群馬期成同盟会が結成。内務省に対して渡良瀬川の河川改修や水源地の涵養などを求める陳情が行われた。
※陳情は翌昭和一五(1940)年までに二二回行われ、政府はこの事業に予算をつけたが、第二次世界大戦のため、大改修が行われたのは戦後であった。
昭和二一(1946)年 群馬県東部の渡良瀬川流域の農民が集まり、足尾銅山精錬所移転期成同盟会が結成(程なく鉱害根絶同盟会と改称)。古河鉱業と直接交渉を行い、鉱毒反対運動を続けた。
昭和二二(1947)年 カスリーン台風を受け、渡良瀬川全域に堤防が作られる。以後、現在に至るまで渡良瀬川では大規模な洪水は起きていない。
昭和二八(1953)年 鉱害根絶同盟会が官製の対策委員会に吸収される形で消滅した。対策委員会は古河鉱業から土地改良資金の二〇分の一に当たる八〇〇万円を受け取って解散。
昭和三三(1958)年五月三〇日 足尾町オットセイ岩付近にある源五郎沢堆積場が崩壊。崩れた鉱石くずが渡良瀬川を流れ、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現・太田市毛里田)の田畑に流れ込んだ。
 以後、この地で再び鉱毒反対運動が盛んになる。
六月一一日 毛里田村の農民達が足尾を訪れるが、古河鉱業は自身に責任はないという主張を繰り返し。
七月一〇日 責任を認めていなかった古河鉱業が、国鉄には鉱石くずの流出で線路が流れたことに対して補償金を払っていたことが判明したことに毛里田村住民等が激怒。毛里田村期成同盟会(のちの毛里田地区期成同盟会)が結成される。
八月二日 毛里田村の動きを受けて、群馬県桐生市、太田市、館林市、新田郡、山田郡、邑楽郡の農民が中心となって群馬県東毛三市三郡渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会が再度結成。
 古河鉱業は一五〇万円の見舞金を提示したが、毛里田村民側は賠償金の一部としてでなければ受け取れないと拒否。
 交渉過程にて古河鉱業は五年前に土地改良資金を提供したときに、永久示談を行ったと主張し、当時の契約書も提示された(※この契約書に関しては、昭和四一(1966)年、参議院商工委員会で鈴木一弘委員が有効性について農林省、通産省の担当者に問い質した。両省の担当者は、契約書に署名した水利組合理事長に独断でそのような契約を結ぶ権限があったか疑わしく、また、契約後も鉱毒被害が発生していることから、永久示談の成立には否定的な答弁を行った)。
昭和三七(1962)年 水質審議会に渡良瀬川専門部会を設け、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会会長の恩田正一が会長を辞職すれば審議会委員に加えてよい、という内容の政治的な妥協がはかられた。
 同盟会は「運動の分断を図ろうとするもの」として激しく抵抗したが、恩田はこれを受け入れ、会長を辞職した上で水質審議委員となった。しかし、委員となった恩田の意見は殆ど無視された。
昭和三九(1964)年一〇月五日 毛里田村鉱毒根絶期成同盟(恩田の後任会長に板橋明治が就任)が再び押出しが行う。
昭和四一(1966)年九月 足尾町の天狗沢堆積場が決壊。再度、鉱毒が下流に流れる(古河鉱業はこの事実を公表せず、期成同盟会の住民は、群馬県からの連絡でこの事実を知った)。
昭和四六(1971)年 群馬県毛里田で収穫された米からはカドミウムが検出され出荷停止。農民等は八〇年分の賠償金一二〇億円を古河鉱業に請求。
昭和四七(1972)年三月三一日 板橋明治を筆頭代理人とした九七一名、群馬県太田市の毛里田地区の被害農民達(太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会)が古河鉱業株式会社を相手取り、総理府中央公害審査委員会(後の総理府公害等調整委員会)に提訴。
四月三日 県は古河鉱業が否定した毛里田地区の土壌汚染についても足尾銅山の鉱毒が原因と断定(翌年に、農地三五九.八ヘクタールを土壌汚染対策地域農用地に指定した)。
昭和四八(1983)年二月二八日 足尾銅山閉山
昭和四九(1974)年五月一一日 総理府中央公害審査会から事件の処理を引継いだ公害等調整委員会において調停が成立。「百年公害」と云われたこの事件の加害者を遂に古河鉱業と断定、加害責任を認めさせ、古河鉱業は一五億五〇〇〇万円を支払った。
 ここに及んで古河鉱業は初めて鉱毒事件の責任を認め、補償金を支払ったこととなった。
※古河鉱業は、銅の被害のみを認め、カドミウムについては認めなかった。
※農民側も農業被害の早期解決を目指し、敢えてカドミウム問題には触れなかった。
※調停の内容に含まれていた土地改良は、昭和五六(1981)年に始まり平成一一(1999)年に完了した。
※公害防除特別土地改良事業として総事業費は五三憶三〇〇〇万円。加害原因者の古河鉱業五割一分を、残りの大部分は国と群馬県が、極一部を桐生市と太田市が負担した。
※調停条項には無いが、被害農民には土地改良費の金銭負担は一切無く、被害農民が受取る補償金を非課税とさせた。
昭和五一(1974)年一〇月二五日 太田市韮川地区鉱毒根絶期成同盟会の農民五四六人が、一三億円の賠償を古河鉱業に請求。
一一月一八日 群馬県桐生市で桐生地区鉱毒対策委員会が設立され、農民四四四人が古河鉱業に対し交渉をもった。
昭和五二(1975)年一一月一八日 桐生地区鉱毒対策委員会と古河鉱業間の和解が成立し、古河鉱業は銅などによる鉱毒被害を認め、二億三五〇〇万円を支払った。
昭和五三(1976)年一二月一日 太田市韮川地区鉱毒根絶期成同盟会と古河鉱業間の和解が成立。古河鉱業は一億一〇〇〇万円を支払った。
昭和五四(1977)  毛里田地区で申請漏れになっていた住民が、公害等調整委員会に調停を申請。一二月に三九〇万円で和解が成立した。
平成六(1994)年 渡良瀬川鉱毒根絶毛里田期成同盟会(←太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会の改称)と、韮川地区鉱毒根絶期成同盟会が合併。渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会(会長:板橋明治)となった。
平成一一(1999)年五月 渡良瀬川沿岸土地改良区による公害防除特別土地改良事業竣工記念碑建立(撰文及び揮毫は板橋明治)
平成一六(2004)年 桐生市議会が足尾町の中才浄水場に自動取水機の設置を求める要望書を採択。



