第漆章 唯一切腹を許されなかった大名・松倉勝家

 この章で検証するのは、島原の乱勃発を招いた島原の藩主・松倉勝家の統治である。第一章でも少し触れたが、コイツの失政故に乱が起きたのは今更薩摩守が触れるまでも無いだろう。
 故に大切なのは実態である。島原の乱を初めて知ったとき、松倉勝家の名は姓しか覚えていなかったが、その苛政には身震いし、激しい怒りも覚えた。
 結論を先に云えば、松倉勝家は乱平定後、幕府から公式に「悪政が乱を招いた。」と断定され、その責任を負わされる形で死罪に処された

 注目すべきはその処刑方法が「切腹」ではなく「斬首」ということである。過去作『切腹十選』でも触れたが、切腹は「武士だけに許された死に方」だった。それは「自分で腹を切って死ぬ。」という行為が、「責任を取る行為」と見做され、死刑を執行される前に自分で腹を切ることが「最後の名誉ある行動を与えられた」ということとなった。

 ただ、結局死ぬことに変わりはなく、初期の切腹はかなり断末魔の苦しみに喘ぐものだったらしく(←何せ切腹を見たこともやったことも無いので推測するしかない、当然だが)、後には介錯人がついて、腹を切った直後にその首を刎ねて苦しみから逃れるようにした。
 それゆえ、切腹は、特に死罪としての切腹は徐々に儀式化し、江戸時代も後期になると死刑囚が短刀に手を賭けたときに介錯したり、短刀ではなく扇子で腹をなぞったるだけになったり、で後々程打ち首と変わらなくなった。

 「結局命を落とすのだから、一緒じゃん!」と云われれば、身も蓋もなく、返す言葉はなくなるが、「避けられない死」ならそこに名誉を保てるかどうかの問題はやはり大きいと思う。まして死罪となると。
 それゆえ死刑執行に対して、斬首となるか、切腹となるかは死罪が確実視される罪人武士にとって大問題だった。

 例を挙げると、吉良邸討ち入りを敢行した大石内蔵助以下四十七士は全員切腹だったが、桜田門外の変で井伊直弼を暗殺した襲撃の陣頭指揮者だった関鉄之介は斬首に処された。
 これは前者の場合、亡き主君への忠義が愛でられ、吉良上野介強殺後、主君への墓前報告後に即座に自首した潔さが認められた点が大きい。
 それに対し、後者の場合、逃げに逃げに逃げまくった心象の悪さ、暗殺ターゲットが「大老」という要人中の要人であったことからテロリストと見做された。
 それらの相違が、刑の明暗を分けたと思われる。

 要は、死罪と云っても色々で、謀反人ともなると斬首よりひどい磔(はりつけ)・獄門となることもあったのだが、特筆すべきは、江戸時代二五四年の歴史において、「大名で切腹が許されず斬首に処されたのは松倉勝家ただ一人だけだった」ということである。

 つまり江戸時代もまだ初期とはいえ、「大名」という身分ある者が死刑の処される際、その地位に相応しいせめてもの礼儀として「切腹」させられるのが半ば常識化、慣例化していた訳だが、松倉勝家の場合、「切腹という名誉に値しない!」と断罪された訳で、いわば、「こんな奴大名に列する資格も無い!」という烙印を押されたに等しかった。

 これは相当な恥辱である。二六〇年近い歴史の中で、藩政不行き届きの咎や、改易に際して死を命じられた大名は多数いるが、中にはひどい圧政を布いた者をいることだろう。それでも、斬首は松倉勝家以外にはいないのである。まして「圧政」は普通「失政」と見做され、余程ひどいものでない限り、厳罰案件ではあっても、死罪案件ではない。
 浅野内匠頭の様な場を弁えない刃傷沙汰でも切腹なのに、松倉勝家は斬首なのである。当然の様に松倉家は改易となり、二人の弟の内、次弟・重利は讃岐、陸奥会津藩に預けられた後、明暦元(1655)年に自害。末弟の三弥は浪人となった(辛うじて重利の子の家統が三〇〇俵の旗本として存続)。

