対公害闘士列伝

第肆頁 平田佐矩……対四日市ぜんそく・責任問題

公害名四日市ぜんそく
発生昭和三五(1960)年
終焉昭和六二(1987)年九月、公害健康被害補償法が改正されて新規の公害病患者の認定を廃止(患者の発生は翌年まで)
決着昭和四七(1972)年七月二四日、津地方裁判所四日市支部にて患者側勝訴。被告側控訴せず確定。
責任企業石原産業・三菱油化・三菱化成工業・三菱モンサント化成・中部電力・昭和四日市石油
公害要因コンビナートから排出された亜硫酸ガス
主な被害気管支炎・気管支ぜんそく・咽喉頭炎等の呼吸器疾患。慢性閉塞性肺疾患であり、息苦しくて、喉が痛み、激しい喘息の発作が起こる。症状がひどいと呼吸困難から死に至る。心臓発作や肺気腫を併発する場合もある。

事件年表
月日出来事
昭和三〇(1955)年頃 四日市市市長・平田佐矩と三重県知事・田中覚を中心に日本初のコンビナート施設である四日市コンビナートが誘致・建設される。
霞ヶ浦地区に第三コンビナートが建設される。
昭和三〇(1955)年 四日市コンビナート建設のために、塩浜地区の旧海軍燃料廠跡地が石油関連企業に払下げられる。
昭和三一(1956)年 塩浜地区にて第一コンビナートの建設が開始される。
昭和三二(1957)年 午起地区に第二コンビナートの埋立てを開始。
昭和三四(1959)年 第一コンビナートが本格稼働。
昭和三五(1960)年代 四日市コンビナート(第1コンビナートの工場群)に隣接する四日市市南部の塩浜地区で急激に喘息患者が急増。鈴鹿川沿いの漁村で漁民の多い磯津地区は特に重症患者が多くて「塩浜ぜんそく」や「四日市ぜんそく」と呼ばれた。
国会でも「四日市公害」や「四日市のぜんそく事件」と呼ばれて政治問題や社会問題となる。
昭和三七(1962)年 ばい煙規制法改正工業用水道法が成立。
昭和三八(1963)年六月二一日 伊勢湾で取れる魚の異臭被害が拡大した事で磯津漁民一揆が起きる。
黒川真武博士を中心に一流の学者で構成された黒川調査団が大気汚染の現地である四日市市の塩浜地区を調査。工場に最寄りの塩浜地区では、ばい煙・騒音などの環境問題を四日市市に訴えた。
昭和三九(1964)年 公害健康被害補償法公害紛争処理法が成立。
四月二日 塩浜地区在住の六二歳の男性が肺気腫で死亡。公害犠牲者第一号が出た事を伝える報道がなされる。
昭和四〇(1965)年 四日市市公害病認定制度と公害対策委員会が発足(但し、四日市コンビナートは規模を大きくする一方だった)。
昭和四一(1966)年七月一〇日 第二四日市コンビナート内の大協石油付近の納屋地区に住む七六歳の男性が自殺。
七月一三日 自殺した男性の一件が国会審議でも取り上げられる。
七月一四日 四日市公害対策協議会によって自殺した男性の追悼集会が開催。
一二月六日 四日市市長・平田佐矩が急死。九鬼喜久雄が市長となる。
昭和四二(1967)年 四日市市長・九鬼喜久男が市の更なる工業化のために第三四日市コンビナートを建設する議案の採決を市議会の自民党系議員に働きかけて強行。霞ヶ浦地区を埋め立てて昭和四〇年代に第三四日市コンビナートを建設する議案が強行採決される。
六月一三日 六〇歳の男性がコンビナート建設を主導した平田佐矩や更なる建設を強行採決した九鬼市長を詰る遺書を残して自殺。
九月一日 四日市市議会議員・前川辰男(日本社会党)によって明らかな加害行為が立証された六社(石原産業・三菱油化・三菱化成工業・三菱モンサント化成・中部電力・昭和四日市石油)に対して、四日市市塩浜町在住で三重県立大学付属塩浜病院公害病室に入院中の男性七人と女性二人の計九人が関東大震災の発生日を選び民事裁判による四日市公害訴訟を開始。
