第弐頁 平維盛……影薄きその後
名前 平維盛(たいらのこれもり) 生没年 保元三(1158)年〜寿永三(1184)年三月二八日 家系 桓武平氏 父 平重盛 母 官女 嫡男となった弟 平清経(五歳違い) 最終的な立場 従三位
略歴 平治の乱の一年前となる保元三(1158)年、平重盛の庶長子として誕生した。母は官女だった故に、正式には嫡男ではなかったが、父・重盛が祖父・清盛の嫡男でないにもかかわらず、嫡男同然に愛されていたため、平維盛もまた「事実上の清盛嫡孫」として世上の人々から注目される存在として育った。
「平氏一門の嫡流」と目されたためか、実際に美男子だったためか、維盛は美貌の貴公子として宮廷にある時には「光源氏の再来」と称された。これは薩摩守とタメを張れる美貌かも知れない(←勿論根拠なき自己陶酔)。
誕生の翌年、清盛と重盛は平治の乱に勝利し、権勢を振るい、平家は我が世の春を謳歌した。
承安二(1172)年、藤原成親の次女・新大納言局を正室に迎えた。
安元二(1176)年三月四日、後白河法皇五〇歳の祝賀で、烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して舞い、その美しさから「桜梅少将」と呼ばれた。
治承三(1197)年閏七月二九日、清盛の後継者と目されていた父・重盛が四二歳の若さで病死。清盛三男で、正式な嫡男でもあった叔父・平宗盛が平氏の棟梁となり、維盛と、弟・資盛の平氏一門で立場は微妙なものとなった。
重盛の死後、後白河法皇が重盛の知行国越前を没収した。これは重盛の遺児である維盛等の生活基盤を脅かすものだった。
しかも法皇は二ヶ月前に病死した盛子(清盛長女)の荘園も没収しており、鹿ヶ谷事件でも清盛と法皇の間に立って、法皇に責任が及ばない様にした功労者・重盛の没後に対するこの仕打ちに清盛の怒りは頂点に達した。
清盛は兵を挙げ、後白河法皇を幽閉するに至った(治承三年の政変)。
治承四(1180)年、後白河法皇の第二皇子・以仁王は全国の源氏に平家追討の令旨を発令した。
同年五月二六日、維盛は大将軍として叔父・平重衡と共に反乱軍を追討すべく宇治に派遣された(宇治川の戦い)。乱は維盛の乳母父・伊藤忠清等の奮戦により早期に鎮圧されたが、重衡とともに兵を南都へ進めようとした維盛は、忠清に「若い人は兵法を知らない。」と諫められた。時に平維盛二三歳。
同年九月五日、維盛は源頼朝を討つ為の東国追討軍の総大将となった。だが出陣段階から「日が悪い。」とのことで忠清と揉め、この年西日本一帯を凶作が襲ったこともあって、兵員も食料も思うように集まらず、ようやく出発出来たのは月末だった。
そしてこのことは各地の源氏が次々と兵を挙げるのに充分な時間を許す結果となった。
ようやく駿河に到着し、富士川の麓に陣を張ったが、甲斐源氏との対陣中も逃亡兵が続出し、『平家物語』では七万と記された大軍も、実際には四〇〇〇騎程度で、最終的には一〇〇〇~二〇〇〇騎ほどにまで減り、鎌倉からやって来る頼朝の大軍とまともに戦える状態になかった。
維盛は退きたくなかったが、伊藤忠清に再三撤退を主張され、士気を失っていた兵達もこれに賛同。維盛も撤退提案に応じた。
そしてその夜、甲斐源氏が夜襲を掛けようとして、それに驚いた富士沼に集まっていた数万羽の水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音を敵の夜襲と勘違いした平氏の軍勢は慌てふためき総崩れとなって敗走した。所謂、富士川の戦いだが、「戦い」とは呼べんな、これ(笑)。
一一月、維盛は僅か一〇騎程度の兵とともに命からがら京へ逃げ帰り、清盛を激怒させ入京を禁じられた。
だが、それから四ヶ月後の養和元(1181)年閏二月四日、祖父・清盛が熱病で苦しみ抜いた果てに病没。
翌三月、墨俣川の戦いでは、宇治川の戦い同様、叔父の重衡と共に大将軍となり、源行家率いる源氏軍に大勝した。
二年後の寿永二(1183)年四月、維盛を今度は源義仲(木曾義仲)追討軍の総大将として総勢一〇万(実際には四万程だったらしい)の軍勢を率いて北陸に向かった。だが五月一一日、倶利伽羅峠の戦いで義仲軍の火牛の計の前に惨敗した。
この敗戦が元で同年七月、平家は都落ちとなり、維盛は妻子を置いて都を後にした。
