氏名 | 関鉄之介 |
生没年 | 文政七(1824)年一〇月一七日〜文久二(1862)年五月一一日 |
追跡者 | 幕府・水戸藩 |
主な流浪先 | 近畿・四国・水戸・越後 |
匿ってくれた恩人 | 桜岡源次衛門 |
主な同行者 | 岡部三十郎・石井重衛門・森山敏之介 |
流浪の目的 | 大老・井伊直弼暗殺行動と水戸藩の繋がりを掴ませない為。大老暗殺に朝廷の支持を取り付ける為。 |
流浪の結末 | 越後湯沢で捕えられ、江戸小伝馬町牢内にて斬首 |
略歴 関鉄之介は桜田門外の変において大老・井伊直弼襲撃の陣頭指揮を執った水戸浪士である。
文政七(1824)年一〇月一七日に水戸藩士・関新兵衛昌克(せきしんべえまさかつ)の子としてに生まれる。藩校である弘道館に学び、水戸学の影響を受けて尊王攘夷運動に傾倒する。
当時の水戸藩は文政一二(1829)年に第九代藩主に就任し、弘化元(1844)年に隠居させられた徳川斉昭を支持する改革派と、その後を襲って第一〇代藩主となっていた斉昭の嫡男・徳川慶篤を支持する門閥派が対立を深めており、関鉄之介は門閥派で、斉昭の「両田」と称された学者、戸田忠太夫・藤田東湖に学んでいた。
才を認められた鉄之介は安政二(1855)年に北郡奉行所与力となる。奇しくもこの年の一〇月二日に発生した安政大地震のために江戸小石川の水戸藩屋敷に在った戸田と藤田は圧死した。打ちひしがれつつも熱心に職務に務め、藩内の庄屋・桜岡源次衛門と力を合わせて農政に功を挙げ、翌安政三(1856)年二月に郡奉行・高橋多一郎に認められて北郡務方に出世し、大子郷校の建設と農兵の組織を行いながら、水戸藩改革派の拡大を進めた。
安政五(1858)年一〇月、高橋の指示により大老・井伊直弼に対する諸藩の決起を促すため、鉄之介は矢野長九郎らと共に越前藩・鳥取藩・長州藩へ遊説に赴く。しかし、安政の大獄による尊王攘夷派志士に対する弾圧の前に充分な成果を挙げられずに江戸へ戻った(安政の大獄に関しては詳細を記述するとべらぼうに長くなるので下記の『参考:安政の大獄』を参照されたし)。
その後の大獄の更なる進行に鉄之介は高橋多一郎・金子孫二郎らを中心とした井伊大老の暗殺計画に参加を決意した。
安政七(1860)年三月三日桜田門外の変で実行隊長として鉄之介は襲撃を指揮し、井伊直弼を暗殺(桜田門外の変に関しても詳細を記述するとべらぼうに長くなるので下記の『参考:桜田門外の変』を参照されたし)。
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茨城県水戸市にある映画『桜田門外ノ変』オープンロケセット(撮影:道場主。現在は閉館)
実行部隊の内、その場での斬り死にが一名、手傷を負って近場の大名屋敷に出頭した者が一三名、その中で重傷故に腹を切った者が五名、その他が逃亡する中で、鉄之介はともに見届け役を務めた岡部三十郎とともに品川鮫洲に向かい、そこで金子孫二郎と合流。薩摩藩の決起・上洛に合流するべく大坂に向かった。
流浪の日々 関鉄之介が襲撃に参加しながら、斬り合いに参加しなかったのは襲撃隊長を務めたことによるもので、井伊直弼の首級を挙げるのを確認した鉄之介は前述したように現場を離れ、品川鮫洲に向かった。それは目的があったからである。
普通に考えて、大老襲撃は紛れもない犯罪である。当然それを覚悟していたからこそ、事前に襲撃参加を決意した水戸藩士達は脱藩して浪士となり、鉄之介自身、妻ふさ・息子誠一郎に累が及ばぬよう事前に離縁してもいた。だが、それは自分の決起が最終目的に達せず、犯罪者として終わってしまった場合の事を想定してのことである(実際そういう結果に終わった)。要は残された水戸藩や一族に累が及ばない為である。
逆を云えば、その後の鉄之介の行動は最終目的を目指してのものである。
勿体付けたが、最終目的とは朝廷を味方に付けることで大老暗殺を義挙とし、犯罪行為を転じて一種の革命を為すことにあった。
水戸浪士達は事前に『斬奸趣意書』なるものを作成していた。大老井伊直弼を、勅許を得ずに夷狄との通商を結んだ許すべからざる奸者として、これを斬ることへの大義名分への趣意を書した訳である。それゆえに直弼暗殺後は大老を誅殺した事実と、その意義を上方より喧伝し、朝廷の権威をもって自分達の大義を明らかにし、薩摩藩を初めとする雄藩の支持を取り付けることで、堂々と幕府にも相対しようとした訳である。それゆえに襲撃現場にて傷を負わなかった者は上方に上ることとなっていた。
特に幕府に対する潜在的な範囲をもつ島津家・薩摩藩と毛利家・長州藩、そして水戸藩の支藩とも云える池田家・鳥取藩(池田家は斉昭五男が養子に入って、藩主となっていた)、松平家・高松藩は鉄之介達、水戸浪士の大いに頼る所で、鉄之介が上方に向かったのは、薩摩藩大坂屋敷にて事前に話していた義挙・決起を促す為であった。
襲撃後、岡部三十郎とともに高輪を経由して品川に吉野屋惣助の偽名で同志との合流を図った。その間、姉の夫である遠藤介九郎宛てに大老襲撃成功と財産の処分を託し、妻子の行く末を案じる旨を書にしたためた。
やがて水戸藩の同志である野村彜之介(のむらつねのすけ)が薩摩藩邸からと木村権之衛門が水戸藩邸からやってきて鉄之介・岡部に合流した。鉄之介は一同とともに先ず直弼の首を挙げた成功を祝い、襲撃に参加した同志達のその後を知った。そして合流予定だった金子孫二郎が佐藤鉄三郎の連絡を受けて既に上方に向かった、と推測して金子の後を追うこととした。
木村が西国巡礼の手形を持っていたことから一行は商人に扮して警戒が強まる東海道を避け、板橋から中山道に入った。
三月一三日、安中、松井田から横川の関所を通過。
三月一四日、碓氷峠を越え、岩村田から長久保に入る。
三月一五日、下諏訪に投宿。
三月一八日(この日、元号が「万延」に改まる)、浪合の関所を通過し、根羽に投宿。
三月二一日、尾張熱田に至る。
三月二二日、夜、船に乗り、桑名に渡る。
三月二三日、四日市に至る。
三月二四日、関宿に至り、夜、奈良に至る。
いよいよ目的地である大坂目前となった。事前の手筈では井伊大老暗殺を知った薩摩藩が国許より藩兵三〇〇〇を出動させて大坂屋敷から京都に入って孝明天皇を比叡山に連れ出して守護することになっていた。鉄之介は自分達に先行している金子や、薩摩藩を動かす為に事前に大坂に向かっていた高橋多一郎父子の尽力にも期待していた。
