第漆頁 朱舜水と徳川光圀



 朱舜水(慶長五(1600)年一〇月一二日〜天和二(1682)年四月一七日)
 徳川光圀(寛永五(1628)年六月一〇日〜元禄一三(1700)年一二月六日)

朱舜水とは? 朱舜水 (しゅしゅんすい)の「舜水」は号で、実名は姓が、名が之瑜 (しゆ)であり、朱姓が示す様に明王朝帝族朱氏(建国帝は朱元璋:しゅげんしょう)の支族である。
 それ故に故国・明が、異民族王朝である清に征服されるに及んでその治政下に生きることを潔しとせず、日本に亡命したことから徳川光圀との師弟関係が生まれた。

 生い立ちを見ると、日本で関ヶ原の戦いがあった慶長五(1600)年(明の年号では万暦二八年)に中国は明代の浙江省(せっこうしょう)余姚(よよう)に高官・朱正(しゅせい)の三男に生まれた。
 「文武全才第一」と称され、明・清の両朝から十数年間に一二回も仕官を求められながらも、生涯役人となることはなかった。
 八歳にて父を亡くすも、幼き日より天賦の才を発揮し、高名な学者達とも親交を持ち、古学・詩書に長じた。科挙にも合格(そこそこ中国史に詳しい方ならそれが如何に困難なことかよく御存知との事と思う)したが、試験官が開国以来の才と褒める好成績を修めながら、末期症状を呈する朝廷への仕官を固辞し、郷里に引き篭もった。

 だが、役人にならなかったからといって、彼に愛国心がなかった訳ではなく、それどころか半端じゃない愛国者であることが判明するのだが、得てして愛国の志とは亡国の悲哀に伴って露わになる事がこの朱舜水の生涯を追っていて改めて思い知らされる。
 明の崇禎一七(1644)年に北京が清軍の前に陥落し、翌順治二(1645)年に南京が陥落するとともに明が滅亡すると舜水は日本・ベトナムを初め東南アジアの諸国を訪れては祖国復興の支援を求める旅を続け、途中海上で清兵に捕えられては脱走する等の危難も潜り抜けた。
 またこの逃亡に際して舜水の親友・王翊(おうよく)がニ十数本の矢を全身に浴びながらも苦痛の声を挙げない、弁慶並の壮絶な死を遂げており、この日が中秋節の日だったため、爾来舜水は生涯、中秋節の日には窓を閉ざし、来客も謝絶し、名月を愛でる事はなかったというから友情にも厚い男であった事がうかがえる。

 その後舜水は国姓爺として有名な鄭成功の招きに応じて共に反清復明の為に戦った。だが、鄭成功も敗れ、舜水は日本に亡命し、以後二度と故国に戻る事は叶わなかった。
 朱舜水の日本亡命は万治ニ(1659)年のことで、彼にとって七度目の来日だった。
 最初に舜水に師事したのは柳川藩士安東守約(あんどうもりなり)で、安東は舜水の忠義一徹を尊敬し、「老師」と呼び、六年後に徳川光圀が師事するまで、多くの日本人がその人格・その博識を慕って彼に師事した。
 その後一七年に及ぶ水戸での詳細は「師弟の日々」に譲るが、天和二(1682)年四月一七日(←余談だが、家康の命日と同日)に享年八三歳で老衰の為に息を引き取った。
 朱舜水は生前「私は明が復国するまで帰国しないと誓ったが、その前に死んだらここに骨を埋めて欲しい」と語っていた自作の檜の棺に遺体を納められ、「文恭先生」と諡され、水戸徳川家墓所に明朝式墳墓を築いて葬られた。
 徳川光圀を尊敬する水戸の人々が朱舜水も同様かそれ以上に尊敬している事は云うまでもない。


師弟の日々 寛文五(1665)年、水戸藩第二代藩主・徳川光圀朱舜水を水戸に招聘した。時に朱舜水六六歳、徳川光圀三八歳。
 勿論この時の光圀は現役藩主で、水戸藩は江戸定府の定めにより、参勤交代を免ぜられる一方で幕府の許可無しに藩主が水戸に帰る事は能わなかった。つまり藩主時代の光圀は江戸小石川(現・文京区)の水戸藩上屋敷に居る事が多く、舜水は駒込に邸宅を与えられ、光圀に儒学を講義した。

