天然痘と戦った人々


 最終的に天然痘は牛痘を接種して免疫を得た人類の前に感染する先を失い、地球上から絶滅した。免疫学の勝利である。そして人類はワクチンやウィルスの存在を知る前から一度天然痘にかかって平癒した人は二度は罹らない事を認識していた。
 そして牛痘による種痘以前にも人為的に天然痘を移して「二度目はない。」のシステムに挑んだ人々がいた。その危険なシステムは後々の医学にも繋がっていくのであった。
緒方春朔(おがたしゅんさく) ジェンナーに先立つ天然痘予防
略歴 延享五(1748)年に久留米藩士瓦林清右衛門の次男に生まれた。
 通名を惟章(これあき)といい、久留米藩医緒方元斉の養子となり、その養家の家業を継ぐ為、長崎に遊学し、蘭方医を学んだ。

 天明(1781〜1788)の頃、筑後久留米を去って祖父の地である筑前秋月(黒田家の支藩)に住んだ春朔は大庄屋天野甚左衛門の離れに寄宿していたが、寛政元(1789)年秋月藩第八代藩主黒田長舒(くろだながのぶ)に召し抱えられ、藩医となった。

 その年、秋月藩内では天然痘が流行。長崎遊学中より天然痘対策に強い関心を持っていた春朔は立ち上がった。
防疫戦線 話は緒方春朔の生まれる四年前の延享元(1744)年、清国から李仁山(りじんざん)が長崎に鼻乾苗法(天然痘の痘痂を粉末にして鼻から吸い込む方法)を伝え、人痘種痘が実施されたが不成功に終わっていた。

 清ではトルコ経由で人痘法が伝えられていた。清朝最全盛の乾隆帝(六代目:在位1735〜1795)の頃には『医宗金鑑』(いそうきんかん)という医学書が編纂され、春朔はそれを所持し、自らの医学の指南書としていた(乾隆帝は思想弾圧を行っているが、秦の始皇帝が焚書に際して、医・農・占いは例外とした様に古来医学には寛容かつ力を入れていた)。
 そして『医宗金鑑』の第六〇巻が痘科の部で「種痘心法要旨」となっていた。

 寛政元(1789)年冬に始まった秋月藩内の天然痘の流行は翌年更に惨禍を増した。
 春朔「種痘心法要旨」にある鼻乾苗法に習って、痘痂(かさぶた)を粉末にし、これを銀管中に盛り鼻腔内に吹き入れる方法を採ろうとしたが、吹き入れ方がまずいと涙が出たり、むせたりして、せっかく入れた痘痂粉末を吹き出してしまい、うまく植え付かないと考え、吹き込む方法ではなく、木のヘラに痘痂粉末を盛り、これを鼻孔より呼吸とともに吸い込ませる方法を考案したのである。
 何か麻薬の鼻腔吸引を想像してしまうやり方だが(苦笑)、春朔は「これを用いるに百発百中、応ぜざるは一つもなし」と言った。

 人痘種痘は寛政二(1790)年二月に行われた。坂田某のという酒屋に天然痘患者がでたが、極めて軽く順症であったので、その痘痂を納め、居候していた大庄屋天野甚左衛門の申し出により、天野の二人の子に実験を試みた。
 二月一四日、慎重を期して子供達を診察すると、健康で種痘には最適の体温と判断し、早速種痘を行った。その一週間後である二月二一日、次男が熱が出たと知らせてきたので、早速行って診察した。
 その症状は風邪か感冒に似た症状いう状態であった。前日の晩、長女も同様の状態となって、それから三日して痘が出た。しかし軽症で心配のない状態で、一一日後には痘は枯れて治まった。人痘種痘は成功した。

