第壱頁 源義平……対照的な「悪源太」と「政治家」

名前源義平(みなもとのよしひら)
生没年永治元(1141)年〜永暦元(1160)年一月二五日
家系清和源氏
源義朝
京都郊外・橋本の遊女、または三浦義明の娘
嫡男となった弟源頼朝(六歳違い)
最終的な立場罪人
略歴 永治元(1141)年、源義朝を父に、その庶長子に生まれた。母は京都郊外・橋本の遊女、または三浦義明の娘とも云われている。
 鎌倉をホームレンジに幼い頃から暴れまわっていたので、「悪源太」との通称で呼ばれ、戦場では自分でもそう名乗った。
 ここでの「悪」は漢字の持つ「悪い」という意味ではなく、「強い」、「猛猛しい」という意味で、「悪源太」=「強い氏の郎(=長男)」という意味になる。

 久寿二(1155)年、父・義朝が叔父・源義賢(為義次男)と対立。義平は義賢の居館武蔵比企郡の大蔵館を急襲し、義賢や義賢の舅・秩父重隆を討ち取って武名を轟かせた(大蔵合戦)。このとき、源義平弱冠一五歳だった。
 本来なら「叔父殺し」の悪名を受け、罰せられるところだったが、義朝が逸早く手を打ち、懇意にしていた藤原信頼に、「秩父一族内部の家督争いを鎮める為のやむを得ない措置」との認定を得たため、義平が処罰されることはなかった。

 保元元(1156)年、保元の乱が勃発。崇徳上皇と後白河天皇の対立に、摂関家、源氏、平氏も一族が別れて双方に味方したため、義平は父・義朝に従って後白河天皇側に付き、祖父・為義、叔父・頼賢等と戦った。

 保元の乱の勲功で、義朝は左馬頭となったが、その出世は、乱での活躍度からして、明らかに平清盛の出世に劣るものだった。
 それゆえ、義朝は藤原信頼と組んで、平治元(1159)年一二月九日、平清盛の留守を見計らって挙兵し、信西を殺害し、後白河上皇、二条天皇を捕虜とした(平治の乱)。
 義平は東国にいたところを義朝からの援軍要請を受け、三浦氏・上総介氏・山内首藤氏など、自分や義朝に私的に親しい東国武士を率いて都に上った。

 上洛した義平に対し、藤原信頼は除目を催していた最中だったので、「ちょうど良かったのう。大国でも小国でも望みの官位を呉れてやるぞ」と上機嫌で云った。
 だが出世よりも戦の方が好きな義平「そんなことよりも、すぐに阿倍野(現:大阪市阿倍野区)へ出陣して、帰ってくる清盛を討ち取りましょう。その後ならば大国でも小国でもいただきましょう」と返答した。
 そんな血気の義平に信頼は気分を害し、「乱暴なことを申す。阿倍野まで行っては馬の脚が疲れてしまうわ。清盛はゆっくり都で取り込めて討ち取ればよろしい」と拒否したという。
 ただ、このやり取りは創作と見られている(『保元物語』にて藤原頼長と源為義とが似たやり取りをしている)。藤原信頼という人物に対しても、確かに器も才も大きい男ではないのだが、武士の力を早くから着目し、義朝以外にも、平清盛、藤原秀衡とも誼を通じており、充分な官位を独力で掴んでおり、『平家物語』に描かれている程にはちゃらんぽらんな人物ではなかったようなので、その言動の検証には少々注意を要することを述べておきたい。

 やがて清盛が都に戻り、謀略をもって軟禁されていた上皇と天皇を六波羅に移し、藤原信頼を謀反人として追討せよ、との命令を受けると、源氏方は大義名分を失って不利となった。
 一二月二六日、平経盛、頼盛、重盛等を相手に、寡兵ながらも義平は先頭に立って奮戦。特に同じ「庶長子」という立場を持つ平重盛相手の奮闘振りは『平家物語』のハイライトと云っていい。
 だが、朝敵となることを恐れた同族の源頼政が味方しなかったことも祟って、源氏方は敗北した。