闘士 田中正造(たなかしょうぞう)
生没年天保一二(1841)年一一月三日〜大正二(1913)年九月四日
事件時の職業衆議院議員
略歴
 天保一二(1841)年一一月三日、下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)にて名主の家にて出生。幼名は兼三郎(かねさぶろう)。

 長じて「正しく生きる。」ことを念じて自ら田中正造と改名し、父の跡を継いで小中村名主となった。
 若き日より硬骨漢で、領主である六角家に対しても名主として村民の為に求めるべきは堂々と求め、慶応四(1868)年には投獄された。牢獄は立つも寝るも苦しい過酷な場所だったが、正造はこのとき西洋経済を学んだらしい。

 翌明治二(1869)年に出所。翌明治三(1870)年に江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となった。
 だが、翌年、上司殺害の容疑者として逮捕・投獄された。勿論冤罪で、物的証拠もなかったのだが、正造の直言居士振りが上役達に疎んじられていたことが背景にあったのは想像に難くない。
 三年後の明治七(1874)年に釈放されて小中村に戻り、明治九(1876)年まで石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭を務めた。

 明治一一(1878)年より政治活動を開始。区会議員、栃木新聞(現・下野新聞)編集長、栃木県議会議員、立憲改進党党員等様々な場で活動したが、明治一八(1885)年に加波山事件(※栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件)に関係したとして逮捕された。
 被害者だった三島通庸との対立により疑われた訳だが、三島が異動によって栃木県を去ると釈放されたのだから、当時の地方警察が如何にいい加減だったかが伺えるというものである

 政治活動を再開した正造は明治一九(1886)年、第一三回臨時県会議長に当選。更に明治二三(1890)年に第一回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した(←所属は立憲改進党)。
 そしてこの年、正造の地元である渡良瀬川にて大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認された

 翌明治二四(1891)年から正造は鉱毒の害を視察し、対鉱毒問題に取り組み出した。
 国会での質問、現地での鉱害を訴える演説を繰り返したことで農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約し、実際に脱硫装置などが着工されたが、効果は無きに等しかった。
 明治三三(1900)年二月一三日に被害農民達が鉱山の操業指止めを陳情せんとして集団上京に及ばんとして警官隊と衝突し、流血沙汰となったことに衝撃を受けた正造は二日後と四日後に国会で事件に関する質問を行い、日本の憲政史上に残ると云われた大演説を敢行したが、総理大臣・山縣有朋のふざけた対応で黙殺に近い対応をされた。