 この成功をを聞いた同村庄屋本田某の懇願により、その二児にも種痘を行い、さらに藩主の医師仲間の協力によって、それぞれの子供達へも試み、種痘法をより確かなものにした。それはジェンナーの牛痘式種痘に先立つ事六年前の話だった。
 春朔もまた忌み恐れられていた天然痘という病気を、軽いとはいえ発病させて免疫を作るという、当時の人々には、考えもつかないことを押し進める中で不審や異常な物を見る視線と戦った。
 実際、人痘法の危険性(牛痘による種痘だって完璧に安全な訳ではない)を考えれば、春朔の行為は手放しでは賞賛出来ないのだが、それでも春朔が種痘を普及させんとした熱意は凄まじいものがあったことに間違いは無かった。
 春朔は、医師はもちろん一般ピープルにも種痘を理解させねばならないと考え、医学書が漢文で書かれていたこの時代に読解の容易な和文にて種痘書『種痘必順辨』『種痘緊轄』を出版したのである(これが一般向けである証拠に、彼が著した医師向の種痘書『種痘證治録』は漢文で書かれている)。

 注目すべきは春朔がその序文の中で、この種痘法の出典が清の『医宗金鑑』であることを明らかにしていることである。
 当時の習慣では出典を明らかにせず、自ら著述した医学書を神格化したり、名誉と実利の為に処方を門外不出とすることが多かったことを考えれば、異例であると同時に春朔が心の底から人々を天然痘から救わんとしていた事がうかがえる。
 これに習ったものであるかどうかは不明だが、後年笠原良策も『牛痘問答書』という問答形式の簡易な文章の書物を出して人々から種痘への偏見と恐怖を取り除く為尽力した。
余生 種痘の成功により春朔の名は全国に知れ渡り、治療を願う者が多く、参勤交代のともで江戸へ途上の宿舎に治療を願う者が訪れるほどだった。
 各藩主はこの話を聞き、藩医を入門させて種痘法を学ばせたため、春朔の門人は、門人帳に記載されているものだけで六九名を数えた。その内二〇名は藩医で、その出身地は江戸、京都を始め、広く各地に及んでいるが、殊に九州は、日向二名、豊前一名、肥前一六名、筑前一〇名、豊後二名、肥後一名、筑後七名と、地縁もあってか群を抜いていた。

 だが、春朔の人痘種痘は春朔自身の好評を博したが、後が続かなかった。人痘が免疫に留まらず、実際に発病したり、死亡したりする者も出たためであった。
 ただ、春朔がそれによって非難を受けた形跡は見られない。失敗例には接種後の処置に誤りがあったかもしれないが詳細は不明である。
 緒方春朔は文化七(1810)年一月二一日に享年六三歳で没した。その前年には福井に種痘を広めた笠原良策がこの世に生を受け、さらにそのニ年前に択捉島では後に牛痘種痘術を日本に持ちかえった中川五郎治がロシアに拉致されていた。
 緒方春朔は秋月町長生寺に眠っている。没後約一世紀を経た大正五(1916)年、緒方春朔は正五位を追贈された。
関連した人物
天野甚左衛門……秋月で春朔に住居を提供する。彼の考えに理解を示し、自らの子供に種痘を受けさせた。全く前例のない中でのこの決断は仮に無謀に依るものだったしても注目に値する。
黒田長舒……秋月藩八代目藩主にして中興の名君。日向高鍋藩主秋月種茂の次男。母方が黒田家と縁続きだった為に養子となる。父の弟は上杉家に養子に行った有名な上杉鷹山で、その影響を受け、春朔を始めとして、政治・文化に能力のある逸材を多く用いている。



 天然痘は様々な意味で長く人類を苦しめた最悪の病の一つである。天然痘と戦った人々の経歴を見ると決して彼らが一人で戦ってきたものでもなければ偶然の産物や幸運だけに頼ったものでもなく、多くの人々、多くの努力がその背後に光ることを必然的に気付かさせられる。
 そして人と人の繋がりによる尽力という意味においては人後に落ちない男がいる。その男は恐らくはこのコーナーに取り上げた人物の中では最も有名な男でもある。
緒方洪庵(おがたこうあん) 対天然痘に留まらない歴史的貢献
略歴 文化七(1810)年に備前足守藩藩士佐伯惟因の三男に生まれた緒方洪庵は蔵屋敷留守居役の父に従って蔵屋敷の本場にして天下の台所・大坂にて文武の修業に励んでいた。
 だが病弱の身から「武」よりも「医」の道を選び、一六歳の時に蘭方医・中天游(なかてんゆう)の門を叩いた(八歳の時に天然痘を患い、一命を取り留めたのが関係している)。

