本作は光栄社刊『爆笑三国志』のパクリです。

第壱頁 不肖御曹司編

藤原伊周 (ふじわらのこれちか 天延二(974)年〜寛弘七(1010)年一月二八日)
概略 藤原摂関家の当主・藤原道隆の嫡男(純粋な兄弟順では三男)に生まれた。
 父が摂政、妹(定子)が一条天皇中宮という背景から露骨な身内贔屓で一九歳にして叔父・道長に先んじて正三位・権大納言に就任した。

 しかしながら露骨な贔屓出世は周囲の顰蹙を買い、長徳元(905)年に道隆が病に倒れると関白の地位を伊周に譲りたいとした申し出を一条天皇は認めず、道隆が逝去すると関白と氏長者の地位を叔父・道兼に奪われた。
 その道兼も疱瘡(天然痘)のため念願の関白就任から一〇日も持たず急逝。いよいよ父の後を継げるかと期待したが、もう一人の叔父・道長が内覧となり、出世競争に連敗。

 その後、女性問題への誤解から花山法皇に矢を射かけると云う暴挙(相手が法皇であることは分かってなかったのだが)に出たことで大宰府に飛ばされることとなった(長徳の変)。人望の無さや政治的敗北や数々の暴挙から藤原摂関家という名家を継ぐに能わぬボンボンと見られ勝ちな藤原伊周という人物の名誉挽回を図りたい。
弁護壱 かなりの文才の持ち主
 伊周の母は道隆の正妻・高階貴子で、彼女は女房三十六歌仙の一人に数えられる詩歌と文才における評価は現代でも高い。伊周は政治家である父・道隆よりも学者家系である母方の高階家の血を色濃く受け継いだ様で、詩歌に優れ、特に漢籍に関する才は一条天皇期随一と世間から公認され、一条天皇への進講も行った。

 人選には一条天皇が数いる后の中でも伊周の妹である定子を特に可愛がったこととの縁もあったにはあっただろうけれど、露骨な縁故出世が妬まれる形で伊周の評判は劣悪だった状況下で誰しもが認めた文才は特筆に値する(つまり不人気を差っ引いても認めざるを得ない程の才が有ったという事だ)。

 罪を許されて大宰府から帰還後、叔父・道長の長女・彰子が皇子・敦成親王(後一条天皇)の百日の儀に列席した折、頼まれもしないのに歌を詠んだことがその場のいた人々の顰蹙を買ったことがあり、伊周の悪い話の一つとして有名だが、それでもその時の歌の出来を誰しもが感心したと云うから相当な才能だったのだろう。


弁護弐 人として優しい男
 藤原道隆及びその子供達は良くも悪くも家族間の愛情が強かった。
 伊周が大宰府権帥に左遷されたとき、彼は勅命に従わずに洛中に留まり、最終的に検非違使に捕らえられて九州に送られており、この時の往生際の悪さも彼の評判を落としている。
 確かにカッコいいものではないし、勅命不服従は罰せられて然るべきである。だが、伊周が勅命を無視し、逃げ惑ってまで洛中に留まったのも、すべては家族を想ってのことであった。
 父・道隆は既に亡く、自分と弟が咎人となったことで伊周は都に残す母と妹(しかもこの時懐妊中)が案じられてならなかった。定子は兄と弟への処罰に抗議して出家した。これは下手すれば生涯夫・一条天皇に会えなくなる危険を孕んでいた(実際にはその後も会って、子供も作っているが)。
また病身の母・貴子は伊周と共に九州に流されることを強く切望した。そして別れに際して隆家は「罰せられるも恩赦を受けるも兄上と運命を共にする。」と明言した。

 そんな家族を、特に病に倒れ、二度と会えなくなるかもしれない母を置いて大宰府に赴任することを伊周は暗に拒んだ。「勅命不服従」というよりは「母の死を看取るまでの猶予を望んだ。」という方がしっくり来る。結局この母への想いは叶わなかったのだが。

後に罪を許されて帰洛したが、長保二(1000)年一二月一五日に第二皇女を出産した定子が後産中の産褥で落命した際は、座したまま息を引き取った妹を抱いて人目も憚らず号泣したという。
話が逸れるが、戦国時代において産室は一種の「穢れ」の場と見られ、男性は立ち入らず、それが為に男は生まれた我が子と生まれたその日に会えなかったと聞いている。平安時代も同じかどうかは研究不足で存知ないが、恐らくこれは出血が伴うことで「穢れの場」とされ、医師や産婆以外は忌避したと思われる。故に命を落とした直後とはいえ、その様な場に伊周が居合わせたのは異例中の異例と思われ、妹への深い愛情なしにはあり得なかった話と思われる。


