最終頁 『自害』を『美談』としない為に

『死にざま』と『生きざま』 その昔、『週刊少年ジャンプ』にて『激!極虎一家』という漫画が連載されていた。道場主がこの漫画の存在を知ったのは連載が終わって遥か後だったが、作者である宮下あきら先生の漫画が大好きで、文庫本でこれを揃えたが、その第5巻にこんなシーンがある。

 網走極等少年院の院生の元に、極楽三兄弟という外道が殴り込んで来た。この三兄弟は「喧嘩に卑怯も糞もない。」とばかりに拳銃まで取りだし、主要メンバーの一人・沖田鉄が心臓に銃弾を受けた。鉄は不屈の根性で自分を撃った次男を倒したが、敵の長男は戦車まで持ち出した。
 余命幾ばくもなく、死を覚悟した鉄は両手と晒にダイナマイトを纏って「生きるも死ぬも命はひとつ 未練はねえぜ。」と呟いて特攻に出た。
 主役の一人・虎はなかなか戦車に近付けない鉄の苦しみようを見て、
 「じょ…冗談じゃねぇぞーっ!!このまま指をくわえて死にざまをながめてろってのかーっ!!」
 と叫んで鉄の元に駆け寄ろうとしたが、もう一人の主役・学帽政が殴りつけてこれを止めた。
 政は
 死にざまなんかじゃねぇ 今 わしらのみているのは鉄の生きざまよ 死ぬも 生きるも 命はひとつ… やつはそういったんだ!! 目をそらすんじゃねぇ! やつの あの生きざまを 頭の中にやきつけておくんだ!! それがわしらにできるただひとつの思いやりだぜ。」
 と呟いて鉄が戦車と相討つのを見届け、一同は滂沱に暮れた。

 ストーリー的には何とも遣り切れないシーンだったが、政の云った「死にざま」と「生きざま」という言葉は薩摩守の脳裏に強烈に焼き付き、歴史上の人物の生死にも様々考えるところとなった。
 人間誰しもいつかはその身を土に還すこととなる。早い話誰しもがいつかは死ぬのである。ならば避けられない死に対して死の在り様を考えるのはおかしな話ではない。簡単に云えば「犬死」よりは「名誉ある死」を誰だって望むだろう。まあここに「生き恥」「華々しい最期」との比較になるとどちらを優先するかは人次第になるだろうけれど。

 いずれにせよいつ命を落とすか分からない可能性が現代より遥かに濃厚だった戦国時代なら尚の事、日頃から自らの死について考えたことだろう。
 武士道の名著とされる『葉隠』が冒頭で「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とある。単純に自己犠牲や玉砕を礼賛している訳ではなく、生も死も真剣に考えることを説いている訳だが、これも武士という身分が本来死と隣り合わせの職業だったからでもあろう。
 そしてそんな死生観で生きていく中、ある者は敵の手に掛る恥から逃れる為に、ある者は死刑に際してせめてもの名誉を与えられて、ある者は大失態に対する責任を果たさんとして、ある者は意地を貫いて降伏を拒んで、ある者は忠義の証として主君の後を追って、多くの人々が『切腹』した。
 だが、想う。世が戦国でなかったら、どれだけの人が死なずに済んだことだろうか?

 勿論戦国の世にも例外はいた。再起を図って戦場から逃げに逃げた者、自害を禁じられているキリスト教徒ゆえに自死を拒んだ者、一人でも多くの敵を道連れにせんとして戦中に斬り死にした者、出家の道を選んだ者………死を拒んだからと云って誰が咎められようか?少なくとも平和な時代に生きる現代人が無責任に「臆病者」と笑うのは不当である。

 すべての『切腹』及び自害は悲しい。
 それを日常的に考えなければならなかった時代背景もまた悲しい。
 「死」という人生最後の舞台を美しく飾りたい気持ちは分からないでもないが、殊更美化したくはないし、やるだけやった果てに死を選択したことは充分に生きて来た時間の一つとも思っている。
 勿論そこに対する価値観は人それぞれ異なるだろう。だが、「真剣な生」「真剣な死」のいずれにも「真剣に向かい合いたい」との気持ちだけは変わらない。
 自分が死んだ時に、自分の生死を軽々しく見られたら嫌だからな(苦笑)。



