対公害闘士列伝

第弐頁 細川一……対水俣病・病因分析

公害名
水俣病
発生昭和一七(1942)年頃、公式には昭和三一年五月一日
終焉いまだ至らず。患者とチッソの和解は成立したが、未認定患者問題や国・熊本県の責任が係争中(平成三〇(2018)年一月一九日現在)
(一応の)決着昭和四八(1973)三月二〇日 患者側勝訴
責任企業新日本窒素肥料株式会社(現・チッソ株式会社)
公害要因工場排水に含まれていたメチル水銀
主な被害水銀中毒。水銀によって汚染された魚介類を摂取(胎児が母体から受けた例も含まれる)したことで、中枢神経系が侵され、四肢末梢神経の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、振戦(手足の震え)等を起こす。重篤化すると狂騒状態から意識不明を来たし、死に至る。比較的軽症の場合では頭痛、疲労感、味覚・嗅覚の異常、耳鳴りが起きる。
 一旦生じた脳・神経細胞の障害の多くは不可逆的(リハビリによりある程度症状が回復した例は存在する。
 初期には中傷・差別等の風評被害があり、一部には現在でも残っている。
事件年表
月日出来事
昭和一七(1942)年 この頃から、水俣病らしき症例が見られたとされる。
昭和二一(1946)年 日本窒素がアセトアルデヒド、酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。
昭和二四(1949)年 この頃から水俣湾でタイ、エビ、イワシ、タコなどが獲れなくなる。
昭和二七(1952)年 最も早期の認定胎児性患者が出生(但し認定は二〇年後)。水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)。
昭和二八(1953)年 熊本県水俣湾で魚が浮上し、ネコの狂死が相次ぐ。以後、急増。
昭和二九(1954)年八月一日 同日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。
この年 後に水俣病と認定された患者が一二人発生。他に五人が死亡。
昭和三一(1956)年五月一日 細川一「原因不明の中枢神経疾患の発生」を水俣保健所に報告(後にこの日が水俣病公式発見の日とされた)。
この年 五歳一一ケ月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。五〇人が発病し一一人が死亡。
昭和三二(1957)年 水俣病が命名される。
 水俣保健所の実験で、水俣湾内で獲れた魚介類を与えたネコに奇病発生。
昭和三三(1958)年九月 新日窒水俣工場は、アセトアルデヒド酢酸製造設備の排水経路を、水俣湾百間港から不知火海(八代海)に面した水俣川河口の八幡プールへ変更。
この年 熊本県が水俣湾海域内での漁獲を禁止する。
昭和三四(1959)年三月 患者が水俣湾周辺に留まらず、水俣川河口付近及び隣接する津奈木町や海流の下流部にあたる鹿児島県出水市と不知火海沿岸全体に拡大していることが判明。
七月 この時点では、水俣病の原因物質としてマンガン、セレン、タリウム等を疑っていた熊本大学医学部研究班が、原因物質は有機水銀と発表。これに対しチッソの吉岡喜一社長は「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係。」と反論。
一〇月 通産省が新日窒に対しアセトアルデヒド製造そのものの禁止はせずに、アセトアルデヒド製造工程排水の「水俣川河口への放出」のみを禁止する。新日窒は通産省の指示に従い、排水経路を水俣川河口から水俣湾百間港に戻し昭和四四(1968)年まで排水を流し続けた。
一〇月七日 細川一、院内ネコ実験を行い、九月よりアセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、技術部幹部に報告。しかし幹部は実験結果を否定し、それ以上の実験を禁じた。
一一月一二日 厚生省食品衛生調査会が水俣病の原因は有機水銀化合物であると厚生大臣に答申(但し、その発生源については新日窒水俣工場が疑われるとの談話を残すに留めた)。
一一月一三日 調査会の「水俣食中毒特別部会」が解散させられる。新日本窒素肥料及び日本化学工業協会は有機水銀原因説に対してなどは強硬に反論。