弁護参 一応政界復帰しています
 歴史漫画、特に藤原道長を主役に据えた話では、長徳の変による大宰府左遷をもって伊周は歴史の表舞台から退場し、その後が紙面に登場することはまずない。だが、藤原一族は身内同士で醜く争いつつも、「同じ藤原一族」に対する想いや情は存在していた(この辺り、鎌倉時代の北条氏も似ている)。

 伊周と隆家は花山法皇に矢を射かけたこと以外にも、叔母にして一条天皇の生母でもある東三条院(藤原詮子)を呪詛したことも罪にカウントされていた。だが、兄弟の罪は他ならぬ東三条院が許したことで恩赦(名目は東三条院の病気平癒を祈願したもの)が下され、伊周は翌年には帰洛した。
 東三条院は兄・道隆とは不仲で、弟・道長との仲が良く、定子を可愛がる一条天皇の寝室に直談判してまで伊周よりも道長を重んじるよう詰め寄った話は有名だが、あくまで比較の上の話で、彼女にとって伊周は実の甥で、息子の嫁である定子も実の姪だった。恐らく道長の覇権が確立されれば過酷に罰する理由も無かったのだろう。
 結局伊周は道長に抗し得るほどの勢力挽回はならなかったが、長保五(1003)年に従二位、寛弘二(1005)年に座次を「大臣の下・大納言の上」と定められ、翌月には昇殿を許され、極秘に参内をして天皇と会見し、朝議に参加することも出来るようになった。
 確かに父・道隆存命中のことを思えば大きく勢力を落としているが、朝臣としては一流どころの仲間入りをしていると云える。

 勿論、この時点ではほぼ叔父・道長の天下となっており、道長も敵意を捨てたものか、伊周作の詩に唱和し、奏上して御製の詩を賜ったという身内としての交流もあった。
 また、伊周が伊勢の平致頼を抱き込んで道長を暗殺しようとしているとの噂が浮上した際も、(何も起きなかったからだが)道長は特に伊周を罰してはいない(頭中将による調査は為されたが)。
 後に彰子とその子・敦成親王を呪詛したとされる事件が起き、伊周の叔母・高階光子が入獄させられた際に、伊周も朝廷に参上することを止められたが、四ヶ月も経たずに事件は解決し、再度参朝を聴された(その際に本来武官にしか許されない帯剣を許可される待遇も得た)。
 悪く云えば、「もはや敵ではない。」と見られていたからかも知れないが、この段階では一条天皇の後は定子の生んだ敦康親王が皇太子になる可能性も残されており、もし敦康親王が即位していれば伊周の復権は充分に考えられた。
 結局、道長のごり押しで敦成親王が立太子されたのが歴史の事実だが、逆を云えば、伊周と道長の間には政敵としての関係も内在していた訳で、そんな状況下で伊周が公卿として生き残れたのは、彼の才覚による立ち回りもそれなりにあったと思われるのである。


弁護肆 不評は藤原氏の宿病?
 道隆存命中、伊周の異常な出世が世人の顰蹙を買った訳だが、何もこれは伊周のせいではない。道隆による息子達の取り立て振りが露骨過ぎたのである。そしてこれは何も伊周と隆家に対してだけではなく、妾腹の生まれ故、嫡男となれなかった異母兄・道頼も権大納言、同じく異母兄・頼親も左近衛中将に任じられた。妾腹がここまで出征するのは異例である。
 そもそも道隆の父・兼家が一条天皇の即位で外祖父として摂政になった背景には花山天皇を云いくるめて隠居・出家させた道兼(兼家次男・道隆弟)の手腕によるもので、そんな道兼を無視する人事(一応、道兼は伊周より官位は上だったが)に道兼は大いに憤慨した。
 だが、これは道隆が特別なのではない。後々政権を掌握した道長も露骨に身内を贔屓した人事を行っており、道隆没後に伊周が出征競争から敗れたこと自体、道隆と不仲だった東三条院の露骨な介入によるものだった(逆に彼女によって兄弟の罪は許されている)。

 藤原一族の長い歴史を見ると権力を握った親が息子を出世されるのは日常茶飯事的に行われている。さすがに道長の一家三立后が凄過ぎるので他の事例が霞んで見えるが、そもそも藤原一族がそんな一族なのである。
 道長が三女・威子を後一条天皇の后として一家三立后を成立させたとき、この婚姻は威子にとって一一歳年下の甥との婚姻で、世の人々、同じ藤原一族からも最敬礼と盛大な祝辞を受けつつ、彼女自身は相当恥ずかしがったらしい。つまり、こんな婚姻が強引に為される程、藤原氏のごり押しは凄まじかったのである。

