第壱章 源為朝…強弓の猛者、死後に語られた二つの化身

逃亡疑惑者名源為朝(みなもとのためとも)
通称鎮西八郎
生年月日保延五(1139)年
公式死亡日嘉応(1170)年四月六日
公式死亡場所伊豆大島
死因自害(工藤茂光の追討を受けて)
推定逃亡先琉球国
生存伝説要因強弓の士への敬意
略歴 保延五(1139)年に父・源為義、母・摂津国江口の遊女の間にて八男に誕生。
 源氏の中では甥の悪源太義平(義朝嫡男)と並ぶ乱暴者とされ、疎まれたか鎮西(九州)に育ち、長じて鎮西八郎(ちんぜいはちろう)とあだ名された。

 七尺(約2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがっていたという容貌魁偉で、特に弓術に優れ、左腕が右腕よりも四寸(約12cm)も長かった、という眉唾な伝承もある。
 中国の『三国志演義』にも見られるが、現代では子供が見た目一発に泣きだしそうな容貌魁偉も、古代においては強さの象徴みたいなものだった。そう、「強面」は立派な「魅力」だったのである。

 生まれついて膂力に優れたことや、母の身分の低さから来た冷遇への反発もあり、自らの膂力に思い上がった為朝ははっきりって乱暴者に育った。
 長兄・義朝が父・為義から東国で修業を積むことを命じられたのとは対照的に、為朝は一三歳の時点で勘当同然に鎮西に追いやられた。

 勿論、こんなことで大人しくなるような為朝ではなかった。
 むしろ都を追われたことが彼をして「野に放たれた虎」ならしめ、現地豪族の娘を娶り、その人脈を基盤に菊池氏等と覇を競う始末で、それが為に為義は検非違使を解任された。
 さしもの為朝も責任を感じたのか、僅か一八騎の供を連れて上京したが、折も折、まさに保元の乱が勃発せんとしていた。


 保元元(1156)年、鳥羽法皇の崩御から院政を行わんとする崇徳上皇と、親政を行わんとする今上の後白河天皇の対立に、為義は上皇方につき、義朝は天皇方につき、平氏でも摂関家でも一族が分かれてそれぞれについたのは有名である。
 武勇に優れた義朝が天皇方についたのは上皇側にとって痛手だったが、為義は三男・頼賢(よりかた)を始め、六人の息子と共に参陣したが、勿論その内の一人は為朝であった。
 この時代、手のつけられない乱暴者でも武勇に優れていることは大いに頼られた。まあ、体よく利用されていたのと紙一重なのだが。
 その例に漏れず、為朝も戦上手の前評判から藤原頼長に軍略を問われたときには夜襲を進言し、「卑怯」と退けられるが、天皇方の軍勢はまさにその夜襲を敢行した。

 為朝の指摘を軽んじて受けた夜襲にうろたえた公家衆は彼を宥める様に、急な除目(じもく。つまり官位の辞令)を行って蔵人に任じようとしたが、為朝はそれを無視するように三尺五寸の太刀を差し、五人張りの強弓を持って迎撃に出た。
 為朝の強弓は先手を命じられた平清盛率いる平家軍に堂々と対峙し、清盛の郎党・伊藤忠清を射抜き、その矢は背後にいた伊藤忠直の鎧をも貫いた。
 この為朝の一射で平氏軍は怖じ気づき、清盛嫡男の重盛だけが戦意を失わなかったが、清盛が止めずにいられなかった程、為朝の武威は戦場に漲っていた。そして為朝の矢は更に伊賀国の住人・山田伊行を射落とした。
 為朝は、清盛に続いて進軍してきた兄の義朝に対しても義朝側近の鎌田政清を直臣二八騎(←中国漢楚時代の項羽みたいね)とともに敗走せしめ、義朝とも勅命と院宣、親不孝と兄不孝で互いが挙げ足を取る口論を行ったりもしたが、兄を射るのには躊躇いもあった(矢を兜の前立てに当てたものの、義朝は傷つけなかった)。
 だが、義朝の家臣までは遠慮せず、深巣清国が射殺され、更には大庭景義・景親の兄弟が挑み掛ったが、為朝の矢は景義の左の膝を砕き、落馬した景義は景親に助けられて敗走した。後に景義はその傷を為朝の武勇の証として周囲に語った。