 政治家としての活動では埒が明かないと見た正造は明治三四(1901)年一〇月二三日、衆議院議員を辞職し、一二月一〇日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に訴状をもって直訴を決行した。
 すぐに警備の警官に取り押さえられ、事件も「狂人の仕業」としてもみ消されようとしたが、号外が出る程の騒ぎが完全に揉み消せる筈もなく、政府も重い腰を上げたが、その手段は被害者である筈の渡良瀬川流域の農村に犠牲を強いるものだった

 つまりは渡良瀬川下流に鉱毒に汚染された河水を流し込む貯水池を造る計画を立案したのだが、それは建設予定地とされた場所にある村を廃村とするものだった。
 勿論建設予定地とされた村々は猛反発。正造もこれに参加し、候補地とされた栃木県下都賀郡谷中村に居を移し、政府のやり方に抵抗した。
 だが政府は工事と廃村を強行し、明治四〇(1907)年)の土地収用法の適用を発表し、「村に残れば犯罪者となり逮捕される。」と圧力をかけ、多くの村民がこれに屈して村外に出た。

 正造はそれでも諦めず谷中村に居座り続け、裁判や演説活動に尽力したが、大正二(1913)年八月二日、支援者等への挨拶回りの途中で足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れた。
 胃癌に蝕まれていた正造は同所にて約一ヶ月寝込み(←支援者とはいえ、庭田氏は心の広い人だ)、同年九月四日に逝去した。田中正造享年七二歳。
 若き日に西洋経済を学んで活かした土地転がしで一時は現代の額にして一億円を手にした正造だったが、後半生と財産のすべてを鉱毒問題に尽くし、死去したときは無一文だったと云う。
 正造が残した信玄袋に入っていたのは原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石三個、日記三冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけだった(邸宅と田畑は地元の旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた)。



 田中正造足尾銅山鉱毒事件との戦い
 明治二四(1891)年、田中正造は鉱毒の害を視察し、第二回帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行った。このとき、国会議員達が一張羅の洋装に身を固める中、正造は木綿袴で、髪も乱れていたと云う。

 正造は明治二九(1896)年にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・群馬県館林市)の雲龍寺で鉱毒の害を訴える演説を行った。
 明治三〇(1897)年に渡良瀬の農民達が鉱毒問題解決を訴えて陳情団を結成して東京に押し掛けたことも有って、農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約し、実際に脱硫装置などが着工されたが、効果は無きに等しかった。

 明治三三(1900)年二月一三日、農民達は鉱山の操業指止めを陳情せんとして東京に向かった。だが、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)にて待ち受けていた警官隊と衝突。流血の惨事となり、多数の逮捕者が出た(川俣事件)。
 事件を受けて正造は二日後と四日後に国会で事件に関する質問を行った。世に名高い「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説と云われている。
 この演説の途中で正造は所属していた憲政本党を離党を表明してまでその決意を示したが、総理大臣・山縣有朋は「質問の意味が分からない。」と云うふざけた理由で答弁を拒否した!!!!!

 富国強兵政策において、死に体となった渡良瀬周辺よりも足尾銅山の方が大切と見る政府要人で固められた国会という場で鉱毒を訴えても埒が明かないと見た正造は、明治三四(1901)年一〇月二三日、衆議院議員を辞職。その後も鉱毒被害を訴える活動を続け、遂には明治天皇への直訴に及ばんとした。  一二月一〇日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に訴状をもって駆け寄らんとした正造だったが、前述した様に警備の警官に取り押さえられた。
 だが、直訴失敗は正造の想定内だった。国会が開設された世とはいえ、皇族への直訴はまだまだ重罪となる時代で、勿論正造は死を覚悟していた(直前に妻に累が及ばない様に離縁状を送っていた)。果たして正造が計算した様に東京市中は大騒ぎになり、号外も配られた。
 直訴状の内容は広く知れ渡り、正造としては直訴が事件化することで足尾銅山鉱毒事件が世に広く知られ、世間を動かせれば目的を達することが出来ると踏んでいた。
 だが残念ながら計算高さでは政府の方が一枚上手で、正造の直訴未遂を「単に狂人が馬車の前によろめいただけ。」ということにして即日釈放した。
 釈放された正造は迎えに来た支持者達に、「政府め、儂を病人にしおった。」と云って苦笑いしたと云う。