だが、奈良にて一泊後の三月二六日に大坂玉造に至った所で、伏見の薩摩屋敷にて自分達に先行していた金子が召し捕られたことを知り、愕然となった。佐藤鉄三郎・有村雄助も同様だった。追い打ちを掛けるように大坂にて高橋多一郎父子が幕吏の追捕を受けて大坂四天王寺にて自刃したことを知った。
結局、薩摩藩は藩主島津茂久の実父・久光が井伊大老暗殺に便乗することを極めて危険な賭けと見做し、決起は完全に見送られていた。有村兄弟の罪を藩に及ぼさない為に雄助を金子主従共々捕えるに至ったのだった。そしてこの金子に対する尋問から高橋父子や鉄之介の人相書きも作成された。
大坂薩摩屋敷に向かうのが危険なのは明白として、鉄之介は道頓堀川沿いに近い周防町にある松屋に投宿した。松屋は鉄之介が郡務方時代から懇意にしていた庄屋・桜岡源次衛門が商売上投宿していた所でもあった。
そこにて信頼出来る筋から金子一行の捕縛が事実であることと、もはや薩摩藩の合力が期待出来ないことを知った鉄之介は失望と戦慄を禁じ得なかった。だが、鉄之介は薩摩藩の派兵を諦めておらず、自らの舌先で説得する気でいた。
高橋父子が大坂町奉行によって追い詰められた近況からもすぐに動くのは危険、と考えた鉄之介一行は一〇日間動かず、直弼暗殺から丁度一ヶ月となる閏三月三日に大坂を離れることとした。
四人では目立つ為、有馬温泉に向かう野村・岡部と一先ず別れ、鉄之介は木村と供に河内へ向かった。豪農の家で二晩を過ごした後、伊丹で一泊し、翌日有馬温泉に辿り着いた。
湯治客に紛れつつ野村・岡部と再合流を果たし、当時客の噂話から大坂での取り物騒ぎが落ち着いたことを知り、一行は大坂に戻って薩摩藩の動きを調べてから後々の身の振り方を決めることで合意した。
閏三月一四日、温泉を発ち、生瀬宿を経由して、伊丹に投宿。
閏三月一五日、周防町に投宿。
閏三月一六日、四国讃岐を目指すも、雨で船が出ず、大坂に留まる。
なかなか大坂を離れられない中、鉄之介は宿内で水戸袋田村の庄屋・桜岡源次衛門の甥である石井重衛門がこっそり自分達を見ているのに気付き、秘かに助力の手が回っていることを察知した。周囲に聴かれるのを避けて紙面でのやり取りで鉄之介は石井の手引きで料亭にてかつての部下であった森山敏之介と会うことに成功した。
森山・石井から道中の詮議の厳しさや、襲撃参加者で軽傷だった同志達が各藩預かりになったことを知った。鉄之介一行は森山達も加え、一八日夜に船に乗り、一九日に淡路島を経由し二〇日に丸亀に到着した。
金毘羅詣でを装いながら数日を過ごす中、薩摩藩郷力が絶望的な状況下で今後の事を話すにつれ、一行はほぼあてがないことを実感せずにはいられなかった。
殊に木村と石井は体調を崩しており、二六日に播州赤穂に辿り着いた後、両名は治療の為に大坂に向かった。日没後、姫路に潜り込んだ鉄之介は鳥取藩を動かす為に森山と供に鳥取に向かうことを決意する一方で、野村と岡部は鳥取藩決起後の行動に備えて水戸藩に戻ることとなった。
二七日の夜に別れの盃を交わした後、翌二八日朝姫路を発った鉄之介は道々森山敏之介に彼の身内である森山繁之介の襲撃時の活躍を語りながら鳥取に向かった。
四月二日に吉岡温泉に辿り着いた鉄之介は翌三日に鳥取城下に到着した。藩主池田慶徳は前水戸藩主斉昭の五男で、現水戸藩主慶篤の弟で、高松藩と並んで水戸藩とは親しい藩であったが、手配は早くも鳥取にも回っていた。
襲撃以前にも鉄之介は公用で鳥取に来たことがあったが、交渉の身としては有利だが、逃亡の身としては不利だった。幸い、宿の主・茂兵衛は鉄之介に好意的で、彼が世に隠れている存在であることを知りつつも「三好貫之介」という偽名で知己である鳥取藩士・安達清一郎宛の手紙も届けてくれた。だが、返書には会うことを断る旨がしたためられていた。
翌日、鳥取藩説得を諦め切れぬ鉄之介は先方の拒絶を無視して安達に会いに行った。断ったにも拘らずやって来た鉄之介に安達は驚きながら、直弼暗殺以降鳥取藩への追及も厳しく、水戸藩・鳥取藩ともに襲撃に参加した浪士は捕えて江戸に送ることになっていた旨を告げた。つまり、安達は鉄之介を捕えたくないが、会っていながら捕えない所を第三者に見られたくもなくて鉄之介に自宅に来ないように伝えたのである。
結局、鉄之介は安達の勧めに従って鳥取の地を即時離れざるを得ず、茂兵衛にすべてを話して自分達は九州に向かう旨を大坂に潜んでいるであろう野村・岡部宛の手紙の発送を託した。
途中、足の腫れに苦しむ森山の容態を考慮しながら岡山に出た鉄之介達は四月一三日に山陽道に出て翌一四日に尾道に達した。その夜船に乗って一六日に広島、そこから再度陸路に出て防府に投宿した。
その後は赤間関→船で小倉→と進み、五月三日に筑後松崎に達した。そしてそこで知ったのは、参勤交代で江戸に向かっていた筈の薩摩藩主茂久がこの地から引き返した、という異常事態だった。また目前の熊本藩は自訴した仲間達の多くが預けられた藩でもあり、事態の変化は鉄之介の胸中の暗雲をもたらすばかりだった。
五月七日、熊本に到着。五月一一日には薩摩を目前にした水俣に入ったが、薩摩藩に捕われた有村雄助が自刃したことと、幕府から目をつけられている薩摩藩が余所者の出入りにかなりの制限を加えていることを知った。そこで鉄之介は薩摩藩の知己である堀中左衛門・高崎猪太郎宛てに手紙を送ったが、不在を理由として返事は返って来なかった。
事ここに至って、鉄之介も薩摩藩を動かすことを諦めない訳にはいかず、薩摩近辺に留まる事も危険と断じた。
五月二三日に豊後に入り、悪天候の中、逗留を余儀なくされた鉄之介はそこで意外な情報を得た。安政の大獄で遠島刑となっていた鮎沢伊太夫が当地にて幽閉の身ながらも無事で、佐伯藩の扱いも決して悪いものではない、との知らせを地元の百姓から得た。
鮎沢の無事を喜びながら六月一日夜、船に乗って一三日には兵庫に辿り着いた。そして本州の地を踏んで約一ヶ月後の七月九日、関鉄之介は常陸国北郡袋田村に戻って来た。袋田村の庄屋桜岡源次衛門が鉄之介にとって信頼のおける仲間であることは前述した通りである。
信頼に違わず、源次衛門本人は勿論彼の子・八郎を初め、使用人までもが親身になってくれた。鉄之介は事件から(閏月を含めて)五ヶ月が経過したことで袋田村に対する警戒の目も緩みつつあること、岡山で別れた岡部・野村・木村・石井も無事に水戸に戻って来たことを知った。