一〇月二六日 塩浜中学校三年の女子学生が四日市ぜんそくで死亡したのを契機に四日市市民の怒りが爆発。
一〇月三一日 元総理大臣・吉田茂の国葬の同日に一五〇〇人の四日市市民によって大規模な追悼集会が開かれる(「彼女が死んだなんて云うな。殺されたのだ。」のプラカードが掲げられた)。
昭和四四(1969)年三月 四日市公害裁判中だった七八歳の原告男性が死亡。
一二月 石原産業の工場排水で伊勢湾が汚染されているのを四日市海上保安部が摘発。
昭和四五(1970)年一一月五日 四日市市立海蔵小学校一年生の男子が気管支ぜんそくによる急性呼吸不全で死亡。このことを機に男子児童の追悼と抗議の市民集会が開かれ、四日市市内の母親達は、空気のきれいな四日市市西部にぜんそく児童の養護学校の建設を三重県に要求することにした。
昭和四六(1971)年七月 環境庁が発足。原告だった三八歳の女性がぜんそく発作で死亡。
昭和四七(1972)年四月 三重県公害防止条例が改正されて、硫黄酸化物の総量が規制される。
七月二四日 津地方裁判所四日市支部にて患者側勝訴の判決。被告企業六社(石原産業、中部電力、昭和四日市石油、三菱油化、三菱化成工業、三菱モンサント化成)に八八〇〇万円の損害賠償を命じる。被告側、控訴せずに公害防止に努力すると約束。同時に無計画に工場建設を容認した三重県・四日市市にも反省を促、工場が一年間に排出出来る煙の量を決定し、これが大気汚染防止法の排出規制に繋がる。
九月二日 四日市市立中部西小学校四年の女児がぜんそく発作で死亡。
九月一一日 海蔵小学校二名、中部西小学校一名、塩浜中学校一名の「教え子たちの追悼集会」を三重県教職員組合三四支部が開催。
昭和四八(1973)年一〇月 公害健康被害補償法が成立。
昭和四九(1974)年一〇月一八日 海蔵小学校四年生の男子が激しい発作で死亡した。
 三重県公害防止条例が改正されて、窒素酸化物及びCODの総量規制がされる。
昭和五二(1977)年一〇月二三日 四日市ぜんそくの病死者と自殺者の慰霊祭が実施。大谷斎場の敷地内に四日市公害犠牲者の慰霊碑が建立。
昭和六〇(1985)年一月五日 三重郡楠町で四日市公害認定患者の女性(52歳)が病気を苦に、焼身自殺。
昭和六二(1987)年九月 公害健康被害補償法が改正されて新規の公害病患者の認定を廃止(患者は翌年まで発生し続けていたと四日市市は認めている)。
平成六(1994)年 公害病患者の減少で塩浜病院は閉鎖、三重県立総合医療センターとなる。
平成七(1995)年 四日市市環境学習センターが設立される。
平成一七(2005)年 四日市公害資料室が開設される。
平成一九(2007)年七月 四日市市のサイトにて、四日市ぜんそくの認定患者の総認定数が誤って約五〇〇人少なく掲載(同月二三日に訂正)。同市のこの姿勢について、「公害問題の風化」を懸念する意見が出された。
平成二三(2011)年九月一五日 元原告の男性が多臓器不全で死去(享年七九歳)。これにより、起訴時に九名だった原告で生存しているのは一名となった(平成三〇年八月九日現在)。
平成二四(2012)年)七月 四日市公害裁判勝訴四〇周年記念に四日市市や市民団体主催で記念行事が実施される。
平成二七(2015)年三月二一日 「四日市公害と環境未来館」が設立。



闘士 平田佐矩(ひらたすけのり)
生没年 明治二八(1895)年九月二六日〜昭和四〇(1965)年一二月六日
事件時の職業 四日市市市長 平田紡績四代目社長。
略歴 明治二八(1965)年九月二六日、三重県三重郡富洲原村(現・四日市市富田一色地区)にて平田紡績家当第二代当主・平田佐次郎の三男に生まれた。

