師 虎哉宗乙(こさいそういつ 享禄三(1530)年〜慶長一六(1611)年五月八日)
弟 伊達藤次郎政宗(だてとうじろうまさむね 永禄一〇(1567)年八月三日〜寛永一三(1636)年五月二四日)
虎哉宗乙とは? 美濃の国に生まれた臨済宗妙心寺派の僧である。
虎哉の師は武田家菩提寺・恵林寺の住職・快川紹喜(かいせんじょうき)で、武田家滅亡の折に焼き討ちの最中に「心頭滅却すれば火もまた涼し」の名言を残した事で有名な人物である。
虎哉が梵天丸(伊達政宗)の父輝宗に招聘されたのは梵天丸の生まれた直後で、米沢に着いた時は元亀三(1572)年で、武田信玄病没の一年前、武田家滅亡の一〇年前だった。
虎哉は快川和尚の門弟にあって、下野国雲岩寺の大忠禅師と並び、「天下の二甘露問」と云われた名僧として高名だった。
伊達輝宗は生まれたばかりの梵天丸のためにこの名高い僧・虎哉を迎えるに当たって資福寺(しふくじ)という新寺院まで建立し、そこに槍術師範として岡野助左右衛門春時を、儒学の師として相田康安(あいだこうあん)を岩城から招聘するまでして梵天丸の教育に力を入れた。
伊達輝宗の深い父性愛はつとに有名だが、同時に信心深い人物でもあり、政宗に「梵天」の名を冠したのもその現れなら虎哉ほどの名僧を招いたのもその現れである。
尚、師としての虎哉を見る前に快川和尚の門弟として、師の遺志を継いで関東地方での布教にも力を尽し、その布教活動の中で、江戸に圓通寺が建立された事を挙げておきたい。一国一城の主の師に選ばれるだけあって虎哉の師弟愛は僧としても人としても深いものがあった。
かつてNHKの大河ドラマ『独眼龍政宗』で大滝秀治氏演じる虎哉宗乙が本能寺の変における織田信長の横死に「仏罰じゃ!」と声を荒げていた姿に妙な納得が持てるものである。
師弟の日々 資福寺の完成を待って虎哉宗乙が新住職として米沢にやって来たのは元亀三(1572)年で、時に虎哉宗乙四三歳、梵天丸は六歳のときだった。
虎哉は梵天丸だけでなく、彼の乳母・政岡(伊達一族の一人・増田貞隆の妻)、小姓の二人・伊達藤五郎成実(同年輩の従弟)と片倉小十郎、槍の師匠・岡野春時も教育対象とした。
虎哉は資福寺に梵天丸の乳母・小姓・従者まで住み込ませての養育を輝宗に申し出て許可され、文字通り寝食を供にした。
虎哉の教育方針は梵天丸に「強情」と「へそ曲がり」になることを旨としたものだった。
父・輝宗に似た素直過ぎる面と線の細さに戦国武将としての不安要素を覚えた虎哉は、柔にも剛にも偏らない清濁併せ持つ度量を持たすべく、熱ければ「寒い」といい、苦しい時に笑う事を命じた。
殊に有名なのは人前で横臥しない事だろう(政宗は七〇歳で没するまで妻妾以外の前では重病の時も柱に背をもたれさせてでも、横臥した姿を他人に見せなかった)。そんな一つ屋根の下での師弟としての日々は梵天丸が一〇歳で元服するまでの四年に渡ったが、真に師弟としての日々はまだまだここからが本番であった。
それは父・輝宗の死に端を発した。
政宗の圧力に遭った二本松城主の畠山義継は降伏のための取り成しを隠居の輝宗に懇願すると見せかけて接近するや輝宗に短刀を突き付け、これを拉致せんとした。
政宗の足手まといになることを恐れた輝宗は完全に拉致される直前に抵抗を試み、結果として救援に駆け付けた伊達成実(しげざね)に畠山義継を自分諸共撃つ事を命じ、乱戦の中に義継と供に命を落とした。
怒り心頭の政宗は義継の目を刳り抜き、両耳を削ぎ落とした無惨な生首にして城下に晒した(遺体を切り刻んだ後で、藤蔓で繋ぎ合せて吊るしたとの説もあるが、酷刑を行ったことに変わりはない)。
だがこの行き過ぎた報復は義継の遺児国王丸への同情の声を集め、治まり掛けた二本松周辺を混乱の渦に戻してしまった。
この時虎哉は戦で負傷してようやくにして気を取り戻した政宗を棒で打ち据えた!
