本作は光栄社刊『爆笑三国志』のパクリです。
第弐頁 建武過渡期編【閲覧者リクエスト作】
高師直(こうのもろなお ?〜観応二/正平六(1351)年二月二六日) 概略 代々足利家の執事(←現代語とはやや異なり、後の「管領」に近かった)を務めた武将の家に生まれ、自身も足利尊氏に仕え、鎌倉幕府倒幕・室町幕府創成を支えた。
権威を恐れず、武勇でもって尊氏の片腕として尽力したが、尊氏の弟・直義(ただよし)と対立したことで怖いもの知らずな姿勢は「ばさら」と呼ばれ、時に頼られ、時に恐れられ、時に嫌われ、最期は直義に降伏したにも関わらず弟・師泰共々恨みを持つ者の手に掛かり、族滅の憂き目に遭った。
一方で最後まで、そして死後も尊氏に愛されたその真なる人物像は如何なるものであろうか?弁護壱 一流の風流人・文化人でもあった。
「高師直」の名を聞けば、「ばさら大名」の代表選手的に捉える人は多いと思われる。「ばさら」とは、身分秩序を軽視・無視した実力主義者達が公家・天皇といった名ばかりの権威を軽んじ、豪奢な振る舞いや粋で華美な服装を好んだ者達で、言葉悪く云えば「力で自己都合を強引に押し通す乱暴者・傾奇者」となり、別の云い方をすれば「権威を恐れない実力主義者・合理主義者」とも云える。
実際、師直は主君・足利尊氏とは豪の者として似ており、尊氏の戦場における強さは尊氏の実力であり、師直の武力の高さが片腕として機能した賜物でもあった。それゆえ「ばさら」のイメージと相まって、長所を見る際も武芸達者な人物と見られがちな師直だが、彼は武勇一辺倒の人物では無かった。
まず上掲した様に、風流人・文化人としてだが、教養・歌人・書に優れていた。
勅撰集『風雅和歌集』に
「天くだる あら人神の しるしあれば 世に高き名は あらはれにけり」
の歌が入撰している。
これは南朝方の北畠顕家を倒した際に、その顕彰として住吉大社に奉納したものである。康永三(1344)年尊氏・直義等が奉納した国宝『高野山金剛三昧院短冊和歌』にも師直の和歌は含まれている。
師直の曽祖父・高重氏も名高い武家歌人で、主君・尊氏も歌を能くし、これらの背景もあって師直も歌人と優れる素地を持ち得たと思われる。尊氏・師直主従は決して武勇一辺倒の人物だったのではないことはこういうところにも見受けられよう。
そして書家としても多くの史書で讃えられており、一説に、二代将軍足利義詮は師直の花押を手本にして自身の花押をデザインしたとも云われている。
『徒然草』の著者・吉田兼好とも親交があり、公卿洞院公賢に狩衣着用の規則を尋ねる際、兼好法師を使者として遣わした。
弁護弐 政治家としても優れていた。
師直は行政官・政治家としての実務能力・内政能力にも秀でていた。
何度も触れている様に、高氏(←足利尊氏の初名ではなく、高家の人間と云う意味………ややこしいな(苦笑))は代々足利家の執事で、足利家郎党を束ね、率いる能力を師直もまた持ち合わせていた。そしてその能力は鎌倉幕府に代わって成立した室町幕府の政治機構を構築する際に遺憾なく発揮された。
室町幕府成立期の政治家としては足利直義が有名なため、直義と対立したことで悪役をされた師直の為政者としての能力は(ばさらのイメージ持って)低く見られがちだが、実際には執事在職中に発給した約二〇〇通もの文書が現存し、精力的に政務を行っていたことが判明している。
殊に師直が発給した執事施行状(しつじしぎょうじょう)は、将軍が出した恩賞宛行(おんしょうあておこない・おんしょうあてがい)の下文を為したが、土地給付の手続が正しく行われるよう、各国の守護に伝達し、武力を伴う強制執行力が付加されたことでかなり大きな成果を発揮した。
室町幕府の前身である鎌倉幕府の安定も衰退も武士の土地権利の管理にあり、建武の新政が早期に瓦解したのも武士の土地権利を軽んじたからで、これを安定させることは室町幕府にとって重要且つ急務な問題だった。