 当然これほどまでに露骨な人事が世の反発を買わない筈がない。
 うちの道場主はかつてとある企業に勤めた際、同じ日に入社した社長の甥が三日後に課長代理になった時は一族経営の会社であることを知っていて尚、顎を落とした記憶がある。現代企業ですらそうなのだから、中世の朝廷では尚更だっただろう。そしてこれまた世の常だが、その様な妬みの視線を送った相手が失脚した時、格好の悪口材料とするのもまた世の常である。
 伊周自身、父親の取り立てによる自らの出世を当然と思い、異母兄や叔父達にも傲慢に振舞っていた様子があったにはあったが、彼がそのような振る舞いに及んだのも、彼自身より、周囲の環境によるところの方が大きいと見るべきであろう。
総論 藤原伊周に関しては実は過去作「嫡男はつらいよ」で一度取り上げ、上記に関することはほぼ論述しています。
 過去作の繰り返しになるが、伊周は決して無能ではないし、異例の出世で思い上がった面は否定出来ないにしても、人として性格が悪かったとも思えません。
 勿論嫡流に生まれながらその血脈を継承出来なかった結果から歴史的に低評価を受けるのは仕方ないし、実際に致命的な失敗もやらかしています。
 ただその政争敗北もやり手の叔父達を向こうに回してのものであり、「相手が悪かった。」と云えなくもありません。
 政争に敗れたことで却って敵対視・妬み視線から解放された後はそこそこの地位を保ち、ワンチャン返り咲きのチャンスもないでもなかった。惜しむらくは三七歳の若さで世を去ったことで、政治家としての才を見せる機会に恵まれなかったことでしょうか。



藤原隆家(ふじわらのたかいえ 天元二(979)年〜寛徳元(1044)年)
概略 上述している藤原伊周の同母弟で、藤原道隆四男。兄同様、父・道隆と姉・定子の縁で異例の出世を重ねた。
 一七歳で権中納言となったことや、武官として出世したことからかなり気の強い性格で、敦康親王(定子の子で、隆家の甥)を後継者に選ばなかった一条天皇を「人非人」と罵り、従者が叔父・道長の従者と乱闘を起こし、殺人事件まで起こす程だった。

 周知の通り、伊周は花山法皇に矢を射掛けた罪で大宰府に飛ばされたが、この暴挙は隆家が唆し、共にやらかしたとされ、隆家も出雲権守に左遷された。伊周とセットで語られるこの乱暴者、果たしてその実像は?
弁護壱 身内贔屓は彼のせいにあらず
 上述の「藤原伊周」に対する「弁護」でも言及しているが、父・道隆による息子達の引き立て振りは露骨過ぎ、それ故伊周・隆家兄弟は世人の妬みを買った。
 勿論これは隆家のせいではないし、露骨な身内贔屓は祖父・兼家も、叔父・道長もやっている。「伊周」の項目と被るので簡単に済ませるが、「一七歳での権中納言任官」に嫉妬・反発したくなる気持ちは分かるが、これが非難される人事だとしても、それこそ一七歳の若僧よりは、任官した親父の方が責められるべきだろう。


弁護弐 荒くれもだが、武官として有能。
 兄の伊周が人として身内想いの優しい人物だったのに対し、隆家はかなり気の荒い人物だった。上述した様に従者まで荒くれ者で、そんな資質を見抜いていたものか、父・道隆は隆家を武官して取り立てた。
 そんな乱暴振りが祟って、長徳の変における処罰を受けて出雲権守となった隆家だったが、一年も経ずして恩赦で教に戻るとあっさり以前の役職である権中納言となり、後に正式な中納言となった。
 そして兄・伊周死後、眼病を患ったことで宋人の名医のいる九州への転任を申し出、大宰権帥となったが、在任中に刀伊の入寇を防ぎ切る殊勲を挙げた(詳細後述)。
 隆家は確かに粗暴な性格だったが、「長所は短所」とは良く云ったもので、天下の大権を握った叔父・道長に対して物怖じすることもなく、粗暴振りに眉を顰める者が多い中に在って、彼を「気骨ある者」と買う者も少なくなかった。
 少なくとも、この時代における摂関家の人間としては珍しい武官振りは九州の地元豪族達から心服され、当初隆家が九州で大勢力を築くことを懸念した道長は太宰府権帥任官を妨害したと云う。
 後に隆家は再度同役に任じられており、大宰府本来の役割を思えば隆家は立派にその任を果たしており、単なる流刑者の立場に甘んじてはいなかった。能力的にも、性格的にも。


