中川五郎治(なかがわごろうじ)−日本初の種痘
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略歴 中川五郎治は陸奥出身の町民で、松前から択捉島に渡って紗那(しゃな)会所の番人小頭だった。当時はただの「五郎治」で、姓もなく、下世話な言い方をすれば木っ端役人だった。勿論医者でも何でもない。
三二歳の時にアイヌ語と少々のロシア語が話せた彼は当時江戸幕府が日本領と定めて開発に着手した択捉島に立身出世の場を求めて渡航し、会所で交易(と言うより輸送)に務めていた。
そして運命の時文化四(1807)年四月二五日がやってきた、時に五郎治四〇歳。
ロシア艦による襲撃である。このサイトの主旨に含まれないので詳細は割愛するが、今尚ややこしい北方領土問題はこの当時既に始まっていて、幕府がロシアからの開国要求を(散々待たせて遠距離を移動させた上で)袖にした事や、国境明らかならない千島列島からも日露関係は険悪だった。
もっとも、この襲撃自体はロシア皇帝の命令でも、ロシア帝国軍の命令でもなく、一部の軍人が起こした「犯罪」であった。
ロシアの近代兵器の前に沿岸警備兵は簡単に蹴散らされ、間宮林蔵の督戦にもかかわらず戦わずして逃げた函館奉行の戸田又太夫は逃走後に自刃する始末だった。
その後引き返してきた間宮達が略奪した日本酒に酔いつぶれて帰艦に遅れたロシア兵一人を(大勢で)討ち取ったのが唯一の戦果だった。
ここで五郎治は交渉の為にロシア兵に近づいたが、「Здраствуйте(ズトラストヴィーチェ:こんにちは)」という間もなしに問答無用の袋叩きに遭い、他の九人の捕虜と供に船倉に閉じ込められた。
その後、国後、樺太(サハリン)と連れ回された挙句、利尻で八人が釈放されたものの彼と左兵衛という部下だけがそのままシベリアにまで連れ去られた。
二人だけがロシアまで拉致されたのは上級武士と勘違いされたためである。それは船内拘留中に本当の上級武士であった大村治五平(南部藩砲術師)が五郎治に身分の詐称を強要したからだった(後に大村はその咎で処罰されている)。
強要されて「中川良左衛門」と名乗った五郎治はこれ以降、ロシア人達からはロシア語と日本語の発音の相違もあってか、「レオンザイモ」と呼ばれた。
ロシアでの抑留は五年に及んだ。ロシア側では早くにこの暴挙を犯罪と認め、オホーツクに連れられた五郎治と左兵衛は商会でロシア役人の謝罪を受けた。艦長のホフストフもロシア政府に逮捕・処分された(軽刑だったが)。
二人は一応の待遇を与えられたがその待遇も役人の異動で二転三転し、幾ばくかの誠意を見せたロシア側も帰国に関しては全く非協力的だった。
帰国を望めそうになかった二人は日本海海岸沿いに満州−朝鮮半島経由で帰国する事を図って二度脱走を企てたが、いずれも失敗に終り、その途中で左兵衛は鯨の腐肉にあたって死んだ。
悲嘆の五郎治はしかし、逃走途中の狩猟の腕が認められて厳寒に苦しみつつも生き抜いた。その間別の日本人漂流者とも知り合ったりもしたが、キリスト教への改宗を勧められたこともあり、帰国できなくなる事を恐れた五郎治は彼等とも距離を置いた。そして抑留五年目のニ月にようやく帰国の目途がついた。
それは一種の人質交換だった。前年の文化七(1810)年に国後島で測量目的に上陸したロシア海軍少佐ゴロヴニン以下六名が幕吏によって捕えられていた。
副艦長だったリコルドは、五郎治と前年にカムチャッツカに漂着していた日本人六名とを日本に送還してゴロヴニン達を助けようとした。
政府の許可を得たリコルドは五郎治をイルクーツクからヤクーツクへ同行させたが、まさにそこに五郎治の後の人生を決定する出会いがあった。それは『Оспання Книга』という書物だった。 |
防疫戦線 きっかけはヤクーツクのとある商家での暇潰しに過ぎなかった。