そんな状況下にあって師直は、恩賞宛行が矛盾してないか再確認を行い、さらに救済措置として有力武将ではない武士や小規模な寺社にも正しく恩賞が行き渡るよう、武力による強制執行を守護に義務付けることで、南朝に比べて室町幕府の求心力を高めることに成功したのである。
もしこの成功が鎌倉幕府末期や後醍醐天皇の失政に学んだものだとすれば、高師直は政治家としても優れている。
更に師直は申告手続きを簡略化し(場合によっては将軍の命令書を担当官に見せるだけで通るようにした)、守護のみに強制執行を担当させることで、執事施行状が簡単・迅速に有効になるように改良した。
一説によると師直が直義と対立した一因に、保守的な政治(古き良き時代の鎌倉幕府、北条泰時執権期)を好んだ直義との相違があったともされている。逆の云い方をすれば、師直の政治力が大したものでなければ直義は敵対する必要が無かったと云える。
もっとも、師直自身にも保守的な一面はあり、足利家執事としてのやり方に固執し、他の武士が抱く土地所有への執念を理解することが出来ず、執事施行状による恩賞配分に失敗することがあり、結果として政治家としての求心力は直義に及ばず、観応の擾乱で敗北することとなった。
だが、観応の擾乱によって師直自身は滅んだが、その後、観応三(1352)年に定められた室町幕府追加法第六〇条によって、執事施行状は室町幕府の命令系統の基軸となるシステムとして定着した。
師直の政治家としての力量は後々の幕政にも影響を与える程優れていたのである。
弁護参 優しい主君に代わっての汚れ役?
人間誰しも得手不得手がある。師直の主君・足利尊氏も同様で、彼は夢窓疎石をして「戦場で勇猛、部下に優しい、気前がよい。」と云わしめた程の時代の傑物であった。一方で政治家や策謀家としての力量はそれほどでもなく、優しい故に敵に対して非情になれず、それ故に武力で大勝を重ねながら、敵対した後醍醐天皇から朝敵とされるや勢いを失くし、一時期は九州まで逃げることになり、南北朝の対立をその後半世紀以上も引き摺ることとなった。
敵に対して非情になれない尊氏は当然部下にも甘い一面があり、本来なら師直の暴走は彼が止めなければならなかった。何せ尊氏代理の立場とはいえ、将軍の実弟である忠義と対立したのだから、本来ならただ事ではない。
尊氏の、悪く云うと優柔不断な面は多くの弊害を生んだ。広く知れ渡るところでは南北朝の対立を長期化させ、三管領家を初めとする有力守護大名の助力を必要としたことで守護大名内部、或いは守護大名同士の諍いが絶えず、室町時代は戦国時代に突入する前から殆ど安定期が無かった。
勿論、それらすべてが尊氏の責任という訳では無いが、常に敵対する者が存在した故、尊氏は後世南朝を正統とする史観を持つ者達から極悪人呼ばわりされた。顕著だったのは江戸幕府崩壊から太平洋戦争終結までの皇国史観が幅を利かせた世で、尊氏は個人として優しい男であり、武士の権益を重んじた度量の深い人物であるにもかかわらず、後醍醐天皇に逆らって北朝を創設した者として、皇位簒奪の嫌疑を掛けられた弓削道鏡、新皇を名乗った平将門と並んで「日本史上三代悪人」の一人とされた。
勿論、師直はその片腕として、皇室の権威を軽んじたばさらな姿勢も相まって「悪の手先」と見られたのは想像に難くない。一方、皇国史観が勢いを失くし、優しい人物としての足利尊氏がクローズアップされると、今度は尊氏の失敗や、周囲との対立は好戦的な姿勢を示し続けた師直が泥を被ることとなった。
勿論、師直の暴走を止めなかった尊氏の責任は小さくないし、師直は尊氏に忠実な一方で、好きでばさらな生き方をしていたのですべての泥を被ったと見ている訳では無いが、被った面が多いのは間違いないだろう。得てして人間とはそういうイメージで見がちであることだし。
弁護肆 名作に嫌われた故の悲劇?