 為朝自身の武勇は並ぶ者がなかったが、戦自体は義朝が内裏に火を放って良いとの勅許を後白河天皇から受け(←おいおい後白河……)、強風にあおられた火は白河北殿を炎上させたことで決着がついた。
 上皇方は大混乱に陥り、上皇と頼長は脱出。為義、頼賢、為朝等も各々落ちた。
 途中、為義は東国での再挙を断念し、出家して降伏することに決めた。「義朝が勲功に代えても父や弟達を助けるだろう」と踏んでの決断で、為朝は反対したが容れられなかった。

 その後為朝も逃亡中に近江国坂田に潜伏中に得た病のために湯治中に丸腰で抵抗も叶わず、密告を受けて駆け付けた佐渡重貞の手勢に囲まれ捕えられた。
 余談だが、兄・義朝といい、その孫の頼家といい、風呂場にて襲われ易い一族である。  京へ護送された時には、名高い勇者を一目見ようと群衆が集まり、後白河天皇まで見物に来ていた(←調子のいい奴め)。


 戦後処理において天皇方の軍師的存在である信西は、敗れた現時方の武将の処分を巡り、義朝に父・為義、弟・頼賢を斬首させる、という極刑を命じた。
 為義が踏んだように義朝は父と弟の助命嘆願を行わなかった訳ではないが、聞き容れるどころか自らの手にかけろと命じられたのだから、為義も義朝も為朝も絶句したことだろう。
 信西の酷薄ぶりは筋金入りで、薬子の乱以来三〇〇年に渡って死刑を行わなかった日本社会(厳密には刑罰としての死罪は存在していたが、「温情により罪一等減じる」が定常化していた)に死刑を復活させたことも世間を驚かせたが、信西と懇意にしていた清盛にも上皇方についた叔父の平忠正を自らの手で斬れ、と命じたのだからこれはもう性格だろう。
 後に平治の乱で信西が首を刎ねられた際には、敵味方が快哉を叫んだらしい(←極めて論拠の乏しい伝聞によるものであることを白状しておきます)。

 薩摩守の平安時代に関する研究不足もあり、当時の価値観がいまいちよく分らないのだが、武士が貴族に流血を商売にする穢れた存在として軽んじられていたにも関わらず、為朝はその荒武者振りが都人達の異常ともいえる人気を博していた。
 結果、周囲に殺すのを惜しませ、強弓を引けないように利き腕の筋を切った上で伊豆大島への流刑となった。
 ちなみに武者振りが助命の機運を高めた例として、あの源頼朝が殺すのを躊躇った平重衡(清盛五男)の例があるが、これはどの道、奈良の大仏を焼いた(故意では無いのだが)重衡を南都の僧達が処刑を強く要望してくることを読んでいた頼朝が形だけ慈悲深い振りをしただけと薩摩守は見ている。



最期 保元の乱の結果、伊豆大島に流刑となった源為朝だったが、元々好戦的だった性格がいきなり治る筈もなく、国司にも従わなかった。
 傷が癒え、強弓の技が戻ると再び暴れ始め、島の代官の三郎大夫忠重の婿となり伊豆諸島を従え、年貢も出さなくなった。
 伊豆諸島を所領とする伊豆介工藤茂光を恐れた忠重は密かに年貢を納めていたが、それを知った為朝は激怒し、忠重の左右の手の指を三本切ってしまう始末だった(←ひでぇ……)。

 伊豆大島に流されてから一〇年後の永万元(1165)年には鬼の子孫で大男ばかりが住む鬼が島に渡り、島を蘆島と名づけ、為朝はこの島を加えた伊豆七島を支配した。
 たまりかねた伊豆介工藤茂光は嘉応二(1170)年に上洛して為朝の乱暴狼藉を訴え、討伐の院宣を受けるや、同年四月、茂光は伊東、北条、宇佐美ら五〇〇余騎、二〇艘で攻めよせた。
 意外にも為朝は抵抗しても無駄、と観念し、九歳になる我が子為頼を刺し殺し、自害を決意した。
 死に際して、せめて一矢だけでもと思い、三〇〇人程が乗る軍船に向けて強弓を射かけ、見事に命中させて船を沈めた(ホントかよ……)。
 館に帰ると、保元の戦では矢ひとつで二人を殺し、嘉応の今は一矢で多くの者を殺したか…。」と呟くと、「南無阿弥陀仏」を唱えると柱を背に腹を切って自害した。享年三三歳。