 舜水の教えは朱子学と陽明学をベースにした実学で、「経世済民」をモットーとした舜水の教えは光圀の政治・人格・業績に大きな影響を与えた。
 藩内の教育・祭祀・建築・造園・養蚕・医療に貢献し、麺類マニアである光圀に日本人として始めてラーメンを食す機会を与えたのは余りにも有名で、『大日本史』編纂にあたって、光圀が楠木正成を日本史上最大の忠臣として称えたのも舜水の忠義一徹振りに感化されたことと無関係ではなかっただろう。

 舜水は外国人のため、公式に水戸藩の役職に就けたとは思い難いが、光圀舜水に俸禄を与えた(何せ隠居後も自らが耕した田畑からちゃんと年貢を納めていた男である)。そしてそれを深く感謝していたと思われる舜水もそれを無駄使いすることなく、死後には三〇〇〇余金を公庫に寄贈した。
 舜水光圀への教授は、自らが故国の腐敗と滅亡の中で果たせなかった、「実学に則った経世済民の理想の政治」を光圀に託すものでもあった。
 そこには国と時とを超えた一人の人間と人間の熱き想いがあり、光圀舜水の七〇歳、八〇歳の誕生日に水戸徳川家の主催で養老の宴を開き、舜水の死に際しては墓碑に「明徴君子朱子墓」と親書した。
 二人の師弟の日々が君臣水魚の交わりであった事は、後々の光圀の政治に文化に教育に行動的で庶民的であった面に如何に舜水の教えを引継いでいるかにも見られる。その影響の大きさは光圀死後の水戸藩政においても無視出来ない。
 水戸藩上屋敷のあった小石川は八代将軍吉宗の代に小石川療養所が建てられた事で有名だが、小石川が選ばれたその背景には光圀舜水から教えられた薬草学を庶民に分かり易い書物にして広めた史実が関係している事は想像に難くない。
 朱舜水徳川光圀の師弟の日々は我々の想像以上に歴史に大きな影響を与えているのである。


師弟に学ぶ事 この二人の師弟の時代背景や現代とは比べるべくもない国際情報情勢を見て、いきなり話が逸れるが、まずは「反中国の日本人」並びに「反日の中国人」達に「恥を知れ!」と言いたい。

 倭寇(←後期の日本人の振りをした中国人・朝鮮人による「偽倭」も含む)・侵略戦争・捕虜虐待・報復活動・平時の諸々の犯罪と枚挙に暇がない日中両国間の問題だが、つまる所、「悪事を為す奴等」と、「その尻馬に乗っかる下衆ども」と、「それを悪用する人非人」と、「過去を理由に自らの罪を問われた際に開き直るウスラトンカチども」が悪いのであって、「日本人だから…。」、「中国人だから…。」の上っ面見解で自国の凝り固まったプライドや既得権益にしがみつく醜態が如何にみっともない物である事か、いい加減に気付け!と言いたい。

 話が逸れまくるついでに言っておきたいが、古今東西、「共通の敵の前には同朋同士が結束する」という傾向(つまり、「敵の敵は味方」という理屈でもある)を悪用して、内政がうまく行かない際に、外国に敵を捏造し、国民の敵意を外国(及び外国人)に向けさせる事で自分達への不満を反らしたり、死の商人と結託して暴利を貪り肥え太る薄汚い政治家(ヒトラー然り、スターリン然り)は枚挙に暇がない。
 結局踊らされ、被害を被るのは一般ピープルで、そんな政治家を選び、支持する、時の一般ピープルはある意味自業自得だが、咎なく巻き込まれる後世の人間はたまったのものではないのだ!