多くの人々にとって、源平合戦について『平家物語』から多くを知る様に、鎌倉時代末期から、南北朝時代初期の歴史知識を『太平記』に(言葉悪い云い方だが)依存している人は多いと思われる。
勿論『平家物語』も『太平記』も物語で、正史ではないので「鵜呑みにしてはいけない。」と理屈では分かっていても、その影響はどうしても強く受けてしまうだろう。そしてその『太平記』において著者は「ばさら」を敵視し、高師直をヒール(悪役)に位置付けた。
名作において敵役・悪役・無能役を振られた者は堪った者じゃない。
一例を挙げると、『三国志演義』で主人公・劉備の義弟にして、忠臣である関羽を倒した呉の呂蒙は長くかなりの嫌われ者だった。呂蒙は多少の謀略を駆使したものの、何も極端に卑怯な手を使った訳でもなく、智謀を尽くして関羽から荊州を奪い、生け捕りにし、関羽が降伏を拒んだことで斬首された。
関羽が荊州を失ったのには呉と協調するよう諸葛孔明に助言されていたにもかかわらずかなり呉や孫権を見下した態度を取っており、配下の麋芳(びほう)・傅士仁(ふしじん)に無理な後詰めを強いて裏切りを招いたなど、関羽自身の自業自得な面も強いのだが、主人公の一角で、人気も絶大だった関羽を倒したことで呂蒙は謀略を「卑怯な手段」とされ、関羽を倒した翌年に急病死したことを「関羽様の祟り」とされた。
かように名作で悪者、或いは悪者ならずとも「主役の敵」とされると世間における評判はがた落ちとなる。師直は主人公である尊氏の敵どころか、寵臣だったが、上述した様に『太平記』自体が「ばさら」を好ましくないものとし、それ故に師直はかなりのヒールとなった感は否めない。
加えて師直が世を去って三五〇年も経ってから彼はとんでもないヒールにされた。
それは『仮名手本忠臣蔵』である。
本来『忠臣蔵』と云えば、江戸城松の廊下事件で切腹となった主君・浅野内匠頭の仇討ち(というと語弊を個人的に感じるが)を為した赤穂浪士の物語だが、事件直後は実際の事件に関わった者達の実名を用いられなかった。
『忠臣蔵』を読めば一目瞭然だが、吉良上野介だけではなく、ある意味時の将軍徳川綱吉もヒールである。だが、江戸時代当時、それも事件から然程ときも経ていない自分に将軍を悪者にしたり、幕府の法に罪人として裁かれた者を礼賛したりする作品を書けば文字通り首が飛びかねない。
それ故、主人公の大石内蔵助は「大星由良助」とされ、浅野内匠頭は「塩冶判官(えんやほうがん)」とされたのだが、その仇である吉良上野介の位置に置かれたのが高師直だった。
つまり師直はその時代に悪役として名を出せない人物のスケープゴートにされた訳である。後世武士の時代が終わったことで『仮名手本忠臣蔵』は『忠臣蔵』となり、江戸時代程には師直は悪く云われなくなったが、それでも「そんな悪役を振られるような奴」との印象は残ってしまった。
挙げればキリがないので一例だけ挙げるが、『太平記』において師直は「神仏を恐れない男」とされているが、実際には崇仏家で、暦応五(1342)年には、夢窓疎石に依頼して臨済宗真如寺(京都市北区)を再建したりもしている。師直が寄進したこの寺院は寛正二(1461)年に焼失するまで、京都十刹の一つに数えられていた。
この例からも、師直が作品上のイメージに相当実像をゆがめられている可能性は常に留意する必要があると云えよう。総論 個人の好みで云えば、薩摩守は「ばさら」な人物は好きではありません。否、有り体にって嫌いですらあります。それは薩摩守自身が弱い人間だからに他ならず、幼少の頃より暴力を初めとする膂力の前にこちらの云い分を封じられてきたトラウマからも、力で我意を押し通す人物を乱暴者と同一視しする傾向もあります。
一方で、既存の(それも形骸化した)権威や高位高官者が為政者としての義務も果たさないのに既得権益に胡坐をかき、世の発展を妨げているようなとき、無用な権威を否定するばさらな人物が必要な時が歴史には確かにあることも理解しているつもりです。
恐らく薩摩守が足利尊氏の家臣に生まれていれば、極力高師直とは関わらないような行動をとったと思われます。
決して好きな「ばさら」ではありませんが、その性質上、敵を多く作り、それ故に有能でなければ歴史に名を残す前に落命することが珍しくないので、正直、悔しくはありますが、「ばさら」が出来る人物の有能さは認めざるを得ず、それを羨ましく思うときもあります。