 化け物染みた為朝の武勇(蛮勇?)を恐れた追討軍はなかなか上陸しなかったが、加藤景廉が既に為朝が自害していると見極めるとその首を刎ねた。首は京都に持ち帰られ、晒された。



生存伝説 史実では間違いなく為朝は伊豆大島にて自害し、その首は京都に護送されて晒された。  しかしながら「強弓の士」への憧れか、為朝は伊豆大島で死なず、琉球に逃れ、そこで為した子が琉球王国の始祖=舜天(しゅんてん)になったとの伝説が生まれた。
 それも(薩摩守自身、本作を作る為に調べて初めて知ったのだが)琉球王国の正史である『中山世鑑』にそのように記載されているのである!!

 これは極めて意外なことである。

 民族学的には日本人は勿論、東アジア人の多くはモンゴロイドで、現天皇家が朝鮮半島(百済人)の血を引いているのはほぼ確実なのだが、それでも王朝そのものは自らが編纂する正史の中で自らの家系が単一民族から始まったものであることを主張する。
 中国の歴代王朝が「王家の先祖は蒙古に…」とか、朝鮮半島の歴代王朝が「王家の先祖は中国に…」とか、天皇家が「皇室の先祖は朝鮮半島に…」などとは間違っても書かず、古代ローマ帝国やモンゴル帝国に至っては「狼の子孫」と称するほど、異民族ルーツを否定する。
 それが琉球王国では「日本人・源為朝の子が始祖」と書いたのだから、驚きなんてものじゃない。
 後々に大和朝廷が、「源為朝は我が皇室から臣籍降下した経基王の子孫だから、その為朝の子孫が統べる琉球王室は大和朝廷に服属せよ。」と云われたら(理屈上は)正論となる根拠を王朝誕生秘話に載っけてしまっているのである。
 異民族に自らの始祖と崇めさせる為朝伝説とは如何なるものだったのだろうか?まずは生存伝説のプロセスを記したい。


 伊豆大島にて追討使の手を逃れた源為朝は八丈島に逃れた、とされている。
 八丈島付近の海流で、黒潮の反流である小笠原海流に乗って沖縄に向かったと考えられている訳だが、八丈出発して間もなく、為朝の船を暴風雨が襲い、その折に為朝は、『運は天にあり、何ぞおそるに足らんや』と船員を励まして航海を続け、琉球は今帰仁の港に辿り着いた。それが運を天に任せて辿り着いたことから名付けられた「運天港」の由来とされている。
 漂着後、為朝は琉球南部の領主、大里按司(おおざとあじ)の妹を妻として2人の子供を設け、男児は為敦(ためのり)と名付けられた。この為敦が後に舜天になったとされているのだ。
 その後望郷の念に駆られた為朝は、妻子を伴って日本本土へ船出するが出向直後の嵐の前に港に戻ることを繰り返し、船頭の、「女を船に乗せたために、竜宮の神様がお怒りなのです」との進言を受け、やむなく為朝は妻子を残して一人出港し、残された妻子が庵を結び、為朝の帰りを待ち侘びた地が「待港」と呼ばれ、現在の「牧港」の由来となったが、為朝が妻子の元に返ることはなかった。


 結局、源為朝の名はその後、日本史にも琉球史にも見られず、墓所についても岡山県井原市門田町に為朝の墓と伝えられるものが残されている一方で、伊豆大島に戻ったのとの説もある。
 また岩手県宮古市に本拠を置いた閉伊氏は源為朝の遺児・閉伊為頼(為家・頼基・行光とも)の末裔と称し、源頼朝から閉伊、気仙を給わった際に閉伊姓を称した、と主張しているが、薩摩守は懐疑的である。
 勿論、あの頼朝が息子達の対抗馬となり得る源氏直系の存在を許すと思えないからである(笑)。