一二月三〇日 新日本窒素肥料が水俣病患者・遺族等の団体と見舞金契約を結んで少額の見舞金を支払うも、汚染や被害についての企業責任は認めず(同時に、将来水俣病の原因が工場排水であることが判明しても新たな補償要求は行わないものとした)。
 同時に工場は、汚水処理装置を設置し、工場排水による汚染の問題はなくなったと宣伝(後に同装置は水質汚濁を低下させるだけで、排水に溶けているメチル水銀の除去には全く効果がないことが明らかにされた)。
 他にも排水停止を求めていた漁業組合とも漁業補償協定を締結。
この年 熊本大学医学部水俣病研究班も水俣病の原因物質は有機水銀であると公表。
昭和三五(1960)年 政府が経済企画庁、通商産業省、厚生省、水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協議会」を発足させて原因究明にあたらせる(何の成果も出すことなく協議会は翌年には消滅)。
昭和三六(1961)年 水俣市で死亡した女児(三歳)が病理解剖で胎児性水俣病と確認。
昭和三七(1962)年 水俣病審査会、脳性小児麻痺患者一六人を胎児性水俣病と認定。
昭和三八(1963)年二月一六日 熊本大学研究班の報告会で、入鹿山且朗教授が「新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内の水銀スラッジから有機水銀塩を検出した」と発表。
昭和三九(1964)年一月 白木博次東大医学部教授が、入鹿山らの研究結果を論拠に、水俣病の原因がメチル水銀であることを確定する論文を発表(これが後の厚生省による水俣病とメチル水銀化合物との因果関係の公式認定に繋がることとなった)。
昭和四〇(1965)年 新潟大学が同県阿賀野川流域において有機水銀中毒と見られる患者が発生していると発表(新潟水俣病・第二水俣病の発生)。
昭和四三(1968)年五月 新日窒水俣工場がアセトアルデヒドの製造を終了。
九月二六日 厚生省が水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表。同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表。
昭和四二(1967)年 チッソ工場の反応器の環境を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的に証明される。
昭和四四(1969)年六月一四日 水俣病患者・家族の内一一二人がチッソを被告として、熊本地方裁判所に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第一次訴訟)を提起。
九月二六日 メチル水銀化合物が原因物質として公式に発表される。
この年 公害被害者全国大会開催。水俣病、イタイイタイ病、三池鉱山の一酸化炭素中毒、森永ヒ素ミルク中毒、カネミ油症などの被害者代表百数十人が集まる。
昭和四五(1970)年 大阪厚生年金会館で行われたチッソ株主総会に、白装束の患者(熊本水俣病第一次訴訟原告家族)らが、交渉を拒み続けたチッソの社長に直接会うために、一株株主として参加した。大阪・水俣病を告発する会発足。
昭和四六(1971)年 水俣病患者が新たに一六人認定。患者総数一五〇人、内死者四八人。また、新潟水俣病患者が裁判に勝訴。
昭和四八(1973)年三月二〇日 熊本水俣病第一次訴訟に対して原告勝訴の判決が下される
 判決は、チッソの「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」と云う主張に対しても「化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有する。」として、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした
※これにより、水俣病として認定された患者はチッソからの補償を受けることとなった。補償協定により、一時金一人一六〇〇〜一八〇〇万円、年金、医療費の支給等で、認定患者の数は約三〇〇〇人(死者含む)とされた。
 公害健康被害の補償等に関する法律(公健法)による水俣病の認定は、国(環境省)の認定基準にしたがって、国からの委託を受けた熊本県・鹿児島県が行うとされた。
この年 環境庁が水銀値25ppm以上の底質(海底や川底)はすべて除去することを決める。これに基づき水俣湾の汚泥除去と埋め立てが行われる。また水俣市の水俣病認定患者が自殺する事件が起きた。
