切腹十選

 『切腹』とは、云うまでも無く「腹を切って死ぬこと」である。つまりは自害手段の一つなのだが、日本の武士だけが行った自害方法である。

 『切腹』が行われるには様々なシチュエーションがある。戦場での敗北や落城の際に敵の手に掛る事や降伏を潔しとせず、自害するケースが代表的なものである。
 他には「刑罰としての『切腹』」がある。
 同じ処刑にしても、同盟反故者・裏切者・怨敵が対象の際には見せしめとして磔・打ち首・釜茹で・串刺しといった酷刑が採られたのに対し、ある程度礼儀をもって処刑する際には『切腹』を命じて、形の上では「潔く自害した」とさせるものである(逆に不名誉な死刑を科された場合は『切腹』は許されなかった)。
 また、戦時や刑罰以外でも、何かを恥じたり、罪の意識を感じたり、主君の死に後を追ったりした者が秘かに自害する際に『切腹』するケースもある。

 いずれにしても重要なのは『切腹』が武士だけに許された自害・刑罰である、ということである。
 史実を見ると、『切腹』の始まりは伊豆大島で追討を受けた際に源為朝が行ったのが最初の様である。この時点では特に『切腹』に名誉が有ったかどうかは判然としない。いわば、自害手段の一つで、記録に残らないだけで、恥を避けたり、恥を雪いだりする為に腹を切った者はそれ以前にもいただろう。
 ただ、(あまり書きたいことではないが)自傷による死を考えると、腹を切って死ぬのはかなり苦しむ時間が長いらしい。勿論薩摩守は『切腹』などしたこと無いから苦痛の度合いなど分からないが、自傷から死に到る時間を考えるなら頸動脈を切る方がよほど早く、腹を切った後に咽喉を突くケースもあったし、介錯が行われたのもその為だ。
 それゆえに、自害方法として決して効率がいい訳でもない『切腹』がメジャーな自害方法となった(←嫌な表現だ)のも、『武士』というものが確立された点が大きい。

 というのも、武士の時代以前、人のみならず、動物に対しても殺生を忌む傾向が強くなっていた。平安時代には邸宅の庭に鳥の死骸を見つけただけで貴族一家がパニックに陥ったことを示す描写すらあった。また儒教思想から、「身体髪膚これを親に受けく」という思想の下、自傷行為は親不孝とする考え方もあった。日本より儒教思想の強い中国では殺生を生業とする武将でさえ自害の際には服毒・首吊りといった手段を採る事が多かった。
 ちなみに武士の時代以前の自害例を見ると以下の様になる。
武士の時代以前の自害
方法
首吊り山背大兄王
服毒長屋王、藤原薬子
自宅放火蘇我蝦夷
絶食早良親王(桓武天皇弟)

 そして武士の時代に入ると死生観の変遷からか、死や自傷に対する考え方が変わって来る。
 普通に考えて、自害以前に戦を考えてみても、人が人を殺すのは惨いことだし、自分が殺されるのは更に恐ろしい。それゆえ幼少時の教育を含め、死ぬ事や戦う事に関して真剣に考えられた。
 だから戦に際しては主君への忠義や、立身出世による一族の生活向上の為と云い聞かせ、人間誰しもいずれ死ぬ事が避けられないならその最期を華々しく飾りたい、と考える内に自害手段の一つである『切腹』にも様々な付加価値が後付けされたのであろう。
 いつしか『切腹』は武士のステータスとなり、「腹切り」は英和辞典で「harakiri」として引ける程、日本固有のものとして海外でさえ認識されるようになった。
 余談だが、道場主は高校生の頃、オーストラリアから来た留学生に「What do you want to see in Japan?(日本で何が見たい?)」と尋ねたところ、「Harakiri!」と返って来た事が有った(実話)。勿論本当に見せる訳にはいかなかったのでジェスチャーだけをやったのだが、何故か喜ばれた。

 勿論世の中には例外というものが有り、源平合戦期から幕末にかけての武士の時代といえども『切腹』以外の自害方法を取ったケースもある。
武士の時代の切腹以外の自害
方法備考
服毒調所広郷(薩摩藩家老) 病死に見せかける為?
入水平時子(清盛妻)、平知盛、平維盛平家が海に所縁が有ったからか?
爆死松永久秀信長に求められた茶器を砕く目的もあった。
拳銃自殺川路聖謨病気により、確実な切腹が出来ない事を懸念した点もあるらしい。

 そして明治維新を迎え、武士の時代が終わると『切腹』を巡る考えも変わって来た。明治六(1873)年に刑罰としての切腹は廃止され、明治一三(1880)年の刑法改正では日本における死刑執行方法は絞首刑のみとなった。
 となると『切腹』が行われるケースには古武士の誇りを全うせんとする軍人、または古武士の気概を受け継がんとする者)に限られた。何せそれ以降の時代では『切腹』しても『割腹』と表現される所にも武士の時代が既に終わったことが見られる。
 そんな時代の変遷ゆえか、武器の発達ゆえか、拳銃で脳天をぶち抜いた方があっさり逝けるゆえか、切腹の例は決して多くないが、以下の例がみられる。
明治以降の切腹
職業備考
西郷隆盛薩摩藩士西南戦争に敗れて
乃木希典陸軍大将明治天皇崩御に妻・静子と共に殉死
南雲忠一海軍中将サイパン島玉砕に殉ずる
牛島満陸軍中将・第32軍司令官沖縄敗戦の責を負って。拳銃自殺説も有り
長勇陸軍中将・第32軍参謀長沖縄敗戦の責を負って
阿南惟幾陸軍大将・終戦時の陸軍大臣陸軍のポツダム宣言受諾反対派の決起を抑える目的が有ったと見られている。遺書の「一死大罪ヲ謝ス」は有名
大西瀧治郎陸軍中将特攻の責を負って
本庄繁陸軍大将GHQから戦犯容疑を受けて
三島由紀夫作家森田必勝等「楯の会」メンバー四人も殉死

 平和な時代に生きる薩摩守は『切腹』は勿論、誰にも自害をして欲しいとは思わない(凶悪犯罪者に対して、「テメー自身の罪深さを悟ったなら自分で死にやがれ!」と悪態をつく事はあるが)。実際、有史以来切腹した者も、死にたくて死んだ訳ではなく、プライド・主家・身内等、様々な守りたい者の為に、最後の手段として『切腹』したと思われる。
 だが、時代が生んだ傾向とはいえ、悲惨な例が余りにも多過ぎる……。二度と『切腹』が礼讃されたり、強要されたりする時代が来て欲しくない。
 そこで『切腹』して果てた人達の詳細・生き様を凝視することで還らぬ命に意味を持たせるとともに、二度と同じ時代を招かない為の「他山の石」としたくて、本作を執筆した次第である。
第壱頁 諏訪頼重……助命反故への憤死
第弐頁 平手政秀……世に名高い『諌死
第参頁 徳川信康……謎多き切腹命令
第肆頁 清水宗治……五ヶ国・五〇〇〇名を守って
第伍頁 柴田勝家……漢(おとこ)の死に様、とくと見よ!
第陸頁 千利休……武士以上に武士らしい切腹
第漆頁 大谷吉継……面相を晒さない為に
第捌頁 片桐且元……自害としか思えない三七日の死
第玖頁 大石良雄……許された切腹
第拾頁 大西瀧治郎……介錯拒否はせめてもの責任感か?
最終頁 『自害』を『美談』としない為に


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令和三(2021)年五月二六日 最終更新