 この極めて異例中の異例となる恥刑の背景にどれほどひどい圧政が有ったのか?何故に松倉勝家はこれ程までの「悪魔」と化してしまったのか?をこの章では検証したい。
略歴 豊臣家直臣・松倉重政の嫡男として慶長二(1597)年に大和に生まれた。
 重政関ヶ原の戦いで単身東軍に味方した功で大和五条の藩主となり、家康没後に大坂夏の陣の功績で肥前日野江藩(後の島原藩)への転封となり、この辺りから松倉勝家も藩政に参画するようになった。

 島原城とその城下町の新築、参勤交代の費用、ルソン遠征の準備(企画倒れ)に励み、独自に行った検地で実質四万石程度の石高を「一〇万石」と過大に見積もったため、領民に一〇万石相当の過重な年貢・労役を課した。

 寛永七(1630)年、父・重政が急逝。第二代藩主となったが、過酷な収奪は父をも凌ぎ、より一層領民を苦しめた。
 寛永一一(1634)年、藩内は旱魃から凶作となったが、松倉勝家は容赦せず重税を取立て、
 年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋の妻娘に酷刑を科した。

 たまりかねた領民は、寛永一四(1637)年一〇月二五日に蜂起し、代官所を襲撃して島原の乱を起こした。
 乱勃発時、江戸にいた松倉勝家は、同じく乱の起きた天草の領主・寺沢堅高とともに即座に帰国して鎮圧するよう命ぜられ、討伐軍に従軍した。

 鎮圧後、寛永一五(1638)年四月四日、松倉勝家寺沢堅高と共に反乱惹起の責任を問われた。松倉勝家改易所領没収となり、四月一二日にその身柄は美作津山藩主・森長継に預けられた。
 そして五月になって取り調べのため江戸に護送。更なる悪行が追及され、七月一九日に江戸の森家下屋敷で斬首刑に処せられた。松倉勝家享年四二歳。


弾劾壱 見栄張り! 松倉勝家の苛政は父・重政の代に始まっている。
 重政の急死に対して、世の人々は「悪政を見かねた幕府による毒殺」、「罪のないキリシタン達を惨殺したから発狂して死んだ」等と噂する程だったから、親子二代してロクなもんじゃなかった。

 だが、重政に関して言及すると、少なくとも大和五条の藩主時代は名君だった。
 諸役を免除して商業の振興を図り、城下町の整備も行った。奈良県五條市では新町地区の礎を築いた名君として(豊後守だったから)「豊後様」と称えられている。
 江戸時代でも重政に感謝する「松倉祭り」が行われたという記録があり、五條市新町の西方寺境内には重政追悼の碑が建てられ、平成二〇(2008)年には、新町創設四〇〇周年を記念した行事も行われ、重政の顕彰碑が新町通り沿いに建立された、と云うから肥前転封後とは丸で別人である。
 島原・天草の人達が入封前の重政を知ったら、或いは五条の人達が移封後の重政を知ったら、共に顎を落とさんばかりに驚いたのではあるまいか?
 では、何故にこれほどまでに「君子は豹変」したのか?