 先祖の姓である「緒方」を名乗ったのはこの時からである。
 その後師に勧められてニ二歳で江戸に出ると蘭方医坪井信道に、そしてその坪井に勧められて宇田川玄真にも入門した。
 天保七(1836)年に師の中天游が没するとその子の中耕介を助けて大坂で蘭学を教えたが、翌年には長崎に飛び、この地でも遊学に励んだ。師はオランダ商館館長ニーマンで、青木周弼とは蘭書の翻訳に共に励んだ。
 二年後の天保九(1838)年に大坂に戻った洪庵は医業に勤しむ一方で、適塾(適々塾や適々斎塾とも言う)で蘭方、蘭学を教え始めた。時に洪庵二八歳。

 この適塾が後に三〇〇〇の門弟を数え、大鳥圭介、大村益次郎、橋本左内といった幕末明治の著名人を数多く生んだことは有名である。特に福沢諭吉は有名である。誰か彼の肖像画の入った紙を数枚ばかり薩摩守には頂けないだろうか(笑)。
防疫戦線 緒方洪庵の天然痘との戦いにおける功績は人材育成と共に甲乙つけ難いほど大きい。
 楢林宗建が長崎で牛痘による種痘に成功した嘉永二(1849)年、その痘苗を元に京都でも日野鼎哉と笠原良策が種痘を成功させた直後の一一月一日、洪庵は日野葛民(ひのかつみん)を伴って鼎哉邸を訪れ、牛痘苗の分与を打診した。

 幕府や藩の許可の問題から即答を避けた良策だったが、天然痘をどうにかしたいという想いは洪庵と同じで、この時の良策はまだ地元福井に種痘を持ちこむ寸前だった為、京都だけではなく、大坂にも種痘が広まるのはあらゆる意味で望む所だった。

 良策は福井藩に許可を求め、洪庵達は一度大坂に引き返した。藩医・半井元冲を通じて協議された結果、本来福井藩に分与されるべき痘苗ではあったが、大坂を京都同様に福井の痘苗の源の一つにするため、藩医から大坂の町医に「下賜」する、という名目で、許可は為された。
 「お役所仕事によるつまらん面子にこだわった七面倒臭い話だ!」と思いたくなるが、当時の福井−京都間の往復を考えると僅か五日で許可が下りたことは高評に値するだろう。

 一一月六日、鼎哉と良策は種痘を施した子供を一人伴って大坂に行き、翌日、古手町に設けられた除痘館の神棚の前で、礼服を着た鼎哉、良策、洪庵、葛民が揃い、厳粛な空気の中で「越前藩医笠原良策」から「町医者緒方洪庵・日野葛民」に口上書とともに痘苗の分与が許可された旨が伝えられ、鼎哉と良策が連れてきた子供から大坂の子供に種継ぎによる種痘が行われた。これこそが大坂で初めて行われた種痘であった。時に緒方洪庵四〇歳。

 洪庵もまた他の種痘に尽力した面々同様に民衆の未知への恐怖と戦わざるを得なかった。
 近隣の医家との連携で種痘を勧めたが、「牛痘は益無きのみにあらず、却って児体に害あり」という悪説が流布し、洪庵は貧しい家の子供四、五人を雇って民衆を説得した上に種痘に応じてくれた者には米や銭の謝礼を渡した。
 普通逆である。中川五郎治に聞かせてやりたかった(笑)。

 洪庵の種痘への尽力は本業である医業を犠牲にするもので、協力者達は次々に脱落していった。洪庵の力になったのは天満(現:大阪市北区)の与力・荻野七左衛門とその父・勘左衛門、尼崎町(今橋)の平瀬市兵衛の母といったボランティアの参加だった。