 結局、源為朝の名は伝説の彼方に消え去ったが、彼が出港後、為敦=舜天としてのは琉球伝説が始まるのである。
 ちなみに舜天の生没年は「1166?〜1237?」で、在位は「1187?〜1237?」とされ、実在の真偽は詳らかでは無い。
 というのも、舜天は沖縄本島に天帝の使いとして天下ったアマミキヨの後裔である天孫氏二五代目の王・利勇を討って王位に就いたとされているが、天孫氏二五代の王の名は明らかではなく、利勇以前もまた伝説の存在なのである。

 ともあれ、『中山世鑑』『椿説弓張月』によると、為朝と大里按司の娘の間に生まれた為敦は一五歳で浦添按司となり、利勇を討った後に二二歳で諸侯の推挙を受けて王位に就いた。
 が、それが為朝ばりの武勇によるものかまでは残念ながら薩摩守が短期間に研究した範囲では分からなかった。


 江戸時代に滝沢馬琴によって『椿説弓張月』が書かれ、この伝説に基づいて日琉同祖論が関連づけて語られ、「源為朝の子・為敦=舜天」との伝説は、尚氏(当時の琉球王家)の権威付けのための伝説と考えられている。
 そしてこの伝説に基づいて大正一一(1922)年に源為朝上陸の碑が建てられ、表側の上陸の碑と刻まれてある左斜め下には、この碑を建てた東郷平八郎の名が刻まれている。
 豪傑への憧れは時代を超えて不動なのだろうが、ここまで愛された暴れん坊も珍しい。


 ちなみに源為朝には 琉球王国始祖以外にもう一つ神格化された伝説がある。それは疱瘡(天然痘)に対する守り神としての格付けである。
 天然痘ウィルスによって恐るべき感染力と致死率で人類を苦しめた天然痘は日本においても度々猛威を振るったが、現代医学を持ってしても完璧な治療法を持たない恐るべき病魔への対抗手段として、近世以前の人々が神仏に加護を願ったのは当然の成り行きだった。
 だが古来人々が神仏に祈る折に、何故か「疱瘡は赤色を恐れる」との伝説から鬼退治の英雄・桃太郎、病気平癒の守護神・鍾馗様、そして強弓の士・源為朝が赤墨一色で描く、赤絵に描かれ、疱瘡に対する守り神とされた。
 前述の『椿説弓張月』によると、為朝が八丈小島で妾の東七郎三郎の長女と双子の息子太郎丸・次郎丸との別れを惜しんでいると、赤い幣を立てた 桟俵に乗った身の丈一尺四五寸の翁が沖から流れ寄ってきたと云う。
 この翁が浪速の浦から送り遣られた疱瘡神で、為朝の武威に平伏し、眷属もろとも今後八丈島には足を踏み入れない約束をした、とされている。
 この伝説は為朝が流された地で疱瘡の流行が見られなかった(←本当に本当かまでは分かりません)ことに、為朝の武威に対する敬意と、疱瘡に対する恐怖心が融合して生まれた伝説と云える。
 疱瘡に怯えた古代の人々にしてみれば、疫病神なんぞは遠島にでも流してしまいたい存在で、流された先でも征伐されたとあればさぞ痛快だったことだろう。


為朝の武威疱瘡神を退くの図
 画像中央右側、中段の黄色い着物を着た老人が疱瘡神(藁船に乗って人の夢の中にやって来て、疱瘡に罹患させたとされている)。疱瘡神の下には赤い着物に身を包んだ子供が赤い餅の様な物を食べている図が描かれている。画像左が為朝
 その他の動物は霊獣の類いか。赤い達磨、赤い玩具様のフクロウ、赤いまわしを付けた犬(疱瘡神は犬が嫌い、との伝説もある)、鯛を釣った熊、赤目の白兎で、とにかく赤尽くし。
 疱瘡神が手にしているのは為朝に八丈島を犯さないことを約束した手形。

 

次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月二〇日 最終更新