 藤原信頼は降伏するも殺害され、義朝父子一行は東国を目指して落ち延びた。
 だが真冬の逃避行の最中、この時が初陣だった三弟・頼朝がはぐれて行方不明になり、次弟・朝長も落ち延びる途中で負傷から足手まといになることを恐れ、義朝の手で討たれることを望み、命を落とした。
 義朝義平は途中で別行動を取ることとし、義平は東山道から東国を目指した。しかし、途中飛騨にて義朝が尾張で謀殺されたことを知り、集めた兵も逃げ散ってしまった。義平は自害を考えたが、せめて清盛か重盛と相討ちになろうと決め、父の仇を討つべく都に戻って清盛、重盛の命を狙った(この辺り、『平家物語』によるところが大きく、史実の詳細は不詳)。
 しかし上手く清盛父子に接近出来ず、京を離れ、近江石山寺に潜伏するも、永暦元(1160)年、捕えられ、六条河原において処刑されることとなった。

 死に際して義平はまず六波羅で清盛の尋問を受けた。
 それに対し、義平

 「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」

 と云ったきり、押し黙ってしまった。
 六条河原へ引き立てられると、自分を捕えた相手で、斬首役ともなった難波経房に、

 「俺ほどの者を白昼に河原で斬るとは、平家の奴らは情けも物も知らん。阿倍野で待ち伏せて皆殺しにしてやろうと思ったのに、信頼の不覚人に従ったためできなんだのが悔やまれるわ。」

 との悪態をつくと、経房へ振り向き、

 「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる。」

 と云った。「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と経房は受け流し、義平は斬首された。源義平享年二〇歳。
 だが、義平の云った「喰らいつく」とは、雷神となって襲うこと意味したと云われており、八年後、難波経房は清盛のお伴をして摂津布引の滝を見物に行った時、にわか雷雨に遭い、雷に打たれて死んだという。


庶長子としての立場 何せ「悪源太」の二つ名と戦歴から、源義朝の嫡男かと思ってしまう程、源義平のイメージは強烈である。
 義朝には九人の男児があったが、平治の乱に参加したのが義平朝長頼朝の三人までで、頼朝平治の乱が初陣であったことがはっきりしているが、朝長の初陣ははっきりしていない。
 いずれにせよ、保元の乱以前に戦を経験していたのがはっきりしているのは庶長子である義平だけで、義朝にとって、戦場で最も頼りになる息子だったことは間違いない。

 義朝自身、膂力に優れた豪の者で、長田忠致は風呂場で丸腰になったところを襲うことでその首を取った。このとき義朝は「せめて木太刀の一本なりともあれば(こんな奴等に討たれないのに)」との無念を漏らしたと云う。
 義平はそんな義朝と似ていたのだろう。

 「略歴」でも挙げたように、義平一五歳の若さで叔父を殺すというとんでもない仕事義朝から任された。
 いくら骨肉の争いが珍しくない時代と云っても、弟が兄を、子が父を討つことが重大な禁忌とされていたことを思えば「叔父殺し」はやはりインパクトが強い。軍事行動と犯罪を一緒にしてはいけないが、現代では一〇代が人を殺せば強烈なインパクトが残る。

 勿論、このとんでもない事件には義平のタッチできないところで為された背景があった。保元の乱の遥か以前から父・義朝と祖父・為義は不仲だった。
 高祖父・義家の没後、源氏は落ち目で、曾祖父・義親は出雲で謀反人として討たれ、そのイメージダウンも引きずっていた(一方で義親を討った平正盛を筆頭とする平家が台頭した)。為義と義朝の不仲も、そんな状況下での源氏の有り様を巡ってのものと思われる。
 詳細は不鮮明なのだが、為義は次男・義賢を後継者に考えていたらしく、伝家の宝刀も託されていた。

 いずれにせよ、清和天皇の血を引き、決して卑しい血統ではなかったにもかかわらず、「謀反人の子孫」、「東国の山猿」と都人から揶揄され、それでも都合のいい時には利用される源氏武者にとって、己の武勇は最も身近で、最も手っ取り早く名を挙げる手段だった。
 似た例を挙げれば、叔父の鎮西八郎為朝が有名だろう。

 だが、為朝にしても、義平にしても、母の出自が出世に歯止めを掛けた。両者の母は遊女だった故に、父親からの待遇は異なるが、官位的面では冷遇された。
 為朝は僻地に追いやられ、義平の次弟・朝長が保元四(1160)年に従五位下・中宮大夫進に、三弟・頼朝が保元三(1159)年に皇后宮少進に任じられたのに対して、義朝の長男でありながら義平が官位を得たという記録は残っていない。
 こうなると尚のこと、武勇に一直線に走って人々を見返そうとしたとしても不思議はなかろう。

