リクエスト版 第壱頁 長野主膳と井伊直弼

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 長野主膳(ながのしゅぜん 文化一二(1815)年一〇月一六日〜文久二(1862)年八月二七日)
 井伊直弼(いいなおすけ 文化一二(1815)年一〇月二九日〜安政七(1860)年三月三日)

長野主膳とは? 「主膳」は役職名で(石田治部少輔、加藤左馬助みたいなもの)、諱は義言(よしとき)。江戸時代末期の国学者で、彦根藩主・井伊直弼に仕えた。

 伊勢国飯高郡滝村生まれだが、出自、経歴とも二五歳以前のことは一切分かっていない。
 蛮社の獄が起きた天保一〇(1839)年、滝野村の滝野次郎左衛門宅に居候し始め、二年後の天保一二(1841)年、次郎左衛門の妹・瀧女(たきめ)と結婚し、京都、伊勢、美濃、尾張、三河を遊歴した。
 翌年天保一三(1842)年、伊吹山麓にある志賀谷村の阿原忠之進宅に居候し、国史、和歌などを教授した。同年一一月二〇日に門人と彦根に出た。
 同年一二月、彦根は市場村の医師・三浦北庵の元に滞在し、『古事記』の講義を行った。
 その北庵が井伊直弼主膳の著書を送ったことで、二人は知遇を得た。
 夜から明け方にかけて国史や和歌について語り合うのが三日続き、直弼主膳に傾倒し弟子となったと云う。

 ペリーが浦賀に来航して約半年後の嘉永六(1853)年一一月二一日、直弼が第一五代彦根藩主に就任。主膳直弼に招聘されて藩校・弘道館国学方に取り立てられ、更に直弼の藩政改革に協力した。

 安政五(1858)年四月二三日、直弼が大老に就任。当時の幕府将軍は第一三代徳川家定だったが、彼は性来病弱で、将軍としての資質も、後継者を残す能力も疑問視され、開国か攘夷かを巡って騒然とする中での大老就任だった。
 そんな中、家定後継を巡って一橋派と南紀派による諍いが起きると主膳直弼の命で京に赴き、公家衆への裏工作を担当。結果、南紀派が推す徳川慶福(家茂)擁立に成功した。

 その直後幕府は同年六月一九日に勅許を得ないまま日米修好通商条約締結。七月六日には徳川家定が薨去するという激変を辿った。
 その背景で、攘夷派、一橋派の者達が直弼のやり方に非難の声を挙げたため、主膳は彼等の処罰を進言。これが同年から翌安政六(1859)年掛けて行われた安政の大獄と呼ばれる大弾圧となった。
 殊に主膳の尽力は世の人々が「京の大老」と称したほどで、直弼主膳主従は多くの者達に恨まれることとなった。

 安政の大獄における水戸藩関係者への苛斂誅求には、朝廷から水戸藩に為された戊午の密勅(攘夷決行が命じられていた)を、朝廷内部の情報収集に当たっていた主膳が察知しそこねたことで、密勅に対する不安が背景にあったと云われている。

 安政七(1860)年三月三日、水戸浪士による直弼への報復、所謂桜田門外の変が勃発し、直弼は途上途中で暗殺された。
 直弼はその場で首を取られた訳だが、天下の大老たるものが登城途中で暗殺されると云うことは幕府にとっても、彦根藩にとっても面子丸潰れの重大事で、隠蔽工作が行われた(それゆえ、東京都世田谷区にある井伊家の菩提寺・豪徳寺の直弼の墓碑には、「三月二十八日」が命日と刻まれている)。表沙汰にすると、水戸家への重罰が免れず、幕府が大乱となる危険すらあった。

 彦根藩は直弼存命を装って、直弼の名で桜田門外にて負傷した旨を届け出、将軍家茂も直弼の死を承知の上で、見舞品を彦根藩邸へ届けた。同時に「重傷」の直弼から長男・直憲への家督相続が認められ、万延元(1860)年四月二八日、直憲を新藩主に就任させることに成功した。
 だが、襲撃後現場状況から大老暗殺はたちまち世間に知れ渡り、彦根藩の威信低下は免れようがなかった。