たまたま『Оспання Книга』(オスペンナヤ・クニーガ:天然痘の書)というタイトルの本読んでいた五郎治はそれが種痘術の本であることを知った。
内容はイギリスのエドワード=ジェンナーが発見した牛痘(牛の天然痘)を人間に摂取して天然痘に対する免疫とする方法だった。天然痘に予防法があるとは五郎治ならずとも大変な驚きだった。その方法もまた然りである。
確かにこの当時日本人は既に遥か以前から一度天然痘に罹った人間が二度はかからないことを経験的に知っていた。
「免疫」の概念は知らなくても患者の膿を人為的に人に接種して完全看護下において発病を押さえて、「一度罹ったから二度と罹らない。」状態にしようとの試みは僅かながらにあったが、わざわざ病を体内に容れる方法に希望者は滅多におらず、本当に発病する者も出る始末だったから、自然立ち消えとなっていた。
本の内容に興味を覚えた五郎治は、ヤクーツクから帰国の為にオホーツクに移された際に、実際に牛痘を人に接種する作業も見せて貰った。
そしてリコルドに連れられ懐かしの日本に向かった。
五郎治達とゴロヴニン達との捕虜交換交渉は、幕府が「ゴロヴニンを処刑した。」とリコルドに伝えたため難航した。
しかし日露関係の悪化を避けようとしたリコルドが五郎治達の釈放を決定し、五郎治は六年ぶりに祖国の土を踏んだ(ちなみにゴロヴニンは実際には処刑されておらず、後に釈放され、帰国している)。
五郎治は一旦江戸に送られて幕府の尋問を受けるも、キリスト教に帰依しなかったことと拉致されての不可抗力での渡露であったことも考慮され、海外渡航を禁じる旨を言い渡された。
翌年松前に戻り、妻帯し、事件の発端となった「中川」の姓を許され、小役人としての生活に戻った。時に文化一〇(1813)年、中川五郎治四六歳。
ロシアから帰還後の彼はしばらくは小役人としての平凡な生活を送っていた。鎖国状態の日本では海外の情報が一般市民に知れることで一般市民が海外に興味を持つことを避けたいところだったが、五郎治も抑留中のことは自慢話でもなかったため、口を開くこともなかった。
だが、あいも変わらず猛威を振るう天然痘の惨禍が彼の存在を世に駆りたてた。
文政七(1824)年、帰国一一年目に函館で天然痘が流行した。奇跡的に牛痘にかかった牛の情報を得て痘苗を得た五郎治は種痘の効果を訴えたが、牛を食べることさえ一種の「汚れ」と見ていたこの時代、ましてや恐ろしい疱瘡を体の中に自ら取り入れることなど怪しげな異国の妖術としか見ない人が大半だった。
現代の我々は一概にこの当時の人々を笑うことはできない。小学校四年の時学校で行われたインフルエンザの予防接種直前に恩師より免疫のシステムを教えられた道場主は体内に病毒を植え込む実態に腰を抜かさんばかりに驚いたし、今日種痘が行われていないのは種痘が一万人に一人の割合で脳炎を起こしたりした実例があるからであり、それを考えると当時の人々の未知なるものへの恐怖は無理からぬ事だった。
だがここで五郎治は帰国にかけた時の執念を復活させて、懸命に人々に種痘を説き、遂に田中イクという当時一一歳の商家の娘に種痘を施すに至った。これこそが日本で最初に行われたジェンナー式(牛痘による)種痘であった。
そして天然痘の惨禍の中、イクが全く発病しなかったことから、当初は文字通り「悪魔に頼ってでも天然痘から逃れたい」と思う者だけが種痘希望者だったのが、徐々に希望者は増え、天保六(1835)年、天保一三(1842)年の天然痘流行の際にも五郎治の種痘を受けた人々は罹患を免れた事実が、理解と感謝の念を北海道に広げた。
西洋医学の最先端であった筈の長崎で最初の種痘に成功したのが嘉永二(1849)年であることを考えると、疫病神が北海道という島の民に加護を与えてくれたかのような歴史的偶然が生んだ奇跡だった(五郎治の知識も、牛痘の発生も)。
