第弐頁 太原崇孚雪斎と松平元信



 太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい 明応五(1496)年〜弘治元(1555)年閏一〇月一〇日)
 松平元信(まつだいらもとのぶ 天文一一(1542)年一二月二六日〜元和二(1616)年四月一七日)

太原崇孚雪斎とは? 太原崇孚雪斎は天才の名を欲しいままにした、臨済宗の優れた僧侶だった。
 その才を見込まれて故郷駿河で今川義元の師傳となり、義元の駿河守護就任、その後の今川家の外交・内政・軍事と、国家経営のすべてに尽力し、今川家繁栄に多大な貢献をした人物であった。
 そして晩年に松平元信―後に徳川家康と呼ばれた天下人の師でもあったことは余りにも有名である。

 もう少し掘り下げて説明すると、雪斎は元は駿河今川家の譜代の重臣・庵原氏の出身で、母も地元の海運商の興津氏の出で、若くして京都五山の一つ、建仁寺に学んだ。
 九英承菊と称して学ぶこと一八年、天才の名を欲しいままにし、その才覚を今川氏親に見込まれ、帰国・仕官を勧められた。
 帰国した雪斎は、氏親の五男である梅岳承芳(ばいがくしょうほう)の師となった。勿論この梅岳承芳こそが後の今川義元で、二人は師弟として臨済寺に学んだ。

 天文五(1536)年に氏親の後を継いでいた氏輝が夭折すると、花倉の乱と呼ばれる家督争いが起こり、北条早雲の支援を受けた承芳を補佐し、駿河守護の地位に就けたのは勿論雪斎であった。
 これにより(還俗して)義元の信をますます厚くした雪斎は義元政権の総顧問的存在となり、外交にあっては善徳寺において義元・武田信玄・北条氏康の会見と駿甲相三国同盟を成立させた。
 軍を率いては小豆坂の戦いで本職の武将顔負けの軍配裁きを見せ、安祥城を攻めでは信長の庶兄・信広を降伏させ、人質交換による松平竹千代(家康)の奪還にも成功した。
 内政では分国法・『今川仮名目録』の追加制定、後の今川氏真の楽市楽座政策の基となる重商主義を展開するなど、惚れ惚れするほど非の打ち所がなかった。

 そして今川義元が駿河・遠江・三河に覇を唱え、松平竹千代を奪還したとき、雪斎は五四歳、竹千代は九歳。ここに「三河の城名し」「東照大権現」になるための教育の第一歩が踏み出された(かなり大袈裟な表現だが)。


師弟の日々 太原雪斎竹千代と出逢い、竹千代が元服して松平次郎三郎元信と名乗り、雪斎が没するまでの時間は約六年間だった。
 雪斎の享年が六〇歳に対し元信のその後の松平元康徳川家康としての人生は六一年あり、その後の元信の人生は雪斎の寿命を上回った。
 つまり、その後の織田信長・武田信玄・豊臣秀吉・南光坊天海・その他大勢の人物に貴賎・年齢・立場に関係なく、教えを請い、生涯を通じて学を好んだ家康の人生において雪斎に師事(主に読み書き・兵法・歴史を学んだ)したのは僅かな年月でしかなかった。長さ的には。

 しかし、問題は「基礎」と「質」である。
 数多い家康の師の中で雪斎の占めるウェイトが大きいのは、多感な年の頃の松平元信の人格形成に大きな影響を為したこともあれば、人生全体の師と云えるところも大きいからだろう。
 政治家や武将・外交官・教育係、とオールマイティな活躍をした雪斎には当然の事ながら素晴らしい先見の明があった。桶狭間の戦いにおける義元のまさかの戦死や、氏真政権の呆気ない崩壊まで予見していたとは云わないが、元信を今川勢力の一翼を担う名将としてより、一国を率いる名君として育てたことからも、義元死後に元信が今川勢力下にいないことぐらいは予見していたかも知れない。

 一般に若き日の家康に忍従無限を強いたと云われる人質生活(多少の異論を後述する)だが、後に秀忠に征夷大将軍の座を譲り、隠居した後に家康は終の棲家に、苦い思い出も多い筈の駿府を選んだ。
 そのまま隠居していてもおかしくない年齢の家康が、人生の最後を迎える場所に、三河統一に尽力した岡崎でもなく、信長とのタッグで東海道に奮戦した浜松でもなく、駿府を選んだのには、政治や軍事上の要因も勿論あるだろうけれど家康一個人の原点が雪斎に師事した駿府にあると考えていたからと見るのは穿った物の見方だろうか?