こうしてしばし桜田邸に潜伏することになった鉄之介をそれ以前の道中から苦しめていたものが二つあった。一つは病で、痔と蜜尿病(糖尿病)だった。
もう一つは報復に燃える彦根浪士だった。彦根藩としての報復は幕閣と水戸藩重鎮の尽力で抑えられていたが、脱藩して単独行動に出る者を抑えようがないことは他ならぬ鉄之介自身がよく認識していた。
幸い彦根浪士に遭遇することはなかったが、病は体から離れてくれなかった。特に潜伏半月前から咽喉の渇きが異常であることに気付いたが、吹き出物もひどくなり、源次衛門の手配で信用できる医者、蘭砲医・北条幽林を呼んで診察した結果、蜜尿病であることが明らかになった。
蜜尿病こと糖尿病は現代医学をもってしても完治の叶わない病である。それでも幽林はかなりの名医で苦しい治療の中、容態は落ち着きつつあったが、八月二二日に驚愕の知らせが鉄之介を襲った。先代藩主・徳川斉昭の訃報だった(没日は八月一五日)。
鉄之介が属した改革派は藩内で斉昭派とも云える立場で、対立する門閥派は慶篤派と云えたことから、斉昭の死は鉄之介を初め改革派にとって大きな痛手だった。それも安政の大獄による蟄居が解けないままの死だった。
八月二六日に幕命で斉昭の永蟄居は解かれ、そのことを鉄之介は久々に顔を合わせた石井重衛門から知った。治療と潜伏の日々の中、石井はその後も事細かに世間の状況を知らせてくれた。その中には徐々に事態の好転を知らせる物も含まれていた。水戸藩と彦根藩の正面衝突を恐れる幕府が穏便な取り計らいに走り、水戸藩家中も派閥争いを収める方向に進んでいた。
新老中・久世広周(くぜひろちか)は水戸藩への弾圧を緩め、久世から指令を受けた徳川慶篤は一〇月一七日に改革派の住谷寅之助介と矢野長九郎の蟄居を解き、二日後の一九日には安政の大獄で刑死した安島帯刀と茅根伊予之介の遺族、佐伯藩で禁固されている鮎沢伊太夫の家族に扶持米が与えられた。更には同日、安政の大獄以降藩内で両派閥の争点となっていた「戊午の密勅」 (←詳細は下記の『参考』にある『安政の大獄』参照)の朝廷への返還猶予が幕府に認められた。
寛大な処置は安政の大獄で罰を受けたた藩の藩主にも及び、徳川慶勝(尾張藩)、松平春嶽(越前藩)、山内容堂(土佐藩)、一橋慶喜(一橋家)の謹慎も解かれた。
これらの知らせに鉄之介は世の中が自分達の訴えた方向に進んでいることを喜んだ。だがその一方で寛大な処置に便乗して攘夷の声を高める水戸藩を警戒した幕府は、水戸藩に対して浪士達の追及を徹底するよう圧力を掛けて来た。
一一月二一日夜、石井の手引きで鉄之介は弟・恕(じょ)と再会。関家は厳しい監視の目に曝されながらも家族はみな元気で、縁切りにより妻子が咎められていないことに安堵した。
しかし一二月中旬、藩内の空気が再び硬化に転じたことが知らされた。一二月四日、アメリカ公使ヒュースケンが攘夷派の薩摩藩士・伊牟田尚平に襲撃され、翌日に死亡する事件が起き、世間は水戸浪士の犯行と見る風すらあった。
そうこうする内に年が改まって万延二(1861)年源次衛門宅の裏部屋で病に苦しみながら潜伏していた鉄之介は日々悪化する病状を前に浴槽に引かれた温泉につかる日々を送っていた。一月一二日に別の医者に診てもらう為に幸手宿に向かい、一七日に牛村の医師の診察を受けるも悪化と好転を繰り返す中、襲撃から一年と一〇日になる三月一三日に袋田村への帰途に着いた(前月の二月二九日に「文久」と改元)。
しかし好転した病状とは逆に潜伏状況が悪化した。二五日に石井が訪ねて来て、岡部三十郎が江戸で召し捕られたことを知らされた。遊女を抱いている所を通報されて召し捕られたという用心深い性格の岡部らしからぬ報に呆然とした鉄之介は同月下旬に源次衛門の家から出ることを仲間と供に決意した。
源次衛門の下男与市の手引きで石井重衛門の住む小生瀬村を抜け、高柴村に潜伏後、四月中旬には再度小生瀬村に戻り、石井宅に潜伏し、二〇日には元の袋田村桜岡宅に戻った。 翌二一日夜、鉄之介は秘かにもう一人の弟・金之助(ちなみに金之助は次弟で、恕は三弟)と会い、姉の夫が父の墓を造り、妻ふさが墓参の欠かしていないことを知った。恕からの聞いた通り、妻子には累は及んでいないことに安堵しながら、鉄之介は金之助に水戸城下の潜伏を目指して田尻新介か矢野長九郎を頼りたい旨を相談したが、金之助は危険として賛成しなかった。だが結局は翌二二日、兄弟は二人して田尻宅に向かった。
田尻から攘夷の色濃い藩の状況を知り、二六日、鉄之介は懐かしの水戸城下に単身潜入した。物陰に潜みつつ馴染みの料亭に入り、事前に金之助が話をつけていたこともあって料亭の主人は快く鉄之介に協力してくれた。翌二七日、秘かに矢野長九郎とも会い、矢野からヒュースケン襲撃の詳細を聞き、米国公使ハリスや英国公使オールコックも襲撃の恐れがあることも知った。
同じく水戸城下に潜伏していた野村とも連絡を取りつつ、五月六日に田尻の家に戻ったが、そこで鉄之介はまたも凶報に接した。それは先に捕まった岡部が訊問に耐えかねて洗いざらい白状したことで藩の襲撃組に対する追及が更に厳しくなったというものだった。
岡部の体たらくに悪態を突きつつ、このままでは自らの潜伏に協力してくれた多くの者達に累が及びかねないと考えた鉄之介は更なる慎重な潜伏と情報収集に努めた。
六月二日夜、訪ねて来た田尻から五月二八日に第一次東禅寺事件(下記の『参考』の『桜田門外の変』参照)が勃発し、鉄之介は水戸藩に対する風当たりの悪化を懸念したが、事実、事態はそのように展開した。この襲撃も浪士によるものだったが、仲間を殺された激昂したオールコックはなかなか「水戸藩の密命によるもの」との疑いを解かなかった。
これにより六月七日に登城を命じられた慶篤は浪士の不始末を幕閣から散々詰られ、家老の白井久胤と興津蔵人の両名も厳しく責められた。
慶篤は事件の関係者のみならず、脱藩浪士までも逃さないように厳命し、鉄之介の立場は以前にも増して悪化した。
そして八月一日、桜田門外の変に関係し、捕われていた金子・大関・蓮田・森山(繁之介)・杉山・森・岡部の斬首刑が執行されたことが田尻から知らされた。佐藤鉄三郎のみ死刑を免れた(中追放になった)が、既に戦死・自害・戦傷死していた稲田・山口・鯉渕・広岡・佐野・斎藤・黒澤の塩漬け遺体も首を斬られるという徹底ぶりだった。