 洪庵は種痘を金儲けにする医者の出現を危惧し、開始と同時に役所に除痘館一ヶ所のみでの種痘許可を陳情し続けること数十回、一〇年目の安政五(1858)年四月にようやく許可された。時は日米修好通商条約が結ばれた年でもあった。時に緒方洪庵四九歳。

 緒方洪庵が他の種痘に尽力した人々と比べて時に特筆すべきは一〇年に及ぶ尽力が町医者に過ぎない洪庵と数人のボランティアの手によってのみ為されたと言うことである。 
余生 緒方洪庵が公的にも種痘活動が認められた翌月、江戸でも伊東玄朴等蘭方医八〇名が神田お玉ヶ池に種痘所を開設した。また同年、コレラが流行するが洪庵はいち早く,それに関する医書を刊行するなど,素早い反応をみせた。

 文久二(1862)年、幕府奥医師・伊東玄朴に強引に召され、奥医師兼西洋医学所頭取兼法眼に叙せられたが、長年の激務と重責が体に祟ったのか、在職すること僅か一〇ヶ月後の文久三(1863)年六月一〇日に洪庵は江戸の取屋敷で突然喀血するとそのまま息を引き取った。肺結核だった。緒方洪庵享年五四歳。
 墓は東京駒込の高林寺にあるが、大阪北区の竜海寺にも遺髪が埋葬されている。
関連した人物
中天游……洪庵の最初の師。多くの師を持つ洪庵だが、中を初めそれぞれの師に勧められての事であり、それは教育者としての洪庵にも大きな影響を与えた。
青木周弼……蘭方医。長崎でシーボルトに師事し、長州藩侍医で洪庵と共に蘭書の翻訳に尽力している。長州で多くの人材を輩出した明倫館の医学所、好生館の会頭兼蘭学掛を務めた所などは洪庵と似たものがある。弟の研蔵も優れた医師でこの研蔵の婿養子が周弼の「周」と研蔵の「蔵」を取って名乗りとした有名な青木周蔵である。
日野鼎哉……洪庵に自らが成功した牛痘苗を分与。上記及び「日野鼎哉」の項参照。
笠原良策……洪庵に自らが成功した牛痘苗を分与。上記及び「笠原良策」の項参照。
日野葛民……洪庵と共に日野鼎哉・笠原良策からの牛痘苗受け取りに協力。
大村益次郎……洪庵の適塾の教え子。徴兵制を確立。暗殺者に襲われ、洪庵の治療も空しく死亡。靖国神社にある立像は上野の西郷隆盛の銅像と向き合っている……らしい。
福沢諭吉……有名な一万円札の親父。洪庵の適塾の教え子。思想家として説明不要の有名人。
手塚良仙……洪庵の適塾の教え子。蘭方医となり、伊東玄朴等とともに江戸での種痘普及に尽力。超有名な「漫画の神様」・手塚治虫は曾孫。
伊東玄朴……幕府奥医師。徳川家定の主治医も務める。江戸での種痘普及に尽力し、洪庵を強引に採り立てた。



 天然痘は余りにむごい病である。現代医学を持ってしても発病してしまえば有効な治療法はなく、助かっても生涯残る痘痕に苦しむことになることに変わりはない。
 そしてそのむごさゆえに人類はそれを眼の仇とし、その予防に尽力し、ジェンナーが種痘を発明するに至ったが、その感染力の前に「撲滅」となると本腰を入れる者はなかなか現れなかった。
 しかし最後に登場する人物が遂にそれを成し遂げた。その人物は令和五(2023)年三月一七日に九六歳で没するまで生き、人類と感染症の戦いを影に日向に支え続けた。
蟻田功(ありたいさお) 天然痘を地球から駆逐した人類の恩人
略歴 大正一五(1926)年五月一五日熊本県に蟻田功は生まれた。何せ、本作制作時から二〇年近く御存命だったので、敬称が付いたり、省略されたりすることを御容赦頂きたい(苦笑)。
 昭和二四(1949)年に熊本医家大学(現熊本大学医学部)を卒業すると翌年厚生省厚生技官となり、蟻田が医学博士となった昭和三〇(1955)年は、日本で天然痘患者が出た最後の年となった。

