最終頁 再生怪人、悲劇の本質
再生怪人は実に悲しい存在である。
そもそも改造人間、及び怪人自体が人間の世界に生きるには悲しい存在である。驚異的な能力が畏怖されることはあっても、基本人ならざる存り様と能力故に忌避される存在で、殊にライダーシリーズ初期では悪の組織の都合で(場合によっては本人の意志を無視して)改造されることで「人ならざる者」にされたのである。「人間」としてはこの時点で「死んだ」と云えるのかもしれない。
そして多くの改造人間は仮面ライダー達との戦いの内にその生涯を無念の内に終えた。その死は多くの場合、「負け犬め!」と罵られ、まともな供養など望むべくもない。
そんな悲惨な境遇の果てに死の眠りについていたところを無理矢理仮初の命を与えられて、安らかに眠ることすら許されず戦場に駆り出され、後発怪人の指揮下に置かれ、様々な意味で雑魚に等しい扱いを受けるのである。本当に悲惨である。
作品は異なるが、『人造人間キカイダー』第14話にて復活したダークの破壊ロボット達が自分達の指揮官となった新破壊ロボットギンガメに対して二言目には自分達を「先輩」と称して素直に指揮下に入っていなかった心情が今なら少しは理解出来る。
シルバータイタンは多くの場合、再生怪人達に対して、その弱さを嘲笑ったり、呆れたり、ネタにしたりして来た。だが、フィクションとはいえ、彼等にも「生前」があり、何度も「死」を強要されるのは本当に悲劇だと思う。
ただ、誤解無いよう申し上げたいが、シルバータイタンは再生怪人の存在意義を否定したい訳では無い。普通に考えるなら、経緯や強弱はどうあれ、倒した筈の者が何度も蘇って立ちはだかってくるのは相当な恐怖である。
それと云うのも、現実には死んだ者が生き返ることはないからである。本作で採り上げたが再生怪人の中にも、「生き返ったのか?」と問われると疑問な者達もいる。
何にせよ、命とは失われたら二度と戻らない、かけがえのないものである。故に作品をどう楽しむかは別として、「死」も「再生」も軽々しく考えてはいけないと改めて思うのである。
そこでこの最終頁では何故に再生怪人が悲惨なのかを改めて振り返り、命と死の重大性を噛み締めて本作を終えたい。
参考シーン:『ウルトラセブン』第11話「魔の山へ飛べ」のラストシーンより
モロボシ・ダン(森次浩司):「隊長、一度死んで生き返ったら、ますます命が惜しくなりましたよ。」
キリヤマ隊長(中山昭二):「それでいいんだ。命は自分だけの一度きりのもんだ。そうたやすく宇宙人なんかにやってたまるか。」
考察1 死者が生き返ることの禁忌
悲しい現実だが、この世に生を受けて天寿を全うしたと云える年齢まで生きれば、その途中で多くの人間と死に別れる。
肉親、友人知人、仕事仲間、恩師、等々………そしてそんな辛過ぎる死別を前に、「生き返ってくれないものだろうか?」との念は誰しもが抱いたことがあるだろ。
だが、一方で人類は死者が生き返ることを一種の禁忌として来た。
例えば、欧州では死者を土葬する際に、死者の口に金貨を含ませる風習のある地方があるそうだが、これはヴァンパイアとして甦るのを防ぐ処置とのことである。他にも、古今東西死者を葬送する儀式には死者が彼岸にて安らかに眠れるように祈りつつ、一方でこの世に舞い戻るのを阻止せんとした。
ある意味矛盾した行為である。
うちの道場主など、大切な身内が亡くなった時、その都度、「『キン肉マン』みたいに生命パワーの移し替えで蘇生が可能なら、今すぐ俺を含むこの世にいて為にならない奴の生命を取って来るのに………。」と思う程、(その正邪はさて置き)「生き返らせる」を渇望したことが何度もあった。
でありながら、世の人々は死者が生き返ることを恐れてきた。本当に大切な人が死後に幽霊となって眼前に現れた際、狂喜するより、恐怖する人の方が多いだろう。まあそんな経験をした人に一人として会ったことがないから何とも云えないが………。
恐らく、「生き返り」を望みつつ恐れるのは、「死」への恐怖心であろう。
古墳時代以前の日本では、天皇が崩御する度に遷都していた。正確には天皇が死んだ場となった宮殿を「恐ろしい場所」として放棄して、新しい宮殿を新築・移転していた。
もっとも、天皇崩御の度そんなことをしていては官費がいくらあって足りない。その内埋葬や供養の方法も変わり、宮殿も基本的に定着するものとなった。要は他人事であっても、それだけ「死」を忌避したと云う事である。
