第伍頁 細川頼之と足利義満



 細川武蔵守頼之(ほそかわむさしのかみよりゆき 元徳元(1329)年〜元中九/明徳三(1392)年三月二日)
 足利義満(あしかがよしみつ 正平一三/延文三(1358)年八月二二日〜応永一五(1408)年五月六日)

細川頼之とは? 細川家は云わずと知れた足利幕府の三管領家の一つ(後の二家は斯波家と畠山家)で、元は足利家の庶流に当たる。
 その足利家が仕える鎌倉幕府滅亡の四年前に細川頼之はこの世に生を受けた。

 鎌倉幕府滅亡の五年後に足利尊氏が征夷大将軍に就任し、時代は南北朝鼎立期に入り、細川家は主として畿内・中国・四国地方にて南朝方と死闘を繰り広げていた。
 そんな時代に父・細川頼春と母・里沢禅尼の子として元徳元(1329)年に三河国細川郷に生まれた。幼名は弥九郎
 当時頼春は足利家の内紛に端を発した観応の擾乱鎮圧の為、足利尊氏の指揮下にて、南朝方との死闘に邁進していた。

 文和元/正平七年(1352)、父の討死により頼之は阿波守護、文和三/正平九(1354)年に伊予守護を兼任し、延文元/正平一一(1356)年中国管領となって足利直冬の残党を追討、と軍人としても政治家としても活躍した(※年号は前者が北朝の、後者が南朝のそれ)。
 貞治元/正平一七(1362)年南朝方となった従兄弟の細川清氏を讃岐に倒し、貞治六/正平二二(1367)年将軍足利義詮の遺託により管領として幼少の将軍足利義満を補佐し、種々の政策や軍略で幕府権力と将軍権威の強化に努めた。
 余談だが、頼之の妻は義満の乳母であり、義満の側近となる筈の子がいたのだが、この子は早世していた。

 順調かに見えた頼之の強権体制は諸将の反発を受け、康暦元/天授五年(1379)失脚し、入道して常久と号し四国に下るが、やがて義満の赦免を受け、康応元/元中六(1389)年その西海巡歴に全面協力。
 明徳元/元中七(1390)年、備後に山名時煕を討ち、翌年弟で養子の管領細川頼元を後見、明徳の乱に活躍したが、間もなく病没した。
 和歌・連歌・詩文を愛好、禅宗に帰依し多くの寺院を建立した。


師弟の日々 足利義満細川頼之の師弟関係は簡単に例えれば好例時の「幼帝と摂政」と言えようか。些かこじ付け的ではあるが、良好関係時の後白河天皇と平清盛に例えれるかもしれない。

 頼之に課せられた使命は極めて重大であった。
 南朝という強大な敵の前に劣勢に立たされた状況下で、決して一枚岩とは云い難い幕府軍を率いて、尚且つ義満を養育しなくてはならなかったのだから。

 幸いだったのは頼之義満ともに素晴らしい才を持ち、ともに濃いキャラクターを持ちながら、極めて良好な関係を築き得ていた事であった。
 義満は亡父・足利義詮が残した劣勢状況下で一時退避していた近江にて春の琵琶湖畔に咲き乱れる草木を見て、「(都に)持って帰れ」と云うほどスケールの大きさを持っていた(←ある意味馬鹿殿と紙一重かもしれないが……)。ちなみにこの時の義満の想いが後の「花の御所」を造るもととなった)。

 この様な師弟が権力や才能を暴走させずに理想的な協調関係を築くには頼之の細川家代々受け継いだ伝家の宝刀的忠誠に加えて、幸運ともいえる程に義満頼之の肌が合ったこともあっただろう。
 頼之は足利義詮の期待によく応え、政治と軍事をこなす一方で、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、義詮正室の渋川幸子や寺院勢力介入、南朝の反抗などに頭を悩ませつつも、今川貞世の九州制圧にも苦慮した。
 余りの難題続きに頼之は幾度となく、辞意を表明したが、義満は当然の様に退任を留まらせた。