令和の世に『切腹』は無用! 現代、日本では平成二四(2011)年まで、年間三万人以上の人々が自ら命を断っていた。道を歩いたり、車を運転したりしていて事故で命を落とす可能性の五倍も高い可能性で死を選ぶ世であることははっきり云って悲し過ぎる。少しましになったとはいえ、平成二四(2012)年は二万七八五八人、平成二五(2013)年は二万七一九五人と依然、深刻である。

 勿論戦国時代の様に敗戦や刑罰で自害する訳ではない。病気・借金・人間関係・その他あれど、戦国時代や戦時中とは明らかに動機も方法も異なる。が、戦と無縁の世でも死を選ぶような要因がごろごろしているのだから全くもって遣り切れない。

 薩摩守は死んだことがないし、自殺を図ったことも無いので、死を選ぼうとした人間の心境が分かると云えば嘘になる。だが戦国時代や戦時中の生きたくても生きられなかった人々や、幼児死亡率が高かった時代の子に先立たれた親の嘆きや、人権意識が低かった時代の残虐な戦闘・刑罰を真剣に考察して来たから、戦国時代の再来も戦時中の再来もシミュレーションゲーム以外は真っ平だと思っているから、誰にも自害して欲しくない(と云いつつ、凶悪犯罪者が極刑逃れの上辺だけ謝罪を述べていたり、全く悪びれていないのを見ると「テメぇのやった事をちゃんと分かっているなら自分で死ねぇ!」と叫んだりするのだが……)。

 だから『切腹』する歴史上の人物の真剣な想いを重んじつつも、それが現代にて行われることを全力で否定する。武士の世でも、軍人の世でもないのだから、「自害なんざ、美談になりゃしねーぞ!」と叫びたい。勿論、「自害」=「美談」になるような武士の世も、軍人の世も再来して欲しくない。
 本作を通じて「避けられない死」をどうするか真剣に考えつつ、「生きる道」がいくつも検索出来る現代に生きていることの重要性と有難味と意義を見つめ直して欲しいとも思う次第である。現代はそれが可能なの世の中なのだから。平成も終わった令和の世にも、後の時代にも『切腹』の必要性は全く無いのだから。

 最後に、万一、今『自害』を考えている方がいらっしゃるなら(居て欲しくないが)、その前に下記を参考にして欲しい。「死を選ぶ事情」を軽く考えるつもりは無い。薩摩守自身、「死にたい。」と思ったことは無くても、「死ねば楽になるか…。」と思い掛けたことは有る。だが、下記を見て「死」が決して最善の方法でないことや、「死を選ぶ事の馬鹿らしさ」を見出して頂けるなら幸いである。


もし、いじめで自殺を考えているなら………
 はっきり云って、いじめっ子はいじめられっ子が自殺したとしても「まず反省などしない」から「犬死」である。
 むしろ心有る人々が級友や教え子の死に衝撃を受け、とんでもない悲しみに叩き込まれる。罪悪感を覚える少数のいじめっ子もまた苦しむことになる。
 いじめによる自殺は、心有る人々を悲しませ、外道どもに「開き直り」・「云い逃れ」といった悪事を重ねさせる最悪の行為となる。そんな奴等の為に死んではならない。