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余生 種痘は多くの人々に感謝された。
当初は金儲けを考えていなかった五郎治だったが、最初の種痘に成功した文政七(1824)年の時点で既に五七歳の初老だった彼はいつしか種痘が金になることを知り、自分にしかできない技術であることに執着し、その技術の独占を図った。
種痘をもっと広めたい、と考える多くの医師にその伝授を請われたが、白鳥雄蔵にだけは金銭の代償として教えたものの痘苗は譲らなかった。「植え疱瘡」を「生活の糧」と称した五郎治は自らの死後になら譲っても良い、と約束した。
嘉永元(1848)年九月二七日、誤って川に転落した五郎治は溺れて、そのまま帰らぬ人となった。享年八〇歳。
誠に惜しいことに白鳥が譲ってもらう筈だった痘苗は使い道を知らない五郎治の妻によって五郎治の遺体や他の医療器具と供に灰にされてしまった(丸で華陀の『青嚢の書』みたいだな…)。
白鳥は秋田に種痘を伝え、一時的な成功を収めたが嘉永四(1851)年に没した。
五郎治の痘苗独占には私欲的行為、との批判の声もあれば、医術の門外不出が通例だった当時の医師の世界で、医者でもなく、若き日から貧困・抑留に苦しんだ五郎治の半生を考えると無理もない行為であった、との同情の声もあった。
ともあれ日本で初めてジェンナー式の牛痘接種による種痘に成功し、多くの人々を救った男として中川五郎治は大正七(1918)年に北海道より開拓功労者としての表彰を受け、同一三(1924)年二月一一日の建国記念日に政府より従五位が追贈された。
生涯無位無冠だった中川五郎治への追贈は極めて異例である。ここからも天然痘駆逐に貢献したことが如何に人類の悲願であったかがうかがえるというものである。尚、五郎治の正確な墓所は不明。
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関連した人物
馬場佐十郎…語学の天才。元は優秀な幕府のオランダ語通詞(通訳)だったが、松前でロシア帰りの五郎治を尋問し、彼が持って返ってきた『オスペンナヤ・クニーガ』を異国の情報として没収したが、その内容が持つ重要性に注目し、これを翻訳する為ロシア語を学び、七年かけて翻訳に成功し、『遁花秘訣』と命名(「花」は中国語で天然痘を示す隠語でもあった。つまりは天然痘を免れる本の意)。更に三〇年後には利光仙庵によって『魯西亜牛痘全書』の名で刊行され多くの医師達の指南書となった。
白鳥雄蔵…函館の町年寄の白鳥新十郎の次男で、頼山陽に学び、のち医を業とした。幼き日に五郎治の種痘を受けており、その後数度にわたって、その伝授を五郎治に懇願し、技法のみ受け継ぐ。その後秋田に行き、藩医に伝えたので、秋田侯は領内に施すことを命じている。供に五郎治に教えを請うた高木啓策とともに約三五〇人に施し、みな効を奏したと伝えられているが、種痘を恐れる人も多く、痘苗が続かなかったことから一時的な成功で終ってしまった。
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笠原良策(かさはらりょうさく) 決死の雪中行
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略歴 文化六(1809)年、福井藩医師・笠原竜斎の子に生まれた。
江戸での遊学を経て典型的な漢方医としての前半生を過ごしたが、若き日より医術が余りにも天然痘に対して無力だったことに憤りを覚えていたことと、二七歳の時に旅先の北陸・山中温泉で加賀大聖寺の蘭方医・大武了玄との出会いを機に西洋医学にも目を向けるようになった。
良策は至って生真面目な男だった。そしてその分熱い男でもあった。
