終章 逃亡に託す希望

何故に逃亡するのか? 決して好きな言葉ではないが、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という物がある。「勝った者が正義」という思考は、「誤ったマキャベリズム」や「力ある者が好き勝手するのに都合のいい考え」としてこれらに薩摩守は否定的であるし、それは薩摩守が弱い人間であるからということを理由の一つとして否定しない。だが、哀しいかな、世の中は得てして勝者がその後の世の流れを都合よく編集してしまう傾向がとても強い。

 だが、勝者の定義は単純に見えて実は複雑である。何をもって勝利とするかも難しいし、一時的な勝者は後から敗北者とされてしまう。見方を変えれば「最後に勝てばいい。」という考えから、「死なない限り敗者ではない。」という考えが生まれ、ある者は純粋に延命の為に、ある者は再起を図る為、ある者は復讐の為、ある者は別の生き方を求めて、ある者は事態の好転を待って、ある者は信念上捕まるを良しとせず、本作で取り上げた一一名を含む無数の人間が没落の中、流浪の道を選んでいる。
 勿論、戦略・戦術上一時的な撤退・逃走を行ったことまで含めれば数限りなく出てくるだろう。誰を採り上げたかは(本作に限らないが)完全に薩摩守の好みと任意で、各々流浪の意義は異なるとともに実に興味深いものがあった。

 勝者の華々しい歴史を語るのは簡単である。だが敗者の中にも信念や生き様があり、勝者とて勝利に至る過程の中で流浪・雌伏を余儀なくされた者は枚挙に暇がない。そこをいくといっそ逃亡に走らず、例え死ぬ羽目になったとしても降伏したり、刑罰を受け入れたり、戦場に散った方が楽だったケースも少なくないだろう。
 だが、結果というのは最後の最後まで分からない。詰まる所、運命に抗い、恥や屈辱に塗れようとも生き延びる道を選ぶのも、そこに生きる目標があるからだろう。
 その目標は前述したように様々で、時には「死にたくない。」の一念で流浪することもあるだろう。逆を云えば、目標がなければ流浪はただの苦痛でしかないとも云える。
 拙サイト・戦国房では判官贔屓の傾向があるが、敗北や雌伏や酷評の中にある人間の持つ大切さを重視したいというのもある(もっとも、人物を採り上げる取捨選択にはかなり薩摩守の好悪感情が反映されているのが問題だが)。


流浪は執念か、悪足掻きか 少し前述したが、本作で採り上げた者達と同じ立場になった際に逃亡や流浪を選ばなかった者も少なくない。登場人物で比較すると、
 源義経が平泉まで逃げたのに対して、異母兄・源範頼は抵抗らしい抵抗をしなかった。

 足利義稙義昭が流浪による将軍就任を(一時的とはいえ)勝ち取ったのに対し、足利義輝は壮絶な討ち死にを遂げた。

 武田信虎土岐頼芸今川氏真が国を追われて尚も生きる道を選んだのに対し、武田勝頼・斎藤道三・武田義信は死に至ろうとも国を離れようとはしなかった。

 島津義弘と宇喜多秀家はともに徳川に屈しまいとの信念を形は違えど保もち続けて関ヶ原から生きて脱出することを選んだのに対して、大谷吉継は最後の最後まで戦い続けて戦場に散った。

 大塩平八郎高野長英関鉄之介が当時の法では完全な犯罪者となることを承知の上で徹底的に逃げ延びるを図ったことに対し、渡辺崋山は藩に迷惑を掛けまいとして自害の道を選んだ。


 彼等が選んだ流浪は、見方を変えれば、「潔くない」、「悪足掻き」と取れなくもない。勿論、本作を執筆していて、彼等の生き様・信念に着目した薩摩守がそう見ることは無いが、それでももし薩摩守が源頼朝・足利義澄・今川義元・斎藤道三・鳥居耀蔵・大谷吉継・跡部良弼・井伊直弼の立場だったら、かなり彼等を酷評したと思われる。
 つまりは、歴史を後世から見ているから同情も出来るが、戦もない世の中では洋を問わず逃走を続ける犯罪者・テロリスト・亡命暴君に対して、「潔くない!」、「往生際が悪い!」、「好き勝手やっておいて、テメーが死ぬのはそんなに怖いか?!」と毒づきながら生きている。
 逃亡だけじゃなく、裁判で死刑判決を受けて、控訴・上告果ては再審請求を繰り返す輩にも同じ想いを抱く事が多い。冷静に考えれば、無実の者にしてみれば何としても無罪を勝ち取らねば納得がいかないからなりふり構っていられないのは充分分かるのだが、現行犯逮捕や物的証拠から有罪が間違いない輩の控訴・上告・再審請求には自分だけは生きたいエゴにしか見えず、今現在息をしていることにすらむかっ腹が立つ。

 流浪が信念や生きる目標に対する執念と見るか、エゴから来る悪足掻きと見るかは立場によって容易に変わってしまうので、真相は当の本人にしか分からないだろう。勿論、双方が併存することも充分あり得る話である。
 いずれにしても信念を持って生きた過程の流浪であるなら、例え信念を認めることは出来ずに非難したとしても、嘲笑だけはしたくないものである。本当に恥ずべき逃走・敗走であるかを読み切れぬゆえに。