 考えられるのは、重政松倉勝家父子が、五条から島原に移封となったことを、「左遷」と捉え、江戸に近い東方に戻らんとして、「幕府にいい面」をしようとしたことだろう。
 石高で云えば五条から島原は一万石から四万三〇〇〇石への大出世である。だが、地理から見れば江戸を更に離れ、京、大坂と云った大都市からも離れた「僻地」への左遷に映る。関ヶ原の戦い直前まで豊臣派で、小大名でも畿内にいた重政にとって、大身でも、徳川家身内でも容赦なく改易されていた世相に重政が震え上がっていたとしたら、多少の無理をしてでも幕府にいい面を見せようした気持ちは分からないでもない。
 ただ、その「いい面」は明らかに領国のキャパシティーを越えていた。
 何せ検地後に、実質四万三〇〇〇石を一〇万石、と報告したところからして無理がある。年商四三〇〇万円の企業が、税務署に「年商一億円」と報告した様なもので、現代の企業がそんなことをしたら、社員は一斉に辞表提出するだろう(もっとも、現代企業は年商を低く報告しても、高く報告することはないが)。
 だが、領民に「辞表提出」と云う言葉は存在しない。「引っ越し」さえ容易ではない時代だった。

 松倉父子の見栄っ張り振りは石高の誇大表示とその穴埋め収奪だけに留まらなかった。
 ただでさえ、領民に無理を強いているのだから、出費を抑えるぐらいしてもよさそうなのに、豪勢な島原城改築を行い、城を全面白色に塗色し、周辺大名に対してまで見栄を張った(そのおかげと云うと皮肉だが、島原の乱において、島原城は一揆勢の猛攻を凌げた)。

 とにかく幕府に媚びる松倉父子は、入部当初に九州特有の南蛮貿易の利からキリシタンを黙認していたが、寛永二(1625)年に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると「悪魔」と化した。そしてそのことも領民を苦しめた。
 何をしたかと云うと、キリシタン弾圧への取り組みを幕府に対しアピールするため、キリシタンの根拠地である呂宋(ルソン)攻略を幕府に申し出たのである。これに対して家光達幕閣の一部も乗り気になったため、先遣隊を派遣するなどして遠征準備に取りかかり、その戦費調達の為の収奪が更に領民達を苦しめた。
 領民にしてみれば、何もなくても重税で苦しいのに、見栄を張る為に改築や遠征費用の分まで取り立てられたのだから、「余計なことしやがって!」という叫び声の一つでも上げたかったことだろう。

 もし、現代の日本政府がアメリカ様に媚びを売ったり、周辺国にいい面をしたりする為に国会議事堂を華美に改築したり、要らざる国際紛争への派兵を自分から申し出て、その為の臨時税を取り立てたとしたら、国民はどんな反応を示すだろうか……………………………洒落になってないから止めておこう………。


弾劾弐 収奪! 古今東西、時の権力に対して腹の底から納得して税金を収めている者って存在するだろうか?余程の善政が布かれていたとしても、
「出来るなら税金を払いたくない……。」
「出来れば一円でも安くならないか、1%でも税率下がらないか………。」
 と考えるのが人情ではあるまいか?

 まして、悪政、圧政が敷かれているとなると、例え妥当な税額でも払いたくない気持ちはより一層募る。そして悪政、圧政下での税制が「妥当な税額」であることは極めて稀である。
 加えて、人間は税額や公共料金が増えることには、それがたとえ僅かでも死ぬほど文句を云う生き物なのである。その意味では松倉勝家の税政は最悪を通り越して、極悪だった。

 今更書くまでも無いが、江戸時代の農民の税は「年貢」、つまり収穫した米での物納だった。そして、よく云われることだが、米を作りながら、米を食べられるのは盆、正月ぐらいだったと云う例が多い。
 勿論普段は米以外の物を食べる訳で、多くの農民は米ほど美味くないが、米より収穫し易い他の農作物を一緒に作ったり、米を収穫した後に作ったりした(例:麦、粟、稗、豆、黍などの雑穀)。

 通常の税政下においてすらそんな食糧事情だったが、松倉勝家による収奪は実質石高の倍以上である。五公五民でも倍までしか取れない。当然、米以外の農作物も徴収対象となった。
 また、古今東西無能な政治家は、悪政で足りない分を補う為、ありとあらゆるものに税を賭けて税収を増やすと云う暴挙に出るが、松倉勝家は領民が死ねば「穴銭」、子供が生まれれば「頭銭」と云う人頭税を取り、家を建てれば、「戸口銭」、「囲炉裏銭」といった名目で住宅税を取り立てた。領民は普段と少しでも変わった行動を取ればそこから税を絞り取られかねないと云う恐怖の内に暮らしたのである。

