第参頁 飯富兵部少輔虎昌と武田義信



 飯富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶしょうゆうとらまさ 永正元(1504)年?〜永禄八(1565)年一〇月一五日)
 武田義信(たけだよしのぶ 天文七(1538)年〜永禄一〇(1567)年一〇月一九日)

飯富兵部少輔虎昌とは? 武田家中において最も有名な名将・山県三郎兵衛昌景の実兄。というより本来、昌景自身が飯富家の人間で、血筋の絶えていた甲斐の名家・山県の姓を名乗ったのには、この飯富虎昌が関係していた。

 飯富虎昌こそは元祖「赤備え」の男である。
 軍装を赤一色で統一した軍隊は戦の渦中でも目立ち、敵からは標的にされ、卑怯・臆病をすれば一発で笑いものになるのを覚悟して出陣するため、勇猛な軍隊とならざるを得なかった。
 この軍装を実弟の昌景、真田幸村、井伊直政達が受け継いだ訳だが、元祖はこの飯富虎昌だった。

 その虎昌の勇猛振りは「甲山の猛虎」との異名を取り、「虎昌」の名乗りは武田信虎の一字を頂戴している様に、信虎の代からの武田家の重鎮で、晴信(信玄)による信虎追放の謀略にも重きを為した。

 当然の事ながら晴信の信頼も殊の外厚く、やがて晴信の嫡男・武田太郎義信の師傳を命ぜられるに至った。そして、その師傳の立場は皮肉にも親子三代に渡る骨肉の争いに関わり、師弟の破滅を呼ぶのだった。


師弟の日々 武田太郎義信は信玄の第一子で、母の三条氏は信玄の正室なので、義信は正真正銘の嫡男だった。
 となると余程の事がない限り家督を継ぐのは必然で、時折しも武田家にとっては信濃に勢力を拡大する大切な局面でもあり、義信は文武に優れた大将となる事を求められた。
 父・信玄の資質に師傳・虎昌の養育を受けて父と家臣の期待に多いに応える成長を遂げた。

 ごく普通に守護大名としての国主を務めるだけなら義信虎昌も無難な余生を送り、義信は名君として立派に国を治め、虎昌は主君から手厚い待遇を得ていたことだろう。しかし、戦国の世では虎昌義信師弟に限らず無難な日々は許されなかった。

 きっかけは義信甲相駿三国同盟の一翼を担わされていたことにあった。
 武田信玄・今川義元・北条氏康の三者の間に締結された同盟を強固なものとする為に、当時の常識であった政略結婚が三つ巴の形で為されていた。信玄は長女の梅姫を氏康の嫡男・氏政に嫁がせ、氏康は娘を義元の嫡男・氏真に嫁がせ、義元は娘を信玄の嫡男・義信に嫁がせた。つまり義信は血縁関係を為すキーパーソンの一人だったのである。
 殊に武田家と今川家は、義元が信玄の姉を正室に迎えて氏真を儲けていたから、義信は妻とも氏真とも従兄妹同士でだった。また父・信玄による祖父・信虎追放は有名だが、形の上では信虎は「今川家の客分」(←何と言っても次期当主の祖父だ)となっており、武田側は父の世話をする今川家に礼金も毎年払っていた。
 そんな事もあって二代に渡る血縁は切っても切れないものとなる筈だった。そして義信が最後までこの義を重んじたところに悲劇が始まった。

 永禄三(1560)年、桶狭間の戦いで今川義元がまさかの戦死を遂げた後、今川家はすっかり力を落とし、氏真も戦国大名としての覇気を見せる事はなかった。
 属国だった三河の松平元康は徳川家康として独立して織田信長について遠江に侵攻するに及び、信玄は今川家を見限って駿河を攻めることを決したが、義信がこれに強硬に反対した。

 信玄は若き日より『孟子』の王道思想を重んじ、そしてその理念に沿って暴君であった父を追放した(その後ろめたさか、逆に「孝」を重んじる『論語』を手に取ることはなかった)。その際の片腕となった虎昌義信の師傳とした訳だが、その虎昌の教育を受けた義信には父・信玄の今川家との二代に渡る血縁を踏み躙り、義父の仇である織田との連盟は許し難い背信行為だった。