昭和四九(1974)年 五歳で水俣病に冒され、一八年間危篤状態だった女性が死亡(水俣病による一〇〇人目の死者)。
昭和五〇(1975)年三月 水俣病関西患者の会が結成される。
この年 チッソ幹部が水俣病の「殺人、傷害罪」で告訴される。
昭和五一(1976)年 熊本地方検察庁、水俣病でチッソ関係者を業務上過失致死傷害罪で起訴
昭和五四(1979)年三月二二日 熊本地方裁判所で元チッソ幹部二名に業務過失致死傷害罪で有罪判決。
昭和五五(1980)年 水俣病認定申告者が国・県も被告に加え提訴(第三次訴訟)。以後申請者の提訴が相次ぐ。
昭和五七(1982)年 「チッソ水俣病関西訴訟原告団」結成、チッソ水俣病関西訴訟提訴。
昭和六二(1987)年 水俣病第三次訴訟で、熊本地方裁判所がチッソとともに初めて国と県の責任を認め、総額六億七四〇〇万円の支払いを命じる。
昭和六三(1988)年三月一日 刑事裁判の上告審で、最高裁がチッソ元社長と元工場長の上告を棄却し、禁固二年・執行猶予三年の有罪判決(刑事訴訟後から一二年振り、患者の公式確認以来では三二年振りの決着)。
平成二(1990)年一二月五日 水俣病裁判の国側の責任者として、和解拒否の弁明を続けていた環境庁企画調整局長が自殺。
平成四(1992)年 水俣市の中学校の調査で、水俣病の偏見から文通を断られたり、修学旅行でからかわれたり等の差別に悩むケースが多いことがわかる。
平成五(1993)年 熊本地方裁判所が国・県の発生拡大責任を全面的に認める判決。
平成七(1995)年 政府、水俣病の未確認患者問題につき最終解決策を決定。総理大臣・村山富市が原因の確認・企業への対応の遅れを首相として初めて陳謝(但し国の法的責任には触れず)。
平成九(1997)年 水俣湾の安全宣言がなされ、湾内での漁業が再開される。
平成一一(2001)年 福岡高等裁判所にて水俣病に対し、国・熊本県の責任を認める初の高裁判決が下る。チッソに対する除斥期間経過も撤回。関西水俣病訴訟団が国・熊本県に上告を断念するように申し入れたにも関わらず、国・熊本県が最高裁へ上告する。
平成一四(2002)年二月二日 チッソが最終処分場(八幡プール)の外周道路及び護岸の寄付を水俣市に申し入れる(一〇月七日に水俣市は寄付を受け入れ)。
平成一六(2004)年 最高裁判所が関西訴訟に対する判決で、水俣病の被害拡大について、排水規制など充分な防止策を怠ったとして、国および熊本県の責任を認める。また認定基準については、昭和五二(1977)年判断条件は補償協定に定めた補償内容を受けるに足る要件として限定的に解釈すべきであるとし、その症状の一部しか有しないものについてもメチル水銀の健康影響を認め、チッソなどに六〇〇〜八五〇万円の賠償の支払いを命じる。
平成一七(2005)年 未確定患者が熊本地裁に集団提訴。
平成一九(2007)年一〇月 「水俣病被害者互助会」が、胎児の時や幼少期にチッソ水俣工場が排出したメチル水銀の汚染被害を受けたとして、二億二八〇〇万円の損害賠償を求め熊本地裁に提訴。
一一月一九日 チッソの後藤舜吉会長は救済問題で、新救済策について、「(チッソの負担分は)株主や従業員、金融機関などへの説明がつかない」として受入拒否意向を正式表明したが、鴨下一郎環境大臣は、チッソに負担を求めていく考えを明らかにした。
この年 水俣病関西訴訟の八一歳女性が認定求め提訴。
平成二一(2009)年七月 水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する水俣病救済特別措置法が成立。
平成二二(2010)年三月 未認定患者らでつくる水俣病不知火患者会(約二一〇〇人)が提訴した損害賠償請求について、熊本地裁は和解を勧告し、その和解協議において裁判所の所見(※)が示された。
原告被告双方が和解案を受け入れることを表明
※所見内容 水俣病と判定された原告に一時金二一〇万円及び療養手当を被告の国・県・チッソが支給することとする。
四月一六日 水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法の救済措置の方針を閣議決定。
平成二六(2014)年五月一六日 国と熊本県に対し、食品衛生法に基づく被害実態調査と違法性の確認を求める行政訴訟が起こされる。



