第弐章 島原の乱、その経過…乱中双方の死闘

 松倉勝家の圧政と、それに伴う過酷な税の取り立て、そして未納者への酷刑に耐えかねて遂に島原の民は立ち上がった。
 総勢三万七〇〇〇人もの人数が立ち上がったのは二二年振りのことで、九州の現役諸大名も多くにとって、それほどの軍勢が動くのは未経験の事でもあった。
 この章では、島原の乱の始まりから終わりまでの経過と、その背景を検証したい。
乱勃発から終結まで、激闘の流れ
寛永一四(1637)年 一〇月二五日 口の津村庄屋・与左衛門の妻に対する仕打ちに堪忍袋の緒が切れた農民達がついに南有馬村で一斉蜂起。代官所を襲撃して、蜂起。代官・林兵左衛門を殺害。
一〇月二六日 四五〇挺の鉄砲で武装した一揆軍一〇〇〇は島原南方の深江で藩兵三〇〇を破り、そのまま島原城下へと攻め入る。
 この時、藩主の松倉勝家は江戸参府中のため不在で、藩兵達は島原城内へ撤退して籠城。一揆軍は、島原城を包囲して一時は大手門を破るが、城内からの反撃を受けて攻略することが出来なかった。
一〇月三〇日頃 天草でも島原に呼応して一揆が蜂起。
一一月九日 一揆勃発の第一報が江戸の幕府に届く。幕閣達は協議を重ねて松倉勝家に帰藩を命じるとともに、上使として板倉重昌、目付として石谷貞清を派遣して叛徒の鎮圧にあたらせることにした。
一一月一四日 一揆軍、本渡で唐津藩兵を破り富岡城代・三宅重利(明智秀満の子・明智光秀外孫)戦死。
 一揆勢は一万二〇〇〇人に膨れ上がって富岡城を包囲。しかし、一揆軍は三の丸まで占領したものの本丸を落とせず、撤退。
 天草四郎率いる二七〇〇の軍勢が海を渡り島原勢と合流した。
一二月三日 一揆軍、有馬氏の旧城で当時廃城となっていた原城を修復して籠城。
 各自が持ち寄った食料に加え口之津村の松前家の蔵から奪った米五〇〇〇石、鉄砲五〇〇挺余りと弾薬を城内に運び込み、総大将・天草四郎も入城して戦闘員二万三〇〇〇、女子供一万四〇〇〇の計三万七〇〇〇が集結。
一二月九日 板倉重昌、原城に到着。松倉・鍋島など三万余りの軍勢で原城を包囲。
一二月一〇日 幕府上使・板倉重昌、副使・石谷貞清、九州諸藩による討伐軍を率いて原城を攻撃、敗走。
一二月一九日 仕寄りの構築を終わらせた幕府軍三万四〇〇〇、立花忠茂を先鋒、鍋島元茂を陽動作戦担当、松倉勝家を先鋒援護をという作戦を立案。
一二月二〇日 前日立案の作戦を基に再度原城を総攻撃、幕府軍大敗(犠牲者、幕府側数百人、一揆側二三人)。
 この敗報を受け、事態を重く見た幕府では、二人目の討伐上使として老中・松平伊豆守信綱、副将格として戸田氏鉄等の派遣を決定。
寛永一五(1638)年 一月一日 板倉重昌、自ら陣頭に立ち再び原城を強襲。幕府軍大敗し板倉重昌も銃弾を受けて戦死、石谷貞清重傷を負う(犠牲者、幕府側数四〇〇〇人以上、一揆側九〇余人)。
一月四日 老中・松平信綱着陣。信綱はこれまでの方針を改め、力攻めを避けて城中の糧食の尽きるのを待つことにした。
 また、ようやく事態の深刻さを悟った幕府が九州の諸大名に出撃を命じたため、幕府軍の動員数は最終的には一二万七〇〇〇以上にまで強化された。
一月六日 松平信綱に長崎奉行を通じて平戸のオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルから船砲五門を陸揚げして幕府軍に提供。
 更にデ・ライプ号とベッテン号を島原に派遣し、ポルトガル旗を掲げて海から城内に艦砲射撃を依頼。
一月一三日 ライプ号からの原城への艦砲射撃開始。
 四二五発の砲弾を打ち込むも、海上戦闘用だったため、城に対してはたいした効果はなく、敵だけではなく、細川忠利等諸将から内乱鎮圧に外国の力を借りることに非難の声が挙がったため中止。
一月末頃 幕府軍、金堀人夫に城内に通じる坑道を掘らせるも、一揆軍が対抗道を掘り糞尿や煙を流し込んで抵抗したため失敗。
二月二一日 長引く籠城戦で原城内の食糧や弾薬が尽き始め、焦った一揆軍が兵糧や弾薬を奪うために四〇〇〇の軍勢で、黒田・鍋島・有馬等の陣を夜襲。
二月二七日 佐賀藩の抜け駆けにより、幕府側、予定より一日早く総攻撃開始。日没まで原城は内城を除いて陥落。
二月二八日 夜明けとともに幕府側の総攻撃再開。原城落城。天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧。(二日間の犠牲者、幕府側戦死一〇五一人、負傷六七四三人、一揆側玉砕