 さすがにこうなっては政府も鉱毒問題に対して何もしない訳にはいかず、重い腰を上げたが、その手段は前述した様に被害者である筈の渡良瀬川流域の農村に犠牲を強いるものだった
 政府は明治三五(1902)年、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画を立案。勿論建設予定地とされた埼玉県川辺村・利島村は猛反発し、正造もこれに参加して計画を白紙にさせた。
 だが政府は懲りずに翌明治三六(1903)年には栃木県下都賀郡谷中村を貯水池にする計画を立案した。正造は明治三七(1904)年七月に居を谷中村に移し、抗議し続けた。
 だが栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事が始められた。これに対して谷中村議会は明治三九(1906)年に藤岡町への合併案を否決したが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した。」と一方的な発表を行って同村を強制廃村とした
 正造はその後も谷中村に住み続けて抵抗したが、政府は明治四〇(1907)年)に土地収用法の適用を発表し、「村に残れば犯罪者となり逮捕される。」と圧力をかけ、多くの村民がこれに屈して村外に出た。
 だが、正造は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。

 しかし、奮戦空しく、明治四一(1908)年、政府は谷中村全域を河川地域に指定。正造は土地の強制買収を不服とする裁判や精力的な演説活動に尽力したが、大正二(1913)年八月二日に病に倒れ、同年九月四日に逝去した。
 前述した様に、逝去時に無一文に等しかった正造だったが、財産と弔問客の数が比例する世間の例とは真逆に、一〇月一二日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で行われた本葬には数万人が参列したと云われている。
 ちなみに正造の質問をふざけた態度で無視した山縣有朋の葬儀は国葬だったのにもかかわらず一〇〇〇人も集まらなかった(笑)。

 正造の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計六ヶ所に分骨された。そして昭和四八(1973)年、足尾銅山は閉山となり、渡良瀬川はかつての清流を取り戻し始めた

 平成二五(2013)年、今上天皇陛下が渡良瀬遊水地や佐野市を訪れた際に正造が明治天皇に渡し損ねた直訴状が渡された。実に田中正造一大決心から一一三年後のことであった。



薩摩守所感 まあ、よく云ったとしても、「大の虫を生かす為に少の虫を殺した。」というのが時の政府の態度だ。有り体に云えば、富国強兵に貢献するであろう足尾銅山に味方し、渡良瀬川周辺住民の被害を軽視し、その救済に本腰を入れなかったということだ。

 間違っても、銅採掘を差し止めてまで農民達を救おうとは欠片も考えていなかった

 ま、ほんの少しだけ政府に味方をすると、問題が表面化・重大化してまでは黙っていなかったから、そうなるまでは富国強兵を支える足尾銅山を優遇した、ということになろう。

 ただ、詰まる所、時の権力が金とコネを持つ者に味方するという腐敗体質は庇い様がない。
 足尾銅山自体は江戸時代に鉱脈が発見されてから昭和四八(1973)年の閉山まで三六〇年の歴史を持ち(その為、古河鉱業が発表している鉱山史には、鉱毒の害は江戸時代からあったと記載されている)、明治初期には銅の埋蔵残量が期待されていなかったところを古河市兵衛によって再活性化された経緯があった。
 古河市兵衛は今でも有名な古河財閥の創設者で、陸奥宗光の次男を養子に迎えていた。民主主義がようやく先鞭を付けられようとしていた明治中期では、政府が農民よりも市兵衛に味方したのも無理ない話だったと云えなくもない。

 だが、かかる時代背景を考慮に入れても、時の政府の古河贔屓が余りに露骨だったことと、田中正造の質問に対する山縣有朋の態度は呆れるばかりである。
 百歩譲って、誰が総理大臣だったとしても正造の意見を退ける結果にあったとしても、「他に云い様があっただろうに………。」と思われてならない。

 だが、気を付けなくてはならないのは、現代の政治家並びに有権者も当時と余り大差ないということである。
 すべての国会議員がすべての成人男女を有権者とした普通選挙で選ばれて運営される現状にあっても、地域の地盤さえ押さえれば、汚職塗れで、裁判で有罪が確定し、マスコミで叩かれまくっている様な人物でも簡単に当選させてしまう……。それ故、ゼネコン業界を初め大企業優遇の構図は変わらず、利権の陰に外れ、社会的弱者となっている者が虐げられている状況は明治・大正と大して変わっていないと云わざるを得ない。

 果たして、現代の政治家の何人が田中正造の高潔さ、民衆重視の言動とまともに向かい合えるだろうか?同時に有権者もなのだが。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新