第弐章 安徳天皇…悲運の幼帝、海底の都に眠れたか

逃亡疑惑者名安徳天皇(あんとくてんのう)
生年月日治承二(1178)年一一月一二日
公式死亡日元暦二(1185)年三月二四日
公式死亡場所長門国赤間関壇ノ浦
死因入水(抱いて飛び込んだのは二位尼)
推定逃亡先中国地方・四国・九州各地
生存伝説要因多数の平家の隠れ里の実在及び幼帝に対する同情
略歴 第八一代天皇。父は第八〇代高倉天皇で、母は平清盛女・徳子(平家滅亡後に出家して建礼門院)。
 後白河法皇と保元平治の乱で我が世の春を迎えた平清盛との蜜月状態の最中、後白河法皇の第七皇子にして清盛の義理の甥にあたる高倉天皇と清盛の娘・徳子が承安元(1171)年に結婚し、その夫婦の間に生まれてきた。
 それゆえに平家一門の溺愛を受けたのは有名で、言仁 (ときひと)と命名されるや生後一ヶ月しか経過しない同年一二月一五日には立太子された。
 聖武天皇と光明子の子・基王が生後三二日で立太子されたことを指して光明子の実家である藤原氏の専横振りがよく指摘されるが、僅か一日しか違わないこの言仁親王の立太子に見られる平家の専横振りも相当なものだといえよう。
 だが、言仁が生まれた時、既に鹿ヶ谷事件を経て後白河法皇と清盛の蜜月にも翳りが差し始めていた。


 治承三(1179)年八月一日、清盛嫡男にして、院と平家の仲を取り持つ重要人物でもあった平重盛が四三歳の若さで没すると、後白河法皇は清盛の亡き娘盛子の荘園や重盛の越前国を没収する、という平家に喧嘩を売っているとしか思えない行動に出た。
 これにキレた清盛は同年一〇月、兵を集めて法皇を鳥羽離宮に移して軟禁。
 治承四(1180)年二月二一日に父・高倉天皇からの譲位(←勿論清盛のゴリ押しもある)を受けて言仁親王は第八一代天皇に即位した(高倉天皇も院政を行ったが程なく病に倒れ、翌年崩御)。


 安徳天皇が即位した三ヶ月後に、高倉上皇の懇願もあって後白河法皇の軟禁も解かれ、院と平家は再度の蜜月状態を取り戻すかに思われたが、反平家の火種は皇室・源氏残党・僧兵集団の間ですでに燻っていた。
 同年には後白河法皇の第二皇子以仁王が源頼政と結託し、全国の源氏に平家追討の令旨を発した。以仁王(流れ矢に当たって戦死)と頼政(平等院で自害)はすぐに討たれたものの、伊豆(頼朝)、木曽(義仲)、蒲(範頼)、平泉(義経)、新宮(行家)、甲斐、近江、その他所々で源氏が、そして興福寺も立ち上がった。
 そんな小競り合いが続く中、清盛は福原への遷都・平安京への還都と慌ただしく動き、富士川の戦いや興福寺との戦いも展開される中、院と平家の仲を取り持とうと尽力した父・高倉上皇が治承五(1181)年一月一四日に崩御し、閏二月四日には祖父・清盛が後の世に川柳にも歌われたほどの熱病の果てに没した。
 勿論その時点で四歳の幼児に過ぎない安徳天皇に時局を収集する手腕は持ちようもなかった。


 寿永二(1183)年五月一一日に倶梨伽羅峠の戦いで平維盛率いる軍勢が源義仲軍に敗れると今日は大混乱となり、七月二五日に都落ちとなった。
 六歳の安徳天皇は母・徳子に抱かれて輿に乗って福原に向かったが、祖父の後白河法皇は平家を見限っており、都落ち前夜に夜陰に乗じて鞍馬寺に身を隠していた。
 そして平家都落ち後、法皇は七月に入京した義仲軍を迎えるも義仲軍雑兵の乱暴狼藉に手を焼き、平家追撃を命じようにも正当な帝の証たる三種の神器が安徳天皇の、事実上は平家の手の内にある為、朝敵となることを恐れた義仲軍も追撃に移れず、法皇は院宣を出して神器の返還を迫ったが勿論拒否された(気は確かか?このおっさん…)。

 だが、あの源頼朝をして「日本一の大天狗」と云わしめた後白河法皇である。故高倉天皇の第三皇子・守貞親王と第四皇子・尊成親王(つまり両名とも安徳天皇の弟)を召し出し、守貞が法皇を怖がったのに対して、尊成が怖がらなかったことから尊成を第八二代天皇(後鳥羽天皇)として、今上である安徳天皇の退位も、三種の神器もない状態で即位させたのであった(勿論安徳と後鳥羽の即位期間は一部重複することになる)。
 良くも悪くも後白河法皇とは行動的な人物であった。


