対公害闘士列伝

最終頁 悲劇を再発させないために

近因と遠因
 うちの道場主は仏教徒である(酒好き、肉食好き、女好きの生臭野郎だが)。ゆえに「縁起説」に基づき、すべての事象には原因が有って結果があると信じている。
 公害問題にしても然り、戦後復興に大きく貢献した鉱業を優遇した結果、汚染物質が環境を汚し、数々の公害が生まれ、地域によっては悲惨な公害病が馬割れたというのは余人の言を待たないところである。

 だが、薩摩守には同時に疑問に思うことがある。

 何故悲惨な公害病の発生を防げなかったのか?
 何故拡大するのを防げなかったのか?
 中途にて自社に原因が有るのをほぼほぼ気付きながら何故に有害物質を放出し続けたのか?


 水俣病の原因となったのがメチル水銀であり、イタイイタイ病の原因となったのがカドミウムであるということを、事後において我々は知っている。今となっては「近因」である工場排水や産業廃棄物にメチル水銀やカドミウムを含んだまま輩出しないように努めれば、取り敢えず同じ病気は起こらない。
 そんな恐ろしい事態を事前に知り得ること出来たのか?と問われれば誰にとっても(未知なるがゆえに)困難な問題で、企業の責任者にしても、「我が社の廃棄物がそんな恐ろしい病気を引き起こすとは知らなかったんだ!」と云いたかったであろう気持ちも全く分からないではない。
 だが許せないのは、原因が自社にあることを知って尚、隠蔽に走り、対応と責任から逃げようとしたことである
 最悪、自社原因が有ることを知って、「しまった!」と思うことでその非を世間に対して否定しながらも、有害物質の排出を止めていればまだ「良心の呵責」は感じるが、尚も輩出し続けたとあっては「確信的殺人犯め!」との罵りさえ浴びせたくなる。
 かかる隠蔽体質を初めとする公害の惨禍に対する「遠因」を除かなくては、公害病の悲劇は未来において新たに発生しても全く不思議ではないことを番人が認識するべきであると薩摩守は考える。

 では環境破壊の原因となったメチル水銀、カドミウム、亜硫酸ガス、鉛、六価クロム、砒素、等の「近因」に対して、その排出を未然に防げず、気付いて尚誠実な対応を行わせなかった「遠因」とはなんであろうか?

 環境破壊の歴史自体は決して短いものではないし、遠い過去や未来においても無縁のものではない。
 水銀一つをとっても、奈良時代には金メッキに水銀が使われ、鍍金作業時に水銀による中毒は知り得ていただろうし、中国史を紐解けば秦の始皇帝が水銀で体を壊している。
 一方で、北欧では水銀汚染に対して科学者が尽力し、政府が適切な手を打ったことで水銀中毒患者を出すのを未然に防げた例がある。
 その一方で、あれほど公害病の恐ろしさに直面した筈の日本企業が公害に対して規制の緩い東南アジアなどで水銀の垂れ流しを行い、現地の環境を破壊し、水銀中毒者を生んだ例も有る。
 水俣病は決して防げなかった公害病とは云い切れず、水俣市にて水銀中毒の発生が防げていれば別の都市の名を冠した公害病として水銀中毒が認識されていた可能性も決して小さくはない。

 詰まる所、公害病の遠因となったのは、経済面における産業優先度であろうと薩摩守は考える。

 富国強兵を唱えた明治政府は明らかに渡良瀬川流域の村々よりも豊富な銅を産む足尾銅山を優遇し、鉱毒事件発生後も田中正造の訴えを半ば無視し、谷中村強制廃村と云う暴挙に出て、結局鉱毒発生が止まったのは足尾銅山閉山後だった。

 水俣病イタイイタイ病問題でも、市政から病院にまで大きな力を持っていたチッソの前に多くの人々がその暴露に及び腰となり、鉱毒から県民を守る筈の富山県が風評被害による産業衰退を恐れて患者達に背を向けた。

 四日市ぜんそくに対して平田佐矩市長はまだ自己の責任と向かい合っていたが、後任の九鬼喜久雄市長は総理大臣にまで嘘を吐き、漁民に生業を捨てるべきとの発言までして石油コンビナートによる産業発展に固執した。

