事件の経緯

第一章 悲劇
大正四(1915)年一二月九日早朝
 開拓部落の農家の一つ太田三郎家で一つの些細な騒動が起きた。
 この日、六線沢では一五戸から一人づつ人を派遣して、寄り合い作業である氷橋作りを行い、冬季の交通手段を確立することになっていて、戸主・三郎が出掛けようとした所、当家の預かり児の蓮見幹雄が付いていきたいと駄々をこねたのだった。
 今まで一度も後追いをしなかった幹雄の突然の行動に途惑った太田だったが、幹雄が内縁の妻・阿部マユの説得に応じ、後追いを諦めたため、釈然としない物を感じつつも自宅を後にした。

 下流の工事現場に赴く途中、二軒隣の家の主人・明景安太郎(みょうけやすたろう)と道連れになった太田は八時頃松村長助宅の前を通過。そのとき二人は松村の野積みのトウキビが食い荒らされているのとの足跡を発見した。しかし二人ともさほど気にも留めず、数キロメートル下流の三毛別川にかける氷橋の材料にするための材木の伐採を行うべく、辻橋蔵家の裏山に向かった。

 の家の裏山の木々は氷橋作りのため、御料林が役所から払い下げられていた。一五戸から派遣された一五人は一堂に会することが滅多にないこともあり、工事でありながらお祭り騒ぎの様相を呈し始めていた。

 午前一〇時頃、太田家の前を馬に乗った一人の男−三毛別の住人・松永米太郎が通りかかった。
 松永は山裾から太田家に一本の血痕が続いているのは見たが、兎を狩ったマタギが太田家に持ち込んで一服しているものと思い、用事があったこともあってそのまま太田家の前を通過した。
 自分の見た血が人の血で、太田家の中が地獄絵図と化していることを知る由もなく…。

大正四(1915)年一二月九日昼
 太田家の寄宿人・長松要吉(通称:オド)は竜骨(キール)材の伐採が仕事で、この日も仕事に出ていたが、昼にいつも通り昼食を摂りに太田家に帰宅した。
 しかし、家の中は静まり返り、彼は土間にばら撒かれた小豆に足を滑らせた。痛みに耐えつつ立ち上がった彼は囲炉裏端で座って項垂れる蓮見幹雄を見つけた。
 茶目っ気の多い幹雄のこと、狸寝入りだろうと咽喉を擽ろうとしたオドはようやく幹雄が咽喉をえぐりとられて死んでいることに気付いた。

 大慌てでマユの名を呼ぶも返事はなく、狂乱状態のままオドは氷橋作りの現場に急行した。
 幹雄は蓮見家よりの預かり児で、翌春には小学校に上がるため、実家に帰るだろうと見られていた。しかし、子のない太田夫妻は幹雄を養子にしたがっていて、帰す帰さないで夫婦間の言い争いが絶えなかったこともあり、そのとばっちりで殺されたことが懸念された。
 オドは氷橋作りの現場で太田三郎を見つけ、幹雄の不幸を告げたが、最初、一同は余りにオドの言うことが突拍子のないことなどで実感が湧かなかったがオドと同様の心配をした三郎は我が家へ走り、他の一四人とオドもそれに続いた。

 場面は再び太田家へと移り、そこで一同は無惨な死を遂げた幹雄の死体と地獄絵図と化した太田家を見て、とんでもないことが起きたことを実感。阿部マユの姿が発見されなかったが、馬鹿力による家の荒らされようと、必死の抵抗の後から幹雄殺害はの仕業であり、マユもまたに襲われ、抵抗空しく、寝間で殺害され、山中に連れ去られたことが明白となった。

 突然妻子を見舞った惨劇に太田は放心状態となり、一同は現場とオドの証言から、午前一〇時半前後に家の中に侵入してきたに先ず幹雄が一撃で殺され、次に必死の抵抗後にマユが殺害され、山中に連れ去られたと推理し、事件の勃発を集落中に伝えると明景安太郎宅で善後策を練ることとなった。


