第拾頁 大西瀧治郎……介錯拒否はせめてもの責任感か?

名前大西瀧治郎(おおにし・たきじろう)
血統兵庫県氷上郡芦田村の小地主
地位大日本帝国海軍中将・軍令部次長(最終)
通称喧嘩瀧兵衛
生年明治二四(1891)年六月二日
切腹年月日昭和二〇(1945)年八月一六日
切腹場所東京府南平台官舎
介錯人拒否
見届け人児玉誉士夫
辞世すがすがし 暴風のあと 月清し
略歴 明治を迎え、武士の世は終わった。刑罰としての『切腹』は明治六(1873)年をもって廃止された(以後、現代に至るまで日本での死刑執行は絞首刑のみ)。
 だが、現代でも時に捨命の覚悟をもって臨む職業に従事する者の中には自らを「サムライの末裔」と称して武士道を重んずるぐらいだから、戦前の大日本帝国軍人の中にも「生きて虜囚の辱めを受けず。」の戦陣訓を重んじ、戦場で追い込まれた際や、太平洋戦争の敗戦に際して腹を切った者が少なくなかった。

 ただ、明治新政府によって幕政のすべてを批判したかったのか、『切腹』が刑罰でなくなった後は『割腹』と呼ばれるようになった。だから本来は『割腹』した人物を採り上げるのは適切ではないのだが、思う所あって、大日本帝国海軍中将・大西瀧治郎を採り上げた。

 日清戦争の三年前となる明治二四(1891)年六月二日、兵庫県芦田村の小地主、父・大西亀吉と母・ウタの次男として大西瀧治郎は生まれた。
 旧制中学校在学中、日本海海戦勝利の時期であり、中学の先輩から聞かされた『軍神』と呼ばれた広瀬武夫(海軍軍人・日露戦争にて部下を助けんとして戦死)の存在を知り、崇拝したと云う。このことが後々、大西が「特攻」を考えるようになったことに影響しているのは想像に難くない。

 明治四二(1909)年海軍兵学校に四〇期生として入学。在学中は棒倒しの奮闘で山口多聞とともに双璧と云われ、剣道は兵学校で最高の一級、柔道も最上位となる程で、ついたあだ名が「喧嘩瀧兵衛」であった。

 海軍兵学校卒業後、海軍少尉に任官され、「宗谷」、「筑波」、「河内」、「若宮」等の乗組員を歴任しつつ、海軍砲術学校や海軍水雷学校の学生として最新技術も学んだ。また山口三郎ら五名と航空術研究員となり、六期練習将校として飛行操縦術を学んだ。
 特に航空機にはかなりこだわりがあったようで、大正五(1916)年四月一日、横須賀海軍航空隊付となった頃、中島知久平(なかじまちくへい)機関大尉が海軍を辞めて飛行機製作会社を作りたいと大西に打ち明けたのに賛成して奔走し、資本主を探し回った程だった。
 これは複葉機を設計し、民間製作の必要を感じた中島の考えに賛成したものだったが、海軍省に密告されて出頭を命じられ、軍人勅諭を三回暗誦させられてから始末書を書かされた。大西自身は軍籍を離れて中島の会社に入ることさえ考えたが、軍は認めなかった。

 いつの時代にも意見の対立というものがある。
 後の時代、陸軍では皇道派統制派が対立したが、この時代海軍内では戦艦大和を絶賛する大鑑巨砲主義航空主兵主義が対立し出した。
 大西は中島の影響で後者に傾倒し、航空主兵論戦艦無用論を盛んに唱えたとも云われる。

 大正七(1918)年以降、英仏留学や日本で初めて落下傘降下を行った経験を買われたか、教える側に回って様々なの教職を歴任(大西の軍歴・学歴の詳細は最下段の「参考」を参照されたし)し、大正一二(1923)年には海軍省教育局に入った。
 一方で、海軍軍人にとって東京帝大とも云える海軍大学校受験には三度失敗した(学力に問題は無かったが、「素行不良」とされて)。

