第壱頁 諏訪頼重……助命反故への憤死

名前諏訪頼重(すわ・よりしげ)
血統諏訪氏第一九代当主
地位諏訪大社大祝
通称刑部大輔
生年永正一三(1516)年
切腹年月日天文一一(1542)年七月二一日
切腹場所甲斐東光寺
介錯人無し
見届け人板垣信方
辞世おのづから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ
略歴 永正一三(1516)年に諏訪頼隆(すわよりたか)の嫡男として誕生。幼名は宮増丸
 諏訪氏は諏訪大社大祝(おおほうり)を司る南信濃の名家で、戦国大名と神官を兼ねる少し異色の家柄だった。それ故、諏訪頼重は幼くして大祝に就任したが、後にこの地位は弟・頼高(よりたか)に譲った。
 天文八(1539)年一二月九日に父・頼隆が祖父・頼満(よりみつ)に先立って早世し、その祖父から後継者に指名されて諏訪家の家督を継いだ。
 祖父の代から国人衆とともに甲斐武田氏と争っていたが、天文四(1535)年に祖父が武田信虎と和睦し、五年後の天文九(1540)年一一月に信虎の三女・禰々(ねね)を娶った。

 武田家と婚姻関係となり、背後から攻められる心配が消えたのを受けて、祖父頼満が没した翌年の天文一〇(1541)年五月一三日に信虎・村上義清等と小県(ちいさがた)郡に侵攻し、同月二三日には海野平(うんのだいら)合戦で海野棟綱(うんのむねつな)を上野国へ追放した。

 しかし翌月、甲斐にて信虎が嫡男・晴信(信玄)によって駿河へ追放されたことで頼重の運命は暗転する。国主の座を強奪した晴信は信濃侵攻を決意し、伊奈の高遠頼継(たかとおよりつぐ)・金刺堯存(かなさしたかのぶ)と組んで頼重を攻めた。

 高遠頼継は元々諏訪氏の遠縁で、頼重とは諏訪家惣領の座を巡って対立していた。金刺堯存は諏訪神社下社大祝の家柄で、金刺氏は一度頼重の父・頼隆に滅ぼされていたために諏訪に強い恨みを持っていた。
 頼重は当初身内である頼継を信じていた。決して仲は良くなかったが、それでも外敵に対しては力を合わせることを信じていたのである。
 それだけに頼継の裏切りには強い衝撃を受けた。そこへ妻の実家である武田家、身内である高遠家・神官仲間である金刺家の三家による三方からの侵攻を受けたのである。頼重には一溜まりもなかった。
 頼重は上原城を焼いて桑原城に撤退。そこに武田家重臣・板垣駿河守信方が軍使として訪れ、降伏を勧告して来た。頼重は高遠頼継に諏訪神社大祝の職を与えない事を条件に応じるとした。信方からその報告を受けた晴信は応諾し、助命の約束もした。
 頼重は妻・禰々の縁で助命するとの約束を信じて七月に降伏・開城に応じ、弟・頼高共々甲府に連行され、東光寺に幽閉された。

 しかし頼重の反発心が消えぬと見た晴信は助命の約束を反故にした。同月二一日、頼重は晴信より切腹を命じられ、果てた。諏訪頼重享年二七歳。


漢の最期 東光寺にて幽閉中の諏訪頼重の下に武田晴信よりの切腹命令を持ってやって来たのは晴信の教育係も務めた重臣・板垣駿河守信方だった。
 東光寺の所在は甲府板垣郷で、恐らくは信方の出身地なのだろう。また信方は頼重が降伏した際に武田軍の陣頭指揮を執った責任者でもあった。切腹に際して頼重は冒頭に記してある辞世を詠み、信方に切腹の作法に則るため、酒と肴を所望した。

 信方は三方に酒杯を載せ、東光寺が寺ゆえに肴が無いので酒だけで勘弁して欲しいことを告げた。それに対して頼重は激怒して、信方を無礼者として一喝した。
 頼重が激怒したのは肴が無かったことではない。信方が切腹の作法を熟知していなかったことに対してである。頼重が所望した「肴」とは酒のつまみとしてのそれではなく、脇差の事だった。切腹を勧める際にはそれに相応しい刀を白鞘に収め、三方に載せて「酒の肴」として出すのが武士に対する最高の礼儀である、と頼重は主張した。