主な一族
佐次郎 父 平田紡績家当第二代当主。八男四女をもうける。
たき 母 六男・七男を産んだ後、肥立ちが悪く病死。
佐十郎 長兄 三代目社長。
佐信 五弟 宗村家に養子に行き、暁学園を創設。後に第五代社長に就任
佐貞 末弟 大日本帝国陸軍軍人で芸術家
佐造 長男 四日市市職員 富洲原小学校創立一〇〇周年記念誌の制作に関わった。
滋宣 孫 四日市市職員
宗村完治 甥 第六台社長・暁学園第二代理事長
宗村南男 甥 暁学園第三代理事長
宗村明夫 甥 七代目社長

 名古屋高等工業学校から立教大学経済学部に進学し、経済学・キリスト教・文学を学び、卒業後に桑名の堀家へ養子に入る。
 大正六(1917)年に平田製網に入社したのを機に、翌大正七(1918)年に平田家に復籍した。
 大正一〇(1921)年、長兄で平田紡績三代目社長だった佐十郎がスペイン風邪(インフルエンザ)で早世したため家業である平田製網の後継者に指名され、二年後の大正一二(1923)年社長職に就任。大正一五(1926)年に平田製網に紡績部門を新設し、四代目当主となった。

 昭和一三(1938)年、佐矩は漁網の他に紡績を初め、社名を「平田紡績」と改め、元々の製網部門でも洋式蛙股編網機の発明・特許獲得にも成功し、海外相手にも手広く拡販。同時に他者の監査役としても活躍した。

 実業家として数々の成功を収めた佐矩は地元の発展を考える様になり、教育への貢献として富洲原小学校に奉安殿を寄贈し、富田一色飛鳥神社、天ヶ須賀住吉神社、聖武天皇社等の富洲原の神社・仏閣に多額の寄付をした。
 この功績もあって松原地区に東洋紡績富田工場が誘致されると東洋町商店街を中心とする富洲原商工会の副会長に就任し、富洲原町議会議員に推薦されて四日市市と三重郡富洲原町の市町村合併を推進させる交渉役となった。

 昭和一六(1941)年六月一一日に「富洲原地区出身の市議会議員を三議席確保する。」という条件を元に三重郡富洲原町が四日市市に合併するのに応じ、富洲原地区選出の四日市市議会議員の一人となり、同時に四日市市名誉職参事会員となった(二年後に辞職)。

 昭和一八(1943)年、平田紡績株式会社の社長職を辞し、その地位を養子に出ていた五弟・宗村佐信に譲り、戦後、兵庫県に移住して、鉄鋼メーカーの社長を務めたが、昭和二七(1952)年に地元・富洲原に帰郷した。
 昭和三二(1957)年に四日市市長・吉田勝太郎に招かれて、四日市市助役に就任。翌昭和三三(1958)年に四日市市の水道業務の管理者を務め、市長候補としての地場を着々と固めた。
 昭和三四(1959)年四月、市長の吉田が高齢を理由に四日市市長選挙への不出馬宣言をすると佐矩は立候補した。

 選挙は三重郡四日市市支部労組の支持を受け、「新しい経済圏としての四日市市は最も重要な地位を占めて、政府も大きな関心を見せている。四日市港を中心とする大工業都市建設を図る。」をスローガンに「大四日市建設」を掲げ、圧倒的多数の得票で、対立候補の近藤栄を破り、第一一代四日市市長に当選した。

 市長となった佐矩は前市長の政策を踏襲したが、最初の仕事になったのは伊勢湾台風の復興だった。
 市長となった直後、伊勢湾台風が襲来し、富洲原は死者五八名を出し、佐矩の実家も被災、四日市市でも最も大きな被害が出た地区となった。
 佐矩は災害対策本部長に就任して、富洲原地区の復旧に尽力。伊勢湾の砂浜を埋め立てて国道23号線の建設を行う事とコンビナートの誘致を決意した。紡績業の元社長だった佐矩の経済観は、「軽工業は衰退して未来がない。」というもので、重工業を重視する思想と経済政策を持っていた。
 佐矩は四日市空襲の戦災を受けた旧大日本帝国海軍燃料廠跡地に四日市コンビナートを誘致石油化学産業の石油コンビナート、塩浜地区に第一コンビナートを建設した。同時に牛起に第二コンビナート工事を着工し、霞ヶ浦に第三コンビナート誘致と建設計画を構想、四日市市を三重県一の工業都市とした。