 慶長二〇(1615)年に大坂夏の陣が終結して以来、実に二二年振りの戦となった。
 しかも従軍した多くの中藩、小藩が動かす兵は三〇〇〇〜一万前後だったのに対し、一揆勢は三万七〇〇〇の大軍だったのだから、二代目藩主達にとっては未曽有の内乱に直面する形となった。

 これ程の規模になったのには、島原藩領内に加えて、天草一揆の加勢があったことが大きい。
 松倉勝家による圧政下にあった島原藩のみならず、唐津藩・寺沢氏の飛び地・天草でも富岡城代・三宅重利による過重な年貢と熾烈な宗教弾圧に領民は苦しんでいた。

 一揆勢は本戦である原城戦でも二五〇〇の兵の戦力で戦っていた島原藩が単独で打ち破れる兵力ではなく、島原藩家老は佐賀の鍋島家、熊本の細川家に対して書状を送り援軍を要請したが、両家とも武家諸法度違反になることを恐れ、幕命令無しに兵を動かすことを拒み、このことが一揆勢の早期鎮圧を不可能とした。  何せ、ほんの五年前、徳川秀忠が逝去して間もない頃に、肥後加藤家が取り潰しを喰らったのは彼等の記憶に新しいところだった(勿論、両家とも正式命令が発令された後には参戦している)。

 一方、一揆勢は正面切っての戦いでは優勢だったものの、本職の武士に籠城されると、結局は島原城も富岡城も落とせなかった(後一歩にまでは追い込んだが)。
 多くの女子供、老人を抱えていたこともあり、彼等が次に取った選択は廃城だった原城に籠っての籠城戦だった。
 ただ、ここで疑問なのが、通常籠城戦とは、「援軍」が到着するまでの時間稼ぎである。約半世紀前の小田原城、二二年前の大坂城といった天下の堅城が敢え無く落城したのも、外に援軍が得られなかったためといっても過言ではない(そもそも城外に出て勝てる勝算が充分にあるなら籠城する必要はない)。
 だが、一揆軍に「援軍」はいたのだろうか?

 結論を先に云うと居なかった。故に兵糧攻めで原城は陥落した。
 ただ一揆勢側に期待する対象が全くなかった訳ではなく、全国の浪人キリシタンによる蜂起、カトリック国ポルトガルからの援軍が頼みの綱だったが、事前に打ち合わせがあった訳でもなく、組織的な動きへの根回しも連携も無い状態では、やはり「援軍無き籠城」と云わざるを得ないものだった(あった、という説もあるが、確証ある証拠はない)。

 だがそれでも信仰の結びつき、この機会を逃すと後のない浪人衆の結束と戦意は高く、城内では小西、有馬の旧臣達が大名の軍制を模した厳格な指揮系統を設け、大江に一四〇〇、本丸前に二〇〇〇、二の丸に五二〇〇、三の丸に五五〇〇の兵力が各々の持ち場を固めて迎撃態勢を整えていた。
 一方で、京都所司代・板倉勝重の息子で、徳川家譜代の臣とはいえ、三河深溝(ふこうず)藩一万五〇〇〇石の小大名・板倉重昌に対し、百戦錬磨の九州諸大名は容易に制御出来なかった。
 また本職の武士といえども、充分な弓・鉄砲で武装し、大石や丸太を投下して抵抗されては、百姓といえども侮れなかった。

 そんな状況に対し、将軍・徳川家光重昌では荷が重いと考え、自らの側近で、「知恵伊豆」と称された老中・松平信綱の派遣を決定した。
 重昌の戦死は指揮官更迭に対する焦りから無茶な突撃を敢行したから、と云えなくもない。
 重昌戦死を受け、着陣した「知恵伊豆」はそれまでの方針を改め、力攻めを避けて城中の糧食の尽きるのを待つことにした。また事態の深刻さを悟った幕府が九州の諸大名に出撃を命じたため、動員兵力は一二万を超えるまでになった。

 結果的に、兵糧攻めは正解だった。海に面し、弾劾に囲まれた原城は防御は固かったが、外に味方も無い状態では新たな食料搬入は絶望的だった。
信綱は投降を促す矢文も撃ち込み、「無理にキリシタンにされた者は赦免する」とも書き送ったが、城内のキリシタン信仰を中心とした固い結束を前に効果がなかった。
 だが、兵糧・弾薬は確実につき、最終決戦の一週間前、焦った一揆軍が兵糧や弾薬を奪いに夜襲して来たのを撃退した際に、信綱は討ち死にした城兵の腹を割き、城内の糧食の欠乏を確認。飛び道具が投石に変じていたことからも最終総攻撃を決定した。

 最終決戦において、一揆側は内通していた島原藩お抱え南蛮絵師・山田右衛門佐一人を除いて老若男女を問わず皆殺しにされた。
 但し、総攻撃前に一部投降者・脱走者が出ていたたとする説もある。
 というの、城に籠城した者は全員がキリシタン百姓だったわけではなく、キリシタンでないにも関わらず地域の成り行きから一揆に参加せざるを得なかった百姓や、戦火から逃れんとして一揆に参加する羽目に陥っていた百姓も少なくなかったと云う。
 その意味では松平信綱の矢文にしたためた読みは一部当たっていたのだが、正確な記録がないため、実数並びに、一揆勢にとってどれほどの影響があったかは不明である。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新