八月一〇日に田尻からは、藩の追捕の手が更に厳しくなり、藩内の庄屋達にも万が一にも関係者を匿うようなら同罪となることが通達されたことが知らされた。勿論対象者の中に関鉄之介の名があることを含めて。
鉄之介は山野に伏し、物陰に隠れながら源次衛門の家に戻ると源次衛門から、彼の元にも藩からかなり厳しい口調で鉄之介が立ち寄ったら留めておいて、通報するよう厳命が下っていることを知らされた。源次衛門は小生瀬に行くことを勧めた。石井宅は既に探索の手が及んでいて危険でも、同村の金沢惣七郎宅なら安全と見ていたのである。
惣七郎の協力を得て、その好意に甘えつつも、鉄之介は彼に迷惑をかけたくない、と考え、惣七郎宅に潜みつつも捕吏が踏み込んできた際にはいつでも裏手の林の中に逃げられるように考えていた。
八月一六日、外出からすぐに戻って来た惣七郎はすぐに戻って来て、息を切らせながら鉄之介に逃げるように伝えた。惣七郎の得た情報によると、藩が先手物頭師岡猪之允に鉄之介潜伏の可能性が高い北郡の徹底探索を二日前に命じており、既に逃亡幇助の疑いで捕えられた土民が続出しているというものだった。
惣七郎は南二里の位置にある下高倉村の庄屋吉成透之介の元に行くことを勧め、二人は村道を避けて入谷川の浅瀬を駆け抜けた。先に惣七郎が村に入って探索の手がまだ来ていないこと確認した上で鉄之介も村内に入った。吉成達は好意的に接してくれたが、翌一七日には吉成と村組頭小池健之介から今度は野村と木村が捕まったことを知らされた。更にこの厳しい探索には鉄之介のかつての部下、永井小二郎が陣頭指揮を執っており、旧知の誼に頼れないことも痛感させられた。
流浪の終焉 前述した様に水戸藩自体が、藩士達の意向はともかく、藩の意として幕府への恭順を選び、逃げ続ける東禅寺事件の下手人、井伊直弼襲撃犯達の捕獲を厳命したことで、関鉄之介の身にも刻一刻と危機が迫った。
桜岡源次衛門や甥の石井重衛門を初めとする北郡各村々の庄屋達は探索の手が迫る度に逸早くその場を去ることを勧めてくれたことで鉄之介は藩領内を転々と潜伏し続けることが出来た。概して庄屋達が旧恩から鉄之介に好意的だったためである。
だがかつての部下・永井小二郎が更に厳しい探索を行っていることから下高倉村に探索の手が及ぶのも時間の問題となり、鉄之介達は話し合った結果、水戸藩を脱し、北にある天領の伊香にいる名主・伊十郎という侠気ある人物を頼らんとした。
文久元(1861)年八月一九日山狩りの目を掻い潜って鉄之介達は伊香に付いたが、名主の伊十郎は不在だった。それでも健之介が機転を利かせて伊十郎の妻を説き伏せ、偽名でもって鉄之介を宅内に導くのに成功した。
翌二〇日、伊十郎が帰宅し、侠気の人である伊十郎は鉄之介のすべてを知った上で匿うことに同意した。だが、帰宅した健之介が八月二五日に役人の呼び出しを受け、「関鉄之介を伊香に逃がしたであろう!」との訊問を受けた。鉄之介と会ったことは認めつつも、逃亡幇助については惚け倒した健之介は何とか釈放されたが、疑いそのものは解けず、健之介も帰宅後に訊問を受けた村人達が白状していたことを知った。
この事態を鉄之介に知らせたくても役人の監視下で村から出られない健之介は妻に、そしてその妻の外出も厳しいと見たことから妻の父が鉄之介にこのことを伝えた。
すぐにも村を出たい鉄之介だったが、その時伊十郎は留守で、彼に無断で家を出ることが躊躇われた。八月三〇日の夕方には惣七郎も訪ねて来てすぐに逃げるように促した。
九月一日、帰宅した伊十郎に鉄之介は状況を告げたが、伊十郎は独自の情報から慌てて逃げる必要はない、と告げた。四日、源内という健之介の親戚が伊十郎宅を訪れ、鉄之介がまだ伊十郎宅にいることを知った源内が健之介にそのことを告げると夕刻に今度は健之介がやって来て、再度逃げるように伝えた。同時に伊十郎も探索の手が及びつつあるとの情報がもたらされ、遂には伊十郎宅も発つこととなった。
伊十郎の手配に従って、鉄之介は伊十郎の父親の同行で奥那須の三斗小屋に向かった。翌々日の六日には伊十郎の元にも役人が来て、出頭が命じられた。伊十郎は人を留めたことを認めつつも、鉄之介とは知らなかった、と惚け倒し、最終的には賄賂で釈放された。
一方の鉄之介は惣七郎と供に善後策を練った結果、三斗小屋での逗留も長く持たず、過去の伝手を頼って、越後国水原村にいる喜三郎の元を目指すこととした。だがその頃、それまでかなりの協力をしてくれた健之介が群方役人福地利八の隠匿協力の危うさを説く説得に折れ、鉄之介追捕協力を決意していた。
鉄之介と惣七郎が三斗小屋を発った二日後にはもう探索の手は及び、健之介の知識から福米沢村に当たりが付けられ、一〇月四日に訪ねたところ、惣七郎が立ち寄ったことが判明した。前後の状況から役人達は過去の役目から鉄之介が越後国水原村に向かった、と推測した。
水原村に着いた鉄之介は喜三郎が不在だったため、新潟にいる喜三郎の妻宛てに喜三郎が帰宅したら下関村の佐藤又次衛門まで連絡をして欲しいとの手紙を出したが、この手紙が役人の手に入ってしまっていた。彼等は又次衛門が鉄之介の俳諧仲間であることも察知しており、一〇月二一日、探索方は下関村に入った。翌二二日、又次衛門宅を訪ねた捕り方は鉄之介が去る一八日に下関村を発ち、湯沢温泉に向かったことを突き止めた。
又次衛門は鉄之介が大老暗殺という大罪を犯していたことを知らなかったとして、追捕に協力を約束し、捕り方を湯沢温泉に案内した。
かくして郡方役人安藤龍介・大内慎三郎の指揮の元、宿部屋に踏みこまれて関鉄之介は捕らえられた。鉄之介はかつての部下でもある安藤と大内の存在に驚いた。というのも、捕り方はてっきり地元の代官所の者で、すぐに江戸に送られるとも思って、抵抗しなかった。水戸の者と分かっていたら必死の抵抗をしていた、と嘯いた。
結果として法に従って、鉄之介を裏切ることになった健之介が涙しながら見守る中、安藤は捕縛された鉄之介に酒を一杯飲ませ、そのまま護送に掛った。
赤沼の牢に入れられ、取り調べに応じつつ、和歌を詠む囚人生活の中、弟・金之助が別件で捕まったことも知った。そして年が暮れ、翌文久二(1862)年一月下旬に水戸浪士による坂下門外の変が勃発したことを知り、一時は牢内に動揺が走ったが、すぐに落ち着き、金之助を初め、危険分子と見られた土民達も次々と出牢した。ゆえに希望的観測も生まれかけたが、四月四日、鉄之介の江戸送りが決定、翌五日には江戸に向けての護送が始まった。
