第弐頁 足利義量………他に楽しみなかっただろうな

氏名足利義量(あしかがよしかず)
家系足利将軍家
生没年応永一四(1407)年七月二四日〜応永三二(1425)年二月二七日
地位室町幕府第五代征夷大将軍
飲酒傾向自棄酒
酒の悪影響酒毒による夭折
略歴 応永一四(1407)年七月二四日、室町幕府第四代征夷大将軍・足利義持を父に正室・日野栄子(日野資康の娘)を母に生まれた。

 父・義持は応永元(1394)年に僅か九歳で征夷大将軍となっていたが、祖父・義満存命中は全く実権を握れず、義満死後も義満に溺愛された叔父・義嗣や親戚筋の鎌倉公方と骨肉の争いを展開し、有力守護大名も義持には従順と云い難かった(もっとも、有力守護大名の統制が困難だったのは室町幕府成立当初からの宿病の様なものだったが)。
 そんな義持は子宝にも恵まれず、義量以外の兄弟は皆夭折していた(義量自身も病弱だった)。そうなると必然的に義持は義量を溺愛し、重要な外出にはその殆どに義量を同行させた。

 応永二四(1417)年一二月一日、一一歳で義量の元服が義持の加冠にて行われ、義量は正五位下右近衛中将に任じられた。
 六年後の応永三〇(1423)年義持は朝廷・有力守護大名を訪問して回り、義量将軍就任の根回しを行い、三月一八日に足利義量は一七歳で第五代征夷大将軍に就任した。
 就任に際しては諸大名が、二日後の三月二〇日には僧侶関係者が馬や太刀を献上して祝い、翌応永三一(1424)年一〇月一三日には参議に任命された。だが、これ等の出世も祝賀も室町将軍家の権威付けの為でしかなかった。
 義量将軍就任時、隠居して大御所となった義持はまだ三八歳の若さだった。義持自身、義満が同じ三八歳の若さで隠居して将軍に就任していた。そして祖父・義満同様、父・義持も実権を手放さなかった………否、正確には手放せなかった。

 義量にとって楽しみは酒しかなく、元々病弱だった体を更に壊し、将軍就任直後より病を得て様々な治療や祈祷を受けていたが、応永三二(1425)年二月二七日、急死した。足利義量享年一九歳、勿論その死は父に先立ったものだった。



酒について 実権を何一つ握らせて貰えない、名前ばかりの将軍位に嫌気が差し、酒に溺れたとされる足利義量だが、将軍就任の二年前に義持に大酒を戒められ、近臣は義量に酒を勧めないよう起請文を取られたと云う話が伝わっている。詰まる所、彼の酒好きは持って生まれたものだろう。うちの道場主も四歳で酒好きに………うぐぐぐぐぐ(←道場主のスタンディング・キャメル・クラッチを食らっている)。

 将軍就任の二年前、と云えば義量一五歳の時で、数え年だから現代で云えば中学二、三年という若さ、否、幼さだったと云える。勿論、室町時代の酒は朝昼晩時間を問わず飲まれた、現代の物より遥かに薄い酒だったと云われているし、年齢に対する捉え方を現代と同一視は出来ないが、それでも一五歳で鯨飲を咎められ、家臣が起請文まで取られたとは尋常ではない

 加えて、最高権力者の地位にありながら何一つ自由にならないとなれば、多少なりとも酒好きな人間が自棄酒に走ることは充分に考えられる。何とも哀れな人生である。



飲酒の影響 既に論述している様に足利義量は元々病弱だった身を過度の飲酒で更に壊して、現代において飲酒が許される年齢に達することなく若い命を散らした。
 最終的に義量の命を奪った病気の名前は詳らかでないが、その病が酒に起因するものでなかったとしても、酒で壊れた体が病に耐えられないものとなっていたことに疑いの余地は無いだろう。

 そして義量の鯨飲は義量の命を奪っただけでなく、室町幕府の先行きを不透明なものとした。
 政治自体は義量存命中も大御所となった義持、管領、有力守護大名達が執り行っていたので、そのまま将軍不在ながら政権運営に支障はなかった。だが、唯一人元服まで育った義量に先立たれた義持の意気消沈振りは明白で、義量の死から三年も経たない応永三五(1528)年一月一八日に義持も病死した。享年は四三歳だったので、どちらかと云えば短命であった。

 夭折した義量に子はなく、その夭折時から六代将軍を誰にするか?という問題は残っていたのだが、義量死亡直後に石清水八幡宮で籤を引き、男児が誕生するとの結果が出て、その夜に男児誕生の夢を見た義持は死ぬまで後継者を定めなかった。
 周囲から後継者選定を勧められても、再度の籤引きを勧められても「神慮に背くことになる。」と退けていた。
 危篤に陥り、どうあっても次期将軍を決めなければなくなっても、「たとい仰せ置かるといへども面々用い申さずば正体あるべからず(たとえ云い残しても幕閣が承認しなければどうしようもない)。」と述べて決めなかった。
 室町幕府の有力守護大名を抑える力が如何に弱かったかを代表する言葉としても有名だが、結局は彼の死後に籤を引いて決めることに同意して息を引き取った。

 以前に過去作で触れたことがあるが、現代において最高権力者をくじ引きで決めたら批難囂々だろうけれど、一応、当時としては「神意を問う。」という真剣な意図で行われたものらしい。いずれにせよ、義持の四人の弟から籤引きで第六代将軍を決めることが決定した際に義持が呟いたのは、「好きにせよ……。」との投げ遣りな台詞だった。
 少々穿った物の見方だが、すべての実子に先立たれ、新たな実子も望めなくなった義持には何の希望もなかったのかも知れない。

 一方、自業自得に近い若死にを遂げた義量に対して、その境遇や余りの若さが同情されたものか、世間の噂は他に原因があると膾炙した。
 ある噂では義持が殺害した義嗣の怨霊に祟られたとし、ある噂では義持が義量に将軍職を譲ってから寺社統制のために石清水八幡宮の神人を数十人殺害した神罰とした。
 死人に口なしとはいえ、自己主張出来ずに若死にし、下手に地位だけあると何を云われるか分かったもんじゃないものである。


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令和三(2021)年六月一〇日 最終更新