 大正も終わろうとする頃になると「長」の付く役職に就任し出した。
 昭和三(1928)年二月二一日、松見嘉子と結婚。佐世保海軍工廠人事部長・井上四郎中佐の仲介による見合い結婚で、大西は乗り気じゃなく、見合い当日に大酒を飲んで泥酔して下品な行動で破談にせんとしたが、嘉子の母親が大西の破天荒さを気に入ってのことだった。

 そんな大西に昭和に入った辺りから航空機に対する持論に拍車が掛った。
 昭和一〇(1935)年に航空主兵論者の一人として戦艦大和・武蔵の建造費用で空母・三隻、戦闘機・一〇〇〇機が作れる、として大和の建造中止を要望したことがある。
 戦闘機に対しても横須賀航空隊研究会でも、「戦闘機より優速の双発陸上攻撃機の完成が近い」、「戦闘機は短航続力で海上航法能力も小さいため、空母での使用制限がある」として戦闘機無用論援護戦闘機不要論大型機論を唱えて、横空の戦闘機関係者を論破したりもした。
 昭和一二(1937)年七月には、海軍航空本部教育部長の立場で『航空軍備に関する研究』と題するパンフレットを各方面に配布。このパンフレットは日本海軍で初めて航空戦力による政戦略攻撃にまで言及したと云われる。

 同年八月、日中戦争が始まり、第一連合航空隊司令官・戸塚道太郎大佐が上海渡洋爆撃を指揮したが、被害が続出で太平洋諸島に配備すべき中攻隊を消耗してしまった。
 前例のない渡洋爆撃は実施前から成功を危ぶむ声が多く、事態に音を上げた軍令部は大西を台北に派遣。これに対して大西は済州島で「台湾の司令部が中攻で戦闘機狩りをやらせようというのが間違っている。本末転倒の作戦だ」と話していた。
 同月二一日大西は九六式陸上攻撃機六機による中国軍飛行場夜間爆撃隊の指揮官機に同乗。中国軍戦闘機に迎撃され陸攻四機が撃墜され、大西搭乗機は襲われ易い編隊最後尾を占めていた無事帰投した。

 ナチス・ドイツのヒトラーがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まった翌月の昭和一四(1939)年一〇月一九日、大西は第二連合航空隊司令に就任し、一一月四日には「二連空は大挙昼間強襲すべし。」と命令し、自らも指揮官機に同乗しようとしたが、幕僚等に「司令に万一のことがあっては士気にかかわる」と反対され、代わりに一三空司令奥田喜久司大佐が出撃した。果せるかな、この出撃で奥田は戦死した。
 遺書には戦死の覚悟と大西への感謝の言葉があったが、大西は部下達に「一旦出撃に臨んで死を決するのでは遅い。武人の死は平素から充分覚悟すべきである。」と厳しい態度を取った。だが、奥田の弔辞を読む際には絶句し崩れ落ちていた。恐らく、この頃には特攻に対し、思う所、考える所があったのだろう。

 同年一二月五日、陸軍第三飛行集団を訪問し、陸海軍共同での蘭州(蒋介石の拠点)攻撃を申し入れ、八日に「百号作戦」が決定。一二月二六日から二八日の三日間で多大な戦果を挙げた。
 更に昭和一五(1940)年五月一二日、重慶作戦のため、大西は第一連合航空隊司令官山口多聞少将と協力し、一連空と二連空を統合し連合空襲部隊を創設。山口が指揮官、大西が参謀長を務めた。
 重慶爆撃に際しては、大西が絨毯爆撃を主張したのに対し、山口は中央からの指示を重んじて「重慶には各国大使館もある」として慎重攻撃を主張したために両者の喧嘩になった。
 最終的に山口が折れた形になったが、後に大西は「山口の方が一枚上手だったよ」と回想した。