 そして後鳥羽天皇を新帝に据えた後白河法皇の院宣が西国を巡り、再起を図らんとした安徳天皇と平家一行も大宰府入りを阻まれたが、清盛四男の知盛の領国が長門だったのでその地を足掛かりに山陽・四国の平家勢力を動員し、備中水島にて矢田義清率いる義仲軍を破り、清盛の眠る福原を取り戻し、一時の安定を得た。
 その後、法皇方も、法皇と義仲の対立を経て法皇が源頼朝に義仲追討の院宣を出した。
 そのため洛中は一時混乱したが、源範頼・義経兄弟の軍の前に義仲も敗れて戦死し、法皇は三種の神器を持つ安徳天皇を擁する平家追討に幾ばくかの躊躇いを見せる範頼と義経に院宣という大義で追討を命じた。そして源平合戦は一ノ谷の戦いを迎えた。

 戦の天才……というより奇襲の天才・源義経指揮する源氏軍の前に平家方は一ノ谷の戦いで平秀衡(清盛五男)、平忠度(清盛弟。関係無いが官位は薩摩守である)、平敦盛(清盛甥)を、続く屋島の戦いを前にして維盛(清盛孫)を、屋島の戦いでは四国での同盟勢力を失い、遂に源平合戦の舞台は運命の壇ノ浦に移った。



最期 壇ノ浦の戦いは当初、潮流を利した海戦・船戦を得意とする平家軍優位に進んだが、潮流の変化・漕ぎ手を狙うという義経のセコイ作戦、松浦水軍の裏切りなどから平家軍の敗色濃厚となった。
 安徳天皇は祖母・二位尼(平時子。平清盛正室)、母・徳子とともに派手な唐船に居ると見せ掛けて別の小舟に居たが、戦況を尋ねる二位尼に実質上の大将・知盛は「やがて珍しい東男(あずまおとこ)が御覧になれるでしょう。」と笑い、二位尼は覚悟を決めた。
 「私を何処へ連れて行こうというのです?」と尋ねる安徳天皇に二位尼は「帝は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしい所ですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです。波の下にも都がございます。」と説き、安徳天皇と宝剣(三種の神器の一つ)とを抱き、入水した。
 時に安徳天皇、享年八歳。歴代天皇にあって最年少での死であった。
 母・徳子も入水したが救助され、後に徳子は出家して建礼門院として安徳天皇及び平家一門の菩提を弔い続け、知盛・教経(清盛甥)を始めとする一門も入水し、入水しても沈まなかったりして捕えられた平宗盛(清盛三男)以下三八名が捕らえられ、後に男は全員近江で斬首され、晒された。
 ここに平家一門は滅びた。寿永四(1185)年三月二四日のことであった。



生存伝説 早い話、安徳天皇壇ノ浦の戦いで入水せず、平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説である。

 主だった所では、

 ・平盛国が奉じて阿波国祖谷山(現・徳島県三好市)に隠れ住んだとする説
 ・平資盛に護られ薩摩国硫黄島(現・鹿児島県三島村)に逃れたとする説
 ・対馬に逃げ延びて宗氏の祖となった説


 があり、他にも九州・四国地方を中心に全国に二〇ヶ所余りも伝承地がある。
 福岡県筑紫郡那珂川町にいたっては「安徳」という地名すらある。
 上記の内、硫黄島については昭和期に島民から代々「天皇さん」と呼ばれていた長浜豊彦という人物がいて、長浜家が三種の神器を隠した物と見られる「あかずの箱」というものを所持していたということも分かっているが、この箱は中身が確認されないまま島津氏に奪われた、とされている。

 さすがに本職の史学者でもない薩摩守に二〇ヶ所以上に及ぶ隠れ里の伝承を持つ地を追いかけるのは不可能に近く、出来たとしても相当な年月がかかりかねないので一部を後述するに留めさせてもらう。
 とにかく、八歳という歴代天皇の中で最年少にて祖母と共に入水という悲惨極まりない最期を遂げたことに幼帝・安徳天皇に対する同情が集まったのは想像に難くない。
 加えて、全国各地に平家落人の隠れ里(と呼ばれるだけの地も含む)が点在する事実が、民衆をして、幼帝にどこかに落ち延びて命を永らえていて欲しかった、との想いから安徳天皇生存伝説が生まれたのだろう。


 実際、北は東北から南は琉球まで、源平合戦に敗れて落ち延びた平家の残党、所謂、落人が隠れ住んだ、とされる地が点在する。
 それらのすべてが真実なら、平家はどれだけ子沢山なんだ?と云いたくなる(笑)。まあ隠れ里の噂のある地域の村人の中で戦える男を総動員すれば軽く源氏全軍を破るだけの軍勢が揃うだろう、と云える程、隠れ里とされる地は多い。
 そこで壇ノ浦で安徳天皇を奉じた平家一門が辿り着いていてもおかしくない、と思わる西日本の地をピックアップして下表に記した。