既に死は覚悟していた鉄之介に対する取り調べは簡単なものだった。それというのも実行犯達の処罰も殆どが終わっており、新たに調べることもなく、殆どは事実の追認で、鉄之介も身内に累が及ばないように気をつけつつも、素直に応じた。
吟味の結果、死罪が決し、系は即日執行された。文久二(1862)年五月一一日に日本橋小伝馬町の牢にて斬首。関鉄之介享年三九歳。
鉄之介の最後の潜伏地である新潟県岩船郡関川村には、「関鉄之介潜匿記念の碑」が建てられている。
茨城県久慈郡大子町の袋田温泉には、関鉄之介の歌碑が建てられている。
流浪の意義 日本史を幕末から江戸への転換期という視点で見ると桜田門外の変を中心とした関鉄之介の生涯は、残酷な云い方をすれば「暗殺者の逃亡」の一言で終わり、「江戸幕府の権威を大きく失墜させた。」というレベルで終わり、井伊直弼の名が小学校の教科書にすら記されるのに対し、関鉄之介の名は高校日本史の教科書にも登場しない。
が、これは結果論で、歴史的に敗者となったためにその名前が史上から埋没したり、過小評価されたりしている人物の例は枚挙に暇がないが、鉄之介もそんな一人であることが桜田門外の変後の潜伏のみならず、変前の隠密行動にも見て取れる。
詰まる所、鉄之介の流浪は命惜しさの単なる逃避ではない。乱暴な云い方をすれば「大義名分を得る為。」と云えようか。
前述している様に、鉄之介は自分達の決起が大老暗殺、という将軍暗殺に次ぐ大罪であることは自覚しており、事前に妻子と離縁したり、脱藩して浪士になったりしているのも累を及ぼさないためである(実際に、変の直前まで情を交わしていた愛人・いのは拷問死している)。また結局は薩摩藩も、鳥取藩も、そして古巣の水戸藩までもが後難を恐れて鉄之介達の決起に加わらなかった。「勝てば官軍」に至らなかった革命未遂例の一つで、文字通り「負ければ賊軍。」で終わってしまったと云えようか。
結果を知る現代に生きる我々は歴史上の失敗者を無責任に罵ることが簡単に出来るが、はっきり云って後出しジャンケンである。うちの道場主は以前仕事上の失敗を取り繕おうとして、後出しジャンケンに等しい云い訳をして社長に滅茶苦茶怒られたことが、イテテテテテテテテ(←道場主のアンクル・ホールドを喰らっている)。
まあ、個人的なことはさておき、云いたいのは鉄之介とて、ただ生き延びるだけなら後数年逃亡・潜伏に成功していれば増子金八、海後磋磯之介、佐藤鉄三郎のように死なずに住んだ可能性は充分にあった。偏に幕府が崩壊したからであった。
また、鉄之介は明治維新後に従四位を贈られており、天皇を絶対視する立場からは鉄之介達の暴挙も義挙であったことが後々認められたことが分かる。直弼暗殺後に薩摩藩とともに史実より五年早い明治維新ならぬ万延維新(?)が達成していれば薩長藩閥ならぬ水薩藩閥(?)が成立していたかもしれないが、これ以上はもう云い出せば切りがない。
勿論、徳川家や幕閣がもっと上手く立ち回って江戸幕府をもう一〇年でも存続させていれば関鉄之介の名は単なるテロリストで終わり、小説・映画の主人公となることもなかったことだろう。
現代に生きる薩摩守としては「暗殺」という手段で政治が変わることを好まず、オウム(現アーレフ)も連合赤軍もアル・カイダも認める気はないが、関鉄之介の生涯を追った時、彼等なりの真剣な想いに多少なりとも理解は持っておきたいと思いつつも、やはり鉄之介と前述のテロリストを一緒にしてはいない。
それは単なる時代や洋の相違だけで決めているのではない。前述したテロリスト達がその場にいるだけの何の罪もない人達を巻き込んで何の良心の呵責も感じていない連中だからである。鉄之介一行も標的である井伊直弼を殺す過程で彦根藩士八名を殺害しているし、回り回って護衛の藩士達は殆どが命を落とすことになったが、彼等は負傷により上洛が不可能と判断した者達は次々と自訴したり、切腹に及んだりした。
様々な意味で「無関係な人を巻き込みたくない。」という気持ちの表れと薩摩守は見ている。現代・未来において、「やむを得ない…。」と考えて暴力・武力・兵力に訴える理想家・革命家(←自称を含む)のどれだけが果たして無関係な人間を巻きこまないことに気を配るだろうか?
参考 関鉄之介の生涯の核となった安政の大獄並びに桜田門外の変それ自体を詳細に説明したら、それだけで一つのサイトとなる。
実際、吉村昭氏の『桜田門外ノ変』は上下巻の二冊に及んでおり、薩摩守自身、これを参考にするのに前頁の高野長英編制作時に『長英逃亡』 (上・下)ともども読むだけでかなり苦労した。
とはいえ、関鉄之介の人生はこの事件抜きに語れる訳ないので、参考として背景と鉄之介以外の関係者に関して極力簡素に下記に記させて頂きました。
安政の大獄
安政五(1858)年、大老に就任の彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題と修好通商条約の締結という二問題に直面していた。
第一三代将軍徳川家定の後継を巡って、南紀派=紀伊慶福擁立派(面子は会津松平容保・高松松平頼胤、溜間詰の大名中心)と一橋派=一橋慶喜擁立派(水戸徳川斉昭・福井松平春嶽、大広間や大廊下の大名中心)が争っていた。
結果は徳川慶福(就任時に家茂に改名する)に内定したが、これは、血縁と将軍家定の内意によるものだったが、「年長の人が望ましい」という朝廷の意向に反するものであった。
もう一つの修好通商条約の締結については、孝明天皇の勅許が得られず、攘夷派による批難が激化していた。しかし直弼は勅許を得ぬまま日米修好通商条約を初め、安政の五ヶ国条約(米英仏露蘭と)の調印に踏み切り、規則外の不時登城を行って違勅を抗議に出た一橋派にも「大政関東御委任(政治は幕府に委任されている)」として取り合わなかった。
江戸城内での活動を制限された一橋派は上洛して朝廷の権威を利用した政治運動に出た。思惑は当たって、勅許無き条約調印・一橋派への苛斂誅求を極めた排斥に孝明天皇も激怒した。
天皇は、「戊午の密勅」を水戸藩に伝え、新幕府派の関白・九条尚忠の内覧を解いて朝政から遠ざけた。本来幕府は関白解任の了解権さえ持っていたので、孝明天皇の怒り振りとその後の行動、特に大名に直接指令を行うという開幕以来の出来事に幕閣は愕然とした。
だがそれに対する直弼の対策は、更なる徹底弾圧だった。側近・長野主膳の「密勅は水戸の陰謀」とする論に基づいて、老中・間部詮勝を京都に送って、新任京都所司代・酒井忠義を補佐させ、朝廷への圧力工作に出た。