流浪者の人生が抱えた重み 平成二二(2010)年から同二六(2014)年にかけて、戦国房及び菜根道場全体の更新が非常に遅くなってしまっていた。殊に本作『没落者達の流浪』の更新は洒落にならないぐらい遅々としたもので、第壱頁源義経を平成二三(2011)年二月五日にアップし、第九頁大塩平八郎までは約一ヶ月ごとにアップしていたが、第拾頁高野長英は一年半近く空いた平成二四(2012)年一〇月二〇日になってアップし、更にそこから一年半掛って最後の第拾壱頁関鉄之介がアップされる体たらくで、誠に恥ずかしい限りだった。

 これほど時間が掛ったことに云い訳しても意味がないが、思うことは二つある。
 一つはこの『没落者達の流浪』の制作中であることに対して考えさせられることがいくつも起きたことである。例を挙げると、
平成二三(2011)年
三月一一日 東日本大震災発生
 菜根道場各房を通じて全国の友人・知人の安否確認に一〇日間以上の時間が掛り、前代未聞の大津波まで起こり、例えどんなに悲惨な避難行動になったとしても安全地帯に逃れて欲しいと思わずにはいられなかった。

五月二日 国際テロ組織アル・カーイダの最高指導者ウサマ・ビンラディン、アメリカ合衆国の諜報機関により、パキスタンにて殺害
 仏教徒として、キリスト教にもイスラム教にも味方しないが、ビンラディンがこの日まで生きていたことには今でも腹を立てている。彼は平成一三(2001)年九月一一日の同時多発テロを主導したことを否定していたが、仮に同時多発テロが米国による自作自演だったとして(全くそう思っていないが)も、テロの犠牲者に対する彼の態度からも許すことは出来なかった。
 そしてその後も彼はテロを行う旨を主張し続け、実行動に移らずとも世界にテロの脅威を与え続けることから一日として生きていて欲しくは無かった。「よくまあ、今日まで逃げて生きてやがったものだ……。」というのがニュースを聴いた時の感想だった。
 勿論、ビンラディンが死んだとてテロの犠牲者は戻らず、アル・カーイダが完全壊滅する訳でもなく、残念ながらイスラム原理主義によるテロが止む気配はないが、それでもイスラム教の歴史を鑑みた上からも、真に敬虔なイスラム教徒の為にも、ビンラディンの死は「天誅」と思っている(勿論、一連の歴史で合衆国民に同情はしても、合衆国に同調する気はない)。

八月二三日 芸能人・S・S氏が暴力団関係者との交際を理由に芸能界引退を電撃発表し、即日引退
 人類の歴史からそんな大きな出来事ではないが、薩摩守はこの引退は更に大きな犯罪または不祥事を隠匿する為の逃避行動と見ている。

一二月一七日 朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者金正日総書記が死去
 残念ながら、平成二六(2014)年四月六日現在、この代替わりによって日朝関係や拉致問題が改善に向かったとは云い難く、三代目は変な意地さえ張っているように見える。同時に数々の国家犯罪を知る二代目が口を閉ざしたままあの世に行ったことへの憤りも禁じ得なかった。
 この時点から約一七年前の初代・金日成が逝去した時の現状から予測していたように、北朝鮮の国民達はテレビカメラを前にして号泣していたが、眼の赤くしている人が一人も見当たらなかったのはどういうことだろうか?(←勿論皮肉である)

一二月三一日 特別指名手配されていたオウム真理教・平田信容疑者が警視庁に出頭し、翌日逮捕
 この年の秋に一連のオウム真理教事件の裁判がすべて終わり、死刑が求刑された被告全員の死刑が確定し、いよいよ教祖の死刑執行か?と思われた矢先の自首に「執行先延ばしを図った姑息な出頭」と憤った人も多かった。実際平田本人は、教祖はともかく仲間の執行先延ばしを狙ってであることを肯定した。
 これがすべて事実なら「逃げる」ということで遺族をここまで愚弄した奴も珍しい。勿論最後には自首したとはいえ、ここまで逃げ続けたことへの怒りも禁じ得なかった。

平成二四(2012)年
一月一一日 広島県広島市の広島刑務所に服役していた中国籍の男が突如脱獄、全国に指名手配(二日後に逮捕)
 服役囚は以前にも脱獄を図っており、僅か二日で捕まったとはいえ、逃げ続けることが平穏に暮らしたい広島県民の心情を害したことは誠に許し難かった。

四月二〇日 秋田県鹿角市の秋田八幡平クマ牧場でヒグマが脱走、襲われた飼育員の女性二人が死亡、クマ六頭を射殺
 対象は人間ではないが、脱走の結果、女性飼育員が二人、やむを得ない措置とはいえ六頭のヒグマが命を奪われることとなった。牧場経営者が業務上過失致死で逮捕されたが、逃走がこれほど命を奪うものか……と思うと何ともやりきれない事件だった。