 解決方法は「学校への密告」である。道場主はいじめに遭った際に職員室に掛け込んだ。「チクリ」という汚名に苦しんだが、卒業する頃には全然汚名でも何でもなかった。そもそもやくざに苦しめられている人が警察に訴えたからといって「恥」や「卑劣な行為」か?薩摩守は社会問題で取り上げられている「いじめ」は明らかな傷害・恐喝・窃盗・名誉毀損等の『犯罪』で、「『いじめ』なんてオブラートで包んだ言葉でイメージ軽減するな。」と思っている。
 万が一、平成二四(2012)年のS県O市の中学校・市教育委員会・県警の様にふざけた態度を取るなら、県教育委員会・警視庁・マスコミにはっきりと『犯罪被害』を訴えるという方法もある(同時にこの事件の発端となった外道どもは騒ぎが大きくなり過ぎて、いじめの事実を認めることが出来ない状況に追いやられているし、黙認していた教諭はいまだに教壇に復帰出来ていない)。
 幸い、薩摩守の恩師達は親身になってくれたし、「ちくったらもっとひどい目に遭わせる!」と凄んでいた奴等も先生方の懲罰に恐れを為した。
 いじめは「いじめられる側にも問題がある。」とよく云われるが、確かにそれは一面正しい。が、あくまで「一面」だ。薩摩守の過去のいじめには確かに薩摩守の「非」はあった。だが暴力に曝されなければならないとは全然考えなかったので、自殺を考えるどころか、「いじめっ子が死ねばいい。」と思っていたし、登校拒否を起こすどころか、「奴等が登校しなければいい。」と本気で思っていた(←この傲慢さでいじめられたんだがね…)。
 いじめられっ子に非や落ち度があったとしても、「死」を強要される謂れも無ければ、いじめっ子に「死」を強要する権利はもっと無い。


もし、失恋で自殺を考えているなら………
 例えは悪いが、前述の「いじめ」と同じ理由でその選択に反対する。
 失恋を理由に死を選んだ際、もし想い人が貴方の理想通りの方なら、その人は物凄く悲しむとともに、自分の拒絶で人が死んだことに対する罪悪感に苦しむことになる(或いは貴方の家族が貴方の想い人を責めることも考えられる)。
 逆に何とも思わなかったり、「せいせいした。」と思ったりしたら、そんな人間の為に死んだなんて馬鹿馬鹿しくないか?真面目な話!
 いずれにしても愛情が絡むゆえに、失恋で死を選べばどう転んでも人の心に物凄い傷を残すことを認識して欲しい。


もし、経済事情で自殺を考えているのなら……
 金は所詮人間の生み出した物で、使う物であって、使われる物ではない。
 失った金を取り戻せることは有っても、失った命を取り戻せることは無い。
 多額の借金を背負った経験から云おう。借金取りに追われる恐ろしさは目茶苦茶よく分かる。幸い薩摩守は身内の助けを借りることが出来、闇金や自己破産に走らずに済んだ。
 だが、その後冷静になってから分かった事だが、もっとひどい状態になっていたとしても自己破産・債務整理等、公的機関に相談出来る所はちゃんと存在する。まして闇金融は完全な犯罪だから遠慮なく警察様にお出まし願って頂きたい
 勿論、借金を背負った事情はちゃんと反省しよう。世の中には身内に助けられたのにまた借金する人もいる。自己破産も何度も使える手ではない。ギャンブルによる借金であれば結局は返済しなければならない。だが、再生の見込みがあれば助けてくれる人は世の中に結構存在する。債務者だって、死なれるぐらいなら活かして少しずつても返済してくれる方を望むのだから
 ちなみに借金はそれを背負う背景が変わらなければ増える一方だが、逆に背景が変われば減らし得るケースが多い。薩摩守の場合、一先ず家族に助けられ、状況が落ち着いた後、返済は一年で達成した(状況が変わらなければ良くても五年掛かると見られていた)。

もし、病気で自殺を考えているのなら……
 個人的に大病とは無縁で生きて来たからこの苦しみは分からない。だから簡単に一つの悲惨な例を紹介したい。ある高名な学者は難病に罹り、それを苦にして自殺した。ところが自害の数日後、特効薬が発明されたと云うニュースが世界中を駆け巡った
 学者の名も、病名も思い出せないが、これを知って以来、薩摩守は「不治の病に罹っても頑張って生きよう。次の瞬間には特効薬が発明されているかも知れないし。」と考えるようにしている。

 今一度云う。
 令和の世で『自害』が褒められることは無い。そして『自害』が喜ばれたとしたらこれほど悲しいことは無い。
 戦国の世でさえ、徳川家康「石田三成が死を選ばなかったのは恥ではない。」と明言していたのである。

平成二六(2014)年五月一五日 菜根道場戦国房薩摩守




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令和三(2021)年五月二六日 最終更新