間部は上洛後、病と称して参内を延期し、長野や島田左近と善後策を連日協議した。
間部は直弼の指示に従って、一橋派と関係を深かった者達は公卿の家人・民間志士を問わず捕え、幕政批判運動に関わった諸藩の武士も同様に捕らえていった。所謂、安政の大獄である。
そんな中、孝明天皇は、「いずれは鎖国に復帰する」を条件として、条約調印が切羽詰まった状況下での止むを得ぬ措置であったという直弼の弁明に一通りの理解を示したことで、一橋派の勢いは殺がれ、弾圧は更に加速した。
水戸藩でも前藩主斉昭寄りの門閥派と現藩主慶篤寄りの改革派が対立していたが、直弼から目の敵にされたのは当然門閥派である。
安政の大獄は幕末でも超有名な大弾圧で、吉田松陰といった有名人も死罪となっているが、処分は幕閣、親藩・諸藩の藩主・藩士やその使用人に留まらず、公家・僧侶・画家・町人も対象となり、名前が分かっているだけでも処分を受けた者は一一八名に及んだ。
そのすべてを書くと大変なことになるので、下記に水戸藩・一橋家関係者だけ列記した。まあ、これだけでも大変なものだが………。
水戸藩・一橋毛関係者への処分
処罰 対象者 切腹 安島帯刀(水戸藩家老) 斬罪 鵜飼吉左衛門(水戸藩士) 鵜飼幸吉(水戸藩家臣、獄門にも処される) 茅根伊予之介(水戸藩士) 隠居・謹慎 一橋慶喜(一橋徳川家当主) 徳川慶篤(水戸藩主。九月三〇日に免除) 中山信宝(水戸藩家老。九月二七日に免除) 石河政平(一橋徳川家家老) 隠居・差控 平岡円四郎(一橋家家臣) 黒川雅敬(一橋家家臣) 永蟄居 徳川斉昭(前水戸藩主) 遠島 鮎沢伊太夫(水戸藩士) 茅根熊太郎(茅根伊予之介の子) 永押込 鮎沢力之進(鮎沢伊太夫の子) 鮎沢大蔵(鮎沢伊太夫の子) 山国喜八郎(水戸藩士) 海保帆平(水戸藩士) 加藤木賞三(水戸藩士) 押込 大竹儀兵衛(水戸藩士) 三木源八(水戸藩士) 荻信之介(水戸藩士) 菊池為三郎(水戸藩士)
安政の大獄自体の処分としては、譴責・追放・所払・手鎖といった軽刑もあったが、水戸藩関係者は軽くて押込だった。
加えて幕府は「戊午の密勅」の朝廷への返還要求。水戸藩としては門閥派の意見が尊重され、幕府への恭順を選び、勅書の返納を決意。勿論改革派が納得せず、藩境の長岡で屯して街道を封鎖。返納の使者を取り押さえんと構えた。
藩上層部は懐柔工作でこの封鎖を解除した為、改革派藩士達は活動中心を江戸に移した。
参考:桜田門外の変
外桜田門と彦根藩邸の距離は六〇〇メートル。現在、警視庁や最高裁判所・東京高等裁判所・東京地方裁判所が存在する皇居眼前の司法の町とも云える一角で、在京時代道場主も東京地方裁判所のお世話になったことがある(←菜根道場道場主「人聞きの悪い書き方をするな。私は原告で、取引先の契約不履行を訴えた民事訴訟で、ちゃんと勝訴している。」)。
このような場で、大老・井伊直弼という幕府重鎮への襲撃が為されたのも、安政の大獄に関連した水戸藩士達の報復感情が余りにも強かったことに在った。
攘夷派ともとれる改革派の高橋多一郎や金子孫二郎等は、薩摩藩士・有村次左衛門と日下部伊三治の仲介で結合を維持。薩摩藩主・島津斉彬による率兵上京及び天皇の勅書を得て、洛中にて蜂起することで幕政を是正しようと図った。
しかし、斉彬急死により藩政の実権を握った島津久光は自藩の直接関与を抑制する方策に出た。これにより薩摩藩の攘夷派は沈静化し、率兵上洛も蜂起も不可能となっただけでなく、この姿勢は関鉄之介の後々の命運も大きく左右した。
幕政是正への想いが高じた改革派水戸藩士達は直弼を消すしか局面を変える術はないと考え、暗殺を決意。藩士達は、薩摩との合流の為に上洛する高橋多一郎・金子孫二郎等と、江戸に残って井伊大老襲撃に挑む鉄之介率いる実行部隊の二手に分かれた。
襲撃組に加わった藩士達は、届捨ての形で脱藩届を出して『浪士』となった。そしてこの浪士達に、薩摩藩の有村次左衛門が一人加担した。
運命の安政七(1860)年三月三日の早朝、浪士一行は前夜に決行前の訣別の宴を催した東海道品川宿の旅籠を出発した。
一行は東海道を進んで、愛宕神社(港区愛宕)に集結して外桜田門へ向かった。現地に着いた一行は、武鑑(←当時の大名名鑑みたいなものと思って下さい)を手にし、大名駕籠見物に集まった行列ウォッチャーを装って、井伊大老の駕籠を待った。
苛斂誅求を極めた仕打ちから水戸藩関係者が報復に出ることは彦根藩側でも想定していない訳ではなかった。また親しい藩から警告も届いていた。
彦根藩側では、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと判断し、敢えて特に普段と護衛体制を変えた訳でもなかったが、藩祖直政以来武を尊ぶ気風の強い彦根藩では腕利きの護衛を揃えてはいた。
そんな中、登城の駕籠行列は彦根藩上屋敷を出て、内堀通り沿いに江戸城外桜田門外に差し掛かった。そこに浪士達は襲撃を敢行した。
当日は季節外れの大雪で視界は悪く、しかも(有名な話だが)護衛達は刀の柄に袋をかけていたので、とっさに刀を抜けなかったこと等が襲撃側には有利な状況となっていた。
まず森五六郎が駕籠行列への直訴を装って行列の供頭に近づいた。勿論天下の御法度である直訴に対して先頭の彦根藩士・日下部三郎右衛門が止めに掛ったが、森は突如これに斬りかかった。それに続いて佐野竹之介が斬り込んだことで降雪の静寂は破られた。
この騒ぎを見計らって黒澤忠三郎が襲撃開始の合図にピストルを駕籠目掛けて発射。浪士本隊による駕籠への襲撃が開始された。
発射された弾丸は直弼の腰部から太腿にかけてを貫き、直弼本人は一瞬にして抵抗不能に陥った。襲撃に驚いた駕籠かきのみならず藩士の中にも算を乱して逃走する者が続出した。ここに水戸浪士(+薩摩藩士一名)と彦根藩士による乱戦が繰り広げられたが、彦根側は前述したように防雪用の柄袋が雪ではなく抜刀を妨げ、鞘のままで抵抗する者をいた。
一方の水戸浪士側も覚悟の襲撃とはいえ、当然初めての実戦で、戦慣れした戦国自体のような訳にはいかず、現場には双方の指や耳が切り落とされて散乱した。
二百数十年の太平の世が続いため、双方ともに初めての実戦で狼狽する中で進んだ。陣頭指揮者として斬り合いに参加しない鉄之介は、降雪中の薄暗い中、同士討ちを恐れて、合言葉(「正」と呼び掛ければ「堂」と答える)を決めていたが、その言葉が聞こえることもなかった。