 そして文久二(1862)年六月七日、薩摩藩主・島津久光が勅使・大原重徳を擁して薩摩藩兵と共に江戸へ入り、幕政の刷新を要求。これを受けて幕府は御三卿・一橋慶喜を将軍後見職、福井藩主・松平慶永を政事総裁職へ任命し、直弼安政の大獄で罰した者達が復権した形になった(文久の改革)。
 同時に末期の直弼政権を支え、直弼の死後に幕閣をまとめた老中・安藤信正が久世広周と共に老中を罷免。彦根藩は幕府より石高を三五万石から二五万石に減らされ、藩主の京都守護の家職を剥奪された。

 かかる問罪に関連して主膳の運命は終わりを告げた。
 新藩主・直憲は主膳を疎んじており、家老・岡本半介も直弼時代の功績や厚遇などを嫉視して主膳と対立していた。
 結果、彦根藩の窮地は長野主膳によるもの、という半介の進言を聞き入れた直憲によって長野主膳は斬首・打ち捨てという酷刑に処された。長野主膳享年四八歳。


師弟の日々 前述した様に、長野主膳井伊直弼の師弟の日々は天保一三(1842)年一一月二〇日に始まった。主膳直弼は共に文化一二(1815)年の生まれで、生年月日で見ても主膳が一三日早く生まれただけで、完全に「同輩」と言って良く、それでも師弟関係が成立したのだから、余程直弼主膳の才能・人格に惚れ込んだのだろう。

 また、師弟関係が成立した天保一三年に両者は二七歳だった訳だが、このときの直弼は藩主どころか、養子の口さえ期待出来ない立場だった。
 というのも、直弼は彦根藩第一三代藩主・井伊直中の一四男で、幼児生存率の低い当時とてとてもじゃないが藩主の座が回って来るなど考えられなかった。
 歴史上には、藤原道長(兼家四男)、武田勝頼(信玄四男)、徳川吉宗(光貞四男)の様に、兄の早世で氏長者や藩主になった者もいたが、その様な期待ができるのは良くて五男ぐらいまでで、通常三男以降は、「部屋住み」、時代劇風に言えば「兄の厄介者」で、期待出来るとすれば、家柄の良さや自己の才覚に優れた際に養子に迎えられるケースがあるぐらいだった。

 結果的には直弼は彦根藩主の座に就いたが、一四男が藩主に回って来るのが如何に低確率を乗り越えたものだったかは、下記の表を参照して欲しい。

第一三代藩主・井伊直中の男児達
兄弟順名前 主な経歴及び直弼との関係
長男直清(なおきよ)  世子となったが病弱のため廃嫡。後に二一歳で早世。
次男不詳 不詳
三男直亮(なおあき)  第一四代藩主に就任。子が無かったので、弟・直元、直弼を養子にした。
四男鋭三郎(えいさぶろう)  不詳
五男亀五郎(かめごろう)  不詳
六男中顕(なかあき)  家老・中野中経の養子となる。後に井伊姓に復し、兄・直亮、弟・直弼に仕えた。
七男久教(ひさのり)  豊後岡藩中川家の養子となり、藩主となった。
八男政成(まさしげ)  三河挙母藩内藤家の養子となり、藩主となった。偶然だが、直弼暗殺の二七日後に後を負う様に天寿を全う。
九男勝権(かつのり)  下総多胡藩松平家の養子となり、藩主となった。
一〇男親良(ちかよし)  藩祖・井伊直政の恩人であった新野家の名跡を継いだ。彦根藩家老として直弼を支えた。
一一男直元(なおもと)  兄・直亮の養嗣子として、第一五代藩主候補となったが、三八歳で早世。直弼の同母兄。
一二男義之(よしゆき)  井伊家家老・横地家の養子となって家督を相続したが早世。
一三男政優(まさひろ) 直弼の同母兄。異母兄で内藤家の養子となっていた内藤政成の養子となり、家督も継いだが早世。
一四男直弼(なおすけ) 本人。当頁参照。
一五男政義(まさよし)  日向延岡藩内藤家の養子となり、藩主に就任。