虎哉曰く、
「父上・輝宗公の仇を討つにしても義継の首を懇ろに弔って、使者を派して国王丸の元に届ければ、国王丸は父の所業を恥じ、伊達家に随身し、無用の戦と犠牲者を避けられたのじゃ!」
と。
虎哉の推測が完全に正しいかどうかは確かめる術はないが政宗の(気持ちは分かるのだが)感情に任せ過ぎた義継への仕打ちが戦に凄惨さを増したのはまず間違いなかった。
師の激怒にさしもの政宗も自らの暴走を悔い、直後の軍議に虎哉を招聘して反省と師の怒りを解くのに務めた。
そして翌天正一四(1586)年に亡き父の弔いに覚範寺(かくばんじ)を建立し、後に仙台に移った際には虎哉を住職としたのだった。
次なる政宗の危機は天正一八(1890)年で、小田原征伐の為に関東に進出してきた豊臣秀吉との謁見だった。
秀吉に抵抗するか?臣従するか?で伊達家の生き延び巡って家中が揉める中で政宗は自らの手で弟・小次郎を斬り、実母・義姫を実家・最上家へ追放する羽目になったのは有名だが、危機は尚も続いた。
その翌年、天正一九(1591)年起きた葛西・大崎一揆を裏で糸引いた疑惑が持たれ(実際に糸引いていたのだが)、それを釈明する為に、上洛して秀吉に謁見したが、前年来心中穏やかならず、一挙手一投足に御家の運命を背負う渦中に、政宗は白装束で黄金の十字架を背負って参上するパフォーマンスで秀吉の度肝を抜いて一目置かせた。
そんな一世一代のパフォーマンスを行うに当たって、政宗が事前に相談したのは他ならぬ虎哉宗乙だった。
この時、ヒントとなった虎哉の助言は「心を空にして行くことじゃ。こちらには敵意のないことがわかれば、相手は何も出来ぬものじゃ。御家のためにその心構えをお忘れにならぬよう願いまする。」だったと云われている。
その後政宗は虎哉との師弟関係の仲で臨済宗妙心寺派の寺院建立に度々関わった。
そして供に側にあった三九年に及ぶ師弟関係が終ったのは慶長一六(1611)年で虎哉が八二歳で没した時だった。
だが、政宗がその後も虎哉の教えを守り続け、実質政宗が七〇歳で没するまで続いた師弟関係といっても過言ではないだろう。
師弟に学ぶ事 本作では「師弟関係」というものを単に学問を教える間柄で諮っている物ではない。
歴史に影響を与えた人生上の「師弟関係」として見ている。その意味において虎哉宗乙は伊達政宗の人生の要所要所にて欠かせないアドバイスを行い、信頼度・堅実性・忍耐のいずれにおいても最高の指南者として非の打ち所がない。
前述した様に、「父の死に対する逆上」・「天下人との対峙」といった政宗の人生の危機を救ったのは勿論、政宗の側近養成や、伊達家の菩提祭祀を取仕切る精神的拠り所、といった縁の下の力持ちをも為した師は実に珍しい。
そしてここまで政宗の力となった人物を見るときについ見落としがちになるのが、虎哉の死後虎哉に成り代わる人物が存在しなかったにも関わらず、政宗に一切の揺らぎがなかった事である。
「蜀にとっての諸葛孔明」、「今川家にとっての太源崇孚雪斎」、「豊臣家にとっての前田利家」・「中国共産党にとっての周恩来」の様に、一家や国家の柱石的人物が失われたとき、その屋台骨が大きく揺らぐ例には枚挙に暇がない。
だが、真に偉大な人物は死後に混乱を残さず、真の名伯楽は己の死までに教え子を自分がいなくても大丈夫な逸材に育て上げる。
虎哉と政宗の師弟関係を見た時、知識や技術の伝授に留まらない良き師弟関係には、逆境を供に出来る事と、その師弟の別れ(多くは死別)に際してそれの影響を感じさせないだけの完成度を持つ事の大切さを教えられる。
歴史上に虎哉宗乙に勝る名僧は数多くいるだろう。勿論伊達政宗に勝る英雄も少なくはない。だが師弟関係を超えて歴史上の一大事を供にし、そこに揺るぎ無い信頼を、死別を超えて持ち得る師弟はそうそうは存在し得ない。
そういう意味において二人は名師匠と名弟子であったと言える。
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戦国房へ戻る令和三(2021)年四月二二日 最終更新