大正四(1915)年一二月九日夜
 事の重大さに恐れおののいた開拓民達は事件の勃発を村役場と警察に伝えることとなったが、惨劇を目の当たりにした直後でもあり、誰もが使者の役目を躊躇った。
 太田三郎たっての願いで蓮見幹雄の不慮の死を幹雄の実家の力昼の蓮見家に伝えて欲しいと頼まれた明景安太郎と、集落内唯一のマタギである金子富蔵が使者の役から外されることと、使者はくじ引きで選ばれることに決まった。

 斉藤石五郎が作ったくじを中川長一が当たりを引いた。しかし中川は体調の不調を理由に役目の免除を申し出た。
 人の良い斉藤は「くじを作った責任を取る。」と称して使者を引き受けた。

 緊急寄合の帰宅途上、斉藤は、力昼に赴く明景に、鬼鹿まで足を延ばし、親類に預けて小学校に通わせている斉藤の三人の子に会って、「危険だから里帰りしないように。」との伝言を依頼した。
 斉藤同様に人に良い明景はこれを快諾し、また、両家の主人が不在となる不安から斉藤の妻子を自宅に泊めることを提案し、斉藤も「それは助かる。」とこれに同意した。



大正四(1915)年一二月一〇日早朝
 午前五時頃集落の使者・斉藤石五郎は一九キロ先の羽幌警察分署古丹別巡査駐在所と三〇キロ先の苫前村役場に向かって、明景安太郎蓮見幹雄の実家のある力昼村斉藤の子が居候する鬼鹿村へ向かってそれぞれ自宅を後にした。
 斉藤の妻・タケは三男・、四男・春義を伴い明景家へ避難し、太田家の寄宿人・オドも婦女子の護りとしてこれに加わった。

 一方、隣村の三毛別からは金子富蔵の依頼を受けた谷喜八が、マタギの加藤鉄士宮本由太郎千葉幸吉の三名と、河端甚太郎を頭とする三毛別の有志約二〇人を伴って六線沢に到着した。


大正四(1915)年一二月一〇日朝
 六線沢の開拓民達と谷喜八三毛別からの救援隊は直ちに阿部マユの捜索・の獲殺を目的とした討伐隊を編成し、河端甚太郎を先頭に、マタギ衆、刃物を持った農夫達が続き、羆の足跡とマユの血痕を辿って山中へと乗り込んだ。

 程なく椴松の根元にいたが獲物を守らんとして躍り出てきた。不意を突かれたマタギ衆は慌てて羆に発砲するも千葉宮本加藤の三丁の銃は不発で、金子は遊底保護に巻いてる布が解けずに発砲の機会を逸し、唯一発射したの銃は、しかし、弾丸はの耳をかすめていっただけだった。

 銃の脅威を逃れたは討伐隊に逆襲。所詮、烏合の衆に過ぎない一同は頼りにしていた鉄砲の不発に士気が崩壊し、蜘蛛の子を散らすように逃走した。
 しかしその中、妻子を殺され怒りに燃える太田三郎三毛別の大将・河端甚太郎が長柄の鎌を武器にと対峙。決死の二人の気迫に無益な争いを控えたは悠然とした態度を保ちつつも林内に姿を消した。

 が去って何とか平静を取り戻した一行は阿部マユの捜索を再開し、のいた椴松の根元に埋められていたマユの遺体を発見した。
 しかし遺体は完膚なきまでに食害され、頭と両足の膝から下だけが辛うじて残されていた状態だった。一行は遺体を回収し、衝撃の余り気を失った太田を連れて六線沢に戻った。
 一行が六線沢に戻ってきたとき、時刻は午後五時を過ぎ、集落には三毛別から遅れて集まってきたマタギ衆や有志の救援隊、そして蓮見幹雄の実の両親・嘉七チセ夫妻が来ていた。