寿永三(1184)年二月、維盛は一ノ谷の戦いに前後して、密かに陣中から逃亡。三〇艘ばかりを率いて南海に向かい、そこから高野山に入って出家。更には熊野三山を参詣して三月二八日、船で那智の沖の山成島に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎ出し、そこで海中に身を投げて、自害した。平維盛享年二七歳。
庶長子としての立場 「清盛の嫡孫」と見られがちな、平維盛だが、そもそも父・重盛は清盛の嫡男ではなく、維盛も重盛の嫡男ではなかった(清盛の嫡男は宗盛で、嫡孫は清宗)。
それにもかかわらず、「清盛嫡男・重盛、清盛嫡孫・維盛」という見方をされるのは、ズバリ『平家物語』の影響が大きい。
何せ『平家物語』における平重盛は非の打ちどころのない男として描かれている。
平家の若大将として、保元の乱、平治の乱に勇猛さを見せ、清盛と後白河法皇が対立するようになった際も、「朝廷への忠義」という正論を説く重盛には清盛とて頭ごなしに押さえつけることは出来なかった。
特に本来の清盛嫡男である平宗盛が『平家物語』では全くの凡将・愚人・臆病者にされてしまっているので、母方に有力な一族を持たないのに、己の力量と人格だけで誰もが「清盛嫡男」と云っても納得してしまう重盛は輝きまくっている。
父と叔父がそんな調子だから、維盛もまた自然の流れ的に「嫡孫」と見られ出した。だがこれは宗盛にとって面白くないことだった。それでも清盛でさえ一目も二目も置いた重盛存命中は問題なかったが、重盛が没すると維盛はその出自に悩まされることとなった。
重盛が四二歳で若死にしたとき、維盛は二二歳だった。貴公子然とした評判は良くても、政治や軍事に格段の功績を積んでいた訳でもない身で嫡流を継ぐのは無理があり、平家の頭領には宗盛が治まった。
『平家物語』でボロクソに描かれている平宗盛は、確かに武将としてはカッコ悪い男なのだが、武士に向いていないと云える程「優し過ぎる男」でもあった(以仁王が討たれた際にもその子供の助命嘆願に走り、壇ノ浦の戦い後も死の直前まで子・部下の身を案じていた)。それゆえ維盛も宗盛に邪険にされた訳ではなかったのだが、配偶者の関係で周囲からの冷視線に曝されることとなった。
というのも、重盛の正室は、鹿ヶ谷事件で平家に反逆した藤原成親の妹で、維盛の妻は成親の次女だった(都落ちの際に、維盛が妻子を同道させなかったのも、このことが関連していると云われている)。
鹿ヶ谷事件に際して、謀議に加わった西光が斬られ、俊寛が鬼界ヶ島という最果ての地に流されたのに対し、成親は重盛の嘆願もあって、備前への流刑という温情刑に処されていた。
成親減刑の為に重盛は、清盛に対しても、配下に対しても、「法皇様に弓を退く者はまず我を討て。さすれば我は朝廷に対して不忠者にならず、父に対して不孝者にならずに済む!」と云い放ったほどだった。
それでも成親は一年後に流刑地にて変死した。崖からの転落死だが、転落した地面には武器が並べられていて、それらの武器が成親の体を貫いていたというから、どう考えても事故とは思えない。されば、成親は重盛一家を除く平家一門から相当嫌われていたと見るべきで、圧倒的な存在感を持つ重盛亡き後、成親を舅に持つ維盛も、成親を伯父に持つ維盛の弟達(清経、有盛、師盛、忠房)への視線は冷たくなったのも無理はなかった。
しかもそれまで嫡流でもないのに、美貌が評判で、武士らしくも無いのに嫡流然としていた維盛への視線は、妬みも手伝った更に冷たいものとなっていた。
都落ちの直前、妻との別れを惜しんで集合時間に遅れた際にも維盛は冷視線に曝された。
次に兄弟における立場で見てみたいが、平重盛には七人の男児がいた。つまり維盛には六人の異母弟がいた訳である。
一人一人解説すると大変なので、まずは簡単に下記の表を参照して頂きたい。
平重盛の息子達
兄弟順 名前 生没年 母 最期 一 維盛(これもり) 保元三(1158)年〜寿永三(1184)年 官女 一ノ谷の戦い後那智沖で入水自殺 二 資盛(すけもり) 保元三(1158)年〜寿永四(1185)年 藤原親盛娘 壇ノ浦の戦いにて、弟・有盛、従弟・行盛と供に入水。 三 清経(きよつね) 長寛元(1163)年〜寿永二(1183)年 藤原経子 都落ち後、九州で父・重盛の元重臣に合力を断られ絶望し、豊後にて入水。 四 有盛(ありもり) 長寛二(1164)年〜元暦二(1184)年 藤原経子 壇ノ浦の戦いにて、庶兄・資盛、従弟・行盛と供に入水。 五 師盛(もろもり) 承安元(1169)年〜寿永三(1184)年 藤原経子 一ノ谷の戦いにて討死。 六 忠房(ただふさ) 不詳〜文治元(1186)年 藤原経子 屋島の戦い後、紀伊に渡り、平家滅亡後も抵抗したが、頼朝に騙される形で降伏するも、鎌倉から京へ戻る途中で殺された(←勿論頼朝の差し金)。 七 宗実(むねざね) 仁安三(1168)年〜不詳 不詳 都落ちに加わらず。平家滅亡後、東大寺にて出家。鎌倉に護送される道中、食を断って自害(異説有り)。