 恐るべき低確率を乗り越えて藩主に就任したものである
 この時代の常で、夭折した兄もいたにはいたが、一三人の兄の内、九人が立派に成人し、藩主なり、家老なりになっている。二人の兄の養子を迎えるタイミングや、他の兄達が他家に養子に行ったタイミングが少しでもずれていれば直弼の藩主就任は有り得なかった。実際、二人の兄が藩主となった直弼に仕えるという逆転現象まで起きていた。


 ここで話を本題に戻すが、当時の直弼には他家に養子に行く口を見つける為にも、文武に優れた人間になる為、「良き師」に対する「需要」があったが、主膳からすれば当時の直弼にコネクションを作るメリットは殆どなかった。当時の直弼は藩主であった兄・直亮から三〇〇俵の捨扶持を貰って生活していた身だから、高禄だって期待出来なかった筈である(ちなみに直弼が彦根藩主になったときに主膳を公式に召し抱えた際の俸禄は二〇人扶持=四〇石)。
 それでも師弟関係は成立したのだから、余程馬も合ったのだろう

 それゆえ、直弼主膳に対する信任はすこぶる厚く、通商条約への勅許や公武合体等で対朝廷対応にこれまでにない慎重さを求められた時期に主膳直弼から対朝廷工作を任された。
 これには、第一四代将軍候補を巡る問題で、直弼の推す南紀派の徳川慶福の優勢を作る為に、朝廷を味方につける工作も含まれていた。
 素で考えて余程信頼出来る者にしか任せられない話である

 純粋な師弟関係に触れると、長野主膳井伊直弼にとって、国学を学ぶ為の「師」であった。文武の習得に励みながらも、藩主や養子に縁のなさそうな我が身を皮肉ったものか、直弼は自邸を「埋木舎」(うもれぎのや。自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え)と名付けていた。
 ただ、それでも直弼主膳に学んだ国学以外にも、儒学、禅(曹洞宗)、書、絵、歌、剣術、居合、槍術、弓術、砲術、柔術、茶の湯、能楽等の習得に没頭していた。
 中でも居合と茶の湯では新しい流派を立てる程で、能楽でも自分で能面を作るのに必要な道具を一式揃えていたと云う。
 不謹慎なことを書けば、桜田門外の変にて襲撃合図の発砲で腰を討ち抜かれていなければ、暗殺に対して直弼がどれだけ善戦したか見てみたかった気がする。

 ここで触れておきたいのは、前述した多くの修行を積んだ井伊直弼には、長野主膳以外にも数多くの、その道の師達がいたと思われる。しかし主膳ほどに「直弼の師」として名を馳せている者がいないところを見ると、二人の仲は「学問上の師弟」を遥かに超えていたのだろう。

 大老に就任した直弼は、主膳ともに、「安政の大獄」と呼ばれた、数多く似人々の怨みを買う程の大弾圧を行い、勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結したが、このとき、主膳直弼にあてた意見書の中には、

 「現在となっては開国も仕方がないが、外国人を一定の場所(居留地)に閉じ込めて厳しく監視して商売を規制して、出て行くならそれで良し、報復するなら打ち払うべきである」

 と述べ、直弼も条約締結の年に堀田正睦に出した書簡の中で、

 「外国人の説に感服して一歩ずつ譲歩するのは嘆かわしく」、「皇国風と異国風の区別を弁えるべきである」

 と忠告を寄せていた。このことからも主膳直弼の師弟は様々な思想や立場現実問題の狭間で相当に苦悩していたことが分かる。
 この様な苦悩は大勢で共有すると混乱の下でしかない。余程信頼する者同士とでないと共有できないが、皮肉にもこれが両者の不幸に繋がった。

 周知の通り、井伊直弼桜田門外の変に倒れた。前後の記録からも、直弼にある程度の覚悟があったのは明らかである。偏に安政の大獄で敵を作り過ぎたことにあったが、思想的に同調するものは多くても、その辣腕に対して味方するものが少なかったのがアウトだった。
 暗殺という事件の為、「師」よりも「弟」の方が先に逝ってしまった。このケースは本作では第捌頁の「新井白石と徳川綱豊」の例に見られるが、これは白石が長命だったから、と言える。
 だが、主膳の場合は年齢的にも、政治的人間関係の危うさからも、「弟」の方が先に死んでもおかしくなく、実際そうなった。それでも「突然の不幸」で、対処に追われた彦根藩では尋常ではない対応を強いられ、そこに主膳の仲間はいなかった。
 偏に、主膳直弼の仲が密接過ぎたために、他人の介在する余地がなく、それゆえ、片方の死は片方の孤立を意味したのだった。

