第壱頁 平手中務太輔政秀と織田信長



 平手中務太輔政秀(ひらてなかつかさたゆうまさひで 延徳四(1492)年〜天文二二(1553)年閏一月一三日)
 織田信長(おだのぶなが 天文三(1534)年五月一二日〜天正一〇(1582)年六月二日)

平手政秀とは? 織田信秀の重臣で、父は経秀(つねひで)。通称は五郎左衛門または監物
 天文三(1534)年、吉法師(織田信長)が那古野城主になるに及んで家老兼師傳(お守役・教育係)として随行。同時に信秀の命により、吉法師の大事な家老・護衛・教育係として林新五郎通勝(佐渡守)、青山与三右衛門、内藤勝介が選ばれた。時に吉法師はその年に生まれたばかりの乳飲み子だった。

 政秀は林通勝とは吉法師の「左右の老臣」とされたが、政秀が文字通り命懸けで何処までも信長に随身したのに対し、林は中途にして、信長の実弟・勘十郎信行になびいて、信長に反旗を翻そうとしたが、失敗した。
 その時は許された林だったが、ニ八年も後にその時の咎で追放された事とは誠に対照的であった。

 一般に信長の教育係であった事と、悲劇の諫死(諌めて死ぬ事)の為の切腹がクローズアップされ勝ちな政秀だが、その実、文武両道に秀で、風流人でもあり、遠近に聞こえた織田家の名外交官でもあり、決して一本気な忠義だけで師傳に選ばれた訳ではなかった。
 吉法師と斎藤道三の一人娘・濃(のう)との婚儀をまとめたのも政秀なら、その五年前の天文一二(1543)年には信秀の命により内裏修築料として京都へ四〇〇〇貫文献納の使者の任を担い、朝廷・京の人々に織田家の勤皇の意を示したりしたのも政秀だった。
 また、神仏を畏れない事で有名な信長だが、意外に伊勢神宮や熱田神宮(桶狭間の直前のお参りは有名)を大切にしており、これには信秀の代から、織田家の家格向上に尽力してきた政秀の勧めによる所が大きかったらしい。
 平手中務太輔政秀織田信長の教育以上に織田家の内政・外交に深く尽力し、なくてはならない人物だったのであった。


師弟の日々 信長の師は平手政秀だけではない、当然だが。
 信長が得意とした弓術にも、当時の最新鋭武器・火縄銃にも専門の師がいたし、長槍による戦術を編み出したきっかけには諸説あるが、格下の者からも必要とあれば学び、一般教養は寺で学んだと言われる(勿論生臭行為全開である)。
 では政秀の師傳としての担当内容は何だろうか?それは政治と処世術ではないか?と道場主は考えている。

 はっきり云って、天才肌で文武両道に生まれつき秀でた信長の事、一般教養や武術なら、それなりの達人を選び、信長に宛がえば人並み以上に習熟しただろうし、そもそも大将は「個」としての武術について達人である事が必ずしも必要だった訳ではなかった(自らに至らざるは配下にやらせれば良いのである)。
 予めお断りしておきたいが、ここから先は道場主と薩摩守の推測による所が大半となるのをご了承の上、御一読頂きたいのだが政秀吉法師に教える様に託されたのは、奇行と素行のバランスではないだろうか?

 「うつけ者」と呼ばれた信長の、現代でいうところの不良学生が変形学ランを着るが如くの異装を好み、暴走族が徒党を組んで暴走するが如きの裸馬に騎乗して徒党を組んでの領内の徘徊の理由や動機・目的には謎が多いが、幾ら天才信長でも自らの独創だけでここまでの派手をかましただろうか?
 勿論これらの愚行・奇行は政秀も口を酸っぱくして、止め、最後には自らの命を絶ってまで止めようとし事だが、薩摩守には敢えて信長に普通と異なる行為を勧めた人物として一枚、政秀が噛んでいる様に思えてならない。

 奇行に必要性があるのか?と思う方もいるだろうけれど、薩摩守はあると見ている。
 それには織田家の血で血を洗う尾張守護確立の背景が関連している。
 そもそも尾張は室町幕府管領を出す家柄でもある斯波(しば)氏が守護で、斯波氏は尾張・越前の守護も兼ねていたが、下剋上の世でその守護の地位を守護代が取って代わる様になり、その守護代が尾張では織田氏で、越前では朝倉氏だった。
 更に守護の地位を巡って尾張では織田家が二つに割れ信長の父・信秀は片方の勢力の三奉行の一人に過ぎなかった。勿論下剋上の世で血で血を洗う合戦と謀略の果てにのし上がったのであった。そして実際に信秀の血筋が尾張を完全に統一したのは信長の代になってからであった。
 つまり信長が生まれたその時信長は尾張領内にも敵だらけだったのである。
 当然、弱味や落ち度を見せれば直臣とて簡単に他の勢力に走るし、最悪は裏切って刃を向けて来ることも充分にあり得た。
 逆を言えば、奇行・愚行に惑わされず、信長の才覚を信じ、何処までも随身する家臣ほど頼りになるものは無い、との理屈も成り立つ。実際に信長と肉体関係も持ち、傾いた行為にも同調した前田利家などはいい例だろう。