 昭和一六(1941)年一二六日頃、大西は手紙による呼び出しを受けて長門にて山本五十六と日米開戦について話し合い、大西は、「真珠湾内の魚雷発射は水深が浅いため不可能」、「ハワイ周辺の哨戒圏から機密保持が難しい」の二点を山本に説明。福留にも「長官にあの計画を思い留まる様に云って欲しい」と依頼した。
 山本五十六を初め、海軍には仮想敵国でもあったアメリカ合衆国には勝てないと見る向きが強かった。止むなく戦うにしても緒戦で大勝を収め、早期に講和するべし、と考えるのは山本も大西も同一だった。
 その意味でも大西は「長期戦争を避ける為にも真珠湾攻撃のような米国を強く刺激する作戦は避けるべきである。」とも主張し、草鹿龍之介とともに真珠湾攻撃悲観論を唱えたが、山本は強引に押し切った。

 太平洋戦争が開戦されると大西瀧治郎はフィリピン攻略戦に参加。零戦によるマニラ周辺への直接攻撃を提案しつつ、この頃、大西は「何とか戦線を縮小しなければならぬ」と周囲に話していた。
 昭和一九(1944)年六月マリアナ沖海戦の敗北直後、サイパン確保のために、米機動部隊に対する陸海による全力の片道攻撃を行う意見書を遠藤とともに提出したが、認められなかった。

 サイパン島が危機に瀕し、大本営にて「放棄論」「死守論」が対立すると大西は「サイパンを放棄すれば日本の国防は成りたたない」と主張。大本営の意思が放棄に傾くと、六月二五日大西天皇に直訴しようとまでしたが、これは周囲に妨害された。
 そしてこの頃、大西の下には、特攻を求める意見が集まっていた。

 同年六月二九日、城英一郎大佐から敵艦に特攻を行う特殊航空隊編成の構想が大西に上申され、それに対して大西は「意見は了解したがまだその時期ではない」と回答した。だが、日本軍がマリアナ沖海戦に敗れると、城は再度大西特攻隊編成を電報で具申した。
 岡村基春大佐からも大西特攻機の開発、特攻隊編成の要望があり、第二五二海軍航空隊・舟木忠夫司令も特攻以外に空母への有効な攻撃はないと大西に訴えた。
 大西は彼等の献策を支持し、嶋田に、採用を進言したが、軍令部はなかなか採用しなかったという。大西自身、この頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたい、それには体当たりしかない。」、「もう体当たりでなければいけない。」と周囲に語っていた。同七月一九日新聞の取材にも「体当たりの決意さえあれば勝利できる。量の相違など問題ではない」と語っていた。

 同年年一〇月五日、第一航空艦隊長官に内定。この人事は特攻開始を希望する大西の意見を認めたものとも云われる。だが大西は決して喜んで特攻を主張した訳ではなかった。  妻に「平時なら嬉しい人事だが今は容易ならぬ決意が必要。」と語り、軍需局を去る際に局員に「向こうに行ったら必ず特攻をやるからお前等も後から来い」と声をかけた。局員の一人、杉山利一は大西自ら真っ先に特攻するだろうと直感した。

 フィリピン出陣前、大西は米内光政海軍大臣に「フィリピンを最後にする」として特攻を行う決意を伝えて承認を得た。及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語った。
 及川は「決して命令(=強制)はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」、「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない。」と承認した。
 大西は「中央からは何も指示をしないように。」と希望した。大西は航空部員源田実中佐に零戦一五〇機を準備する約束を取り付け、足立技術大佐に対し、「これからはあんまり上等な飛行機は要らんから簡単なやつを作っておけ。」と話した。
 また大西特攻の報道にも関心を持っており、長官に内定した時に海軍報道班員に「特攻隊の活躍ぶりを内地に報道して欲しい。宜しく頼む。」と依頼していた。

 帰宅した大西は義母にも第一航空艦隊長官内定について「普段ならかたじけないほどの栄転だが、今日の時点では、陛下から三宝の上に九寸五分を載せて渡されたようなものだよ。」とこぼした。つまりは切腹を命ぜられたような心境を吐露していた訳だが、既に命を捨てていたかも知れない。ついでに部下の命も、というとさすがに語弊があるとは思うが。