 ともあれ家康雪斎に師事した臨済寺は少年の頃には修業の場となり、臨終の際には家康に勘当された六男・松平忠輝が密かに家康に今生の別れをなさんとして忍んできて、足止めを食らい、父の訃報に接した場ともなった。
 家康雪斎と共に学んだ際の文具は今も同寺に残されているが、これも恐らくは家康雪斎との師弟の日々を大切にしていたことと無関係ではあるまい。


師弟に学ぶ事 非の打ち所のない大人物・太原崇孚雪斎という人物が今川義元・徳川家康を育て上げた事には心底納得の行く物があるのだが、そうなればなったで別の疑問が出てくる。

 それは、何故に義元が我が子・今川氏真の教育を雪斎に託さなかったのか?ということである。
 否、もしかして行われたのかも知れないし、逆に雪斎ほどオールマイティな人物は氏真の教育のみに専念させる事は不可能で、年老いるまで頑張ったからこそ、第一線から身を退かせ、タイミング良く今川家にやってきた竹千代に「今川家の先鋒として使える男に育てること」を義元は考えたのかも知れない。

 勿論上記は薩摩守の推測の域を出るものではない。だが、義元と雪斎の深い関わりを見ていると、一つ、従来の史観を見直さなければならない面が出てくる。
 それは人質時代における今川家中と竹千代元康の交わりである。
 一般に城なし孤児として蔑まれた日々が大河ドラマでも、歴史漫画でも強調されるが、これに疑問が出てくるのである。
 駿河衆に三河衆が格下扱いされたことを、「全くの嘘」とは言わないにしても、「一般に語られるほどひどい物ではなかったのでは?」という疑問である。

 単純に考えて、師傳としてもブレーンとしても雪斎を重宝した義元が竹千代を塵芥の如く考えていたら、決して雪斎と云う最高の教育者を宛がう事はなかっただろう、との推測である。
 勿論目的は今川勢力下の有能な武将に育てることだろう。確かに松平党は戦の度に戦死率の高い激戦地や最前線に配され、城主を人質とされ、岡崎城内でも今川家から送られた城代がでかい面をしていて、属国同然の扱いだった意味では苛酷な待遇を受けていた。だが、雪斎という最高の師傅を竹千代に宛がった以外にも、義元がそれなりに松平家を重視していた痕跡は所々に伺える。

 その一つが、義元が可愛がっていた実の姪でもある瀬名姫(後の築山御前)を元信に娶せたことである。
 瀬名姫が輿入れするや、今川家中も掌を返した様に「主君の甥」となった元信に慇懃になったし、対信長戦線においても義元は雪斎 (この時既に故人)が育てた元康 (「元信」の「信」が「信長」に通じるので改名)を上手く使ってもいた。
 また松平家や三河にしても、義元の上洛が成功していれば、随身過程や地理的要因から、今川勢力下のナンバー2にして、「義元の甥」が率いる同盟国として、それなりの立場を担った可能性が高かった訳で、義元の程の男がそんな将来的立場を無視してまでの冷遇ばかりしていたとは思えないのである。

 徳川家康はあれで結構執念深く、人質時代に鷹狩の趣味を馬鹿にした今川家中の侍・孕石主水(はらみいしもんど)を後に切腹させてもいる。そんな家康が、駿河を大切に治め、氏真を殺さずに江戸幕府内の文化を担う家格まで与えた事からも、今川家は松平家を然程冷遇していた訳ではなかったのではないか?との歴史的推測が、今川義元が家中の至宝とも言える雪斎竹千代の師傳としたところから芋づる式に出てきた事に薩摩守自身、今更ながらに驚いている。


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令和三(2021)年四月二二日 最終更新