 地域別にみると、西部に住宅団地を開発。東海道新幹線が通過するの見越して工業団地・鉄道網・市内の駅を新規建設・整備し、道路網の完備をする。
 市南部に石油製造関係・製油関係・石油化学関係の四日市コンビナートを建設。
 市北部には鉄鋼・製鉄業の東海製鉄所・八幡製鉄所・播磨造船所を誘致した。
 市中心部にはビル街がある都市型市街地・金属加工産業系列の中小企業を中心とする工業団地・日市市立の巨大公園を開発した。

 昭和三六(1961)年、に北勢三市(四日市・桑名・鈴鹿)の連合都市構想を推進して、政令指定都市を目指した。これは中部経済連合会が二市一町(四日市市・桑名市・川越町)の合併構想を出していたことへの対案だった。
 同時に名古屋市と四日市間に新しい道路と鉄道を建設して、四日市港沖に埋め立てによって人工島を造成して四日市国際空港を建設。四日市を三重県一の人口を誇る経済都市とし、県庁所在地の移転すら志した。
 また新産業都市建設推進法が制定されると、四日市市が産業都市に指定されるように国に働き掛け、国鉄関西本線の複線化工事と電化工事の推進、伊勢線の建設を推進した。

 これは四日市の経済を発展させた平田佐矩一代の功績に間違いはなかったが、これがもとでな四日市ぜんそくという公害病が生まれてしまった。これに対して佐矩は政治家としてその事後処理に務めた(詳細後述)。

 昭和三八(1963)年、再選。昭和四〇(1965)年六月、四日市市と同じ石油工業都市のアメリカ合衆国ロングビーチ市を訪問し、姉妹都市提携を結んだ。

 昭和四〇(1965)年一二月六日、平田佐矩急死。享年七一歳(数え年)。
 功罪共に大きい佐矩の死に対する衝撃は大きく、急死に対して四日市市内では「偉大な市長が急死したニュース」の号外が配られ、二年後の四日市市制七〇周年記念に際しては佐矩が生前最も力を入れた霞ヶ浦の公園に佐矩の銅像が建立された。



平田佐矩四日市ぜんそくの戦い
 自らが推進した重工業化によって六社が放った亜硫酸ガスで心ならずも四日市ぜんそくと云うとんでもない公害病が生まれてしまった。
 これに対して平田佐矩は責任を実感(「コンビナート誘致による重工業化で四日市が繁栄したが、その反面の問題として塩浜地区で泣いている人がいる。」と発言していた)し、発生初期から私財を医療費に当てて、その後、四日市市が公費で喘息患者の医療費を無料化する制度を作った。
 公害は四日市ぜんそくだけではなく、海も汚しており、佐矩は塩浜地区の漁民から四日市公害で四日市コンビナートの排水で汚染された魚を富田一色の自宅まで持ち込まれて市長として責任を追及されたことがあった。
 漁民から「富洲原の人が汚染された魚を食べてくれるのか?!」と詰め寄られた佐矩は自腹で魚を買い取って処分したと云う。さすがにこの対応には詰めかけた漁民も彼が無責任な悪徳政治家ではないことを認めざるを得なかった(その後、買い取られた魚は伊勢湾にて適切に処分されたと云う)。

 かように、自らの政策が遠因となって生まれた公害病に立ち向かった佐矩だったが、年表・略歴に記した様に公害病発生に直面した為政者にしては珍しくその責任を認め、私財を動員してまで被害補償や患者の治療補助に務めたが、死後も大きな非難を受けた。

