3.一個人・山口智之としての存在

 この頁ではタイトルにある通り、俳優・山口暁山口豪久の配役を降り、一人の人間としての素顔の山口智之に戻った時に注目する事で、人間としての彼の在り様が役者としての彼にどう影響したかに触れ、哀悼と敬意を示してたい。


1)複雑な生い立ち

 ソニー・マガジンズの「不滅のヒーロー仮面ライダー列伝」(岡謙二=著)によると後に山口暁山口豪久の芸名を持った山口智之という人間は幼くして母を亡くし、父親の再婚後に親類の家をたらい回しにされて育ったらしい。
 家族の温かい愛情を知らずに育つ家庭は寂しげな雰囲気が漂うものだったのだろう、と同書は推測しているのだが、俳優山口暁山口豪久に何処か陰があるのはそのせいかも知れない。
 愛情の通わない寂しい家庭を「早く出たい。」と思っていた山口は自立できるようになってすぐに家を出るが父も、義理の母もそれに反対しなかったという。
 既に故人となった人の親を悪く云う様で気が引けないでもないのだが、陰のある物静かな男を演じた山口豪久と愛妻家・子煩悩の山口智之を解するのにこれは避けて通れない。
 一人の人間を見るのに満たされないものがその後の人生に多いに影響を与える事が山口の人生は端的に見せてくれている。まだ妻子を持たないシルバータイタンだが、自らの生い立ちに両親より満たされたものに感謝し、我が子に満たされないもののために不幸や罪を背負う人生を歩ませない親で在らねばと思う。それは私より先に人の親になったサンダーミッフィーにも学びたいものでもある。


2)愛妻家

 山口智之の細君は女優仲間だった山口千枝子夫人。「マグマ大使」の共演で知り合った二人は1972年に結婚した。
 智之は千枝子夫人の、人を自然の内に包み込むような微笑みと温かさに惹かれ、夫人は智之の寂しげな雰囲気の中に潜む誠実な心を愛した。
 仕事帰りに智之が千枝子夫人を車にて自宅に送る形で交際が始まり、六年の交際を経て婚約せんとした時、千枝子夫人の両親からは反対の声が上がった。両親の愛情に恵まれない境遇に育って愛情に薄い雰囲気をたたえたためではないか、と生前山口は語っていたらしい。
 結局、千枝子夫人の両親が智之の婿入りを求め、双方の姓が同じ「山口」であったことが幸いし、千枝子夫人の両親の近くに居を構える形で夫婦生活がスタートした。
 爾来おしどり夫婦の日々が続き、二人の娘に恵まれ、温かい家庭が築かれた。それは山口が自らの幼き日に望んで得る事のできなかったもので、その時間を取り戻すかのように山口は家庭に愛情を注いだ。
 どんなに帰宅が遅くなっても山口は必ず自宅にて夕食を採り、仕事熱心な男が仕事の困苦を決して家庭には持ち込まなかった。唯一の夫婦喧嘩は千枝子夫人が「働こうかなあ。」といった時に智之に叱られた時だけだという。
 多忙で愛情に満ちた夫婦生活は14年の時を経て突然の終焉を迎えた。知らず知らずの内に癌に冒されていた山口は入院三日目にして亡くなる前日に千枝子夫人に「フルーツが食べたい。」と駄々をこね、その日は夜八時まで病室にいた夫人は翌日午前一時突然の病院からの電話に呼び出された。
 夫人はそれでも山口が死ぬとは思っていなかったが、病状の悪化に驚いた夫人が慌てて呼んだ娘達に見守られる中1986(昭和61)年4月6日山口智之は息を引き取った………。
 ちょうど1ヶ月後の5月6日、山口が病院に持っていった荷物の中から娘が家族一人一人に宛てた遺書を発見した。
 千枝子夫人には「お世話になりました。自分は母の所に行きます。」と書かれていた。妙な他人行儀文章に千枝子夫人は苦笑したらしいが、短い文章には、幼き日に母に死に別れ、義理の母から母の愛を得られなかった男の、せめて自分の妻には二人の娘に目一杯の愛を注ぐ母であって欲しい、娘達に自分とは同じ思いをさせたくないとの念が集約されているようで、死に臨んで生涯渇望した母の愛を求める姿にシルバータイタンは滂沱の想いを禁じ得ない。


