第陸頁 大竜和尚(海山元珠)と鉄牛



 大竜和尚(だいりゅうおしょう 生没年未詳…薩摩守の研究不足)
 鉄牛(てつぎゅう 永禄一〇(1567)年〜慶長二〇(1615)年四月二九日)

大竜和尚(海山元珠)とは? またの名を海山元珠(かいざんげんじゅ)、臨済宗妙心寺派の高僧で、一言で云えば硬骨漢である(詳細後述)。
 何分、薩摩守の研究不足が多く(分かっている事の方が少ない)、これしきの知識量でこの師弟をサイトの一頁に加えるのはおこがましいとも云えるのだが、彼の弟子の一人・鉄牛こと塙団右衛門直之が道場主の最も好きな豪傑である事から贔屓的に加える事になった心情に御理解を頂けると有り難い(苦笑)。

 大竜和尚が日本史上に姿を現す最も有名な事象は、慶長一九(1614)年の方広寺鐘銘事件である。このサイトを見るぐらいの人には説明不要だとは思うが、サイトの主旨(建て前)と字数稼ぎ(本音)の為に記させて頂く。
 方広寺鐘銘事件は亡き豊臣秀吉供養の為に豊臣秀頼が再建した方広寺の大鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の銘が「「国家安康」は家康の「家」「康」を分断して呪い、「君臣豊楽」は「豊臣」「君」として「楽」しむと詠ったものだ。」と言い掛かりをつけて大坂の陣への戦端とした事件である(この事件が言い掛かりである事は方広寺の鐘銘が現存する事からも明らかである。「国家安康」も「君臣豊楽」も普通に使われる四字熟語である)。

 勿論すぐに戦になった訳ではなく、方広寺大仏殿開眼供養の延期を幕府より命ぜられた豊臣方では片桐且元が銘文の作者である清韓文英(せいかんぶんえい)を伴って、家康のいる駿府に発った。
 清韓は京都五山(足利義満によって格付けされた京都臨済宗の五大名刹で、上位から天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の更に上位に置かれている南禅寺の長老で、二人は駿府に着くや本多正純の命で阿部川宿に足止めを食い、南光坊天海(天台宗)と金地院崇伝(臨済宗。清韓と同じ南禅寺)の糾問を受けた。
 これが仕組まれた陰謀である事に気付き得ない片桐と清韓が後年「黒衣の宰相」とも「大欲山気根院僭上寺悪国師」とも称された怪僧達に抗し得る筈もなかった(片桐・清韓両名の能力以前に、用意された土俵的に勝ち目がなかったと云うこと)。
 幕府は京都五山十刹の学僧達を召し、天海・林羅山立会いの下、銘文に対する審議が為された。

 しかしながら審議とは名ばかりで、幕命に媚びたか、清韓の博学多識が妬まれたのか、学僧達は「銘文が長過ぎて勧進帳の様だ」とか、「大御所様の御名を裂いて「安」を入れたのが悪い」とか、「かような文章は田舎僧のもの」などといった、「子供の口喧嘩でももうチョットマシなこと云うぞ?」と云いたくなる様な悪し様な批判が集中した。
 しかし、そんな誹謗の嵐の中に唯一人、「愚にもつかぬひがごと」と一言の下に云い切った老僧がいた。
 展開からバレバレだと思うが(苦笑)、その老僧こそが大竜和尚であった。
 「愚にもつかぬひがごと」は云い換えれば「馬鹿みたいな道理に合わない間違い」という意味で、快活なぐらい、天海と崇伝の云い分を叩き斬っている。

 だが、一人権力に媚びず、正論を通したからと云っても、作られた大勢が変わることもなければ、大竜和尚に政治的圧力がかかる事もなかった。
 徳川幕府にとっての大事は豊臣側を挑発し、開戦に漕ぎ付ける事で、学僧の一人が何を云ってもそれが大勢を動かさない限りは痛くも痒くもなかった。大竜和尚の一言を皮切りに学僧達が一斉に正論に傾斜していれば或いは大竜和尚の命運は危かったかも知れない。
 何故なら大竜和尚には豊臣家に肩入れするだけの理由もあったのだから。

 話が前後したが、薩摩守の乏しい調査力を振るって調べた所、大竜和尚は豊臣秀吉に先立って夭折した秀吉の愛児・鶴松と接点を持っていた。
 天正一九(1591)年八月に鶴松が夭折すると悲嘆に暮れた秀吉は鶴松の菩提を弔うため妙心寺の高僧・南下玄興(なんかげんこう)を開山として、京都・方広寺大仏殿の東南(東山通七条)に供養の為の寺を創建した。
 鶴松の木像(「木像鶴松(捨丸)坐像」:重文)が隣華院に、鶴松が愛用していた木造の船形玩具や鎧や守り刀は、玉鳳院に収蔵された。
 寺の名は鶴松の法名・祥雲院にちなんで「祥雲寺」と名付けられたとの説があるが、そして南下玄興こそは大竜和尚の師であった。

