第捌頁 新井白石と徳川綱豊



 新井白石(あらいはくせき 明暦三(1657)年二月一〇日〜享保一〇(1725)年五月一九日)
 徳川綱豊(とくがわつなとよ 寛文二(1662)年四月二五日〜正徳二(1712)年一〇月一四日)

新井白石とは? 学者並びに政治家として江戸時代を代表する有名人物である。だが学識深く、物静かな文に生きる人物のイメージの裏でかなり波乱万丈の人生を歩んでいる。

 久留里藩藩士新井正済(あらいまさなり)家に新井白石が生まれたのは明暦三(1657)年二月一〇日のことだった。
 その前日に江戸では有名な明暦の大火(通称:振袖火事)で灰燼に帰し、白石の母親は実家を焼け出され、翌日白石は母の避難先で産声を上げた。
 炎の中に生まれたためか、激しい気性と非凡な学才を持って生まれ、三歳にして儒学書を書写し、「火の子」という愛称を藩主土屋利直から受けたと言う。
 だが、利直死後、跡を継いだ直樹を暗君と見た父・正成が出仕しなかったため、新井家は土屋家を浪人した。

 その後白石は、大老・堀田正俊に仕えた。
 だが、正俊は従兄弟で若年寄の稲葉正休(春日局の曾孫)に暗殺され、堀田家は古河から山形、ついで福島に国替を命じられ、藩内財政が悪化したことに伴い、白石は致仕して、浪人することとなり、独学で儒学を学び続けた。

 豊かな才を見込まれてか、浪人中、豪商・角倉了仁から知人の商人の娘を娶って跡を継がないか?と誘われたり、或いは河村通顕(河村瑞賢の次男)から、亡くなった当家の未亡人と結婚してくれれば三〇〇〇両と宅地を提供する、という誘いを受けたが白石は身に余る好意に謝しつつも、「幼蛇の時の傷は例え数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる」という喩えを引いて断ったと云われる。

 結局の所白石の人生を決定付けたのは師となる朱子学者・木下順庵との邂逅にあった。
 弟子というより、束脩(入学金)免除で、客分として遇するほど順庵に可愛がられた白石の同窓には雨森芳洲、室鳩巣等、といった後に高名な学者になる人が多く集まっていたから、 ここに入門出来たことは、白石ならずとも人生の大きな意義を持つ場となる者が多かった。
 
 師匠・順庵は白石の才能を見込んで、加賀藩への仕官を見つけ、白石も後年、「加州は天下の書府」と賞賛している様に、加賀藩は前田綱紀のもとで学問が盛んであり、順当に仕官が決まるかと思われた。
 ところが同門の岡島忠四郎から 「加賀には年老いた母がいる。どうか、貴殿の代わりに私を推薦してくれるよう先生(順庵)に取り次いでいただけないか」 と頼まれ、岡島に仕官を譲った様に白石は情を知る男でもあった。
 そんな白石の仲間想いに応えてか、順庵は更に元禄六(1693)年、甲府藩への仕官を推挙した。時に新井白石三七歳。

 甲府藩主は時の将軍徳川綱吉の亡兄・甲府宰相徳川綱重の子・徳川綱豊で、彼が後に六代将軍・徳川家宣となるのは周知の通りである。
 甲府藩ではそれ以前に林家に弟子の推薦を依頼したが、当時綱豊は綱吉から疎んじられており、林家からは「綱豊公に将来性なし」と見限られて、仕官する弟子の推挙を断られていた。そこで順庵の方に推挙を依頼してきたのである(こう見ると聖職者としてのイメージのある学者も案外俗物である)。