 諏訪頼重の死に様は丸で充て付けの様だった。使者と見届け人を兼ねた信方に「武田はこれからも多くの者に腹を切らせるであろう。信方、そちも武田家を背負って立つ宿老の一人なら切腹の作法ぐらいはちゃんと心得ておけ。戦に勝っても武士の作法を知らねば野盗と同じで、武田も武士の面目を失い、滅びることになる!」と末期の一喝を行った。後にこの頼重の武田家滅亡宣告は的中するのだが、その当事者が頼重の外孫・勝頼であったのは何と云う歴史の皮肉であろうか。

 云いたいことを云い切った頼重短刀を盃の中に酒に浸し、腹を十文字に掻き切り、最後に右の乳首の下に短刀を突き立てた。ちなみに当時の切腹にはまだ介錯は無かった。


切腹の影響 諏訪頼重と同じく東光寺に幽閉されていた弟・頼高も自刃し、諏訪惣領家は滅亡。兄の不義を憤った妻の禰々は絶食の果てに半年後に一六歳で良人の後を追った。頼重と禰々の間には頼重の没年に生まれた一子・寅王丸がいたが、寅王丸のその後は不明である。

 頼重の壮烈な憤死後、丸で助命の約束を反故にされた頼重の呪いが降り掛ったかのように、歴史の皮肉が武田家を襲った。

 後年、晴信は頼重の娘(諏訪御寮人・実名不明)を娶ったが、重臣の中にはこれに反対する者も少なくなかった。そりゃそうだろう。諏訪御寮人にしてみれば信玄は父・頼重の仇で、その側室になるなど、普通は屈辱の極みで、いつ信玄の寝首を掻いてもおかしくないのだから。
 史料的には諏訪御寮人に関しては実名を含め、その人柄や言行を示すものが残っていないのでその心中はどうしても推測の域を出ないのだが、いずれにしても史実として、信玄と諏訪御寮人の間には信玄の四男・四郎が産まれた。
 信玄は頼重の外孫でもあるこの四郎に諏訪氏の名跡を継がせることとし、元服の折に諏訪四郎神勝頼と名乗らせたが、これは信濃国人衆の懐柔を図るものでもあり、恐らくは早くからそれを画策していたと思われる。

 というのも、信玄の息子達の中で、ただ一人勝頼だけが武田氏の通字である「信」の字を与えられていないのである。他の息子達は義信(嫡男)・信親(次男)・信之(三男)・盛信(五男)・信貞(六男)・信清(七男)と、勝頼以外全員が「信」の諱を与えられている。
 嫡男を別格に考え、他の兄弟達も勝頼同様国人衆懐柔の為に他家の名跡を継いだ例が多い(信親は海野氏、盛信は仁科氏、信貞は葛山氏)ことを考慮しても、勝頼一人に「信」の字がないのは非常に例外的である。
 ここに勝頼が「信玄の息子」である以上に「諏訪頼重の孫」と見られていたことが窺える。ちなみに勝頼の「頼」の諱は諏訪家の通字である。

 だが、勝頼の兄達には不幸が相次いだ。長兄義信は対今川同盟を巡る父・信玄との確執から謀反の嫌疑で外祖父・頼重と同じ東光寺に閉じ込められた。信玄自身には義信を殺す気は全くなかったが、義信はこれまた頼重と同じく、切腹して果てた。
 義信の死は病死説もあるが、彼が東光寺に果てたのは間違いなく、同寺には頼重・頼高・禰々・義信の墓が置かれた。助命を反故にして死に追いやった頼重と同じ墓所に妹と嫡男が眠ることになったことに信玄は何を想っただろうか。

 長兄・義信の死以前に、次兄・信親は盲目ゆえに僧籍に入り、三兄・信之は早世していた。かくして勝頼が武田家を継がざるを得なくなったが、頼重の血筋ゆえに事は混迷を極めた。
 つまり武田家が諏訪家に乗っ取られることが懸念され、武田一族や家中は勝頼をあくまで「諏訪を継いだ人間」と見做し、このため勝頼自身は正式には武田家家督を継げなかった。
 正式な家督は勝頼の嫡男・信勝が継ぐものとされ、勝頼はその後見人とされた。ただ、信玄病没時に信勝はまだ七歳だったため、信勝の正式な家督相続は一六歳になってから、とされ、事実上は勝頼が采配を振るったのである。
 たが皮肉なことに信勝が家督を継ぐとされた一六歳になったその年・天正一〇(1582)年に勝頼・信勝父子は天目山に果てたのである。勝頼がその出自故に宿将達の支持を得られず、武田家が滅亡に向かったのは頼重の呪い、というのは…………………考え過ぎだよな、武田家は憎くても、勝頼は孫だし……。


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新