大正四(1915)年一二月一〇日夜
 を討ち取り損ねた救援隊は獲物に執着するの習性から再襲撃が行われるであろうことを警戒し、徹夜の警備体制を取った。
 その頃太田家では阿部マユ蓮見幹雄の通夜がしめやかに執り行われていた。
 非常時の警戒から参列者は少なく、喪主・太田三郎幹雄の両親である蓮見嘉七チセ夫妻、集落から松村長助中川長一池田亀次郎三毛別から救援でやって来た久保嘉七堀口清作力昼から蓮見の知人・斉藤信之助、以上九人が集まって、死者の霊を弔っていた。
 そんな悲しみの通夜の中、巡回中の谷喜八が顔を出し、に対する警戒を忠告していた。

 通夜の途中、太田は、蓮見夫婦に、「どんなに詫びでも詫び切れない死に方をさせてしまった幹雄を、せめておらの子として弔い続けさせて欲しい。」として、既に故人になった幹雄を養子に貰い受けたい、と申し出た。
 太田幹雄への想いの強さに心打たれた蓮見夫婦はこれを快諾し、幹雄が太田家の養子となることが合意された。

 一同はくよくよしていても始まらないので幹雄の養子縁組を目出度い物として、歌でも歌って場を明るくしようとしたところへが仏壇裏の壁をぶち破り、二人の棺桶をひっくり返して侵入してきた。

 当然、太田家内はパニックに陥り、ある者は天井の梁の上へ、ある者は厠の中へ逃げ、ある者は腰を抜かして逃げられなくなった。
 そんな中、中川長一太田三郎は戸外へ脱出。中川は石油缶を打ち鳴らしての来襲を周囲に知らせた。
 そして屋内では日露戦争の勇者として名高い堀口清作がランプを羆に割られた暗闇の中、持参の銃を発砲し、を追い払ったのだった。

太田家通夜襲撃

 中川の石油缶乱打による緊急警報を聞きつけた救援隊はマタギ衆を先頭に太田家に急行した。
 中川を保護した救援隊員達だったが、を討ち取って残る人々を救出せんと逸るも、ランプを壊された太田家は暗闇に包まれており、下手に発砲しては人を誤射しかねないことが懸念された。
 だが、救援隊員達が躊躇していた所を、太田が現われ、の逃走と発砲の無用を告げ、一行は屋内に残されていた七人を保護し、全員の無事を確認した。
 この騒動では幸い一人の怪我人もなく、を追い払った堀口と救援を呼んだ中川が男を上げ、妻を踏み台に天井に逃げた蓮見が男を下げた(この一件のために蓮見嘉七はその後終生、妻のチセに頭が上がらなかったそうな)。

 は去った。しかし、討ち取られてないことに警戒を緩めないは通夜の客を下流に避難させることを辻橋蔵に要請し、マタギ衆を集落中に派遣し、警戒を呼び掛けた。
 マタギ衆の一人であった宮本由太郎は主人不在の明景安太郎宅を訪れ、太田家の騒動と警戒を告げ、明景家を後にした。

 明景家ではオドが囲炉裏の焚き火を大きくして不安に怯える子供達を宥めた。
 明景安太郎の妻・ヤヨは救援隊の夜食作りにおおわらわし、避難してきていた斉藤石五郎の妻・タケは太田家の仏前に供える団子作りをしていたが、宮本が去ってほどなくした午後八時五〇分頃、太田家を追われたが一五分も経っていないというのに明景家の藁葺きの壁を破って侵入してきたのだった……。

苫前町郷土資料館に置かれている明景家襲撃を模したジオラマ。
 窓を突き破ってこんなんが入って来るなんて、凄い恐怖だよ、アンタ……。
羆の爪。『キン肉マン』に出て来るウォーズマンのベアー・クローが可愛く見える。
 こんなんで殴られた日にゃ、アータ………。