 甲府藩の提示内容によると、当初三〇人扶持の俸禄という条件だったが、順庵は「白石よりも学問が劣る弟子でさえ三〇人扶持などという薄禄はいない。これでは推挙出来かねる」 と掛け合った結果、甲府藩からは四〇人扶持を改めて提示された。何かタイトルを「木下順庵と新井白石」に改めたい気分だ(苦笑)。
 これでもなお順庵は推挙を渋ったが白石の方が 「かの藩邸のこと、他藩に準ずべからず」−甲府藩は通常の大名家とは違う。徳川家の親藩であるから−として、 むしろ綱豊の将来性を見込んで、順庵に正式に推薦を依頼したのだった。
 天才学者新井白石三七歳と、学問好きの明君徳川綱豊三〇歳はこうして周囲の人間が織り成す縁もあったが、ある意味、始めるべくして始めたのであった、「師弟の日々」を。


師弟の日々 三〇歳の時に新井白石を師に迎えた徳川綱豊は一九歳で父・綱重の跡を継いで甲府藩主となっていたが、父が正室を娶る直前の一九歳の時に身分の低い二六歳の女中に生ませた子であったため、世間をはばかって家臣の新見正信に預けられ、新見左近として育ち、九歳にして他の男子に恵まれなかった綱重の世嗣として呼び戻され元服(この時四代将軍・徳川家綱の1字をもらい「綱豊」と名乗る)するなど、師の白石に劣らぬ(?)波乱万丈の人生を幼児期より送ってきた。

 父の死後は祖母・順性院(祖父・家光の側室で父・綱重の生母)に四代将軍・家綱の次の将軍になるために育てられた。
 だが実際に将軍になったのは順性院とは犬猿の仲だった桂昌院を母とする館林藩主徳川綱吉で、綱吉を五代将軍に推したのが白石のかつての主君である堀田正俊であったのは何の因果だろうか?

 将軍位を逃した綱豊は、がしかし、綱吉が実子に恵まれず(嫡男徳松は五歳で夭逝)、綱吉の兄を父に持つ家系からも早くから水戸藩主徳川光圀を始めとする諸侯の推挙の声も高く、ライバル候補紀州徳川綱教(綱吉の娘・鶴姫の婿)の父・徳川光貞も言葉の上では光圀の論を正論とし、それを意識してか、意識せずとも資質なのか、甲府藩主としての綱豊の評判は内外に高いものがあった。

 桂昌院に疎まれ、綱吉も愛娘・鶴姫の夫の綱教を重視したためか綱豊も将軍職に色気を見せず白石をブレーンに、賢政に勤しんだ。
 その一方で、学問にあっては綱豊は藩主ではあっても弟子として白石に師事した姿勢を徹底し、学問の講義中、白石の前で弟子の礼を取って常に正座し、蚊が刺してもそれを追う事はなかったという。

 そんな雌伏の年月が過ぎる中、鶴姫と紀州綱教が相次いで夭逝し、綱吉も自らの血筋による将軍位継承を断念し、綱豊を養子として江戸城西ノ丸(将軍世嗣の居間)に迎えたのが綱豊四三歳の時で、この時をもって綱豊は名を家宣と改めた。
 宝永六(1709)年、徳川綱吉が没すると、徳川家宣は四八歳、と一五人の将軍の中で、初代家康を除けば最高齢で将軍に就任するや、評判の悪かった生類憐れみの令を廃止し、その後も新井白石と側用人の間部詮房(まなべあきふさ)をブレーンに、本丸寄合、すなわち無役である白石家宣からの諮問を側用人間部が回送し、それに答えるという形で政務が行われた。

 有名なその内容は、悪幣とされた元禄金銀改鋳、金銀海外流出阻止のための長崎貿易縮小政策(海舶互市新例)、重要外交であると同時に高経費行事でもあった朝鮮通信使の待遇の簡素化に、木下順庵一門の同門であった対馬藩儒・雨森芳洲と対立も辞さずに邁進した。いわゆる正徳の治であった。
 しかしながら好評をもって迎えられた正徳の治家宣が正徳二(1712)年一二月一一日に在職僅か三年にして病没したため、「師弟の日々」とともに終わりを告げた徳川家宣、享年五一歳


