第壱章 島原の乱、その経過…乱前の背景
まずは数々の検証を行う為に、島原の乱の一連の流れを年表形式で見て行きたい。
島原の乱………「1637年から翌年にかけて,肥前島原・肥後天草に起こった農民一揆。幕府のキリシタン弾圧と領主の苛政に対し、益田四郎時貞(天草四郎)を首領として農民軍が蜂起(ほうき),原城にこもったが幕府の大軍により陥落、皆殺しとなった。以後,幕府の禁教策が強まる。天草一揆。天草の乱。島原一揆。島原天草一揆。」(『大辞林 第三版』より)
辞書ではこのように紹介されている。
まずこの章は島原の乱が勃発した原因となる背景を検証する為、経過とともに見て行きたい。
乱勃発前の経過
元和二(1616)年 大和五条藩主・松倉重政(まつくらしげまさ)が入封し、日野江藩創設。 元和四(1618)年 一国一城令に基づき、日野江城、原城が廃城となり、島原城が建築される。 元和七(1621)年 重政、キリシタン弾圧を開始。 寛永二(1625)年 徳川家光より、キリシタン弾圧の徹底が厳命される。以後、弾圧過酷化。 寛永四(1627)年 雲仙普賢岳を利用した拷問・処刑の開始。 寛永六(1629)年 重政、家光にキリシタン弾圧の為に、呂宋(ルソン)攻略を提案し、その戦費調達の為に更なる重税を課す。 寛永七(1630)年 一一月一六日 松倉重政、小浜温泉にて急死。享年五七歳。嫡男・松倉勝家が第二代藩主に就任。 寛永九(1632)年 一月二四日 大御所・徳川秀忠薨去。享年五四歳。 寛永一一(1634)年 旱魃により日野江藩、凶作となる。しかし勝家、年貢の取り立てを容赦せず。 寛永一四(1637)年 一〇月 年貢を収められなかった口の津村の庄屋・与左衛門に対し、勝家はその妻(身重)を人質に取り、水牢に裸で入牢させた。与左衛門の妻は六日間苦しみ、水中で出産した子供と共に絶命した………。
松倉重政は、元の領地・大和五条では決して暴君でも、圧政者でもなかった(五条では今でも尊敬されている)。それが何故に悪魔的なまでの苛政者になったのか?
よく指摘されるのが、「幕府にいい顔をする為に実石高以上の石高を報告し、体裁を取り繕う為に過酷な年貢取り立てが行われた。」というものである(実質石高が四万三〇〇〇石だったのに対し、松倉家が報告した石高は一〇万石だったと云われている)。
領民からの過酷な取り立てだけでなく、重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、一国一条令を率先して島原城を新築したりした(勿論その費用捻出は領民からの過酷な取り立てで賄われるという悪循環を生んだ)。
当然、過酷な圧政の対象は農民に限った話ではなく、漁民、手工業、商人も含まれた。では、何故に重政はそんな体裁を取ろうとしたのか?
これには、畿内から西九州へ転封された松倉家が、これを「左遷」と見て、より江戸に近い地への再転封を願って、或いは更なる僻地への再転封を避ける為に、幕府にいい顔をした、と見られている。
そんな圧政を布いた松倉重政が急死したとき、領民達は「余りの圧政を見かねた幕府による毒殺」と噂し、宣教師達は「罪のないキリシタン達を責め殺した為に狂死した」と喧伝した。
だが、重政の後を継いだ二代目・勝家は重政以上の圧政者だった………。
年表にある様に、勝家は旱魃があっても、過酷な年貢の取り立てを止めないどころか不当な新税を続発し、未納者には非人道的としか云えない仕打ちを繰り返した(詳細は第伍章にて詳述)。
加えて、当地には浪人と隠れキリシタンが多数存在した。有馬晴信、小西行長を初めとするキリシタン大名の統治下でキリスト教を信仰していた領民、関ヶ原の戦いで主家が取り潰された為に浪人した者達だった訳だが、彼等は松倉の様な新領主に迫害される立場にあった。
ただでさえこれだけの火種を抱えた状態で、松倉家の圧政、酷刑の連発は「反乱を起こして下さい。」と云っている様なものだったと云えよう
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令和三(2021)年六月三日 最終更新