 さて、ここから極めて謎が多く、多くの史家にとっても頭の痛めるところなのだが、永禄八(1565)年正月、信玄は密書の発覚から義信の謀反を知り、虎昌を捕えて切腹を命じ、義信も東光寺に幽閉して師弟の日々は終りを告げた。
 虎昌義信の謀反を止められなかった事を恥じたのか、何としても愛弟子を助けたかったのか、或いはその双方か、「謀反は全くのそれがしの独断である!」と主張して、切腹に処せられた。
 だが、そうまでして庇った筈の義信もまた叛意と親今川・反織田の旗色を頑として変えないことを主張したため、前述した様に義信は幽閉され、妻もまた実家に戻され、ここに三国同盟も瓦解した。

 勿論、義信救命の動きが無い訳ではなかった。
 一説によると今川氏真の甲斐への塩止めは、頑迷なまでに同盟を重んじた義弟・義信の幽閉を解くことを求めたものだとも言われている。
 また、北高禅師や高天和尚と言った名僧達も父子和解に尽力したが、結局は義信は二年後の永禄一〇(1567)年切腹して果て(病死説もある)、遂に父子間の溝は埋まらなかった。

 所謂、義信事件の悲劇は虎昌義信師弟の死に留まらず、曽根周防、長坂源五郎といった義信付きの甲斐源氏の名士や義信親衛を務めた八人の若武者達も切腹や追放の憂き目を見た。
 もっとも、これらの発覚や、罪人とされた諸人の証言、処分の軽重には諸説紛紛で、謎も多いのだが。


師弟に学ぶ事 文武に優れた名将の「師」と、生まれ持った才能に両親の血統にも恵まれた若者たる「弟」という両輪が揃っていながら何故にこの様な悲劇に帰したのだろうか?と考えさせられるのが飯富虎昌武田義信師弟である。

 勿論才能に恵まれたからと言って、必ずしも成功したり、幸せになれるとは限らないし、周囲の局面や運不運も大きく左右したのがこの戦国時代の戦国時代たる所以でもある。逆を言えば優れ過ぎて完璧を求めたところに悲劇があったのではなかろうか、と薩摩守は考える。

 早い話、何にでも優れているから虎昌義信師弟は潔癖過ぎたのだった。
 義信義信で武力に財力に力を持った武田家が相手によって政策転換する事に我慢がならず、虎昌虎昌で信玄も義信も、引いては武田家そのものを自分が育てた自負がある為に自らの主張を曲げれず、自らの取った行為を否定も出来ず、首謀者は自分であるとして譲らなかった。
 虎昌は万事に優れている故に「退く」と「曲げる」が出来ず、それを大切と教えた故に義信もまた文武だけでなく、そんな虎昌の性癖まで受け継いだのだろう。
 両者とも自らの能、そして政治的局面に「不足」を知れば自らが主張する事が必ずしも正しい事と頑固になる事もなく、方向転換を恥と思う事もなかったのでは?と思われる。

 いずれにしても義信謀反の悲劇は武田家滅亡の遠因ともなった。
 義信に代わって信玄の後継者となる筈の勝頼は、血統上の問題から正式な後継者となり得ず(身内や累代家臣や国人衆から「武田の人間」と云うより「諏訪の人間」と見做されていた)、それが虎昌の死によってひびの入った武田家中の結束を後々になって更に大きくする事となった。

 義信の弟達に凡将がなく、飯富兵部の実弟・山県三郎兵衛昌景の徳川家康をして「山県とはげに恐ろしき大将ぞ!」と言わしめた活躍を考えれば、バランスの取れた義信と勇猛の勝頼・厚情の盛信、虎昌・昌景と言う供に知勇兼備の兄弟が主従で車の両輪の如く武田家中を固めていれば信長・家康の力を持ってしても武田の天下は覆せなかった可能性は極めて大きい。
 誠に惜しい師弟だったといわざるを得ない。
 完璧を求めざれば周囲と補完し合える武田家が形成されたのではないだろうか?



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令和三(2021)年四月二二日 最終更新