師弟に学ぶ事 この「師弟が通る日本史」の様々な師弟関係において(事情はどうあれ)この頁で「師」である新井白石のみが「弟」である徳川綱豊より後に世を去り、本来、「弟」が受け継ぐ筈の「師」の教えを、逆に「師」が「弟」の偉業を引継ぐ事になったのもこの師弟と、リクエスト版の長野主膳と井伊直弼の師弟のみの話である。

 そして白石家宣死後に、彼の遺児でもある七代将軍家継を間部詮房とともに補佐し、八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚した(というより幕閣が紀州閥に一新されたあおりを食ったわけだが)。

 公的な政治活動から致仕した白石の前行は朝鮮通信使応接、武家諸法度改訂等が吉宗によって覆される(一説には幕府に献上した著書なども破棄されたという)などし、かなり不遇だった。
 これには綱吉に可愛がられた吉宗が綱吉の生前の政治を否定するかのような政策を採った事への報復人事・報復政策とも見られている。それに対し薩摩守は異論はないが、両者のとった政治が時代への歪みを修正した観点からも暴政を布いたとは見ていないので、ただただ対人関係が興味深いと思っている。

 その後亡くなるまで白石は諸大名の家系図を整理した『藩翰譜』『読史余論』、古代史書『古史通』、また自身が会見した密航者ジョバンニ・シドッチ(ローマ教皇からの密命で日本にてキリスト教を布教しようとした)への尋問後に記した西洋事情の書『西洋紀聞』『采覧異言』、更に琉球の使節等との会談でえた情報等をまとめた『南島志』や、回想録『折たく柴の記』など著名な書物を後世に残す活動に勤しんだ。

 弟子である家宣の死に遅れること一三年、享保一〇(1725)年五月一九日に逝去。新井白石享年六九歳。

「師弟の日々」から新井白石逝去までの歴史に学ぶ事は相手への敬意と信念への追随が及ぼす影響である。
 甲府藩主・徳川綱豊の時代から、自らの社会的地位に胡座をかかず、弟子として白石への師事を徹底し、学問の講義中、常に正座し、蚊が刺してもそれを追う事はなかった綱豊の人柄と信念は「三尺去って師の影踏まず」の言葉が重んじられなくなって久しい現代の私達には汗顔の至りですらある。
 そんな綱豊は歴代将軍の中でも二代目・秀忠を尊敬していたが、秀忠の律儀な性格にも見習う所はあったのだろう。
 家康を別格として、家光から綱吉までの歴代将軍は上野寛永寺に葬られたのだが、家宣(綱豊)は秀忠と同じ芝増上寺に葬られた。

 その一方で腐す様で恐縮だが、この時代に生きた政治家達には想いの強さに公私混同とも取れる感があったのではないだろうか?
 綱吉→家宣・家継→吉宗の政権移行途上でカラーがこれほど変わるも珍しい(勿論各々が濃いキャラクターをしていることもあるのだろうが)。
 しかしながら正徳の治享保の改革もそれなりの歴史的評価を受けている。だから歴史は面白い(笑)。
 人間である以上誰しもが感情を持つし、それを全く反映させないよりは多少は反映させて居る方が、人間のための人間らしい政治や経営が為されそうに思われるが、くれぐれも行き過ぎることがない事の大切さを白石綱豊の師弟及び師弟にまつわる史上の人々に学びたいところである。

 最後に余談だが、徳川家の人々の名誉の為に彼等が自らの感情のみで動いた訳ではない一つのエピソードを紹介したい。
 それは酒にまつわる話で、城内の風紀問題に関連して、下戸である綱吉が酒に寛容で、上戸である綱豊が酒に厳しかったというものである。自らの好みでそれを配下に強要しないのはいい事である。


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令和三(2021)年五月三日 最終更新