3)子煩悩

 山口と夫人の間には二人の娘が生まれた。両親の愛に恵まれなかった自らの幼い日を繰り返させまいとするかのように山口は二人の娘にも無上の愛を注いだ。山口が帰宅すると二人の娘は玄関にまで飛ぶように駆けつけ、山口も細い体で娘をしっかと抱き止めた。
 多忙な俳優業にあっても娘を塾まで送り迎えし、休みの日は釣りに連れ、携帯のない時代でも娘達はよく職場に電話した。そんな父子間の愛情溢れた家庭において山口の死は余りにも早過ぎる以上に、二人の娘には受け容れ難い物だった。千枝子夫人は3年間 山口の仏壇を買う事を許してもらえなかった。
 山口が亡くなった時、長女は小学校6年生、次女は小学校4年生になる日を目前にしていた。前述の妻子一人一人に宛てた山口の遺書は次女に宛てたものだけが名前のみで、次女は「パパ、何ていいたかったの?」といって泣いた。
 逝去から3年を経て、夫人は「パパにもお家がいる。」と云って娘達を説得して仏壇を購入したが、なかなか仏壇の購入を許さなかった娘の気持ちを「頭ではわかっていても、パパの死が形になるのが嫌だったのでしょうね」と述懐していた。
 1999年の段階で、長女は女優山口貴子として活躍し、次女は沖縄で乗馬のインストラクターをしていたのが分かっている。長女の貴子さんは「仮面ライダーSpirits」の第2巻の巻末に「私の父、ライダーマン」という文を寄稿している。
 ライダーマン結城丈二のような人間性に溢れ、多くの人々の思い出に残る役を演じる事に挑まんとする愛娘を故山口智之は草葉の陰でどんな想いで見守っている事だろうか?
 また、次女は遠く沖縄に会っても毎日実家に電話し、母娘三人の会話には時折、「パパが聞いたら怒るよ。」、「パパなら何て云うだろう。」との言が混じる。


4)経営者

 山口智之は俳優業の傍らで親類の経営する外食メーカーの常務としても多くの書類と格闘する多忙な日々を送っていた。
 兼業の激務の中でいつしか癌に冒されていた山口の体だったが、僅か四日で逝った入院生活にあっても山口は多量の書類を病室に持ち込んでいた。
 彼の演じる何事にも一生懸命な、一途なキャラクターは彼自身であるが故にあれほど魅力に溢れ、同時にその手を抜く事を知らない性格が体を酷使したのかもしれない、と考えると山口の魅力と不幸に表裏一体性があることに複雑なものを感じる。


5)調理人

 この項を最初に作った時(平成一七(2005)年一〇月二二日)、シルバータイタンは宝島社の『怪獣VOW』の内容のうろ覚えで、

 『東海大学の学食にて調理人を勤めていたこともあり、学生達から「ライダーマンのオジさん」と親しまれていたらしい。書籍上で見たうろ覚えで申し訳ないですが、念の為付記します。』

 と記した。
 それから時を経ること二年九ヶ月、学食の調理人を勤めていた当時の山口を「ライダーマンのオジさん」と呼んでいた、という方からメールを頂き、山口が務めていた学食は東海大学ではなく、東京都町田市の桜美林高校の学食である、との指摘を受けました(しかも、『怪獣VOW』に記載されていたのは東海大相模で、東海大学にあらず・・・シルバータイタンの記憶はなんていい加減なんだ・・・)。

 貴重な情報を提供して下さった、その方(仮に「M氏」と表記させて頂きます)のメールは生前の山口の貴重な一コマを教えてくれるだけではなく、学生達にも慕われた山口と、彼への想いに溢れた名文でもありましたので、その一部を下記に抜粋・掲載させて頂きましたので、そこに生前の山口の息吹と彼を巡る想いを感じ取って頂ければ幸いであるとともに、この場を借りてMさんに深く感謝いたします。
(以下、M氏のメールより抜粋。文中の「私」はM氏本人、「貴殿」はシルバータイタンを指します。)
 ライダーマンをやっていた山口さんの記述について、
 一部お知らせした方がいいと思いましてメールしました。

 山口さんが亡くなる一年前、勤めていた学校の学食は私が通っていた町田にある桜美林高校の学食であり、東海大学の学食ではありません。

 このエピソードはあまり公開されていないので無理もない話です。
 私がその「ライダーマンのおじさん」と言っていた生徒の一人です。
 昭和60年に桜美林高校の学食は古いプレハブの建物から4階立ての学食以外の施設を含む建物として建てられ、昭和60年の4月から使用され始めました。二階の軽食コーナーの店長さんとして働いていらっしゃいました。
 私は昭和61年の3月に卒業したのですが、それまでの間山口さんとお話をした思い出があります。

 テレビでみるのよりも背の高い大きい方だったのが印象的でした。
 ただ、ライダーマンの存在を知る生徒が私を含めてもそんなにいなかったこと、ましてやそれが売店にいる山口さんと結びつかなかった生徒の方が多く、それほど大騒ぎにはなりませんでした。その分、私は山口さんとの思い出が沢山できたのにはラッキーだったと思います。

 最後の半年ぐらいは、今考えると体調が思わしくなかったのか山口さんの姿を見ないときの方が多くなりました。
 卒業後、数ヶ月してライダーマンのおじさんが亡くなったと聞いて涙しました。

 以上、初めてのメールで長くなってしまいまして申し訳ございません。
 ただ、貴殿のページには私の知る限りで正しいことを書いていただきたく、ご連絡さしあげました。



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令和三(2021)年五月一二日 最終更新