例えば、心肺停止直後に蘇生したケースだったら手放しで喜ばれるだろうが、これも「生き返った。」というよりは「死を免れた。」と見做される故だろう。フィクションでも死んだと思われた者が蘇生した場合、三途の川を渡る前に引き返した描写が為される。
云い換えれば、完全に死んだ者は復活を望まれなくなると云える。その証左と云い切るには些か乱暴だが、日本神話ではイザナギが、ギリシャ神話ではオルフェウスが非業の死を遂げた妻を現世に連れ戻そうとしたが、悲惨な結果に終わり、亡き妻が現世に戻ることは無かった。
人間は死を恐れる余り、死の世界に旅立った者も恐れる………「死」とはそれ程恐ろしく、現瀬戸は厳格な一線を画した世界であることを歴史や文化を紐解くことで思い知らされる。故に死別は悲しく、生きている時間は大切だと思う。
全くの余談1
(平成11(1999)年2月放映の『笑点』における日テレアナウンサー大喜利より)
日テレアナウンサー・藤井恒久「天国にいるジャイアント馬場さーん!」
司会・三遊亭楽太郎(後の六代目三遊亭円楽)「何だ〜!?」
藤井「もうすぐ(桂)歌丸師匠がそっちへ行きますよぉー。」
楽太郎「歌丸師匠があっちに行って、馬場さんには帰ってきて欲しいんですけどねぇ。」
平成11(1999)年1月31日にプロレスラー・ジャイアント馬場氏が亡くなった程ない頃の話です。六代目三遊亭円楽師匠は天龍源一郎氏と同級生だった縁もあって、馬場氏を初め多くのプロレスラーと親交がありました(云うまでもありませんが、「腹黒で友達がいない。」というのは「大喜利」におけるキャラ設定上のネタです)。
このときから四半世紀以上の時が過ぎ、馬場氏のみならず、馬場氏の好敵手だったアントニオ猪木氏、馬場氏の直弟子・ジャンボ鶴田氏、このときネタにされた桂歌丸師匠、ネタにした本人である円楽師匠までもが鬼籍に入り、世の無常を感じずにはいられません。
考察2 逃れ得ぬ再死、再々死の定め
一度死んだ者が生き返ったとして、その者はどうなるだろう。
「不老不死」や「永遠の命」が確立していない以上、フィクションであってもその者はいずれ死ぬことになる。『魁!!男塾』で有名な宮下あきら氏の漫画『激!!極虎一家』の終盤にて、マフィアとの戦いで危機に陥った仲間を救うべく作中で命を落としたキャラクター三名が復活するシーンがあった。
復活した三人(国士玉三郎、加藤梅蔵、沖田鉄)は迎撃してきたマフィア達を「出たな、子分A・B・Cども」として、マシンガンの照射を浴びても、「一度死んだ者が二度死んだとは聞かねぇぜ。」と云って群がる敵兵を薙ぎ倒しまくったのだが、それでも目的を遂げると簡単な挨拶をしただけ(梅蔵だけ実弟の菊蔵に「逞しくなったな。」と声を掛けていたが)であの世に帰った。
味方であってもこうである。
強い想いや崇高な目的があって死者が甦っても、結局は望みが果たされれば死者は再度安らかな眠りにつくのである。まして仮面ライダーシリーズに登場する再生怪人は多くの場合、「討ち果たされるべき人類の敵」で、そんな敵視を受けて殺された者が再度殺されるのである。『仮面ライダー』のゲバコンドル・サラセニアンは三度も「殺された」のである。
生前、何らかのやり残しがあって、再生によってそれを達することが出来れば二度目の死も、最初の死よりは心安らかに迎えられるかも知れない。しかし、悪の汚名の下、死のう苦しみを連続して味わわせられるのは堪ったものではないだろう。
生き返っても、結局また死ぬことになる…………死すべき定めから逃れられないのなら、再生怪人ならずとも、フィクションであっても、安直に「生き返る」を捉えたくないものである。
全くの余談2
(『アネクドート』(ロシアの政治風刺小話集)より)
1953年3月5日、ソビエト社会主義共和国連邦の独裁者・スターリンがくたばり、共産党幹部達は埋葬地について話し合った。生前、スターリンの猜疑心と独裁に苦しんだ彼等は彼を国外に埋葬したがったが、当時のソ連は世界各国で恐れられ、嫌われていたため、何処の国も受け入れを拒否した。
そんな中、イスラエルだけが建国時の不介入を感謝して受け入れを表明してくれた。共産党幹部達は、喜んでスターリンの遺体をイスラエルに送ろうとしたが、フルシチョフが反対した。その理由は、
「駄目だ!かの地では過去に復活があったじゃないか!」
というものだった。つまり、万が一にもスターリンに生き返って欲しくなかったという事である(苦笑)。
考察3 死すべき定め、なら、どう生きる?