 豊臣家滅亡直後の元和元(1615)年七月、豊臣秀吉の紀州征伐の折に焼き討ちに遭ったことから秀吉を恨む根来寺・智積院はその再興の許可を求め、豊臣家の威光を消す事を望む徳川家康は、祥雲寺を智積院に下げ渡した。
 智積院によって祥雲寺を追われた住職の大竜和尚は怒りと悲しみの心を隠さず、南下和尚の木像を背負い、鶴松の木像を手で抱き、秀吉によってもたらされたすべての鶴松の遺品を持って、あふれる涙を拭こうともせず、祥雲寺を後にしたと伝えられている。勿論これは豊臣家の威光を消したがる徳川家の癪に触りかねない行為である。
 妙心寺山内の自坊(亀仙庵)に帰った大竜和尚は、「祥雲寺」の祥雲の文字を逆にして、その名を「雲祥院」に改めた。どこまでも「祥雲寺」の名残を留めようとした大竜和尚の権力にも屈しない気骨の表れである。

 薩摩守の拙い調査でも大竜和尚の権力に屈しない気骨と、文を用いた粋さは明らかである。そしてその気骨と粋は彼の弟子の一人 (誰の事かは云うまでもないと思うが)にも見られる。


師弟の日々 関ヶ原の戦いにて軍令違反に絡むいざこざから伊予松山二〇万石の加藤(嘉明)家を辞した塙団右衛門直之は嘉明の奉公構え(旧主家からの仕官妨害)に遭う中も、小早川家・松平(忠吉)家・福島家を転々とし、浪々の果てに京都妙心寺で大竜和尚に師事して雲水となり、「鉄牛」と号した。

 僧籍に入ったとはいえ無骨さが消える筈もなく(笑)、僧体でありながら大脇差を差し、慣れない経文を口ずさみながら巨体を揺らして托鉢する鉄牛は、そのぎこちない巨体の動きが京都の民衆に受け、「だんまり坊鉄牛」と愛称して、喜捨した。
 ある日、鉄牛が檀家の招待に遅れてやって来て大竜和尚の叱責を受けた。このとき鉄牛「一鞭遅到勿肯怒 君駕大竜鉄牛と詠って返した。
 大意は「鞭を少し打つか打たないかの遅れに怒らないで下さい あなたはきなに乗り(早いけれど)、私は(だから遅いの)ですから」となり、大竜和尚も笑って怒りを静めた。なかなかに洒落の効いた師弟である(笑)。

 薩摩守が調べ得た師弟の日々は全く持って詳細なものではない。
 まして、塙団右衛門鉄牛という名の雲水として大竜和尚のもとにいた、とされる時期には「水戸で肥田志摩の食客だった」という説もあれば、「乞食に身を窶して放浪していた」と云う説もある。
 拙サイトを見て「事実はこうだ!」という方がいらっしゃれば、それを証明する資料とともに御一報頂けると誠にあり難い(他力本願)。

 ちなみに「鉄牛」という団右衛門の雲水名だが、臨済宗妙心寺派の歴史を紐解けば「鉄牛」という名の和尚は何人か見当たる。
 「太閤」や「北政所」や「水戸黄門」同様、決して「鉄牛」が団右衛門一人を指すものでないということである。
 またこの雲水名に対して、『水滸伝』に出てくる天殺星の星を持つ酒乱の巨漢・黒旋風李逵(こくせんぷうりき)のもう一つの通称が「鉄牛」であることを大竜和尚は知っていたのでは?と思ってしまうのは薩摩守だけだろうか?(笑)
 二人とも大柄で、酒癖悪いし(苦笑)。


師弟に学ぶ事 塙団右衛門は加藤家出奔の折に、

 「遂ニ江南ノ野水ニ留マラズ 高ク飛ブ天地一閑鷗」(大意:汚い野水(自分を冷遇する加藤家)にいつまでも居やしない カモメ(団右衛門)は天地を求めて高く飛翔する)

 の一詩を城門に貼り、見事なまでに嘉明を皮肉った様に、謎多き半生を送った豪傑然とした漢のイメージに反して詩書に明るかった。それを示すエピソードは「師弟の日々」にも前述している。
 薩摩守が想像するに、大竜和尚鉄牛は一言で云って「馬が合った」のだろう。両者とも文でもって皮肉の効いた一撃を相手に与え、自らの云いたい事をはっきりと云ってきたからこそ権力に媚びず、義理を通した。

 かなり穿った物の見方を書くが、鉄牛団右衛門に戻って大坂の陣に参戦する際に豊臣方に味方したのには大竜和尚が一枚噛んでいる、との私見を薩摩守は持っている。
 元々僧籍に入ったとはいえ、団右衛門が武士としての自己を忘れられず、機会があれば戦場に立ったであろう事は誰にでも予想のつく事だった。
 団右衛門は水戸に居た時にある年の正月、愛宕権現の初詣で「何卒悪事災難の場に引き合わせ給え」と祈願したと云われている。
 戦局的に有利でも手柄が目立たない徳川方ではなく、不利故に手柄が目立ちやすい豊臣方についたとされているし、薩摩守もそれはそれで本当だと思うが、秀吉の夭折した愛児・鶴松の菩提を弔っていた大竜和尚の義に報いんとする意味からも、鶴松の弟である秀頼の元に馳せ参じたとの見方も出来なくはない。

 薩摩守は卑しくも文を以って自らの主張したい事をこのサイトを通じて世界に発している(HPを持つものは誰でもそうだが)。
 故に大竜和尚鉄牛の師弟からは、「自らの文を以って訴えたい事は堂々と訴え、それに対する責を全うし、そこに義理を欠かさない事が如何に大切であるか。」を学びたい。


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令和三(2021)年五月三日 最終更新