 佐矩氏の翌年だった昭和四一(1966)年七月一〇日、大協石油付近の納屋地区に住む七六歳の男性が「死ねば薬もいらずに楽になれる。」「死んだら仏様になって見守りたい。」と遺書を残して自殺。この問題は三日後の国会審議でも取り上げられ、そのまた翌日に四日市公害対策協議会によって自殺した男性の追悼集会が開催された。
 追悼集会にて「自殺した男性の死を無駄にするな」と書かれたプラカードを掲げた行進が行われ、四日市市に対する非難の声は激化した。
 更に翌年の昭和四二(1967)年六月一三日、四日市公害患者を守る会の副会長を務めていた六二歳の男性が「ああ、今日も、空気が悪い」の一言を残して自殺を図り、加害者の企業への怒りや公害対策や取締りをしない四日市市に対して、「平田佐矩市長が四日市が経済発展をするために四日市コンビナートが必要と嘘をついた。」、「九鬼、喘息やってみろ」との不満を日記に記して自殺した者も現れた。

 不運にも、急死した佐矩に続いて四日市市長となった九鬼喜久雄の市政は化学工業に重点を置き、結果として患者達に極めて不誠実なものだった。
 コンビナート設立を認める強行採決を行い、当初は四日市ぜんそくの原因が石油コンビナートにあることを認めず、「公害の為に真夏に窓を開けられないので教室にクーラーを入れて欲しい。」という小学生の手紙を読んだ総理大臣・佐藤栄作に問われた際も、「子供の話は大した事はなく、四日市には公害がない。」と発言して無責任市長の悪評が広がった。
 更に、公害患者との懇談会で「塩浜はいつまで漁業をするのか?」と発言。四日市市議会でも「経済発展のための工業化政策に四日市コンビナートが必要であり、少々の公害被害が発生するのはやむを得ない。」とほざき、霞ヶ浦地区の第三コンビナートの建設に際しては富田地区連合自治会との話し合いで「味噌屋には味噌の匂いがするコンビナートにはコンビナートの匂いがして当たり前。」と云い放って公害患者が多い塩浜地区民と対立した。
 結果、「公害市長」とあだ名され、こんな奴の前任者として同一視されたのでは佐矩も堪ったものではなかっただろう(一応、津地裁での患者側勝訴後は九鬼も謝罪した)。

 功ばかりの人間もまず居なければ、罪ばかりの人間もそうそうは居ないものと思うが、平田佐矩ほど極端な双方を持った人物も珍しいと云えよう。



薩摩守所感 本来ならば、平田佐矩は「公害病を生み出した人物」として、本作の「闘士」の一人として採り上げるのには躊躇いがありました。見方を変えれば「水俣病におけるチッソ」、「イタイイタイ病における三井金属」と同じように見て非難することも可能でした。

 そんな佐矩を敢えて「闘士」の側に置いたのは、公害問題が表面化した昭和三〇〜五〇年代において税収アップに貢献する重化学工業系の大企業に味方した行政の多くが司法による患者勝訴まで(一部は患者が勝訴しても尚)責任を認めない、或いは「気付き得なかった!」と開き直る中、責任と直面し、及ばなかった面が多かったとはいえ、補償や対策に挑んだ佐矩の様な人物は僅少と見たからでした。

 そんな、人物が市政の中にいたことは、他の公害病と比してまだ幾分かなりとも救われた話ではなかったでしょうか?
 勿論、四日市ぜんそくを患った人々にとっては地獄の日々だったことに変わりはなかったとは思います。患者の中には上述したような苦しみを訴えて自害した人もいて、その死が「殺された!」と評されたのですから、想像を絶する苦しみだったと思います。
 道場主は小学六年の時、喘息持ちの為に卒業式を共に出来なかった同級生がいて、彼は卒業文集の「この世で一番嫌なもの」に「喘息」と記していました(ちなみに道場主は「酢豚」と書いた)。
 また中学三年の夏休みに同じ学年の生徒が旅先に喘息の発作を起こして急死したことがあり、喘息の恐ろしさを多少は痛感したことのあるつもりです。通常の喘息でさえ、これほど恐ろしいのですから、それが公害によってもたらされたとなると憎悪も一入で、普段意識することもなく行う呼吸が環境として阻害されることへの戦慄を禁じ得ません。
 どの公害病も繰り返されて欲しくありませんが、それ以前の問題として、当たり前に得られるものが凶器となることの恐ろしさを認識し、それを繰り返さない世界を保ててこそ、四日市ぜんそくで無念の最期を遂げた方々の生に意味を成すのではないでしょうか?


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新