それでも形勢は仕掛けた側であることから幾分なりとも冷静さを持っていた水戸浪士側優勢に進んだ。それに対して二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪・河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜いて応戦。この河西の剣技の前に水戸浪士・稲田重蔵は斬り死にした。同じく駕籠脇の若手剣豪・永田太郎兵衛も二刀流で奮戦。浪士達は次々に重傷を負わされたが、さしもの永田も銃には勝てなかった。
最終的に駕籠の周囲に残る彦根藩士はいなくなり、駕籠越しで直弼の体に次々と浪士達の刀が突き立てられた。最後には有村が駕籠の扉を開け、既に虫の息となっていた直弼を引きずり出し、その首を刎ね、襲撃は終結した。開始から奪首まで、数分の激戦だった。
浪士達は勝鬨を上げ、有村が刀の切先に直弼の首を突き立てて引き揚げようとしたが、昏倒していた彦根藩士・小河原秀之丞が突如息を吹き返して、主君の首を奪い返さんとして有村の後頭部に斬りつけた。
小河原は即座に広岡子之次郎を始め数名の浪士に次々と斬りつけられ、その場では死ななかったものの同日に絶命した。息を引き取るまでの間に小河原は数名でも自分と同じような決死の士がいれば決して主君の首を奪われることはなかった、と無念の言葉を遺している。
一方決死の小河原に斬られた有村も重傷を負い、若年寄・遠藤胤統邸の門前で自決した。
襲撃の一報を受けた彦根藩邸からは即座に人数が送られたが襲撃は終了しており、死傷者や駕籠、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶが落ちた雪まで徹底的に回収した。
主君直弼の首は有村が門前で自決した遠藤邸に置かれていたのを突き止め、その場で斬り死した藩士加田九郎太(直弼とは年齢と体格が似ていた)の首と偽ってもらい受け、藩邸で典医により胴体と縫い合わされた。
勿論、大老が登城の途中で首を取られるのは幕府の恥で、藩主の首を取られたのは彦根藩の恥で、幕府と彦根藩は供に「直弼は暗殺されていない。」との工作に走った。
勿論これは無嗣による御家断絶という最悪の事態を防ぐ為で、彦根藩は勿論、幕府としても始祖徳川家康の四天王・井伊直政以来の譜代名家である彦根藩を取り潰す気はなかった。
勿論、その日から直弼が一前に姿を現すことはなく、現場の惨状からも直弼の死は、町人にすらバレバレだったのだが……。
井伊家では直弼の名で直弼が負傷した旨を届け出た。届け出には、
「今朝登城の折、松平大隅守門前 上杉弾正大弼辻番迄之間、狼藉共鉄砲打掛凡弐拾人余り抜連、駕籠目掛切込候ニ付、供方之者防戦致し、狼藉共壱人打留、其余手疵、深手迯去申候ニ付、拙者儀、捕押方指揮致し候処、怪我致し候間、到帰宅候。尤供方即死手疵之者別紙の通り御座候 此段御届申上候。以上井伊掃部頭」
と記された。
幕府でも将軍家茂が見舞い品として高麗人参を藩邸に贈り、諸大名も続々と見舞いの使者を送った。その中には徳川慶篤の命を受けた水戸藩の使者もいたが、彦根藩士達の凄まじい憎悪の視線の中で饗応を受けたと伝えられている。
直弼襲撃は『浪士』達の犯行で、表向きは水戸藩も水戸藩士も無関係となっているのだが、勿論彦根藩では浪士達を裏で糸引いているのは水戸藩と見做していた。
勿論この険悪な雰囲気の中、彦根藩士達の中には水戸藩への報復を考える者も少なく、仇討ちの声もあったが、家老・岡本半介が叱責してこれを阻止した。
最終的に、公式には「井伊直弼、急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」とし、「直弼病死」以前に既に届け出が為されていたことにされて、井伊直憲(直弼次男で最後の水戸藩主となる。維新後伯爵)による跡目相続が許可され、井伊家は取り潰しを免れた(井伊家の菩提寺で、招き猫で有名な世田谷・豪徳寺にある墓碑に直弼の命日が「三月二十八日」と刻まれているのもこの工作によるものである)。
この処置は同時に彦根藩士達が水戸藩への報復に出ることを防ぎ、既に重い処分を受けていた水戸藩への更なる制裁を加えることへの水戸藩士の反発、といった変後の悪化を防ぐためでもあった。老中・安藤信正等残された幕閣が苦慮に苦慮を重ねた上での取り計らいだった。
だが、最悪の事態を免れたとはいえ、後に井伊家は直弼の失政を理由に、石高を三五万石から二五万石への減封を喰らい、同時に家職でもあった京都守護職を剥奪された(後任は会津藩主・松平容保で、戊辰戦争に大きく絡む)。
彦根藩ではこの処分を避ける為に先立って、長野主膳(直弼の傅役にして腹心)・宇津木景福を斬首・打ち捨てに処していたが、処分を免れることは出来なかった。この後、彦根藩が幕政に絡むことはついになかった。
関係者の命運
水戸浪士側
襲撃時の立ち位置 氏名 肩書 襲撃時の役割 末路・備考 現場にて陣頭指揮 関鉄之介 北郡務方 本項にて詳細記述済み 現場にて斬り合いに参加 稲田重蔵正辰 郡方 行列右翼より襲撃担当 襲撃現場で斬り死に。 有村次左衛門兼清 薩摩藩士 行列左翼より襲撃担当 井伊直弼の首級を挙げる。襲撃現場で重傷を負い、近江三上藩邸(遠藤胤統邸)に自首した後に自害。 広岡子之次郎則頼 小普譜 行列右翼より襲撃担当 襲撃現場で重傷を負い、姫路藩主酒井雅樂頭忠顕邸前にて自害。 山口辰之介正 行列左翼より襲撃担当 襲撃現場で重傷を負い、鯉渕に介錯を頼んで自害。 鯉渕要人珍陳 神官 行列左翼より襲撃担当 襲撃現場で重傷を負い、山口の介錯を務めた後に自害。 増子金八 行列左翼より襲撃担当 潜伏・逃亡に成功し、明治時代まで生き延びる。 海後磋磯之介宗親 神職 行列右翼より襲撃担当 潜伏・逃亡に成功し、明治時代まで生き延びる。警視庁・水戸県警察本部に勤めた。 黒澤忠三郎勝算 馬廻組 行列左翼より襲撃担当。また、長身であることを理由に襲撃開始を合図する発砲役も担う 斎藤監物に連れられて老中脇坂安宅邸に自訴。後に獄死。 斎藤監物一徳 神官 本来は斬り合いに参加せず、目的達成を見届けた後に斬奸趣意書を届け出る役目にあった。しかし実際には襲撃に参加 現場で重傷を負い、老中脇坂安宅(播磨龍野藩主)邸に自訴。