闘士 細川一(ほそかわはじめ)
生没年明治三四(1901)年九月二三日〜昭和四五(1970)年一〇月一三日)
事件時の職業新日本窒素肥料株式会社(現・チッソ株式会社)水俣工場附属病院長



略歴
 明治三四(1901)年九月二三日 愛媛県西宇和郡三瓶村(現・西予市)の岡金三郎の子息として誕生。長じて東京帝国大学(現・東京大学)医学部に進学し、昭和二(1927)年に卒業。  昭和一一(1936)年、日本窒素肥料株式会社に入社し、朝鮮咸鏡北道慶興郡にある阿吾地工場の附属病院長に就任。

 翌昭和一二(1937)年、大洲市の細川家に養子入り、細川一となる。
 昭和一六(1941)年、水俣工場附属病院長に就任(戦時中は軍医としてビルマに赴任し、一時水俣を離れた)。
 院長として病院経営のすべてを委ねられた細川は、最初小さかった工場付属病院を徐々に総合病院としての設備も充実させ、工場労働者だけでなく地域住民のための医療センターとして理想に近いものを築き上げられた。
 設備拡充に伴って、会社幹部から「格好がつかないから」という理由で何度も院長室を造ろうと云われても、「院長室を造る費用があったら、診療室や、病室を一つでも多く造って下さい。」と断ったという人格者で、治療に当たってチッソの社員と工員が差別待遇されていたのを禁じ、患者からも同業者からも厚い信頼を寄せられていた。

 そんな中、水俣市に原因不明の病気が多発し、細川は昭和三一(1956)年五月一日、「原因不明の中枢神経疾患の発生」を水俣保健所に報告した(この日が水俣病公式発見の日とされる

 昭和三二(1957)年五月より、猫に水俣工場廃液を与える実験を開始し、昭和三四(1959)年一〇月に「猫400号」の実験を経て、水俣病の原因は工場廃液と確信したが、報告を受けた幹部は「一例だけでは証拠にならない。」として否定し、細川にはそれ以上の実験を禁じた(←内心認めているのと一緒やな(怒))。
 結局細川「猫400号実験」の結果を公表することは会社への裏切り行為となると説得され、思い止まり、チッソは実験結果を伏せたまま患者や漁民との和解交渉に乗り出したが、それは「見舞金」(←注)「補償金」ではない)を払う代わりに、以後工場排水が原因と判明したとしても異議を申し立てないと約束させるもので、水俣病問題をそれで手打ちにしようというものだった。
そして有機水銀を含む工場排水はその後も流され続けた…………。

 昭和三七(1962)年、新日本窒素肥料を定年退職し、故郷愛媛県に戻り、八幡浜の三瀬病院、三瓶町の三瓶病院に務めた。
 昭和四〇(1965)年、新潟で第二水俣病(新潟水俣病・阿賀野川水銀中毒)が発生した際にも、公式発表の一ヶ月後には研究チームの一員となって現地調査に参加もした。だが、昭和四五(1970)年、肺癌を患い、東京がん研究病院に入院。

 病床にあった細川水俣病裁判の証人として臨床尋問を受けた。勿論、既に細川が証言台に立つ力も残されていなかったからで、医師は一回のみの尋問を許可した。
 同年七月四日午前一〇時二〇分、臨床訊問が行われ、細川は隠蔽されていた「猫400号実験」について証言。そのことは当時の新聞でも大きく取りあげられた。
 だが、判決を待つことなく、同年一〇月一三日、細川この世を去った。細川一享年七〇歳(数え年)。



 細川一水俣病との戦い
 昭和三〇年代、熊本県水俣市では原因不明の奇病が市民を苦しめていた。
 勿論水俣病と呼ばれる水銀中毒による公害病だが、当時の人々に即座にその正体が分かる筈もなく、患者やその家族を初め、水俣の人々は病害のみならず、正体の分からない恐怖や風評被害にも苦しんだ。