高師直の言動にも眉を顰めたくなる者は決して少なくはないのですが、鎌倉幕府や建武の新政が武士の権益をきっちり守った真っ当な政治を行っていれば師直は「ばさら」になる必要が無かったのではないか?と思うときがあり、同時に彼自身は好きでそういう生き方をしながらどこまでも尊氏と室町政権に忠実に、有能に臨んだ人物と云うのが実像だったのでは?と薩摩守は考えています。
尚、高師直に関しては過去作「「君側の奸」なのか?」でも採り上げていますので、そちらも参照頂けると嬉しいです(笑)。
楠木正儀(くすのきまさよし ?〜元中五/嘉慶二(1388)年または元中六/康応元(1389)年頃 概略 鎌倉幕府が滅びようとしていた頃に、日本史上(特に戦前)において世に並ぶ者無き大忠臣とされた楠木正成の三男に誕生。
延元元/建武三(1336)年の湊川の戦いで父を失い、次いで正平三/貞和四(1348)年に四條畷の戦いで長兄・正行(まさつら)と次兄・正時が戦死したため、期せずして少年の身で楠木氏棟梁と南朝総大将の地位を継いだ。
時に室町幕府方の高師直・師泰兄弟と戦い、時に南北朝間の和平交渉を担い、四度に渡り京を奪還するも、南北朝間の集合離反の渦中にあって、北朝方の重要人物の逝去・失脚や、南朝主戦派である後村上天皇や洞院実世・和田正武等との対立に悩まされ、北朝に降伏。
その後再度南朝方に寝返ったことで「父や兄に似ない変節漢」と見做され、南朝にも北朝にも潜在的に敵を抱え、最終的に和睦による南北朝合一後にひっそりと世を去った。
楠木氏の身分的に史料が少なく、不明点が多い人物である一方で、父と兄が日本史上第忠臣の代表選手の様な地位に置かれたことから、その対比上、軍記物(『太平記』)でも、その後の皇国史観でも人物・能力共に低く見られがちな人物だが、それは正しいのだろうか?弁護壱 複雑怪奇過ぎる南北朝所属者達の集合離反
いきなり自己弁護するが、薩摩守は戦国時代に比して、南北朝時代及び幕末の史書に目を通した度合いが著しく低い。端的に云って、「読んでいて嫌になる。」からである。
詳細は割愛するが、殊、南北朝対立の歴史に在っては、裏切り・帰参・返り忠が横行していて、それは楠木正儀に限った話ではない。
勿論、「〇〇君がやっているから僕もやったんです。」という小学生の様な云い訳は苦しい。嘉●達△っぽく、「ほな、〇〇が死んだらお前も死ぬんか?!」というツッコミが待っているだろう(笑)。
まあ、冗談はさておき、ただでさえ「武士の忠義」は江戸時代の武士道と混同されがちだが、江戸時代以前の忠義は単純ではない。まして後醍醐天皇を初めとする南朝の天皇は、皇室の権威と正統性を絶対視して、彼我の戦力も顧みず、敵にも味方にも無茶振りをした。
正儀の父・正成、伯父・正季(まさすえ)、長兄・正行、次兄・正時が命を落としたのも、現実を度外視した南朝天皇による無茶振りが原因と云っても過言ではなく、正儀が北朝方と和平交渉を行った際も、南朝方は「北朝の全面降伏」を和平条件として正儀に命じ(←はっきり云って、和平交渉になっていない………)、余りに一方的な内容に二代将軍・足利義詮が激怒したことで和平交渉は頓挫したこともあった。
そんな調子だから、南朝方には離反者が相次いだ。それでありながら六〇年に渡って南朝が命脈を保ったのも、正当な天皇の証である三種の神器を持ち、所謂、「錦の御旗」を保持していたからで、この権威の前に足利尊氏すら一度は降伏しているのである。
そんな状況下で、無茶振りに不平一つ云わず、唯々諾々と従い、命を落とした楠木一族の方がある意味どうかしている、と薩摩守は考えている。
勿論、それ程の忠義だから正成は忠臣の代表選手にされ、戦前の軍国主義教育では何度も「楠公に肖れ!」という叱咤が教育の場にて飛び交った。そんな忠義の権化である父と比較されたのでは正儀も堪ったものでは無かったことだろう。
実際のところ、南朝と北朝の間を行き来した正儀ではあったが、後村上天皇からの無茶振りに逆らわず、決裂を覚悟の上で冷静に交渉したからこそ、南朝方の要求に激怒しつつも、室町将軍の義詮・義満父子も、管領・細川頼之も、正儀は認め、自陣営に引き込み、厚遇した。
一方、当初こそ頑迷だった後村上天皇も、その後二〇年以上の付き合いの中で正儀を正しく理解する様になり、徐々に態度を軟化させ、正儀が北朝から南朝へ帰参した際には単純な背反者ではあり得ない厚遇で帰参を許している。