斬奸趣意書提出後、戦傷により死亡。斬奸趣意書を執筆したのも彼である。 佐野竹之助光明 小普譜 行列右翼より襲撃担当 襲撃現場で重傷を負い、斎藤監物に連れられて老中脇坂安宅邸に自訴。戦傷により死亡。 大関和七郎増美 大番組 行列右翼より襲撃担当 襲撃現場で手傷を負い、熊本藩主細川斉護邸に自訴後、斬罪。 森五六郎直長 直訴人を装い、先頭に斬り掛ることで変勃発の端緒を開く 襲撃現場で手傷を負い、熊本藩主細川斉護邸に自訴後、斬罪。 蓮田市五郎正実 寺社方 行列左翼より襲撃担当 斎藤監物に連れられて老中脇坂安宅邸に自訴。後に斬罪。 森山繁之介政徳 町方属吏 行列右翼より襲撃担当 熊本藩主細川斉護邸に自訴後、斬罪。 杉山弥一郎当人 留付列 行列左翼より襲撃担当 襲撃現場で手傷を負い、熊本藩主細川斉護邸に自訴後、斬罪。 広木松之介有良 町方属吏 行列左翼より襲撃担当 襲撃現場で重傷を負い、他藩邸に自首した後に自害。 現場にて見届け役 岡部三十郎忠吉 小普請 検視見届役 逃亡後捕縛、斬罪。 佐藤鉄三郎寛 金子孫二郎の補佐。現場では斬奸を見届けた後に金子への連絡係を務める 幕吏の追捕を受け、伏見で金子と共に捕縛。後に追放刑。事件の詳細は彼の残した記録による所が大きい。大正時代まで生存。 現場に居ず、事後工作担当 高橋多一郎愛諸 奥右筆、矢倉奉行 井伊暗殺後の京都での決起を薩摩藩に促す 幕吏の追捕を受け、四天王寺境内にて自刃。同寺に顕彰碑がある。 高橋庄左衛門諸恵 多一郎の長男 父と供に薩摩藩の決起を促す 父と供に幕吏の追捕を受け、四天王寺境内にて自刃。
四天王寺にある高橋父子の顕彰碑小室治作 高橋父子の随行 前に同じ 自刃。 大貫多介則光 高橋父子の随行 前に同じ 捕縛後獄死。 金子孫二郎教孝 南郡奉行 有村雄助と供に京都での薩摩藩の決起を促す 幕吏の追捕を受け、伏見で捕らえられた後に江戸で斬首。 有村雄助兼武 薩摩藩士。次左衛門の兄 水戸浪士と薩摩藩とのパイプ役、金子孫二郎、佐藤鉄三郎と共に上方に上る 伏見薩摩藩邸にて捕縛、後に薩摩藩に累を及ぼさない為、藩士の説得を受けて切腹。 川崎孫四郎健幹 郡吏 大坂での連絡係 幕吏の追捕を受け、自刃。生國魂神社(大阪市天王寺区)に孫四郎自刃の碑がある。 関鉄之介補佐 滝本いの 関鉄之介の愛人。元吉原谷本楼の妓 鉄之介の潜伏の手助けをした 鉄之介を追う幕吏に捕らえられ伝馬町牢で拷問死。
彦根藩側
結局、襲撃を受けた者達で命を永らえたのは重傷者達だけで、それ以外の者達は原因の違いはあれど全員が落命し、更に処分は本人のみならず親族にも及んぶこととなった。
襲撃被害 氏名 末路・備考 死者(八名) 加田九郎太包種(御供方騎馬徒) 襲撃現場で斬り死に。事件後、直弼生存偽装工作の為、直弼の遺体は加田のものとされた。 河西忠左衛門良敬(御供目付) 不意の襲撃にも冷静且つ立派に奮戦し、近藤重蔵を斬り殺したのを初め、多くの水戸浪士に斬撃を浴びせた。襲撃現場で斬り死に。 沢村軍六之文(御供目付) 襲撃現場で斬り死に。 永田太郎兵衛正備(剣豪) 襲撃現場で斬り死に。 小河原秀之丞宗親(御供目付側小姓) 戦傷が元で帰邸後死亡。一度は現場に倒れ伏したが、再度起ち上がって、直弼の首を取った有村次左衛門に致命傷を与えた。 岩崎徳之進重光(伊賀奉行) 戦傷が元で帰邸後死亡。 日下部三郎右衛門令立(御供頭) 戦傷が元で五ヶ月後に死亡。 越石源次郎満敬 戦傷が元で帰邸後死亡。 ※この八名は殉職を讃えて豪徳寺に「桜田殉難八士之碑」が建てられた。 重傷(八名) 片桐権之丞(奥供) 文久二(1862)年に、藩主の護衛失敗による家名を辱めた咎により減知の上、藩領だった下野佐野に配流・揚屋に幽閉。 桜居猪三郎(御供目付) 柏原徳之進(御小姓) 草刈鍬五郎 松居貞之進 萩原吉次郎 政右衛門(御陸尺) 勝五郎(御陸尺) 軽傷者(五名) 元持甚之丞 文久二(1862)年に、藩主の護衛失敗による家名を辱めた咎により切腹。 渡辺恭太 藤田忠蔵 吉田太助(御草取り) 水谷求馬 無傷(五名) 朝比奈三郎八 全員が文久二(1862)年に藩主の護衛失敗による家名を辱めた咎により、斬首。軽傷者達が切腹だったことに比較して、無傷で現場を逃れた事が士道不覚後との認識をより強めたと思われる。 朝比奈文之進 小幡又八郎 小島新太郎 長野十之丞
この事件により、江戸定府・徳川姓の親藩で「副将軍」と巷間称される水戸藩徳川家と、譜代大名筆頭の彦根藩井伊家が仇敵となった(彦根市と水戸市が和睦したのは何と昭和四五(1970)年になってから!)。
長年持続した江戸幕府の権威も「大老とあろうものが登城の途中に襲われて殺された」という不名誉の前に大きく失墜した。
水戸藩士(または浪士)はその後も文久元(1861)年元治元年(1864年)にかけて数々の争乱事件を起こしている。
・第一次東禅寺事件……文久元(1861)年五月二八日、イギリス公使オールコックを襲撃(丁度一年後の文久二(1862)年五月二九日に第二次東禅寺事件が起きているが、これは水戸藩とは無関係)。
・坂下門外の変……文久二(1862)年一月二五日、江戸城坂下門外にて尊王攘夷派の水戸浪士が老中・安藤信正を襲撃。浪士達は全員その場で斬り殺され、安藤自身は背中に軽傷を負ったものの、警護側に死者は無し。この事件により、水戸藩内で改革派への風当たりが弱まりかけたのが再び硬化し、鉄之介を窮地に追いやることとなった。
・天狗党の乱……元治元(1864)年三月二七日〜同年一二月一七日、水戸藩尊王攘夷派である天狗党による一連の争乱。詳細は(長くなるので)記載しないが、乱の際、彦根藩士達は「直弼公の敵討ち」と息巻き、中山道を封鎖して筑波山から京都に向かった水戸藩士を迎撃しようとした。敦賀で降伏した武田耕雲斎達の水戸浪士三五二人はここで処刑され、彦根藩士達は来迎寺を刑場として僅かながらに報復を果たした。
余談 本筋には全く関係ないが、井伊直弼の幼名は『鉄之介』である。これは何の因果だろうか……。生まれた時点で第一三代藩主・井伊直中の一四男で、家督相続など想像のつかなかった直弼の幼名を水戸藩士達が知っていたので充て付けに関鉄之介に陣頭指揮を取らせた…………なんて、事は無いよなあ、何ぼ何でも……。
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令和三(2021)年五月二五日 最終更新