 結局行政や企業が責任や対策に重い腰を上げたのは、裁判沙汰となり、世間が大騒ぎしたり、敗訴したりしたことで「隠蔽がままならなくなったから渋々と。」としか薩摩守には見えない。

 「大の虫を生かす為に小の虫を殺す。」がまかり通り続けるようだと、いつかまた「少の虫」の立場から犠牲が出るだろう。否、今も出続けていると云える。特に昭和三〇〜五〇年代は高度経済成長期で、経済大国・工業大国として世界に大きくその存在感をもたらす為にも大規模な税収・雇用をもたらす大企業を優遇したい気持ちが時の政府にあっただろうし、今もその傾向は小さくない。
 だが、どんな政権も衰退するときが有り、どんな大企業が倒産してもおかしくないご時世である。いつ「少の虫」になってもおかしくないのである。

 故に、悲惨な公害病を二度と発生させない為に、

・産業史に学ぶ。
・利益に目が眩んで有害物質の処理を怠っては後々とんでもない悪名を背負い込む。
・後になればなるほど非を認め辛くなり、非難は極大化し、賠償額も肥大化し、いつまで経っても許されなくなる。


 ということになりかねないことを行政と企業の双方が認識するべきだろう。
 その認識があれば、被害の発生を未然に防いだり、最悪発生した被害を警備に留めたり、誠意ある対応に理解を示してくれる人達も出て来ることだろう。



痛み続けるデリケートな傷
 本作に限らず、薩摩守は近現代史に触れるのが苦手である。
 当事者やそれに近い身内が御存命で、チョットした認識不足や配慮不足がいつ多くの人々を傷付けるかも知れないからである(それも現在進行形で)。

 実際、公害病に苦しむ人々は今も存在し、決して過去の問題でない。それは当該企業や行政担当者も同様である。実際、本作の執筆にかかってから本日(平成三〇年八月一三日)までの約七ヶ月間でも水俣病イタイイタイ病に関連したニュースを耳に挟んだ。

 二月一〇日、作家の石牟礼道子さんが亡くなった。
 享年は九〇歳で、パーキンソン病に苦しまれた果てとはいえ、まずまず天寿を全うしたと云える御年齢だったが、ちょうど、第弐頁の水俣病に関する項目を書き上げた直後というタイミングで水俣病の犠牲者を鎮魂した『苦界浄土』を書かれた方が亡くなったと聞いては非常に気まずい思いを禁じ得なかった。

 そして五月八日、イタイイタイ病の公害病認定五〇年となるのを受けて、追悼を初めとする様々な行事が行われる中、企業責任者が「解決済み」との発言を行い、物議を醸した(すぐに撤回されましたが)。
 五〇年も経過すれば企業の代表も代替わりし、現職者にしてみれば、もしかしたら「何で何十年も前の先代や先々代のやらかしたことで俺が頭を下げなきゃなんねーんだよ………。」と云う気持ちもあるかも知れない。
 確かに太平洋戦争における補償問題同様、自分が生まれる前に起きたことに立場のために責任を追及されることに「堪ったものじゃない!」という気持ちが生じても不思議ではないが、それを表に出しては不謹慎・不誠実極まりないだろう。
 このことをとっても、イタイイタイ病が被害者にとっても、加害者にとっても、双方に続く人々にとっても決して過去の問題でないことが伺える。

 この二例はたまたま本作執筆中に起きたことだが、間の悪さと、四日市ぜんそくに対応した平田佐矩の功罪に対する接し方に頭を痛め、半年に渡って更新が滞った。
 悲惨な公害病を、何も原因となった企業の責任者とて好き好んで発生させたとは思わない(もしそうなら責任者は患者遺族に殺されているだろう)。隠蔽だって、企業に勤める社員やその家族の生活・立場を慮った面もあるだろう。

 実にデリケートで、且つ、痛過ぎる問題であり、様々な意味で二度と繰り返されて欲しくない。第三者の薩摩守がそう思うのだから、当事者の痛みはその数十倍はあるだろう。
 だが、悲惨な歴史だからこそ、それを直視し、歴史の教訓とすることで苦しみの果てに落命した人々の人生を意味のあるものにすることが後世に生きる我々の責務ではないだろうか?

平成三〇年八月一三日 菜根道場戦国房薩摩守



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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新