結局、現実であれ、フィクションであれ、死は誰もが逃れ得ぬ軛である(身も蓋もない云い方だが)。そして本来、「人は死ねばおしまい。」なのである。
それゆえ、シルバータイタンは私利私欲で人の命を奪う凶悪犯罪者を許せないし、暴政・圧政で粛清や戦争を初めて多くの命を奪う独裁者は今すぐ殺したいぐらいである。
勿論これはある意味矛盾した台詞である。原作『仮面ライダー』にて、本郷猛は自ら手に掛けた蝙蝠男の遺体を前に、「この男もショッカーの被害者」としながら、そんな被害者を生まない為に「ショッカーを根絶やしにしなくてはならない」として苦悩していた。
仮面ライダーがマスクを被るの理由は、改造手術によって顔面に残された傷が現れるのを隠す為だが、正義の為に皆殺しを為さなければならない矛盾と向き合う苦悩を隠すものでもある、とシルバータイタンは捉えている。
幸い、現実世界においてシルバータイタンはかかる戦闘とも、逃走とも、犯罪とも無縁で半世紀以上を生きてきた。勿論その間には、肉親、学友、恩師、仕事仲間、その他の知人との死に別れを何度となく経験し来たし、この文章を綴っている今(令和六(2024)年七月二二日現在)、命にかかわる病を抱えた身内が三人いるし、年齢的にいつ天寿を全うしたとしてもおかしくない身内も数人いる。
勿論、自分自身を含め、死は誰しもがいつかは訪れるものであり、特に事故や天災まで含めればいつ訪れてもおかしくないとの覚悟はある。平成11(1999)年のある月、道場主は四人の身内・知人に死なれた。四人の死因・年齢・対人関係はすべてバラバラだったが、共通していたのは、全員が2週間から2ヶ月の内に元気な姿を見ていたということである。
そんな記憶を受けて常々思うのは、「死にたくない。」、「生きれる限り生きたい」という想いである。さすがに五十路を迎えた今、今まで生きてきた時間と同じだけ生きられるか?と問われれば自信は無い。また生きられたとして確実に幸せな人生を送れると思えるような能力も・自身も・人望もない(苦笑)。
ただ、それでも「死」そのものが、「死」に至る際の苦しみを含めて怖いし、「死」によって今交流のあるすべてを失うと思うとそれ以上に恐ろしい。もしかしたら死後に輪廻転生して新たな生を歩むかもしれないが、今現在の人生を生きる前の自分―つまり前世を全く思い出せないことを思えば、やはり現世においていつか迎える死による万物との別れは物凄い恐怖である。
そんないつかは避けられない死に対して、今をどう生きるか?
月並みだが、一生懸命に生きることだと思う。地位も名声も財も人望もなく、妻子さえいない道場主の人生だが、一生懸命生きることで誰かが何かに共鳴し、それがこの世の何処かで引き継がれ続ければ、生まれてきた甲斐もあるだろうし、命を乗り越えた「永遠」が残される。
そしてそれを想うが故に、例え異なる価値観を有する者であっても、真剣に生きるものには一定の敬意を持ち、その真剣さを尊重したい。
人間、生きていれば嫌なことには幾らでも遭遇する。能力や努力の不足で望みが叶わないことに関しては誰も恨まないが、それ等(趣味・学業・生業・恋・その他)に真剣に挑んできた際に嘲笑っていた連中だけは今でも腹が立つし、自分自身一生懸命努力する人間を(その内容や目的を批判したとしても)嘲笑う人間だけはなりたくないと思っている。
再生怪人とは、多くの場合、悪の組織の悪の目的の為に利用され、不幸な死を遂げた後に、安らかな眠りを妨げられて再度、再々度の悪しき生と死を強要される、本当に悲惨な存在である。
「初戦フィクションの世界の話」とスルーするのは簡単だが、それでも人が生きる意味も、死ぬ意味も軽く捉えたくないものである。自分自身が生きてきた時間も、いつか迎える死も、軽々しく捉えられたら嫌だからな(苦笑)。
令和6(2024)年7月22日 シルバータイタン
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令和六(2024)年七月二二日 最終更新