全然時代は異なるが、日中戦争中、時の内閣総理大臣平沼騏一郎は、「共産主義に対抗する為の仲間」と見ていたドイツのアドルフ・ヒトラーが共産主義国であるソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結したとの報を受け、「欧州の地は複雑怪奇なり」との迷言を残して内閣総辞職した(ナチスのポーランド侵攻に端を発する第二次世界大戦の勃発はその一週間後)。
「敵の敵は味方」じゃないが、平和な時代の忠義や倫理で混乱期の正義や忠義を語るのは無理がある。まして政権が武家と皇室の間を行き来し、南北朝所から九州には懐良親王(かねよししんのう)が独立政権まで一時打ち立てていた時代である。選択を一つ間違えれば自分一人のみならず、一族郎党が路頭に迷ったり、滅亡したりしかねなかった南北朝時代、正成の忠義の方がある意味異常だったと云えよう。その息子に生まれたばかりに正儀を一方的な変節漢とするのは考え物である(変節した事実を無視せよとは云わないが)。
弁護弐 時代を先駆けた数々の偉業
父・正成達との比較から過小評価されがちな正儀だが、間違いなく人格・能力共に優れた人物だった。
正儀の生年ははっきりしないが、兄二人を失ったことで楠家の家督を継いだ際の年齢は現代で云えば中学生とも云える時分だった。勿論一族郎党に男児が一人しかいなければ何歳だろうがその者が棟梁となる訳だが、正儀は同時に南朝方総大将まで担わされている。「他に人はおらんのか?」と云わざるを得ない。
まあ、「トップが無茶振りするのにとことん忠義を尽くす者」となると楠木家の人間を頼らざるを得なかったのは想像に難くないが(苦笑)、正儀はそんな状況下で軍事も交渉も担い、敵からも認められ、幾度となく京都を南朝方に奪還しているのである。そんな人物が無能である筈がない。
そんな正儀の有能さを示す証左として、後世の戦に与えた影響を挙げたい。それは「槍」という武器を戦場の主武器としたことである。
「槍働き」・「一番槍」という言葉がある様に、戦国時代の歴史を知る我々は槍が戦場での主要な武器であったことに微塵の疑いも抱いていないが、少なくとも南北朝時代を迎えるまでは、身分の高い武士は騎射と太刀による打ち合いをステータスにして、基本戦法としていた。謂わば、槍は身分の低い雑兵の武器として蔑視されていた(と云い切るには語弊があるが)。
一例を挙げると、元寇・文永の役において肥前の御家人・竹崎季長は「先駆け」の功績を認めるよう鎌倉幕府に必死に働き掛け、自身の戦働きを示す為に『蒙古襲来絵詞』という史料を後世に残してくれた。
この時の竹崎の「先駆け」は騎馬による突進だが、一貫して、「先駆け」と呼ばれており、「一番槍」とは呼ばれていない。『蒙古襲来絵詞』に描かれている竹崎は槍を持たず、短弓やてつはうを駆使する元兵に果敢に騎馬を乗り入れている。
話を戻すが、鎌倉末期から室町初期にかけて、各地には「悪党」と呼ばれる武装勢力が個々に勢力を保持しており、楠木氏もそんな郎党の一つだった。そしてそんな「悪党」の世界では名誉よりも実益が戦場でも実践され、この時代にそれまで一段下に見られていた「槍」が重視され出した。
それゆえ、楠木正儀が「日本の合戦に槍を普及させた人物」と決め付けるのはやや躊躇われるが(正儀が生まれた頃に大光寺合戦で安達高景・曾我道性ら北条氏残党が既に槍を用いた戦法を編み出していた記録がある)、それでも南北朝時代中期まで主流の戦い方は依然として馬上打物(太刀を用いた騎兵の一撃離脱戦)と歩兵による弓射ちだった。
それを南北朝動乱期に行われた京都攻防戦で、正儀と細川清氏によって、槍歩兵による密集陣形が市街戦に有効な武器であることが示された。
槍は構造上の脆弱さや、狭い場所での使い勝手の悪さという欠点があるものの、太刀に比べて安価で、集団戦法に適していた。武器や戦の歴史を少しでも研究したことがあれば誰でも知っている話だが、創始した人物がいるから知っているに過ぎず、最初に思いつくのは如何に困難で、偉大であるかは正に「コロンブスの卵」であろう。
弁護参 細川頼之との友情
南北朝の対立は室町幕府三代将軍足利義満の手で終結した。その義満は室町幕府の最盛期を築いた人物で、その片腕を担ったのが慣例・細川頼之である。