五月一三日 反捕鯨団体シー・シェパードの代表ポール・ワトソン、ドイツ・フランクフルト当局により逮捕(保釈中の七月に逃亡)
 調査捕鯨に対する是非はともかく、密漁でもない捕鯨に海の環境も、傷害への危険性も顧みないシー・シェパードのやり方、自分達から明らかな暴力行為に出ながら被害者面する姿勢は何度か菜根道場BBSで批難したこともあり、彼奴等の自らの行動に対する責任や罪や裁判からも逃げる姿勢は平成二六(2014)年三月三一日に国際司法において日本の調査捕鯨が否定された今も許せないと思っている。

六月三日 オウム真理教事件の特別手配犯・菊地直子容疑者逮捕
 通報による逮捕で、最後の最後まで自首することがなかった。逮捕された菊地は逃亡中のやつれもあって、丸顔の手配写真とは余り似ていなかった。皮肉にも、逮捕後に落ち着いて太り出してから手配写真に似出したという。逃げ続けた歳月の長さが後半を厄介なものにするであろうことも腹立たしかった。

六月一五日 オウム真理教事件の最後の特別手配犯・高橋克也を逮捕
 菊地直子の逮捕から様々な状況が判明し、当時、高橋の逮捕は時間の問題と見られていた。結局こいつも自ら自首することは無かった。せめてもの救いは高橋の逮捕により、死刑囚延命のための茶番自首が行われることがないことであろう。
 ちなみに逮捕の六月一五日は弘法大師様の誕生日でもある。逮捕がこの日だったのは仏教の名を借りた大罪に対する仏罰だったのだろうか?それとも似非とはいえ仏教信仰を選んだ者に対する御仏のせめてもの慈悲だろうか?

一〇月九日 パキスタンでタリバンを批判し、女性の権利向上のために活動していた少女マララ・ユサフザイさんが銃撃され、負傷。後にタリバンが犯行声明を出した
 イスラム教のことは詳しくないのでタリバンの思想そのものに対してとやかく云いたくはなかったのだが、権利を訴えるだけで銃撃に出る惨暴さと、のうのうと犯行声明を出し、殺人・暴力を恥じない姿勢を見て、この日この時をもって薩摩守はタリバンをイスラム教徒ではなく、テロリストと見做すことになった。
 それにしてもユサフザイさんの命が奪われることが無くて本当に何よりだった……。恐らくタリバンがこの暴挙を反省することは無いだろうから、この上は阿呆をほざくだけほざいて世界に「私達はどうしようもない度腐れ外道です。」と喧伝することを期待するのみである。一体彼奴等はいつまで云いたいことは云いながら自らの暴挙に対する責任から逃げ続けるのだろうか?本当に情けない奴等だ………。

平成二五(2013)年
一二月一九日 京都市山科区の王将フードサービス本社前で、大東隆行同社社長が射殺される(平成二六(2014)年四月六日現在犯人未逮捕)
 未だ真相の見えない事件ゆえにコメントし辛いが、手際や目撃者を残していないことからプロの犯行とも囁かれている。ゆえに罪や良心の呵責に苦しみながら逃げていることが期待し難いのが何とも云えない。間違っても非合法組織の中で手柄顔してふんぞり返っていて欲しくないものである。

平成二六(2014)年
一月七日 神奈川県川崎市の横浜地方検察庁川崎支部から集団強盗や強姦などの疑いで逮捕されていた二〇歳の男が脱走(一月九日に横浜市泉区内の雑木林で逮捕)
 検察庁の体たらくも、逃げた容疑者の良い訳も聞き苦しい事件だった。犯罪者の往生際の悪さの前に本作制作の為にキーを叩く手も鈍ったものだった……。

三月三日 千葉県柏市あけぼので、ナイフを使用した四件の通り魔事件発生。内一名が死亡。同月五日死亡した男性と同じマンションに住む二四歳の男を逮捕
 事件に対してのうのうとインタビューに応えていた無職男が犯人だったことに呆れたものだった。また犯人が捕まった日、薩摩守はダンエモンとして東京にいた。東京世田谷と千葉柏では距離は離れまくっていたが、近隣住民の恐怖を普段よりは身近に感じた一日だった。


 このように本作制作中の三年二ヶ月間に背景や対象は全然違うながらも、世界に、日本に多くの逃げまくっている輩を耳目にして来た。また恥ずかしながら個人的にも職務や厄介事や私事上の責任において様々なことから逃げることの多い日々でもあった。
 逃げるということは決してかっこのいいことではなく、負けや非を認める潔さが大切なことも認識している。だが人生における譲れない物や、何としても守りたい物(命・信念)を守る為に、敢えて恥辱や困窮に耐えながら流浪することの重さも見て来た。
 薩摩守は歴史というものが決して勝者の手だけで作られた物とは思っていない。繰り返しになるが、逃亡者・流浪者に信念があってそれを行っているなら、自らの信念によってそれを非難・批判はしても嘲笑うことだけはしたくないものである。

平成二六(2014)年四月六日 戦国房薩摩守




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令和三(2021)年五月二五日 最終更新