 次々と運び込まれてくる患者を診た細川一は「90%世界で初めての病気ではなかろうか?」と考え、昭和三一(1956)年五月一日に水俣保健所に報告した(前述した様に、後にこの日が「水俣病公式発見」の日とされた)。
 細川と内科・小児科の医師達は患者の出た地域を中心とした徹底的な聞き込み調査を開始。その結果、一人を除いて、すべての患者が漁業や農業家庭から発生していることが判明。前代未聞の病態に対し、家族が伝染病だと思いこみ、外聞をおそれて届け出ない、医者に掛かりたくても費用がない、等の理由で表に出ないケースも多く、その被害は予想以上に深刻であることも判明した。

 その後研究の主力が熊本大学医学部に組織された研究班に移ってからも、患者発掘および原因追及の調査は続けられ、湾内の魚介類が原因ではないかと気付き、昭和三一(1956)年一一月には「ある種の重金属による中毒と考えられ、人体への侵入は魚介類による」という発表がなされた。
 当然、毒の出所が問題となり、このことは細川を激しく苦悩させることとなった。勿論、前代未聞の病に苦しむ患者達と自分を雇っている企業との板挟みとなったことでであった。

 翌昭和三二(1957)年にチッソ工場から出る工場廃液を猫に与える実験を開始した細川は昭和三四(1959)年一〇月、「猫400号実験」において、遂に水俣病の症状が発症されたのを確認した。
 しかしと云おうか、当然と云おうか、会社はこの結果を必死に隠蔽。実験も続行も不可能となった。必然、工場医であったが為に細川は自社と患者の板挟みとなった。

 昭和三五(1960)年、工場長が交代となったのを機に、細川は定年退職予定だった工場長のもとへ行き、「廃液の検査をさせてくれなければ自分も辞職する。」と伝えた。工場長はこれを認め、工場廃液を使った実験が再開された。
 勿論これにより板挟みの苦悩が続くこととなった訳だが、同時に新たな苦悩が細川を襲った。その時の心境を後に細川「新しい病気を発見したという喜びと、大変な病気を発見してしまったという悲しみと、これは医者として、表現しにくい奇妙な感情であった。」と述懐している。
 ともあれ、研究の結果、昭和三七(1962)年、廃液中のメチル水銀が水俣病を発症させることを突き止めた細川は二六年間勤めたチッソを退職した。

 退職後、細川は故郷の三瓶に戻り、八幡浜の三瀬病院、三瓶町の三瓶病院に務め、昭和四〇(1965)年に新潟で第二水俣病(新潟水俣病・阿賀野川水銀中毒とも)が発生した際にも、公式発表の一ヶ月後には研究チームの一員となって現地調査に参加もした。
 そのとき細川はチッソにいた時の自分が勇気を奮って水俣病の原因がチッソの工場廃液にあったことを公表していれば第二水俣病の発生は防げたのではないかと考え、激しく後悔したと云われている。

 昭和四五(1970)年、肺癌を患い、東京がん研究病院に入院していた細川水俣病裁判の証人として臨床尋問を受け、ここで隠蔽されていた「猫400号実験」について証言。

 それはチッソの幹部が同実験のことを知りながら隠蔽し、自社に原因が有ることを知りつつ、その後も有機水銀を垂れ流し続けていたことが白日の下に曝された。

 このことは当時の新聞でも大きく取りあげられた。だが、判決を待つことなく、同年一〇月一三日に細川は癌の前に享年七〇歳で力尽きた。
 細川の証言を元に裁判にて患者側の勝訴が云い渡されたのは細川の死から三年を経た昭和四八(1973)年三月二〇日のことだった(話には全然関係ないが、この数日前に道場主はこの世に生を受けた)。

 現在、水俣市には が開設され、患者の方々が来館者に様々な証言を行っているが、その中である患者は細川一に関して、「細川先生の証言が無かったら患者は惨めだった。ああ本当の人間だったねえ。よう (実験のことを)よう云わったったい。」と述懐していた(←NHK『その時歴史が動いた』より)。

 そして死後に見つかった細川のメモには、

 「人命は生産より優先するということを企業全体に要望する。」

 とあった。



薩摩守所感 あくまで個人的なフィーリングだが、水俣病患者は後から発生した新潟水俣病患者以上に苦しんだ様に思う。
 勿論、新潟水俣病の患者やその家族の方々の苦しみを軽視している訳ではない。高度経済成長期の負の側面たる環境破壊を受け、地域環境を汚され、(その時点では)原因の分からない病に侵され、健康と家族を奪われ、時に命を落とす羽目の陥った苦境はどの公害病も同じく筆舌に尽くし難いものがあるだろう。