天然痘への無力を憤るのもその性格によるところが大きく、感染を恐れて医師までもが患者の家の前を逃げる様に走り去ったり、手段がないために牛糞の粉末を煎じて飲ませる、などという根拠も効果もない民間療法を自らも気休めと知りつつ施さねばならない現状に我慢がならず、天然痘対策を新たな知識に求めたことは必然的な成り行きでもあった。
福井に戻ると藩医・半井元冲(なからいげんちゅう)、町医・大岩主一等から西洋医学書を借り受け、蘭医を猛勉強した。
生真面目な良策は、自分にも他人にも妥協せず、蘭医も徹底的に学ばずにはいられず、天保一〇(1839)年に京都に出て、蘭方医・日野鼎哉(ひのていさい)に弟子入りした。時に笠原良策三一歳。
鼎哉に師事すること一年、新たな蘭医学を修めた良策は福井に帰って医師としての日々を送るが、天然痘を何とかしたい、更なる医術の進歩を、と思う彼の情熱は尽きることなく、三六歳の時に再び、京都に鼎哉を尋ねた。そして彼を待っていた鼎哉の元には『引痘略』という中国の書があった。
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防疫戦線 日野鼎哉所有の『引痘略』は中国=清で書かれた種痘の書だった。良策も鼎哉も当時の蘭方が漢方より優れていたのを認めつつも新しい情報−天然痘防疫の為のそれ−を常に洋を問わず求めていた。
『引痘略』は前述した様に種痘の書で、当時清ではスペイン→中米→南米→フィリピン経由で澳門(マカオ)にて種痘が伝わっていた。
著者は邱浩川(きゅうこうせん)で、危険な人痘接種ではなく、牛痘による種痘を記したもので、邱浩川自身一〇年以上の実績を持っていた。
その内容に感動した良策は鼎哉と共に本格的な実践について話し合った。その際に良策は中川五郎治の話も耳にして彼が痘苗を独占して種痘を途絶えさせたことを非難している。
問題は痘苗入手だった。既に長崎でシーボルト達によって蘭領インドネシアのバタヴィアから運ばれてきた痘苗を種痘する試みは為されていたが鮮度を失った牛痘苗に発痘の力は失われ、いずれも失敗に終っていた。
鼎哉が長崎に留学していた養子の桂州に痘苗の入手を命じていたが、蘭領より、清からの入手の方が鮮度も期待できると見た。但しその類の物を清より輸入することは国禁だった。
法的な例外を為す方法は二つ。特別な許可を国家権力から頂戴するか、密輸をするかである。生真面目な良策がどちらを採ったかの説明は要らないだろう(笑)。
良策が住む福井藩の藩主が革新的で名高い松平春嶽であったことは幸いだった。
良策は藩の許可を得るための春嶽への口上書を作成し、鼎哉がその加筆修整に協力した。
天然痘の惨禍、諸外国での種痘の効果、具体的な手順、実践の為に一切の私財を投げ打つ覚悟をしたためた長文からなる口上書は、しかし、長く藩主の目には止まらず、理解不能な怪文書として受付に留まっていた(木端役人が怪文書を出すことによる咎めを受けることを恐れたのである)。
嘆願書を提出して待つこと二年半、嘉永元(1848)年一二月三日、四〇歳になっていた良策は二度目の嘆願書を作成し、確実な受理を期して藩医・半井元冲を説き伏せ、良策の熱意に動かされた半井から側用人・中根雪江を経て、遂に春嶽の目に止まった。
春嶽は噂に違わず、即座に理解を示し、痘苗輸入の許可を幕府に求め、老中阿部正弘は医学的な内容こそ理解できなかったが、嘆願書が人命救助の為の物であることを認め、これを許可した。
阿部は長崎奉行大屋遠江守啓明に痘苗を清から輸入して福井藩に与えることを命じ、半井と中根も「直接長崎に取りに行ってはどうか。」と書簡で勧めてきた。
狂喜した良策は翌嘉永二(1849)年七月、長崎で楢林宗健による種痘が成功したことを知り、痘苗入手の為「たとへわれ 命死ぬとも 死ましき 人はし(死)なさぬ 道ひらきせむ」という決意の一首を残して、長崎に向かおうとして福井から京都の鼎哉を訪ねた。そしてそこに思いがけない幸運が待っていた。