壇ノ浦の戦いに最後まで戦った者もいれば、途中で諦観に取り付かれて命を絶った者もいれば、戦死した者もいて、暗殺された者もいる。ということは父・重盛を亡くした段階で、小松一族(←重盛の邸宅の場所から、重盛ファミリーはそう呼ばれた)には庶長子も、嫡男もなかったのかも知れない。
それどころか平家自体が生き残るのに必死で、最後にはそれも叶わなかった状況ではそれこそ嫡流も、庶流もなかったのかも知れない。
偏に、下手な嫡男より嫡男らしい父を持ち、貴族化した平家の急先鋒となった矢先に武士の世界に放り込まれたのが平維盛の悲劇だったと云えようか。
ちなみに、九条兼実は日記・『玉葉』に資盛を重盛の嫡男と記している。確かに維盛が一〇歳で従五位下に叙任される前年に年下の資盛の方が先に従五位下に叙任されている。
同時に『玉葉』は後に維盛が重盛の庶長子から嫡男として立てられたと見る記述も残している。
確かな史実として、嘉応二(1170)年一二月、維盛は資盛の官位を追い抜いた。だが、結局、養和元(1181)年一二月、維盛は従三位に叙されたが、公卿昇進は宗盛・嫡男(清盛嫡孫)の平清宗に一年遅れており、嫡流には戻れない運命だったのかも知れない。
方面軍の総大将を任じられ、叔父・重衡とタッグを組んでいた頃が維盛の絶頂期だったのだろう。そうなると、重衡が捕えられた一ノ谷の戦い直後に命を絶ったことも妙に納得出来る。
嫡男との関係 平重盛の庶長子が平維盛で、嫡男は三男となる平清経だった。では維盛と清経の関係は?
恥ずかしながら全くと云っていい程不詳である。強いて云えば、両者は風流人として似た者同士の兄弟である。
維盛は舞に優れ、清経は笛の名手だった。しかし両者が行動を共にする記述すら見られないので、どの様な仲だったのか分からない。
清経の同母弟・有盛は庶兄の資盛と一緒に入水しているので、兄弟仲は悪くなかったと見えるが、壇ノ浦の戦いの時点では兄弟仲の良いも悪いもなかっただろう。
そもそも清経自体が書面に余り現れない人物である。重盛嫡男としての言動を見るとすれば、都落ち直後の行動だろう。
平治の乱や石橋山の戦いに敗れた源氏方が東国での再起を図ったように、富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦いに敗れ、平氏方は西国よりの再起を図った。このとき、一旦大宰府に落ち着いた平家一門は、再起を図るのに豊後に勢力を持っていた緒方維栄(おがたこれよし)の力を借りようとした。その説得を任されたのが清経だった。
というのも、緒方は重盛の元家人で、その縁からも重盛の嫡男・清経が適任と見みられたからである。
だが、説得は失敗した。緒方の元には、後白河法皇の手が回っていて、法皇が正式に皇位を譲ったのは後鳥羽天皇であるとして、安徳天皇を擁する平家に従えば朝敵になると脅されていた。
重盛に恩義を感じていた緒方は清経を丁重に遇したものの、朝敵の汚名を恐れる旨を述べ、合力を拒否しただけでなく、大宰府に居座り続ければ攻め入らざるを得ない、と告げた。
清経が絶望の余り豊後の海に入水したのはそれから間もなくのことだった。
一方で、この頃には都落ち以前は方面総大将まで任じられた維盛は一武将に過ぎない立場になっていた。
父・重盛から受け継がれようとした栄華が失せ、一門の栄華まで消え去ろうとしている状況下で徹底抗戦に燃える程好戦的ではなく、厭世的だったところが似ていたとはどこか皮肉な兄弟だった。
しかし、平家の武者って、好戦的な奴(例:知盛、重衡、教経、資盛)と、文弱的な奴(例:宗盛、維盛、清経)が随分極端だなあ………。両方を兼ね備えた人物って、重盛、忠度ぐらいではなかろうか?チョット余談だったが。
次頁へ
前頁へ戻る
冒頭へ戻る
戦国房へ戻る令和三(2021)年六月三日 最終更新