 ただ、その中で水俣病患者・家族・遺族が特に苦しんだ要因として二つの事柄が挙げられる。一つは日本で最初の公害病(←異論もあるとは思いますが)だった故に、それが公害病とさえ分からず、奇病・伝染病・業病の類と目され、精神的な苦痛も大きかった点である。
 道場主が小学生の頃に読んだ社会科や道徳の教科書では「保健所に幾度に消毒液を頭から浴びせられた。」、「買い物の際に、竹竿の先に吊るした笊籠で釣銭を渡された。」等の声も目にした。水俣病に限らず、原因が分からないために患者(感染する病でなくても)が疎外されるケースは決して少なくない(ほんの二、三〇年前、エイズ(後天性免疫不全症候群)がかなり多くの点で誤解されていた例を覚えている方も多いだろう)。
 同時に、水俣病を発症していたにもかかわらず、それと分からずに適切な治療や補償を受けられないまま、訳も分からず命を落とされた方々も決して少なくないだろう(若い時に症状が出ず、加齢により徐々に症状が出たためになかなか認定されずに苦しんでいる患者も多い)。

 もう一つは原因特定までに時間がかかったことと、それがもたらした様々な対応の遅れである。
 水俣病におけるチッソに限った話ではないのだが、動かぬ証拠を突き付けられるまで企業というのはまず自社の非を認めない(ついでに云えば、国や地方自治体にも云えることなのだが)。
 認めないということはそれまでのやり方が続くことになる。細川一も何も好き好んで自社の非を探したかった訳ではないだろうが、多くの患者の為、恐らくは「自社以外に原因があればそれに越したことはない。」と思いつつ実験を繰り返した結果、苦渋の思いで工場廃液に原因があることを突き止めるも、隠蔽を命じられ、在職中は会社を裏切れなかった(勿論、会社に対しては裏切りでも、人としては間違ったことにはならないのだが、世の中はそう単純ではない)。

 結果、有機水銀を含む工場廃液の水俣湾への垂れ流しは続き、その間患者は増え続けた。また、初めての公害病で「発生予測が困難だった。」との云い分を、チッソも、熊本県も、国も裁判において掲げ、そのことが裁判を長期化させ、責任を認めない(または矮小化させようとする)態度が尚も患者とその家族を苦しめている。

 前頁の足尾銅山鉱毒事件にも云えることだが、汚染された環境が元の姿を取り戻すには公害の要因となった汚染物質の流入が止められなければならない。流入が続く限りはどんなに厳しい処理を行っても汚染は続き、逆に流入が止まれば時間は掛かっても大自然を昔日の姿を取り戻す力持っている。

 話は逸れるが、その昔、水銀体温計を咥えている時に誤って噛み砕くと水銀を呑み込んで大変なことになる、と云われたが、実際には体温計一個分の水銀ならガラスで口を切る危険の方が大きいらしい。
 また水銀で汚染された河川・海で採れた魚介類も、一回食するだけなら健康への被害は殆ど無いらしい(←あくまで伝聞による知識です!正しいかどうかは保証しません!水銀体温計を噛み砕いたり、水銀で汚染された水域の魚介類を食べたりしないで下さい!)
 だが、その一方で、水銀を初め、摂取したら決して体外に排出されない毒物も世の中には多いらしい。故に水俣病は魚介類を長年に渡って摂食して来た沿岸地域の漁民達を脅かすこととなった。

 だが、薩摩守は信じたい。悲惨な事件に人は学び、活かすことで悲惨な水銀中毒の犠牲となられた方々が懸命に生きた時間に意味を成すことを。
 水銀流入の停まった水俣湾がかつての美しさと安全を取り戻した様に、公害に汚された環境とその悪影響を受けた人々の偏見・誤解もまたいつの日にか晴らされることを。



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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新