 だが、何と言っても吉法師は若い。そして天才肌の人物でもある。本気で奇行愚行を楽しみ、それが常人の理解可能範囲を遥かに過ぎて暴走する事は充分に懸念されたし、実際にそうなった。
 そうなるとストッパーとなる人物の存在も必要だし、閨を共にする伴侶にも生半可な相手は選べない。内に在っては信頼出来る家臣を選ぶ為でも、外に在っては馬鹿殿様を蹂躙して尾張を我が物にせんとする外敵を招く様では困る。では織田家の顔として、周辺諸国や朝廷にも顔が利き、いざとなったら身を挺しても信長を護り、風流や教養を解し、敢えて暴走を腹太く見守れる人物はと言えば……………信秀が政秀を選んだのは必然だったのではなかろうか?
 そう考えると、「うつけ者信長」の正室に「蝮」と呼ばれた曲者極まりない斎藤道三の娘を政秀が選んだのも納得が出来れば、政秀信長を諌めて切腹した際に父・信秀の死依以来決して流さぬと誓った涙を半狂乱になって流した事にも納得がいく、というものである。


諌死の謎と政秀寺 平手政秀の最期が切腹である事は余りにも有名である。勿論刑死としての切腹ではない。

 一般に天文二〇(1551)年に病死した織田信秀の万松寺での葬儀に、遅刻してきた上に、正装もしない、狩りの帰り(つまり親の葬儀の日に殺生をした)の信長が抹香の灰を父の位牌に投げつけ、師傳としてそれを恥じた政秀信長を諌める遺書を残して切腹した、と云われている。
 まずまず筋の通った話だが、薩摩守は一抹の疑問を覚えている。
 一つは、ある意味当て付けがましい死に信長が却って暴走しかねないと政秀は考えなかったのだろうか?ということである。
 政秀は死んでそれでいいかもしれないが(余り良くないが)、残された三人の子は逆恨みする信長の手で取り潰しの憂き目に遭う事も可能性として「零」ではない(信長の気性の激しさを考えれば)。
 勿論信長は平手家を取り潰したりしていないから政秀信長を信じていたとすればこれは愚問かもしれない。
 だが、他の守護大名や織田家中の向背定かならぬ連中、時には朝廷の公卿達とも堂々と渡り合った政秀が死以外に手段がなかったと思えないのもまた薩摩守の心中に残る所である。

 また、織田信秀の死は天文二〇(1551)年三月三日で、政秀の死は天文二二(1553)年閏一月一三日で、葬儀の日の信長の行為を恥じたり、諌めたりしての死にしては二年近い時間の開きにも疑問を覚える。
 また結論から言うと信長政秀の死を深く悲しみ、その遺児達も取り立て、供養の為の寺(政秀寺)までその年の内に立てたが、彼が人の諌めに耳を傾ける様になった訳ではなかった(無視もしないが)。後年信長は阿倍久脩(あべきゅうしゅう:かの有名な陰陽師・阿倍晴明の三〇代目の子孫)にも政秀が死して尚、自分が人の諌めを聞く事はなかった事を述懐している。

 さて政秀の死には異説もあり、その一つに信長政秀の長男・五郎左衛門の駿馬を欲しがったのを五郎左衛門が「武人の面目は主君にも譲れぬ」として丁重に断り、信長との仲がしっくり来なくなり、師傳としての絶望を感じたからというものもあるが、薩摩守は賛成しない。
 この時代にそれしきの事で絶望して腹を切るようではとてもその年齢まで生きれたものではなく、文武両道にして胆力にも優れた政秀らしくもなく、多少ワガママでも武人の心を知り、気前もいい信長らしくもないからである。

 ともあれ信長政秀の死を深く悲しんだことに間違いはなく政秀の名を取った政秀寺(せいしゅうじ)を建立したのは有名で、前述した様に信長はこの寺を政秀が死んだその年の内に建てて供養に努めた。
 瑞雲山・政秀寺は宗派は臨済宗妙心寺派で十一面観音を本尊とし、開山は美濃に「岐阜」の名を与えた沢彦和尚(たくげんおしょう)である。最初は小牧村に建立されたが、秀吉と家康が唯一争った小牧・長久手の戦いの際に焼失し、慶長一五(1610)年に現在の名古屋市中村区栄に移された。


師弟に学ぶ事 平手政秀織田信長の師弟を見ると、秀才が天才を育てることの難しさを感じる。
 恐らく、政秀信長にとって良き師であったことは疑いはない。また、政秀にとっても教え甲斐のある弟子であり、命懸けで指針を示す愛する教え子でもあったのだろう。
 だが戦国の世と才気がすれ違い過ぎが、教えと行動の歪みを、そして最後には政秀の悲劇を生んだ。

 師と弟のすれ違いは決して珍しいことではなく、この世に同じ人間が二人といないことを考えれば如何なる師弟にも多少のすれ違いはあって当然とも言える。ただ、政秀信長師弟の場合、その僅かなずれを突っ走り過ぎる才覚が大きくしてしまったのだろう。
 師である政秀には弟子の自らの基準で計り切れなくなった成長を見守る度量を、弟子である信長からは如何なる成長を遂げようと、それを見守ってくれた師に対する感謝の念を忘れないことを学びたい。


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令和三(2021)年四月二二日 最終更新