 平成一七(2005)年初夏に起きた中国での反日活動の参加者は約一〇万人と云っても、人口比で云えば交通事故で命を落とす確率より低い敵意なのである。中国人全体にあって如何に微々たるものかが分かる(勿論単純にデモの参加不参加で敵意の有無を決めつけるのは早計ではある)。

 また南京大虐殺を否定し、日韓併合を「合法」とほざく某集団が作った(造った?)教科書の採択率は0.5%(目標は10%だったのだが、前回の0.1%しかなかったのをいいことに「大幅な進歩」とほざくのが笑える)だが、この比率は日本の人口に比して日本人が外国に敵意を持っているとするには極めて微小な数値なのである。
 敢えてこじ付けで物を語るが、0.5%を日本人口に当てはめると、約六五万人で、これは在日朝鮮人・在日韓国人の数に相当する。
 つまり某会の教科書の採択率は人口比率で見ると、在日朝鮮人・在日韓国人の方々一人に付き、嫌う人一人の数にほぼ等しいのである(嘲笑)
 人間であれば仲の悪い人間の一人ぐらいはどうしても存在する。つまり某会の支持率は個人レベルの仲の悪さでしかない。
 如何に特定の国の人を国籍だけで嫌う馬鹿が微少な存在であるかが御理解頂けるかと思う(笑)し、それが国際問題として悪用され、騒がれることの方が問題だ。

 つまりは失政による「内憂」を「外患」に摩り替えようとする愚劣政治家や人と人が争う事で肥え太る死の商人どもの情報操作に踊らされず、「何人だから…。」ではなく、「どう言う奴なのか…」、「何をしたか…。」で人を見る事、裁く事、遇する事が大切なのである(敢えて分けようとする人の方が少ないのが厄介である)。
 その視点に立って、薩摩守、引いては菜根道場道場主は最低の人間だと見做す人にはもはや私は反論しない。無駄だから。残念ながら古今東西、いずこの世界にも「余所者嫌い」は存在し、正論ではなく、生理的な「嫌い」を連発する輩は基本的に聞く耳を持たないので(外国どころか、同じ日本国内でもアイヌ人・沖縄県民を差別し、「関東」と「関西」の違いだけで相手をとことん嫌う輩に至っては憐みを覚えるしかない)。
 後は自らを省みて、悪いと思えば直し、悪くないと思えば相手を嘲笑する顔を前面に出さないようにしつつ関わらない様にするのみである。

 ようやく(苦笑)本題に戻るが、つまりは現在よりも海外情報の入手が困難だった時代、互いに激動する歴史の中で理想に燃える一人の中国人と一人の日本人がその人格・主義思想を尊敬し、考え得る限りの与え得る限りのものを互いに与え合い、思い合った歴史の素晴らしさが朱舜水水戸光圀に垣間見る事が出来るのである。
 師匠としての舜水が弟子としての光圀に政治・学問・文化に留まらない影響を与え、万事に反映された例はこの『師弟が通る日本史』のどの師弟にも劣らぬものがあるが、見落としてはならないのは舜水光圀も我々と同じ人間で、優秀ではあっても欠点がない訳ではなかった事である。

 愛国者で忠義者とはいえ舜水は明朝の腐敗には全く改善の為の努力を(少なくとも政治上において)行わず、卓越した才の発揮の所と時に誤りが見られなくもない。
 また光圀も文化・教育に力を入れたはいいが、『大日本史』編纂は光圀の存命中に終らず(完成は明治三九(1906)年!)、延々と続く大事業として水戸藩の財政を困窮させ、理想に凝り過ぎた水戸学は倒幕の遠因思想ともなった。
 だが、薩摩守は二人の意志の強さと探求力と行動力があればこそ、水戸藩は後世に多くの教訓と可能性を残し、その学ぶべき所の多きの意味においても素晴らしい師弟だったと考えている。

 少なくともこの師弟の素晴らしさを学び、三〇〇年以上前に残された理想の君臣を見習って互いに敬愛し、熱き思いをぶつけ合う事で水魚の如き親交を日中両国にもたらされる事で朱舜水徳川光圀に恥じない日中間の未来が築かれる事に尽力したい旨を記して、この解説を締めたい。

茨城県水戸市偕楽園にて
 現在、水戸市は中華人民共和国重慶市と姉妹都市提携を結んでいる。
 重慶市は日中戦争において中華民国政府が最後の抵抗拠点とした地である。
 その重慶市が、日中(日明)で素晴らしい師弟関係を築いた朱舜水徳川光圀に所縁のある水戸市と姉妹都市提携を行い、日中友好に尽力しているのは非常に意義深い。
 『日中不再戦之碑』………読んで字の如く、日本と中国が再び戦うことが無い様、祈念したもの。
 
写真撮影 薩摩守


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令和三(2021)年五月三日 最終更新