 一〇月九日フィリピンに向かった大西は途中、台湾新竹で航空戦の様子を見て多田武雄中将に「これでは体当たり以外方法がない。」と話し、連合艦隊長官豊田副武大将にも「体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行出来ない。」と語っている。
 フィリピンに到着すると大西は前任の第一航空艦隊長官・寺岡謹平中将にも決死の体当たり=特攻しか国を救う方法はなく、海軍がこれを行えば、陸軍もそうするだろうと述べ、寺岡から同意を得て一任された。
 更にはマニラ艦隊司令部にて第七六一海軍航空隊司令・前田孝成大佐、飛行長・庄司八郎少佐、第二〇一海軍航空隊空副長・玉井浅一中佐、第一航空艦隊首席参謀・猪口力平中佐、二六航空戦隊参謀・吉岡忠一中佐、飛行隊長・指宿正信大尉、横山岳夫大尉等の同意を得た。
 猪口が「神風特別攻撃隊」の名前を提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して、大西がそれを認めたことで、特攻隊が誕生した。そして大西は各隊に本居宣長の歌敷島大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名した。

 一〇月二〇日に第一航空艦隊司令長官に着任すると、大西神風特別攻撃隊の隊名と編成を発表。敷島隊に、

 「日本は今危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。従って国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする。」

 と訓示し、編成命令書を大西、猪口、門司親徳で起案し、連合艦隊・軍令部・海軍省等の中央各所に発信した。

 一〇月二五日、第一航空艦隊の特攻が戦果を挙げると、第二航空艦隊にも特攻採用を決定させた。
 大西は連合基地航空隊、第七二一海軍航空隊の飛行隊長以上四〇名ほどを召集し、特攻を「慈悲である。」と話して指導。強引な隊拡大に批判的な航空幹部には「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん。」、「反対する者は叩き斬る。」と云い放った。

 一〇月二七日次なる特攻隊を見送った大西は「城(英一郎)が云っていたが現場で決心がついた。こんなことしなければならないのは日本の作戦指導が如何にまずいかを表している。統率の外道だよ。」と語った。それと知りながら強引に命ずる役を背負ったこの男の心境は如何なるものだったのだろうか。

 一一月一六日福留繁中将が特攻の必要と増援具申を発信。大川内傳七中将も同旨だとして大西を上京させて説明すると打電。
 一一月一八日大西は猪口力平を伴い、日吉司令部で豊田副武に状況報告をし、軍令部で及川古志郎に改めて趣旨を説明し、増勢しつつ現兵力でレイテ作戦の対機動部隊作戦を続行し、別の新攻略作戦に充当兵力が欲しいと要望。軍令部と海軍省の協議で練習航空隊から零戦隊一五〇機の抽出が決定された。
 昭和二〇(1945)年五月一九日軍令部次長に着任しこれが大西の極冠となった。
 既に日本本土がB29の空襲に曝されていたが、迎撃する戦闘機はなく、レーダーも捕捉できず、高射砲も届かなかったため、大西剣号作戦を発案した。
 これは爆撃を終えて帰投するB29を尾行て、友軍機巻き添えを恐れる基地側が対空砲火による攻撃が出来ない隙を突いて、着陸し、特攻隊員がオートバイに分乗して飛行場でB29に爆弾を突き刺すという案で、軍令部はこれを採用し、八月に予定して準備を進めたが、実行前に終戦が決まった。

 終戦が間近になると、大西は「二〇〇〇万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能。」という『二〇〇〇万特攻論』を唱えて豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を会議で訴えた。
 八月九日最高戦争指導会議に大西と軍令部総長豊田副武大将が現れ、徹底抗戦を訴えた。  最高戦争指導会議乱入に後日米内光政海軍大臣から「意見があるなら大臣に直接申し出ろ。最高戦争指導会議に招かれもせぬのに不謹慎な態度で入ってくるのはみっともない。やめろ。」と越権行為を咎められ、大西は涙を流し、項垂れた。
 この日、午前一〇時から鈴木貫太郎首相、阿南惟幾陸軍大臣、米内光正海軍大臣、東郷重徳外務大臣が会議を行っていたが、既にポツダム宣言受諾自体は「止む無し。」として全員が同意していた。ただ国体護持を初め、どのような条件で受諾するかで意見が一致していなかったが、会議途中、一一時二分に長崎市に新型爆弾(原子爆弾)が投下されたとの報が入り、受諾に向けての話し合いは更に加速していた。