 そのとき、明景家には主人・安太郎の留守を預かる妻のヤヨ、長男・力蔵、次男・勇次郎、長女・ヒサノ、三男・金蔵、四男、梅吉の五兄弟に、同じく主人が留守のため避難してきた斉藤石五郎の妻・タケ、三男・、四男・春義の二人の子、そして婦女子の守りとして太田家の寄宿人オド(長松要吉)の計一〇名がいた。
 当然、の強襲に屋内は恐怖と混乱の坩堝と化し、そんな中、斉藤タケが気丈にも子供達を護らんとして燃え盛る薪を手にを殴り付けた。しかしは窓枠も破り、ランプを割って侵入し、勢い余って夜食作りの大鍋をひっくり返し、居間内に白煙が渦巻いた。
 明景ヤヨはこの間隙を縫って屋外に逃れんとしたが、恐慌をきたした次男・勇次郎に突然しがみつかれ、背に背負った 四男・梅吉ともども転倒、はその三人の親子に狙いを定めた。

 梅吉が最初にその牙で頭を一咬みされ声を失い、ヤヨ勇次郎も部屋の中央に引き摺り戻され、に組み伏せられ、ヤヨは二度、三度と頭を咬まれ、意識を失いかけた。しかし、ヤヨの間に挟まった勇次郎が寸での所でヤヨの命を救った。
 の標的が勇次郎に移ったが、体の下にすっぽり入り込んでいるので攻撃がままならなかった。
 その隙を突いてオドが脱出を試みたが、攻撃順位を「攻撃中のものより逃走せんとするものに向ける。」と云うの習性がその脱出を阻み、逃げ口をに閉ざされたオドを狂乱を来し、物陰に体を隠すも、文字通り「頭隠して尻隠さず。」で、尻と内股にの攻撃を受け、絶叫した。

 その絶叫に辛うじて意識を取り戻したヤヨはその隙に勇次郎梅吉を連れて屋外へ脱出し、救援隊のもとへ走った。しかし、屋内にはまだ七人の人間が残されていた。
 オドに重傷を負わせ、行動の自由を奪ったは居間で脅え泣く三人の幼児に矛先を転じた。
 明景金蔵斉藤春義の二人が一撃で撲殺され、斉藤巌は尻を噛まれたまま床に叩き付けられ瀕死の重傷を負った。
 そのの呻き声に、野菜置き場に身を隠していた母のタケは堪らずに顔を出した所をに見つかり、居間に引き摺り出され、組み伏せられ、衣服をずたずたに裂かれた。

 身重のタケは本能的に腹を庇い、腹への攻撃の免除をに訴えたものの、には通じず、胎児を腹から掻き出され、息の根を止められ、その場で食べられた。

 一方死ぬ思いで駆けつけてきた明景ヤヨの報告を受けた救援隊は一部を重傷者の手当てに残し、全員で明景家に急行した。途中、明景家から脱出したものの出血で意識を失い、雪中に倒れ伏したオドを救出し明景家を取り囲んだ。

 しかし、暗闇でまだ人の残る屋内に救援隊は容易に手が出せなかった。
 時折漏れ聞こえてくる呻き声や絶叫、更には骨を噛み砕く音と手を出せない苛立ちから、一斉射撃や家もろとも焼き討ちしようとの声も出た。大勢がもはや生存者はいないと考えていた。
 しかし、重傷を負って手当てを受けていた筈の明景ヤヨがその体を引きずって駆け付け、これに猛反対。結局一同は「重傷を負っているにしても生きてる人間もいるかも知れない」との一縷の望みをかけ、一斉射撃と火攻めの中止を決断し、谷喜八の誘き出し作戦を提案し、一同はそれに従った。

 明景家の裏表の二手に分かれた救援隊は谷喜八の空砲を合図に、先ず裏手に回った救援隊が鬨の声を上げた。はその声に驚き、表に待機し、銃を構えるマタギ衆の前にその巨体を現した。
 作戦は完全に成功し、一人突出していた南部の禿マタギは更に五、六歩出てに狙いをつけ引き金を引いた。しかし不発に終わり、他のマタギ衆は突出した禿マタギを撃つことを恐れ、発砲できぬ間にには逃げられてしまった。二度目の取り逃がしに一部の開拓民は激昂したが、辻橋蔵の取り成しもあり、何とか怒りを静め、生存者の確認に移った。

