第捌章 その後の宗教政策と現代への教訓

 島原の乱を、時間の流れ、幕府サイド、一揆サイド、元凶・松倉家といった側面ごとに考察してみた。
 島原の乱の存在を初めて知ったときに比べ、歴史知識量も、宗教知識量も、考察量も(あくまで当初と「比べて」だが(苦笑))格段に違う為、単純な「キリシタン一揆」とはとらえておらず、浪人問題、九州大名(特に豊臣恩顧系)の置かれた立場、交易と禁教のバランスが非常に複雑であることも知った。

 勿論、その中で印象や想いの変わらないものもある。
 総大将・天草四郎を初め、一揆勢におけるキリシタン色はやはり濃く、宗教がらみ故に悲惨な殲滅戦になった(蜂起過程で一揆勢は神社や寺の破却も行っていた)し、乱勃発まで領民を追いこんだ松倉重政松倉勝家父子の苛政はかつて以上に怒りを覚えている。
 だが、島原の乱に関する素人歴史家・薩摩守の、書籍、Webの知識だけに頼った研究の結果、強く思っているのは、

 「現代人は、決して島原の乱に至った原因や、乱闘における殲滅戦が避けられなかったことを馬鹿に出来ない。」

 ということである。
 ここに気付き得て、且つ政治、信教、対人関係、教訓に活かせてこそ、島原の乱という悲惨な歴史に学べたといえ、乱に前後して散った四万人以上の犠牲も浮かばれるのではないかと思われる。
 故に終章となるこの章ではこの事件から得られる教訓を述べて締めとしたい。
その後の宗教史 島原の乱の終結に幕府軍は四ヶ月の時間を要した。兵糧攻めという手段が取られ、最後の一兵まで打たざるを得ない殲滅戦となったからに他ならない。
 これは推測に過ぎないが、乱平定に参加した者の中には石山本願寺を筆頭とする一向宗徒が容易ならざる抵抗勢力として頑強に大名にまで牙を剥いた過去を思い出した者も少なくなかったのではあるまいか?
 「デウスの導き」、「パライソへ」を合言葉に死を恐れず向かってくるキリシタンは、「進むは浄土、引くは無間地獄」と唱えながら向かってきた一向宗徒と被るところがある様に見えてならない。
 こうなると徳川幕府成立前後からキリスト教だけでなく、仏教に対しても武装解除や権力抑圧に抑えて来た宗教政策はより一層の厳重さを増したことは想像に難くない。松倉勝家寺沢堅高への厳罰も、隠れキリシタンを意識しての面が多少はあったことだろう。

 ともあれ、事件を重く見た幕府は、寛永一七(1639)年にポルトガル船の来航を禁止してまでキリスト教の根絶に乗り出した。つまりは南蛮貿易がもたらす莫大な利益よりも、キリスト教伝播の弊害の方を重く見た訳であった。
 更にプロテスタントゆえにカトリックとの対立からキリスト教布教を求めなかったオランダも平戸の商館を出て長崎の出島に移転することを命じられた。

 国内の宗教政策としては、踏み絵が引き続き実施され、各地で宗門改制度が整備され、すべての民衆はいずこかの寺の檀家となるように義務付けられた(二〇年近く後になるが、日蓮宗の不受不施派が禁制となった)。
 だが表向き壊滅したキリスタン達は九州の一部などで信徒達が宣教師達の教えを口伝えに伝えて信仰を続ける隠れキリシタンとなった。

 さすがにヨーロッパのカトリック教会は、キリスト教徒が完全追放された日本に興味を持ちつつも、宣教師派遣は危険と見て見送り続けた。
 とはいえ鎖国完成後に日本に渡航した宣教師が皆無だった訳ではなく、家宣将軍期に、イタリア人教区司祭ジョバンニ・シドッチがいた。
 教皇庁から(危険なため)再三日本渡航の許可を拒絶されてもシドッチは諦めず、宝永五(1708)年、屋久島へ上陸したが、すぐに捕らえられ、長崎経由で江戸に送られ、茗荷谷の切支丹屋敷(本来は捕えたキリシタンを取り調べの為に投獄する場所だったが、当時無人だった)で生涯を終えた。
 将軍側近の新井白石シドッチの人格の高潔さと学識に感銘を受けたことで、囚人的な待遇にならずに済んだのがせめてもの幸せだったが、異例中の異例と云えた。

 結局、キリシタン禁令が解かれるには明治四(1871)〜明治五(1872)年に行われた岩倉遣欧使節の欧州視察を待たなければならなかった。
 安政五(1858)年に日仏修好通商条約が締結されたことを皮切りに、カトリック教会はパリに本部を置くパリ外国宣教会に日本での布教再開を要請し、キリスト教解禁に向けての運動が行われたが、江戸幕府も、幕府から政権を返上された明治新政府もキリシタン禁令を継続した。
 だが、幕末の不平等条約改正を目的として欧州を歴訪した岩倉遣欧使節は、欧米諸国に日本が対等な文明国であることを認めさせる条件の一つにキリスト教解禁が必要と見たことで、明治六(1873)年、キリシタン禁令は解除された。

