第壱頁 藤原道隆………酒が祟って、世襲に失敗?

氏名藤原道隆(ふじわらのみちたか)
家系藤原摂関家(北家)
生没年天暦七(953)年〜長徳元(995)年四月一〇日
地位摂政・関白・太政大臣
飲酒傾向根っからの酒好き
酒の悪影響飲水の病(糖尿病)に罹患
略歴 摂関家となっていた藤原北家の当主・藤原兼家の嫡男として天暦七(953)年に誕生。有名な藤原道長の長兄でもある。
 兼家は道隆の同母妹詮子・超子をそれぞれ円融天皇・冷泉上皇に嫁がせており、詮子が一条天皇、超子が三条天皇を生むことで藤原家最盛期への布石を完備しつつあった。

 永観二(984)年八月、円融天皇が花山天皇に譲位するに伴って道隆は従三位・懐仁親王(後の一条天皇)の春宮権大夫に任じられた。
 寛和二(986)年、兼家は寵妃を失って落胆していた花山天皇を三男・道兼が唆させて出家・退位に追いやり、懐仁親王の即位を実現し、一条天皇の外祖父として念願の摂政に就任し、道隆の出世も約束された。

 道隆は既に正三位権中納言だったが、従二位権大納言、内大臣へと出世を重ねた。こうなると道隆は今後を見据える様になり、永延元(987)年一〇月、従一位に昇叙されるべき所を、嫡男伊周の正五位下叙爵の為にこれを辞退した。
 永祚二(990)年一月、道隆は長女・定子を一条天皇に入内させた。同年五月に兼家が病気で関白を辞任すると、代わって関白、次いで摂政となった。

 同年七月二日に父・兼家が薨去すると氏長者となった。氏長者となった道隆の辣腕・身内贔屓は露骨で、娘・定子を中宮に推し、兼家臨終時に弟・道兼を氏長者後継者に推した藤原在国(兼家腹心)父子の官位を奪った。
 一方で政敵とも云えた道兼には内大臣の職を譲り、自身は正暦四(993)年四月二二日に関白に再就任した。

 だが道隆の天下は五年しか続かなかった。長徳元(995)年、道隆は病に伏した。同年三月九日、道隆は一条天皇に請うて伊周を内覧とし政務を委任し後継者にしようとしたが、一条天皇は内覧のみ許し、伊周への関白位委譲は認めなかった。
 死期の迫った道隆は四月三日に関白を辞し、伊周への譲位を再奏上したが叶わず、同月六日出家し、四日後の一〇日に薨去した。藤原道隆享年四三歳。



酒について 藤原道隆の大酒飲み振りは『大鏡』『枕草子』 (筆者の清少納言は道隆長女・定子の女房)にも記載されており、それらによると「陽気な酒飲み」だったようである。
道隆は元々軽口を好んだ朗らかな人であったらしく、酔っ払って人前で烏帽子を外し(←当時の慣例ではかなり失礼に当たった行為)臨終に際しても極楽で飲み仲間と再会することを喜んだと伝わっている。



飲酒の影響 いずれにしても藤原道隆が飲んでいた量は並の酒量ではなく、それが健康に悪影響しない筈が無かった。史書にも「飲水の病(糖尿病)」を患っていたと明記されている。
 糖尿病は現代医学でも不治の病であるのは周知の通り。糖尿病は、それ自体は然程恐ろしい病でもないが、様々な合併症を起こすことで腎不全・失明・悪性腫瘍を誘発するからやはり恐ろしい病である。道隆の逝去についても、糖尿病の合併症によるものとみる声もあれば、当時平安京で流行していた天然痘によるものとの声もある。いずれにせよ抵抗力はほとんど残っていなかったことだろう。

 そして過度の飲酒は道隆を四十路で落命せしめ、それが為に道隆の家系は斜陽の一途を辿った。道隆の要請にもかかわらず関白位は伊周でなく道兼に委譲された。だがその道兼も天然痘のために就任から数日で病死した(故に彼は「七日関白」と呼ばれた)。
 だがそれでも政権は伊周に還らず、一条天皇は妻(←伊周の妹)の懇願よりも母(←道長の姉)の圧力に屈して道長を内覧とし、程なく伊周・隆家兄弟は花山法皇への傷害事件を起こして太宰府に流され、政権は完全に道長に掌握された。
 道隆が摂生し、存命中に伊周・隆家・定子の立場を盤石化していれば弟家系に政権を奪われることもなかっただろう。実際、道隆は気配りの出来る人間で、人望もあり、辣腕家・道兼も、幸運児・道長も道隆存命中はその地位を脅かすことは出来なかったのだから。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新