 しかし康暦元/天授五年(1379)年、紀伊における南朝征討に失敗すると、斯波氏や土岐頼康等の諸将は頼之罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極氏らが参加して将軍邸を包囲した(康暦の政変)。
 やむなく義満は退去令出し、それを受けた頼之は一族を連れて領国の四国へ落ち、途中で出家した。
 後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策も覆され、表面上、師弟の日々は終った。

 斯波派は頼之討伐をも求めたが義満はそれを抑え、政変を知った河野氏が南朝から幕府に帰服し、頼之討伐の御書を受けて頼之と対抗した。
 頼之は管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化に務め、これを利用して河野氏や細川清氏の遺児の正氏らを破り、康暦三/天授七(1381)年には河野氏と和睦して分国統治を勧めるなど、相変わらずのやり手だった。

 他方、弟の頼元(後に養子)が幕府に対して赦免運動を行い、康応元年/元中六(1389)年の義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し頼之は讃岐国宇多津にて赦免された。
 表面上は七面倒臭いやり取りを経ていたが、師弟の情愛があったのは言うまでもない。
 明徳二/元中八(1391)年には斯波義将が管領を辞任し、頼之義満から上洛命令を受けて入京。再度の管領就任を要請する義満頼之は養子・頼元を推し、自らは後見人として、事実上幕政に復帰した。
 それに先駆けて明徳元/元中七(1390)年には備後国の守護となり、この年の明徳の乱で幕府方として山名氏清と戦ったが、明徳三/元中九(1392)年に風邪が重態となり、三月二日に死去、享年六四歳。
 葬儀は義満が主催して相国寺で行われた。戒名は法号を用いて、永泰院殿桂巌常久大居士


師弟に学ぶ事 何と言っても注目されるのは、最初細川頼之の失脚を足利義満が阻止出来なかった事と、頼之が(表に立たないとはいえ)権力の座に返り咲けた事である。そこにこの師弟を通じて室町幕府がどういうものであったかがよく見て取れる。

 室町幕府は義満の代の後半、第六代義教の中盤を除いて殆ど安定期がなく、それは偏に有力守護大名(斯波・畠山・大内・今川・山名等の諸氏)の力が幕府を揺るがすほど大きかった事に起因し、それは室町幕府の滅亡にも繋がった。
 歴代将軍にあって最盛期を築き、最も絶大な権威と権力を振るった義満でさえ、南朝方との戦いにおいて不利に陥ったことを槍玉に挙げる斯波義将を筆頭とする頼之管領罷免の声に屈せざるを得なかった。
 勿論この時の義満の力はまだ未完成のものだったが、守護大名の力の強さ故にそれをまとめ切れない時の将軍権力の脆弱さが見て取れる。

 だが、その後頼之追討を許さず、一〇年の時を経て再び頼之を片腕とした日本史上かなり稀有な例となった「返り咲き」の事実は義満頼之の絆の強さをよく表している。
 また、復権した頼之が頼元の後見人として裏方に回ったのもまた見事で、義満の期待に応えつつ義満の面子も慮った好判断と言える。それは取りも直さず、一度失脚した人間の扱いの難しさをも教えてくれる。
 「罷免した人間を復権させる」という事はその罷免が「間違い」であり、権力者が「誤りを行った人間であること認める」行為になりかねない。だからこそ頼之は頼元の後見に徹したのだろう。
 そう考えると史上の失脚者達の多くが、その時に出家する例が多いのにも頷ける物がある。

 室町時代、という後に戦国の世へ移行する危険要素を持つ時代にあって、能力・権力・謀略において暴走しかねない要素を充分に持ち、罷免と復帰という激動を経ながら義満頼之が良好なる師弟関係を保ち得た事は一対一の人間を見る上においても非常に興味深く、濃いキャラクターが集う権力の場への大いなる参考として学びたいものである。


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令和三(2021)年五月三日 最終更新