 その後、大西は軍令部で会議をひらき、御前会議をなるべく引き延ばし、和平派を説得する工作を建てた。高松宮(大正天皇三男)に会い、米内説得を依頼しもした。
 部下には永野修身元帥・及川古志郎大将・野村直邦大将・近藤信竹大将を説得させんとした。
 八月一三日大西は「我々で画策し奏呈し、終戦を考え直すようにしなければならない。全国民二〇〇〇万人犠牲の覚悟を決めれば、勝利は我々のもの。」と尚も主張した。内閣書記官長・迫水久常の元にも現れ、手を取って「戦争を続けるための方法を何か見つけることは出来ませんか。」と訴えた。

 だが、もはや終戦への流れを止めることは叶わず、昭和二〇(1945)年八月一五日終戦。
 翌日である昭和二〇(1945)年八月一六日渋谷南平台の官舎にて大西瀧治郎切腹。享年五五歳。


漢の最期 昭和二〇(1945)年八月一六日渋谷南平台の官舎にて大西瀧治郎は遺書を残し割腹自決した。

 午前二時から三時頃腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。
 官舎の使用人が発見し、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫も急行した。熱海にいた矢次一夫も駆けつけたが昼過ぎになっていた。
 大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな。」と云い、児玉に「貴様がくれた刀が斬れぬばかりにまた会えた。すべてはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が云っていたと伝えてくれ。」と話した
 児玉も大西に殉じようとしたが、大西「馬鹿者!貴様が死んで糞の役に立つか。若い者は生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」と諌め、介錯を拒否したまま絶命した

 遺書は五通残されていた。
 一通は部下へのもので、「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して「軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう」に諭した内容であった。別紙には富岡定俊・軍令部第一部長に当てた添え書きがあり「青年将兵指導上の一助ともならばご利用ありたし。」とあった。

 一通は、妻淑恵(嘉子が改名)に対するもので、「すべて淑恵の所信に一任すること、安逸をむさぼらず世のため人のため天寿を全くすること、本家とは親睦保持すること、ただし必ずしも大西の家系から後継者を入れる必要はない。」とし、最後には「これでよし百万年の仮寝かな」と辞世の句があった。

 残る三通は多田武雄、児玉誉士夫、矢次一夫に対してのものだった。

 戦後特攻隊員戦死者名簿には大西瀧治郎の名も刻まれた。
 墓は西芦田共同墓地と鶴見総持寺にある。鶴見総持寺の大西の墓向って左には海鷲観音像があり、特攻隊員の若い霊を弔う微志であるされている。
 妻・淑恵は大西に代わって、その生涯を閉じるまで、神風特別攻撃隊の慰霊活動に取り組んでいた。


切腹の影響 ここで少し御断りを入れておきたいのだが、薩摩守が拙サイトに項目を設ける人物はある程度その人物を買えばこそである(たとえ嫌いな人物であっても)。
 そこをいくと、正直、薩摩守はこの大西瀧治郎という人物を総合面では決して買ってはいない。それどころかこいつ次第で「特攻」という悲惨な攻撃形態がかなり軽減できたのでは?との疑問に照らし合わせるなら「許せない人物」ですらある(勿論、これは特攻推進に従事したすべての人物に云える)。いずれにしても大西瀧治郎に対する薩摩守の想いは極めて複雑である。

 だが、「特攻」が為されてしまった責任は決して大西一人のものではなく、大西がどんなに「特攻」を切望しようと、大西一人の能力や権限では決して敢行されることは無かった。
 現代のイスラム過激派や、各種宗教原理主義者が行う自爆攻撃同様、「時代が生んだ狂気」と思っている。つまりは戦争自体を含め、あの時代に生きたすべての人々に多かれ少なかれ責任があると薩摩守は思っている(だからと云って、戦後生まれの人間にいつまでも謝罪や賠償を求め続ける周辺国家のねちっこ過ぎる繰り返しも論外だが)。