鼎哉の元に長崎で種痘に成功した天然痘のカサブタが既に届いていたのである。
鼎哉は長崎から京都までの距離を考え、鮮度の期待できない従来の痘苗ではなく、保存の効き易いカサブタに期待していた。
詳細は「日野鼎哉」の項に譲るが、艱難辛苦の末、最後の望みにかけた悪足掻きが効を奏した様に京都での種痘は成功した>
良策は鼎哉達とともに同年一一月一三日に福井に向けて発つまでに一五〇人に種痘を施し、痘苗の増殖と種痘の定着をなし、緒方洪庵に痘苗を譲って大坂の種痘の礎を築くという快挙を成し遂げた。だが、良策最大の苦難はまさにここから始まった。
笠原良策最後の目的は地元・福井にて種痘を定着し、天然痘を駆逐することだった。そしてその為に一番重要だったのは痘苗を絶やさないことだった。
当時の医術では痘苗の保存は一週間が限界で、種痘を施した子供の腕に発痘が見られると滲み出る膿を採って新たな痘苗とし、一週間以内に他の子供に植え付けるという作業を繰り返さなければならなかった(実際、秋田の白鳥雄蔵による種痘は痘苗が絶えたことで断絶した)。
良策は京都から福井までの旅程一週間を考慮し、京から二人、福井から二人の幼児を雇い、未知の種痘に怯える幼児の両親を含め総勢一四名で京都を発った。
季節は一一月、「積雪がないと異常気象」とされる山岳地帯を女子供を連れての旅は困難を極めた。
京都→大津→草津→米原と経由し、そこで京童から福井童への種痘が行われた。この時も子供の両親が未知と天然痘への恐怖から説得に難渋したこともあったが、何とか種痘は行われた(役目を終えた京童とその両親はここで引き返した)。
いよいよ山岳地帯を越えての福井入りだったが、天の試練か悪魔の呪詛か、ただでさえ雪深い栃ノ木峠がこの時六尺も積雪したと伝えられている。
しかし時間に追われる良策一行に停止は許されず、良策は己の命に代えても子供達を福井に送り届けんとした(←薩摩守「いや、アンタが死んでも種痘は途絶えるのだが……。」)。
だが積雪に加えて猛吹雪が一行を襲い、遂には日没を迎え、一行の生命は風前の灯かに思われた。しかし疱瘡神は彼等を見捨てなかった。
事前に連絡を受けていた虎杖(現板取)の村落の人々が良策一行を心配して迎えにきていたために、すんでのところで良策一行は救出された。真面目な話、遭難寸前だった。
午後八時に虎杖に到着し、村人の手厚いもてなしを受けつつ、一夜を過ごした一行は翌朝に村を発ち、その日の内に今庄に着き、路上で計画通り府中(現:武生市)の三人の医師の子供達に種痘を施し、その後府中に到着した。京都を発って七日目、良策の決死の雪中行は終わった。
笠原良策の生涯を通じての天然痘との戦いには幾度もの苦難があったが、彼自身が命の危険にさらされた最大の苦難は間違いなくこの雪中行だった。
良策の激動の生涯を描いた吉村昭氏の小説が『雪の花』(新潮社)と銘打たれているのも納得が行くものである(「花」は中国語で天然痘の隠語で、良策達は種痘後の発痘を花に例えてもいた)。
既に妻に手配して、隣家を借り受けて種痘所としていた良策だったが、最後の苦難が彼を襲った。
都会である江戸や京・大阪、異国文化に触れやすい長崎・函館に比べて福井は余りに田舎過ぎた(薩摩守「福井県民の皆さん御許し下さい(土下座)」)。
牛肉を食べることさえ憚られた当時、「牛の疱瘡」をわざわざ体に取り入れる行為は民衆にとって狂気の沙汰としか映らなかった。勿論応じる人々は皆無に近かった。
勿論良策はこのことを予期し、藩にも助力を求め、持ち前の熱心さで多くの人々を説いて子供達に種痘を続け、辛うじて痘苗を保った。