 義平はその勇猛さから、どうしても史実よりも『平家物語』での描写で語られがちだが、『平家物語』の作者は明らかに義平に好意的と見られているから、ある意味必然と云えよう。
 平治の乱にて、義平が勇みに勇んで突撃し、平重盛に向い「嫡男同士なんの不足があろうか、さあ組もう」と挑みかかるシーンがあるが、厳密には両者とも「嫡男」ではなく、それでも嫡男以上に父に頼られた史実があるから、余計に印象的である。
 惜しむらくは、重盛が勇猛さよりは慈悲や温厚さで人に慕われる役柄ゆえに、「(義平のような武者は)まともに相手にすべき敵ではない。」と考えて兵を退かせ、そのことが「平家の五〇〇騎は源氏の一七騎に追い回され蹴散らされた。」という有り得ないシーンに描かれたことだろうか。
 念の為に触れておきたいが、重盛は保元の乱においては、清盛が恐れて、自重を促した源為朝に突撃を掛けようとした程、勇猛さも持っていた男だった。義平と組み合おうとしなかったからと云って、決して臆病ではない。


嫡男との関係 源義平源頼朝の年齢差は六歳違いである。近くも無ければ遠くも無い年齢差である。
 義平頼朝をどう見ていたかは詳らかではないが、頼朝はある程度意識していたようである。伊豆に育った頼朝が、鎌倉を本拠としたのも、「鎌倉悪源太」と呼ばれた義平の存在は無縁ではあるまい。

 ただ、弟にも冷酷だった頼朝が、長兄・次兄が生きていた際に上辺は敬意を払っても、腹の中でどう思い、権力で上に立った際にどう遇したかは怪しい。
 年齢が少し年上なだけとはいえ、頼朝は叔父の源行家に敬意を払わず、すぐに不和となり、行家もまた頼朝の手のものに殺されている。
 父の義朝に対する敬意と、同母弟である希義に対する愛情、息子達への溺愛を除けば、血縁だからと云って(体裁上はともかく)愛情を持つ男ではないのである。

 とはいえ、生前の義平頼朝には平治の乱に従軍した以外にこれといった接点自体が見当たらないので、義平死後で見てみると、頼朝義平関連で二つの行動を起こしている。

 一つは、源義仲との和睦である。大蔵合戦時に二歳だった義仲は家臣の計らいで義平の魔手を逃れて木曾にて成長し、他の源氏同様、叔父の行家から以仁王(後白河法皇第二皇子)の令旨を受けて挙兵したが、その行家が頼朝と仲違いし、行家を匿ったことで頼朝と一触即発となった。
 だがまともに事を構えるのは不利と見た義仲は降伏に近い和睦を結び、嫡男・義高を人質として鎌倉に送った。義仲にとって、父の仇である義平の弟・頼朝に降り、息子を仇が本拠とした鎌倉に送るのは断腸の思いだっただろう。
 一応、両者は従兄弟同士でもあったので、頼朝は義高を人質とはいえ、名目は「自分の長女・大姫の婿」という形で迎えた。だが結局頼朝は弟達に義仲を討たせ、義高も殺した(本気で義高を愛していた大姫はこの悲しみで若い命を縮めた)。親・子・孫を兄弟に討たれた木曾一族の無念や如何なるものだったろうか?

 もう一つは義平未亡人の祥寿姫(しょうじゅひめ)を巡る話である。
 寿永元(1182)年七月、助平男・頼朝は、亡兄・義平の未亡人・祥寿姫を妻に迎えようとした。だが、頼朝がどうというより、頼朝の妻・北条政子は嫉妬で何を仕出かすか分からない女で、頼朝の妾になることは危険なことだった。
 祥寿姫の父・新田義重(新田源氏始祖)は政子の怒りを恐れ、祥寿姫を他家に嫁がせた。兄の未亡人を我が物とすることは、当時としては倫理的にどうだったのだろう?

 義平にとって、頼朝が同母弟か、異母弟でも正室の子でなかったなら、勇猛さと父親の寵愛で「長兄」として君臨出来ただろうけれど、共に成人し、「庶長子VS嫡男」で相対していたら………………?ロクなことにならなかったと思うのは薩摩守だけではあるまい。猛将然とした義平と、政治家然とした頼朝とでは対照的であるが故に、「水と油」になっただろうとも推測される
 平治の乱に敗れて死したのは、武運の至らざるところだったかも知れないが、母の出自ゆえに「嫡男」になれず、武勇に生きるしか道の無かった源義平には、乱の果てに有名を保って死ねたのはまだいいことだったかも知れない。
 それしか道が無かったとしたらとても悲しいことではあるが。


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令和三(2021)年六月三日 最終更新