 明景家内は太田家よりもひどい地獄絵図と化し、斉藤タケ春義明景金蔵が変わり果てた遺体となって発見され、一同の怒りと涙を誘った。
 しかしそんな惨状の中、明景力蔵が雑穀俵に隠れていたのを、明景ヒサノが失神状態で倒れていたところを発見され、一同は一斉射撃や火攻めを行わなくて良かった、と胸を撫で下ろした。

 また斉藤タケ胎児も母体とかすかに繋がり無傷でいるところを発見されたが、一時間後に息絶えた。に対する憎悪と復讐を胸に明景家を出た一行は亡き母に羆の仇討ちを懇願する斉藤巌の声を聞いた。
 しかし、地獄への再入室を誰もが躊躇う中堀口清作が単身入室し、瀕死のを救助したが、生きたまま骨が見えるほど食われた無惨な姿だった。
 事件現場に復元された明景家とそれを襲うの模型デカい模型だが、裏から見ると実は下半身が無かったりする(笑)。
 復元された明景家の内部 日本海沿いの国道から現地を示す青看板。
 ここまで来ると地図やナビが無くても容易に現地に行ける。但し、徒歩で行くのは様々な意味で無謀(←薩摩守経験済み)。

 の取り逃がしから更なる襲撃を恐れた開拓民達は村中の人々を下流の三毛別分教場へ、集団避難させ、重傷者を辻橋蔵宅に収容した。
 夜の一〇時を過ぎての突然の集団避難の中、人々は恐怖に脅えながらありったけの松明をかざし、大声で呼び合いながら一塊となって歩き、その姿は平家の都落ちのようであったと今に伝えられている。
 しかし、そんな中、重傷を負っていた斉藤巌が、水を求め、激しく飲み干したかと思うと程なく帰らぬ人となった。かくして六線沢の最も長い一日はその日付を変えたのだった。

 他方、家族がそんな憂き目に会っているとは知る由もない二人の男がいた。斉藤石五郎明景安太郎である。
 斉藤は警察と政府に惨劇の発生を伝え、救援の要請を行い、苫前の小畑旅館に歩きづめで疲れた体を好物の酒に癒していた。
 明景安太郎力昼の蓮見宅から鬼鹿へと足を伸ばし、更には山本兵吉宅を訪問していた。斉藤の三人の子に会いに鬼鹿へ来た明景はそこで「天塩にこの人有り」と言われた撃ちの達人山本兵吉の噂を聞きつけていたのだった。

 山本は事件の概要を明景に聞いて、自身の記憶にある三人の女性を食害した「袈裟懸け」と呼ばれるに違いないと話した。
 明景山本に助勢を請うたが、山本は酒代のため銃を質入れして手許にないことを理由に助勢を断った。仕方なく山本宅を後にした明景はその間にも家族が襲われていることも知らず鬼鹿に一泊した。



この人物に注目(二)−辻橋蔵
 事件当時年齢不明。妻・リカ、身内らしき男子(恐らく息子)亀蔵の存在が確認されている。村落の参謀的存在。

 『野生伝説』『慟哭の谷』と言った書物から用意周到で、物事の管理に優れた人物と見られる。
 前例なき大惨事に多くの人間が恐怖と哀しみに捕らわれる中、自身人一倍強い感情の持ち主ながら冷静さを失うことなく、警察・道庁への伝達、救援隊の手配、後続部隊の迎え入れを一手に引き受ける。

 マタギのリーダー谷喜八・避難先の分教場の教頭にして陸軍予備役少尉の松田定一も大抵の事はいの一番にに相談していた。
 二日目の惨劇では自宅は重傷者の一時避難所にもなるなど、夫婦して事件の間殆ど休みなし。それでいながらの取り逃がしや犠牲者の増加に激昂する村人たちの宥め役をも務めた村に欠かせない男。

 事件後、相次ぐ目撃情報への不安から次々と人々が開拓地を去る中、最後まで残ったのは辻家だった。橋蔵の事後は不明だが、息子と見られる亀蔵氏が木村盛武氏・吉村昭氏の調査や取材に協力している。



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令和三(2021)年四月一六日 最終更新