だが、相変わらず種痘を信用出来ない役人は責任を恐れて良策の上申を握り潰し、彼の活躍を妬む漢方医達も悪評を囁き、ある日、良策の種痘を受けたものが疱瘡にかかって死んだとのデマまでもが流れた。
良策が頼みとした藩医・半井元冲は江戸にあり、良策も新鮮な痘苗を絶やさぬ為に民家を一件一件回っては怯える人々を説得して種痘を受けさせた。
この間良策は本業の医業も投げ打っていた為、全くの無収入で、協力してくれた医師・三崎玉雲や古くからの友人の援助だけで文字通り身を細らせて生き抜き、尽力していた。
しかしそんな彼を民衆は雪や石を投げて迫害した!そして皮肉なことに他藩の医師に請われて分け与えた痘苗の方が金沢・府中・鯖江・大野・富山、そして遠くは信州松代で活かされ、種痘の効果を挙げていた(勿論それはそれで良策及び理解ある医師達の立派な功績である)。
苦闘すること一年、時には自らの身を危うくすることも辞さず、苛烈な内容の上申書まで提出した良策だったが、参勤交代から藩主・松平春嶽と共に半井元冲が帰って来たことから道が開けた。
家老狛帯刀(こまたてわき)から出頭命令を受け、死を覚悟(←良策は狛にも藩の不協力を詰る書簡を出していた)で出頭した良策は口上書が正式に取り上げられたことと、種痘所を藩の公的機関「除痘館」とすることを言い渡された。
その後も偏見と迫害は続いたが、藩は正式に種痘の命令を下し、乱用を防ぐ為、良策のところのみを正式な種痘所とした。
嘉永五(1852)年二月一日、側用人中根雪江より笠原良策を藩医並びに種痘術指南を命じ、これに前後して種痘を受ける者が激増した。時に笠原良策四三歳。良くも悪くも国家権力の力は大きかった(笑)。
それから四ヶ月後、福井藩内にて天然痘の流行があったが、種痘を施されて罹患した者はなく、種痘希望は更に増え、「一日につき一〇〇人まで。」との制限が出来る程だった。
笠原良策は死ぬまで天然痘と戦い続けたがここに彼の勝利が確定した。
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余生 笠原良策から痘苗を分けてもらった半井元冲は参勤交代で松平春嶽の江戸行きに同行して、江戸での種痘に尽力した。
そして良策が福井での種痘の定着に成功を修めた翌年の嘉永六(1853)年に黒船が浦賀に来航し、時代は江戸から明治へと変遷した。
その年までに六五九五人に種痘を施し、ただ一人、発痘が見られないまま再種痘を行わなかった者が後に罹患した不幸な例外があったものの、もはや良策の功績及び彼の築いた種痘体制は些かも揺らぐことはなかった。
明治三(1870)年に良策は政府より孝顕寺病院医長介兼主務役に任じられ、その後文部省種痘免許を授けられた。
明治七(1874)年九月病気療養の為に東京霊岸島越前掘に移住。そして明治一三(1880)年八月二三日に世を去った。笠原良策享年七二歳。墓所は福井市田ノ谷町大安寺と東京都世田谷区下馬町にある。
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関連した人物
日野鼎哉……「日野鼎哉」の項参照。
半井元冲……福井藩藩医。良策の蘭学及び藩主・松平春嶽との仲を取り持つ。
中根雪江……福井藩側用人。半井を通じて良策の建議を藩主に伝えると共に藩命を出して種痘普及に協力。彼の助けなくば良策の種痘は確実に中途にて頓挫しており、中根の死を知ったとき、良策は深く嘆き悲しんだ。
松平春嶽……福井藩藩主。開明的な藩主として高名。緊迫する鎖国情勢の中で異文化への理解も深く、中根・半井を通じて出された良策の建議も殆ど迷うことなく採択。種痘を「異国の妖術」と恐れる民衆が多い中、藩の協力は欠かせないものであり、理解ある藩主を持ったことは良策は勿論福井の幸運であった。
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