 これは本当にひどい。
 ただでさえ、人が生まれる時も、死ぬ時も、家を新築する時もそれに前後して多額の金が掛っているのである。そこに追い打ちを賭ける様に重税を新設されて課されたのでは堪ったものではない。少し私情が入るが、この文章を綴っている八ヶ月前に薩摩守は父上に死なれている。葬式並びにその後の供養に関わる出費はやはり大きいと実感している真っ最中である。勿論生命保険や遺産相続等があるので物凄く苦しくなる訳ではないが、愛しい家族を失った悲しみについて纏うようなこの出費は痛くないと云えば嘘になる。
 そこに加えて、新税が課されるとなったとしたら…………薩摩守には島原の人々の怒りが多少は共感出来るつもりである。

 最後に述べておきたいのは、「税の新設」には「財源としての必要性が終わっても、制度は終わらない。」と云う悪習が有ることを忘れてはならない。
 例を挙げると、日露戦争において、大国ロシアと戦う為に日本政府は財源確保に頭を痛めまくった。外債だけでも足りず、国内に対しては「タバコの専売」と「相続税」という新たな財源を作った。
 だが、日露戦争が一年半で終わっても、タバコの専売はその後八〇年続き、相続税に至っては一一〇年を経た現在(平成二七(2015)年八月)も続いている
 日露戦争の為に必要に駆られて始めた制度なら、日露戦争の終結とともに終わらせて、国民の負担を軽減させるべきなのに、国家権力という奴にはその様な考えは髪の毛一筋程も存在しない
 但し、これは日本政府が特別なのではなく、国家というものが持つ悪癖である。加えて松倉勝家の場合、端から実質石高の倍以上の税を取ると云う「増税理由」がついてまとったから、島原領民にしてみれば、「新たな税が増える恐怖」は有っても、「課税対象や税額が減る希望」は微塵も抱けなかったことだろう。

 乱平定後に幕府が尋常ならざる怒りを抱いたのも当然である。


弾劾参 酷刑! 余程大金持ちの家に生まれ、且つ責任ある立場に立たない者でない限り、「無い袖は振れない」という台詞を吐いたことのない人間はいないのではあるまいか?
 古今東西、重税を課し、支払い能力以上の支払いを強いるのは常識で考えてかなり無理なことである。だが愚かな為政者は過酷な絞り取りに走り、それでも払えない者に対して苛斂誅求を為した。

 早い話、酷刑を科し、未納者への見せしめとして、恐怖心を煽って、掻き集めに走らせるのである。ただし、これは実際に税収を得るのが目的で、死なせてしまっては意味が無い。現代の闇金融だって、出資法を無視した取り立てを行いはするが、実際に暴力を振るうことは殆どなく(←皆無ではないのが厄介で恐ろしい)、脅し文句にしても、「夜道に気ぃ付けや〜。」、「東京湾の水は冷たいでぇ〜。」という婉曲表現に留める。
 そもそも、闇金融を頼る時点で、債務者は街金から借りられない多重債務者であることが少なくない。ただ脅したり、傷めつけたりするだけでは金は得られず、逮捕、懲役となったら大損をこく。褒める訳ではないが、闇金はそこまで馬鹿ではない。
 街金や銀行だって自己破産される程までに債権者を追い込んでも得るところはない。まぁサラ金数社に対して債務者となり、合法的な返済を迫られるだけで充分怖いのだが(←恥ずかしながら経験している)。

 だが、松倉勝家の場合は本当に酷刑を頻発したから闇金以上の「悪魔」であった。生物学的には人間だったかも知れないが、年貢未納者や、棄教拒否者に対する酷刑は人間に対するそれではなく、彼奴は所業的には完全に「悪魔」だった(この際断言してやる)。