 そして事件から二年が経ち、安政の大獄に対する静かな報復が彦根藩関係者に対してなされると、それは暗に「直弼批判」となり、矛先は既に故人となっていた直弼に代わって、彼の師であり、相方でもあった主膳に対して向けられたのだった。

 自分より、先に逝った弟子のために不名誉な死を余儀なくされた主膳の心にこの時、同様な想いが去来したことだろうか。
 斬首・打ち捨ての刑となった主膳には葬礼さえ許されなかったが、時が流れ、明治に入り、直弼が見直される様になると、さすがに主膳に対する哀れみも生まれたのか、彦根の天寧寺に墓所が建立された。
 彦根藩の危機に際し、主膳にすべての罪を被せた藩のやり方は感心できるものではない。
 しかし、せめて、結果として彦根藩が一枚岩となり、王政復古後の政局において新政府にいち早く加わることが出来たことに主膳が草葉の陰で直弼とともに胸を撫で下ろしていたと思いたいものである。


師弟に学ぶこと 長野主膳井伊直弼両名のコンビネーションと信頼関係だけを見れば、「師弟」どころか、「生死を共にする盟友」と言って良い関係だった、と言える。

 直弼が大老に就任したとき、幕府は将軍(家慶・家定・家茂)が落ち着かず、朝廷からは攘夷決行を強要され、一橋派は逆らい、薩摩・長州は油断ならず、アメリカは通商条約締結を迫り、他の欧州列強がアジア各地を侵略して植民地下に収め、老中主座の阿部正弘が過労死に近い急死を遂げる………という踏んだり蹴ったりの状態にあった。
 薩摩守が直弼の立場ならこの様な状態で大老就任を要請されても、恐らく断っていただろう(注:大老は常設ではない)。

 このような混乱状態の中、いつ敵と味方が入れ替わるかも知れず、心許せる味方の存在が、如何に大切かが分かる。殊に主膳直弼は、ある意味汚れ事や怨嗟の声まで共有していたのだったから、これは直弼が部屋住みだったときに既に強力な関係が成立していたのだろう。余り想像したくないが、二人には肉体関係もあったかも知れない。

 同時に、この二人に学ばされることは、「密接なパートナーシップであればある程、相方が失われた場合の対処への備えが大切。」ということである。
 井伊直弼は「井伊の赤鬼」と称され、恐れられた。「赤鬼」とは井伊家伝来の赤備えに由来するもので、藩祖・井伊直政も同じ仇名で呼ばれ、恐れられたが、意味は大きく違った。
 直政は純粋に勇猛されて畏れられたが、直弼はその辣腕振り、強権発動振り、苛斂誅求で怖れられた(←同じ読みでも漢字の違いに注意)。
 前者は尊敬されたが、後者は嫌われた訳で、その直弼が殺されたときに、残された井伊家中にはその価値観を理解し、共有し、意志を継いで実践出来る者は皆無だった。勿論主膳は生きていたが、公式的な意味で直弼の遺志を政治的に告げる立場になかった。そして主膳はその立場故に全責任を押し付けられたときに抵抗する術をもたなかった。

 師弟で理想や行動を共有して辣腕を振るうとき、「師」がいなくなっても「弟」が如何なる抵抗勢力にもびくともしないだけの強権体制を築き上げ済みなら問題は無い。
 だがその時には「弟」には「師」以上の仲間が存在している筈である。大老・井伊直弼には彦根藩のみならず、紀州藩、延岡藩、挙母藩のも大勢の血縁者がいて、様々な道の師弟がいた筈だったが、そこに長野主膳に匹敵するだけの仲間がいなかったことが悔やまれる。
 良き師弟関係構築の後は、その関係の拡大こそが大切であることを子の師弟は現代に教えてくれている。


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令和三(2021)年五月三日 最終更新