隠れ里との伝承のある地落人状況
鳥取県八頭郡若桜町 平経盛が郎党らと落ち延びて、自刃したと伝わる。
山口県玖珂郡錦町(現:岩国市) 平家の武将を葬った平家七墓があるという。
山口県下関市彦島 平家の残党と伝わる落ち武者が来訪したことが伝わっている。この武者は、平家再興の夢を捨て現地で自ら命を絶ったとされる。
愛媛県八幡浜市保内町平家谷(旧:西宇和郡保内町) 壇ノ浦の合戦後、落ち延びた残党が佐田岬半島の伊方越にたどり着き、宮内川上流の谷に隠れ住んだとの云い伝えがある。
 八名で畑を開き暮らしていたが、源氏の追っ手の知るところとなり、六名は自害、残った二名が両家集落(保内町)の祖となったという。
 平家谷には平家神社がまつられている。
福岡県北九州市八幡西区上上津役 乳飲み子を連れた平家方の女性が源氏方の武者に赤子の声を聞かれ、見つかりそうになり親子ともども命を絶ったという伝説がある。
福岡県北九州市小倉南区合馬 安徳天皇に随行した官女が遊女となり、後に病死したという伝説がある。
長崎県上県郡・下県郡(現:対馬市)  安徳天皇が落ち延びて住んだという伝説がある。
長崎県北松浦郡宇久町(現:佐世保市)  平家盛が上陸して当地の領主となり、宇久氏(後の福江藩主五島氏の前身)を名乗ったという。
熊本県八代郡泉村(現:八代市)  平清経が当地にある五家荘に落ち延びたとされる。平家の落人の伝承という「久連子古代踊り」があり、国選択無形民俗文化財となっている。
熊本県球磨郡五木村  五家荘に落ち延びた落人と同族という説がある。
宮崎県東臼杵郡椎葉村 下野国の住人那須氏の一門・那須宗久(那須与一の弟とされる)が参加した鎌倉幕府の平家の残党追討軍によって肥後との境にある向山に拠っていた者達が追討され、次いで日向国椎葉山に拠った残党が追討されたが、残党に戦意はなく農耕に励んだことから、追討をとりやめたという。
 宗久は現地で平清盛の末孫という鶴冨姫という娘と知り合い、恋仲となり子が授かった後に本領へと引き上げ、平家の残党は追討中止と助命に感謝して那須姓に改めたという。
 この一連の逸話を謡ったものが宮崎県の代表的民謡「ひえつき節」である。
鹿児島県鹿児島郡三島村  平経正、平業盛らのほか、三〇余りの史跡があるとされる。
鹿児島県大島郡(奄美諸島) 平家一門の平資盛が、壇ノ浦の戦いから落ち延びて約三年間喜界島に潜伏し、弟の平有盛、いとこの平行盛と合流し、ともに奄美大島に来訪したという。
 平成一七(2005)年に平家来島八〇〇年記念祭が行われた。


 壇ノ浦の戦いにて供に手を繋いで入水した平資盛(たいらのすけもり。清盛孫・清盛の嫡男である重盛の二男)、平有盛(たいらのありもり。清盛孫・清盛の嫡男である重盛の四男)、平行盛(たいらのゆきもり。清盛孫・清盛の次男である基盛の嫡男)が彼の地で死せず、流れ着いたのとの伝承が多。
 上記の表と直接関係ないが、織田信長は「資盛の末裔」を自称し、行盛は鉄砲伝来で有名な種子島氏の祖となったのと伝説がある。
 若い命を散らした平家の若武者としては、一ノ谷の戦いにて熊谷直実が泣く泣く首を取った平敦盛が有名だが、資盛・有盛もまたそれぞれ享年二五歳(二八歳とも云われている)・二二歳、と充分に同情を引く若さだった。
 『平家物語』の冒頭が「諸行無常」「盛者必衰」という仏教の理に裏打ちされている様に、一時の栄耀栄華が一転、儚く散りゆく様を色濃く具現化しているかのような、安徳天皇並びに平家の若武者に対する同情と、上記以上に(多くは虚構や伝説にしても)多くの平家落人の隠れ里が実在したことが生存伝説となったのは明らかである。

 享年八歳で海中に没した安徳天皇の人となりは殆ど分らない。もし本当に安徳天皇が壇ノ浦に沈まず、命を永らえていたとしたら、実母・建礼門院に会いに行ったり、平家残党に主君として額づかれている少年像が語られたり、と平家滅亡から承久の乱に至る歴史過程の何処かで姿を現していた筈、と薩摩守は見ている。
 八歳で海中に没した安徳天皇の最期に同情を覚えないでもないが、生き永らえていたなら生き永らえていたで、実母との再会が終生叶わなかったことに更なる悲惨さを覚えるので、後白河法皇・源氏・平家に政争の道具とされる役目に終止符を打ち、安らかに眠っていた、と薩摩守個人は考えたい次第である。


参考 『平家物語』冒頭
 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す
 驕れる者は久しからず 只春の夜の夢の如し
 猛き者も終ひは滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ


 

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令和三(2021)年五月二〇日 最終更新