 年貢を納められない農民や、村の責任者である庄屋から、よりによって妻や娘を人質に取ったところからして悪魔的だ。本人を罰する方がまだ理解出来るというものである(←税政からして充分不当だったが)。
 第一章でも触れたが、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は身重のまま人質に取られ、水牢に裸で入れられ、妻は六日間苦しんだ挙句、水中で出産した子供と共に絶命するという痛ましい悲劇も起きた。
 更にキリシタン弾圧の為には人質の若い娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがき苦しませると云うおぞましいことも行った……。有名な「蓑踊り」と呼ばれる拷問だが、拷問というより、焼殺刑に近い(罪を認めたり、棄教を誓ったりする頃には手遅れであることの方が多い)。そもそももがき苦しむ様を「踊り」と称している感覚からして、松倉勝家の感覚は人間のそれではない
 重政存命中から、顔に「吉利支丹」という文字の焼き印を押す指を切り落とす雲仙地獄で熱湯を使った拷問を行う、といった拷問・処刑を行っており、これらのことは周辺大名や、ポルトガル船長、反カトリック故に布教に熱心ではなかったオランダ商館長までもが記録に残し、それらの所業を非難する感想を残している。

重政没後、藩主に就任するに当たって、松倉勝家はこれらの収奪、酷刑に疑問を覚えなかったのだろうか?彼等の立場に立てば、「幕命に従い、藩主としての任務を履行する為の手段がたまたま恐怖政治になった。」との云い訳が為されるのかも知れないが、それを考慮しても「鬼畜の所業」と云わざるを得ない。


斬首 この章にて論述した、松倉勝家のこれらの苛政は多くの人々にとって、眉を顰めるどころじゃなかった。
 乱勃発当初、松倉勝家は江戸にいたので、家老達が鎮圧に当たる為、領民に武器を渡して援軍に使おうとしたところ、 領民達がその武器を持って一揆勢に合流し、藩士の中にも一揆勢に加わる者が出る始末だった。

 三万を超える軍勢に、自力鎮圧は無理と見た島原藩家老は周辺の藩に救援を要請したが、各藩主達は「内政干渉になる。」として援軍をやんわり断った。
 分からないでもない。
 命令無しに軍を動かせば幕府に睨まれる恐れは充分にあったし、苛政で悪名高い島原藩に協力して罷り間違って敗れようものなら幕府のみならず、世間からもどう云われるか分かったものではない。

 結局、乱の原因となった松倉勝家の悪政は厳しく弾劾された。何度も書いた様に松倉勝家は切腹すら許されず斬首となり、それは(これも何度も書いたが)江戸時代の歴史を通じて大名で切腹が許されなかった、最初で最後の例となった。
 松倉の家的にもかなりの屈辱だったろうが、それでも松倉勝家が領民に為した苛斂誅求に比較すれば遥かに楽な仕打ちで、鬼畜の所業に見合った刑とは云い難いのだが……。

 お気づきの方もいるかもしれないが、本作の途中から薩摩守は松倉勝家の名をフルネームで記している。「勝家」と記述する内に同名の柴田勝家が可哀想で、申し訳なくなったからである(苦笑)。それほど松倉勝家の所業はひどく、第参章の鈴木重成とは真逆に、拙房が一方的にこき下ろした奴も珍しい。源頼朝ですら認めているところは認めているというのに……………。
 結局の所、松倉勝家が「悪魔」と化し、「鬼畜の所業」を重ねた理由が幕府にいい面する為だったという、極めて理不尽な理由しか見つからず、「鬼畜の所業」に対して藩内にストッパーが存在しなかったのも大いに疑問だが、せめてかかる為政者が未来に出現することへの歯止めの為にも、敢えてボロクソ書かせて頂いたことに御理解頂ければ幸いである。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新