弁護参 飛ばされた筈が善政と国防を主導。
 菅原道真じゃないが、左遷をきっかけに意気消沈し、その後の寿命を縮めた者や、中央政界復帰の望みを失くした者や、世捨て人同然になった者は枚挙に暇がない。その点、左遷時にまだ一七歳の若者という事もあってか、藤原隆家の人生はこの後の方が本番だった。
 長徳の変で出雲権守にさせんされた隆家だったが、実際には出雲に赴任していない。病気を理由に但馬に留まる内に恩赦で帰洛した。
 その後、上述した様に目の治療の為に宋人名医のいる九州への転任を希望した隆家に対し、道長は中関白家と九州豪族が結びつくことを懸念して太宰府権帥任官を妨害したが、これはある意味、道長が隆家の才覚と人望を警戒していたと云える(無能なら遠隔地に行ってくれるのは願ったり叶ったりで、妨害の必要は全くない)。
 結局、隆家同様に眼病を患っていた三条天皇が大いに同情したことで希望通り太宰府権帥となった隆家は任地にて善政を施し、在地豪族はすっかり心服した。
 そしてその任官中に刀伊の入寇が起き、この事態に隆家は見事に対処した。
 「刀伊」とは後世満州に金や清を建てた女真族の一派とされており、寛仁三(1019)年三月二七日から四月一三日までの一六日間に渡って対馬・壱岐・九州北部が襲撃された。
 刀伊は船約五〇隻と約三〇〇〇の兵力で突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火、略奪を繰り返した。結果、三六人が殺され、三四六人が拉致され、国司・対馬守遠晴は島から脱出して大宰府に逃れた。
 次いで賊は壱岐を襲撃。老人・子供は殺害し、壮年の男女を船に拉致し、人家を焼き、牛馬家畜を食い荒らしたと云うからとんでもない暴徒だった。これに対して国司・壱岐守藤原理忠は、一四七人の兵を率いて応戦したが、さすがに多勢に無勢で玉砕した。

 藤原理忠戦死後も壱岐では壱岐嶋分寺の総括責任者常覚が僧侶・地元住民達が指揮して抵抗・応戦し、賊徒を三度まで撃退したが、抵抗もここまでで、常覚は単身島を脱出し、事の次第を大宰府に報告。寺に残った僧侶達は全滅し、寺も焼かれてしまった。
 結局壱岐では一四八名が殺され、女性二三九人が拉致され、生存者は僅か三五名という有様だった。

 その後賊徒は筑前怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、四月九日には博多を襲った。ここで大宰府権帥だった隆家が大蔵種材等と共に奮戦し、撃退した。
 博多上陸に失敗した賊は四月一三日に矛先を肥前松浦郡に向けたが、後の有力水軍として有名な松浦党の祖・源知がこれを撃退。賊徒は対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した。

 その後、賊徒は高麗沿岸でも落花狼藉を働き、「男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じた。」と記録されている。結局ここでも高麗水軍に撃退され、このとき、拉致された日本人約三〇〇人が高麗に保護され、後に日本に送還された。
 余談だが、当時の日本は高麗の前身である新羅と相対的に不仲だったこともあって、捕虜返還という好意を受けて尚、刀伊が高麗の手先ではないかと疑って高麗に対しては警戒的な外交を続けた。
 そんな背景もあってか、隆家は博多と松浦で敗れて敗走する賊徒を追撃した際も、高麗領へ侵入しない様に途中で追撃を中止した。まだまだ国境という概念が薄く、朝鮮半島と九州の間にある島々が日高のいずれに帰属するのかも曖昧だった時代に隣国との関係悪化を懸念して追撃を中断した隆家の判断は現代から見ても優れている。
総論 藤原隆家という人物、やや性格に難はあるものの、武人としてはかなり優れており、特に大宰府での活躍は文句のつけようがありません。
 当時、平安京の貴族達は、軍事はおろか、警察的な仕事からもすっかり縁遠くなっており、僅か一六日とはいえ、外国からの襲撃に対して全くと云って良い程対処する力を持っておらず、功労者である筈の隆家を褒めるどころか、逆に「勝手に軍を動かした。」として罰することを検討するほど国防意識がぶっ飛んでいました(最終的にはちゃんと賞されましたが)。
 そんな貴族の中で育ち、一七歳でいきなり公卿にされたボンボン育ちにもかかわらず、経験のないトラブルに見事に対処し、事後処理も優れていた隆家の手腕は見直されるべきでしょう。隆家は問いによって拉致された日本人が高麗から送還されて来た際にも高麗の使者を丁寧に労い、充分な御礼もしています。
 この一面だけを捉えて政治家として優れていたかどうかの判断は難しいですが、軍人・外交官として有能だったのは間違いなく、前代未聞のトラブルに柔軟に対応したこの能力が中央にて政治家として活きていれば?と思わせるものが隆家のあったのは間違いないでしょう。


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令和六(2024)年六月一四日 最終更新