 だが、敗戦に責任を感じたり、天皇陛下に罪を背負わせない為に責任を背負い込んだりして軍事裁判に臨んだり、自決した者は多数いたが、戦争の非道に対して責任を取る行動を起こした者は大西瀧治郎を初め極めて少数なのである。
 そういう意味では薩摩守は大西瀧治郎を買いもするし、この男が自ら述べていたように「特攻」を「統率の外道」として本気で弾劾してくれていたら……と腹立たしさを感じたりもする。

 終戦に際して、陸軍では、阿南惟幾・杉山元・甘粕正彦・畑中健二、海軍では、宇垣纒、政治家では近衛文麿等が自決したが、自決は陸軍軍人に目立った。海軍で自決した大西瀧治郎と宇垣纒が共に特攻に関連しているのが注目される。
 勿論、牟田口廉也・石井四郎・辻政信等の様に死はおろか、責任や訴追から逃げた者も少なくない。ちなみに彼等は陸軍軍人だが、陸軍軍人も自決に対する考え方は色々である。

 少なくとも大西は自分が「これしかない!」と思い込んで、強引に、執拗に特攻を推進したことを自覚し、その罪深さも認識し、いずれは死をもって責任を果たさなければいけないと考えていたのは間違いなく、実際に実行した。有言実行である。
 しかも彼は切腹に際して、助命も介錯も拒み、苦しみ抜いて死んだのである。意志の強さは認めない訳にはいかない。

 それゆえここまでの行動を取った大西には様々な声が集まった。
 遺書を残された一人である矢次一夫は昭和二七(1952)年、横浜市鶴見総持寺で大西の墓の建立式が行なわれたときに「大西という男はまったく貴重な愚直さを持っていました。彼を軍令部という金魚鉢に入れたのは、鉢の中に鯰を入れたようなものです。なぜなら、大西という男は、たとえ日本が勝っても腹を切るような男だからです。」と述べた。
 一方で、極東軍事裁判の法廷にて豊田副武大将に「大西の徹底抗戦論は部内の不満分子を抑えるために許したのです。」と証言されていた。
 門司親徳・源田実等・猪口力平等は大西の行動力や思い遣りを買っていた。

 今一度述べるが、薩摩守は決して「特攻」を良い話として認めない。否、認めてはいけないとさえ思っている。未来において美名・美談に後押しされることで「特攻」が行われることがないよう阻止する為にも口を極めて罵りたいぐらいなのである。
 そして前述した様に「特攻」は大西一人で為された訳ではなく、他にも賛同した者、推奨した者、礼讃した者が数多く存在した。
 大西は一航艦参謀長小田原俊彦少将ら幕僚に神風特別攻撃隊を創設する理由を次の様に説明した。

 「軍需局の要職にいたため最も日本の戦力を知っており、重油、ガソリンは半年も持たずすべての機能が停止する、もう戦争を終わらせるべきである。
 講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため、一撃レイテで反撃し、七:三の条件で講和を結び満州事変の頃まで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば、天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。また、この犠牲の歴史が日本を再興するだろう。」

 云っていることに一理も無いとは云わないが、やはり「特攻」に散った若者達の国を守る為に犠牲になった尊さ・気高さを讃える気持ちを持ちつつも、それ以上に上記の様な考えの犠牲になったことへの悲しみや怒りの方を強く感じる。

 大西は、特攻は「統率の外道」と考えていた。それは嘘ではなかろう。
 大西は当時の機材や搭乗員の技量で普通の攻撃をやっても「敵の餌食になるだけ」と考えたゆえに、「体当たり攻撃をして大きな効果、戦果を確信して死ぬことが出来る特攻は大愛、大慈悲。」と考えていた。それも本当の気持ちだろう。だが、「同じ死ぬなら…」と思って「大愛・大慈悲」と捕えたことを理解しつつも、悪しき史例を繰り返さない為にも、「部下の死を避ける方向を考えなかった。」という意味において薩摩守は大西を非難する。