 だが、この一連の流れは日本という国が宗教に対して寛容になったことを意味したものではなかった。キリスト教解禁はあくまで欧米と対等に付き合う手段としてで、キリスト教に好意的になった訳ではなかった。
 むしろ幕末から明治への過渡期にあって、国学や国家神道への忠誠が求められたことから、宗教には不寛容になった時代といえ、廃仏毀釈という大弾圧すら起きた。

 慶応四(1868)年三月一三日「神仏分離令」が発せられ、それまで習合的であった神道と仏教が引き離される過程で、仏教が大弾圧を受けた。
 あくまで「分離」が目的であり、「排斥」を意図したものではなかったのだが、神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われる中で、祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止が強要され、事実上の仏教弾圧となった。
 地域によって始まった年代や、寺社、仏像の破壊規模の才は大きいが、全国で行われ、特に伊勢神宮のお膝元である伊勢では激しい廃仏毀釈が行われ、かつて神宮との関係が深かった一〇〇ヶ所以上が廃寺となった。

 具体例を出すには事例が多過ぎるので割愛するが、名高い寺院や仏像が破壊されただけでなく、破壊されたが乱や木像が焚きつけに使われるという排斥振りで、捨て値で買いたたかれたり、僧侶も転職を余儀なくされたりした。
 これには江戸時代、様々な特権に胡坐をかき、腐敗した仏教界に対する民衆の反発もあったらしい。
 いずれにしても信仰にするにしても、棄教するにしても、熱し易く冷め易い日本人の国民性に裏打ちされた極端から極端に走る構図には呆れるばかりである。

 市民権を得たキリスト教にしても、内村鑑三教育勅語に対する不敬事件を起こした際には、マスミは「キリスト教かぶれの国賊」という論調で内村を叩いた。「信教の自由」は認められても、社会的にキリスト教が充分には受け入れられていないことを象徴していると云える。
 そして国家自体が一つの宗教団体となった大日本帝国は太平洋戦争の敗北をもって、昭和天皇が人間宣言をすることによって終わりを告げた(一部にまだ残っているが)。

 これらの歴史の流れにおける、極端から極端に走る中で行われた大破壊を見ると、島原の乱は決して大昔の出来事ではないことが思い知らされるのである。


島原の乱を学んでどうあるべきか? 海外の人々から「日本人は無宗教」と云われ、上座部仏教が盛んな東南アジアからは「葬式仏教」と云われ、日本人自身多くが「無神論者です。」と云い、「正月に御来光を拝み、神社でくじを引き、バレンタイン、ホワイトデーにチョコを送り合い、お盆に仏壇に手を合わせ、ジングルベルの鐘が鳴るのを歌い、大晦日に除夜の鐘を突くほど宗教にいい加減」と云われているのが現代日本である。

 だが、明確に「○○教の信者」と自認していなくても、日本で宗教と全く無縁で過ごしている者は皆無に近い。
 そして宗教ならずとも、イデオロギーに対して凝り固まると人は容易く敵に対して残酷になり、最後まで戦いを止めず、法敵・論敵と見做した相手を憎み続ける。
 薩摩守の知人にも仏教、キリスト教の敬虔な信者が何人かいて、彼等の多くは普通に接する分には法や社会ルールや道徳を遵守する「いい人」であり、尊敬に値する心根もお持ちなのだが、独善性が強く、「価値観を共有し得ない」と断じた相手には丸で寛容性が無い(何せ、相手を絶対的に間違えていると捉えるのだから)。
 勿論、薩摩守自身、仏教への信仰が強まれば強まる程、この独善に注意しなくてはならない。仏教信仰前から独善人間だった故に。

 かかる独善性は、オウム真理教が数々の事件を起こしたこととは決して無縁ではなく、連合赤軍が起こした数々の殺人もイデオロギーという名の狂信から来た蛮行だった。そして海外に目をやれば、イスラム過激派を初め様々な宗教の原理主義者達が、教義の一点に対する想いが強い者ほど異教、異端に対し、超攻撃的で、残忍な殺戮を繰り返し続けている(敵だけじゃなく、味方の命も顧みない)。
 これらの歴史や、現代事情を振り返ったとき、はたして島原の乱を起こした時代と比べて日本人は、地球人は精神的に成長していると云えるのだろうか?
 それこそ単純にДа(Yes)か、Нет(No)かでは断じられないが、「自信を持って『Да』と云えない」のだけは確かである。

 少なくとも、島原の乱を学び、その後の宗教史を一読し、現状を見た薩摩守は、それこそ「未熟」、「独善」を承知の上で二点のことを訴えたい。

 一つは、「政治家ども、有権者達にいい面したいからと云ってできもしないことを口にするな。口にするなら、「目標」に留め、「公約」にするな。」である。

 もう一つは、「どんな価値観を持とうと勝手だが、異なる価値観の存在を認めないことをするな。」ということである。

 この二つを忘れ、見栄を張り、異なる価値観を滅ぼす政治に走ったとき………第二、第三の島原の乱が起きないとは云い切れず、世界は四〇〇年前の時代から進歩しているとはいえなくなるだろう。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新