この二人の関係派は過去作「師弟が通る日本史」を参照して頂けると嬉しいが、この二人に敵でありながら認められたのが楠木正儀だった。
能力だけでなく、正儀は特に頼之と馬が合った様で、両者はともに無駄な争いを好まなかったため、南北朝の和平交渉は決して順調ではなかったにもかかわらず、正儀と頼之が交渉を持っていた二年の間、京には一定の平和がもたらされた。
その縁や人と人としてのやり取り、南朝方の無茶振りもあって正儀は北朝に降伏した。勿論南朝にとっては裏切り行為だが、薩摩守は(正儀のケースに限らず)「裏切られる南朝にも問題あり。」と見ている。
とかく、この頼之との縁があって、正儀は降将とは思えない待遇で北朝に迎えられた。そしてこの義満と頼之だが、この時点では後々程の力を持っていなかった。室町幕府には正儀を迎えた頼之を弾劾する声が上がり、後々揺るぎない強権発動者に成長した義満もこの時はまだ一〇代半ばの若輩者で、幕府内の頼之罷免の要求に応じざるを得なかった。
この頼之罷免(後に返り咲くのだが)を受けて正儀は北朝方に居場所を失くし、南朝に帰参することとなった。変節に違いは無いが、後々室町幕府を盤石化した義満と頼之にここまで認められていた正儀に、人として見るべきがあるのも間違いないだろう。
弁護肆 フィクションと皇国史観の犠牲者がここにも………。
上述の高師直と被るが、正儀は父兄との対比で皇国史観を通じて「変節漢」とされ、南北朝動乱の終末を生きて迎えてことで『太平記』においてその能力・人格を酷評されている(それも史実とは異なる戦で)。
上述した様に『太平記』はフィクションである。史実を元に作られているから全くの出鱈目が掛かれている訳では無いが、史実ではない箇所が幾つもあるし、そもそも作者が誰なのかもはっきりしていないので、史観がはっきりしないのだが、それでも正儀が作者・作風に嫌われているのははっきり分かる。
同時に明治から昭和にかけての皇国史観の世では父・正成がスーパースターとされたため、彼の無条件な忠義と比較された正儀がぼろくそに貶されるのは避けようがなかった。しかし、今現代の私達に皇国史観を貫ぬなければならない義務はないので、まだ公平公正に見ることは出来よう。
そしてそんな酷評のオンパレードにあっても、正儀は見るべきはちゃんと見られている。『太平記』も正儀が無茶な戦を避ける慎重な人物であったことは同書も認めている。父や兄と共に降伏した捕虜を虐待することもなく、味方に見捨てられて川中に転落した敵兵を救い、薬や衣服まだ与えている。
つまり、正儀に好意的とは云えない同書でさえ、無駄な殺生を行わず、人に優しい楠木正儀の人柄は認めざるを得なかったという事だろう。総論 上述していますが、薩摩守は戦国時代程には南北朝時代には詳しくなく、目を通した書籍も決して多くはありません。その理由は上述していますが、それに加えて、楠木正成一族を調べるとどうしても戦前の皇国史観による鬱陶しいまでの過剰な正成礼賛を目の当たりにせざるを得ず、とんでもない無茶振りに遭いながらそれでも命をとして忠義を貫いた正成一族に感心する一方で、暴君への無条件な忠義に眉を顰めたくなります。
正直、冒頭に掲げてありますように、閲覧者の方からのリクエストが無ければこの「楠木正儀」の項目は存在しなかったことでしょう。逆にリクエストを受けたことで正儀を調べ、正成の忠義、南北朝間での集合離散、フィクションと史観に曇らされがちな人物像を考察するきっかけを得られ、リクエストして下さった方には感謝しています。
南北朝動乱期の歴史は正儀の生涯のみならず、様々な人物が複雑な歴史を重ねており、すべてを語ればそれだけで幾つものサイトになりかねませんので、本作はかなり部分的にしか正儀を語っていません。
最後にまとめるなら、忠義感や史観やフィクションにおける立場がどうあれ、敵にも味方にも認められる人格と能力を保持していた楠木正儀という人物、もっともっと注目されて然るべきと思いますとともに、リクエストを受けて生まれたこの頁がその一助にでもなり得れば、薩摩守にとっても、リクエストして下さった方にとっても大変喜ばしいことになるかと思います。
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令和六(2024)年七月一八日 最終更新