 大西の心意気を知りながら大西を非難する薩摩守は鬼かも知れない。
 だが、薩摩守は大西の悲しみと責任を知るからこそ、大西の死に様を認めるからこそ、心を鬼して大西を非難する。それによって未来の日本史・世界史に「特攻」・「自爆攻撃」と記されることを防げるのなら、薩摩守があの世に行ったとき、大西は薩摩守を恨まないと思う。


参考
大西瀧治郎の学歴・軍歴
年 年齢月日履歴備考
明治四二(1909)年 一九歳海軍兵学校四〇期に二〇番の成績で入学。
明治四五(1912)年 二二歳七月一七日同学を一五〇人中二〇番の成績で卒業卒業同日、海軍少尉に任官し、「宗谷」の乗組員となる。
大正二(1913)年 二三歳五月一日「筑波」の乗組員となる。
大正三(1914)年 二四歳五月二七日「河内」の乗組員となる。
一二月一日海軍砲術学校普通科学生となる。
大正四(1915)年 二五歳五月二六日海軍水雷学校普通科学生となる。
一二月一日「若宮」の乗組員となる。航空術研究員。同時に六期練習将校として飛行操縦術を学ぶ。
大正五(1916)年 二六歳四月一日横須賀海軍航空隊付。
大正七(1918)年 二八歳一一月一日横須賀鎮守府付英仏に留学。
大正一〇(1921)年 三一歳八月六日横須賀海軍航空隊付、センピル教育団の講習の参加者の一人として選抜され受講。日本で初めて落下傘降下を行った。
九月一四日海軍砲術学校教官、海軍水雷学校教官就任。
大正一一(1922)年 三二歳一一月一日横須賀、霞ヶ浦海軍航空隊教官就任。
大正一二(1923)年 三三歳一一月一日海軍省教育局員となる。
大正一三(1924)年 三四歳三度目の海軍大学校受験に不合格。学科試験を合格したが、口頭試問の数日前に料亭で酔って暴れて芸者を殴り、新聞沙汰を起こし、「素行不良」を理由に「大西は出頭するに及ばず」と入試候補を取り消された。
大正一四(1925)年 三五歳一月七日霞ヶ浦海軍航空隊教官就任。
大正一五(1926)年 三六歳二月一日佐世保海軍航空隊飛行隊長就任。
昭和二(1927)年 三七歳一二月一日第一艦隊司令部付、連合艦隊参謀就任。
昭和三(1928)年 三八歳一一月一六日「鳳翔」飛行長就任。
昭和四(1929)年 三九歳一一月一日海軍航空本部教育部員となる。
昭和七(1932)年 四二歳二月一日第三艦隊参謀就任。
一一月一五日「加賀」副長就任。
昭和八(1933)年 四三歳一〇月二〇日佐世保海軍航空隊司令就任。
一一月一五日横須賀海軍航空隊副長兼教頭就任。
昭和一一(1936)年 四六歳四月一日海軍航空本部教育部長。
昭和一四(1939)年 四九歳一〇月一九日第二連合航空隊司令。
昭和一五(1940)年 五〇歳五月一二日連合空襲部隊を創設。山口が指揮官、大西が参謀長を務めた。
昭和一六(1941)年 五一歳一月一五日第一一航空艦隊参謀長就任。
昭和一七(1942)年 五二歳三月二〇日海軍航空本部総務部長就任。
昭和一八(1943)年 五三歳一一月一日軍需省航空兵器総局総務局長就任。
昭和一九(1944)年 五四歳一〇月五日第一航空艦隊長官に内定。
一〇月二二日連合基地航空隊が編成、参謀長を務める。指揮官は福留繁中将。
昭和二〇(1945)年 五五歳一月一〇日第一航空艦隊が台湾に移転。
五月一九日軍令部次長に着任。海軍大学甲種卒業者ではない大西の着任は異例。


次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る

令和三(2021)年五月二六日 最終更新