 昭和三七(1962)年に、より多くの人々を救うため世界で疾病と戦うことを志して厚生省を辞した蟻田は、世界保健機関(WHO)でリベリアでの感染症対策に参加するが、そこで天然痘に苦しむ人々の実態に接した。
防疫戦線 リベリアで感染症と戦う蟻田が各地で天然痘患者発生の報告を受けて駆け付けると「二名発生」の筈が二日後には三〇〇名の患者が待っているような有り様だった。

 何度か書いたが天然痘は今尚発病すれば良くても三〇%の確率で命を失う。そして人類は(人種として)未経験の病の感染にはとても弱い。蟻田の目の前で多くの子供達が感染し、為す術なく命を落としていった。
 種痘による予防以外に有効な手段はない。蟻田は天然痘の撲滅を多くの子供達の霊に誓った。

 二年の任期を終えた蟻田はスイスのジュネーブに飛んだ。ジュネーブにはWHOの本部が在り、蟻田は天然痘撲滅プロジェクトに誘われていた。しかしプロジェクトの実態はひどいものだった。
 昭和三三(1958)年に一度撲滅計画は発動していたが四年経っても成果が上がらず、「取り敢えず人を配置しておく。」という体裁を取り繕うに過ぎない物だった。参加者は蟻田一人で、予算もなかった(←何処が「プロジェクト」だ?しかし…。)。

 蟻田は昭和四〇(1965)年、四一(1966)年の二年間を米国の疾病管理センターから専門家も呼んで実態調査・戦略作成に力を注ぐ内に理解者も増え、ついに昭和四一(1966)年にWHO総会はWHOの年間予算の五%に当たる二五〇万ドルを毎年供出する世界天然痘根絶計画の強化を可決し、昭和四二(1967)年にプロジェクトは発動した。

 しかしながら天然痘根絶を夢物語と見る目も多く、蟻田を止める声も少なくなかった。
 そんな中、一〇年の期限つきで始まったプロジェクトは種痘を地道に普及させるものだったが、流行国全域に行き渡らせるには(二五〇万ドルはそれはそれで大変な高額だったのだが)予算も人手も何もかもが不足していた。

 最も天然痘の害がひどく、「天然痘常在国」と見られていたインドの天然痘を撲滅させることが出来れば他国での撲滅も可能とした蟻田達は三〇〇万人の患者が常在すると言われたインドに飛んだが、様々な障害が立ちはだかった。
 根絶を不可能と見る為政者達は諦観にとりつかれ、天然痘の実態を明かそうとはしなかった。
 「この国の天然痘対策の責任者は私だ。私が『患者数0』と言えば『0』なのだ。」と言う者さえいたと云う。
 また、宗教上の問題もあった。インドでは天然痘に罹った人々に幸福をもたらすシトラ・マタというヒンドゥー教の女神への信仰があり、種痘をヒンドゥー教と相容れないものと見る向きもあったが、蟻田達は万事に地道な行動を続けた。
 種痘については牛痘がヒンドゥー教徒の神聖視する「牛」に基づくものであり、牛痘を体に容れることは天然痘に感染することと相通じるのでシトラ・マタの祝福を招き得るもの、として説得した(←迷信を頭ごなしに否定するのではなく、尊重した上で上手く説得しているのが素晴らしい)。

 蟻田達の地道な説得活動の前に理解者も増えていったが、天然痘の感染力は凄まじく、地道な種痘活動では追いつけなかった。そこで蟻田がとった方法は天然痘患者に関わった人々にターゲットを絞ったものだった。

 ここでこの後の話を分かりやすくする為、敢えて全然関係のないジャンルに話が逸れることをお許し願いたい。
 それは道場主がかつて『スケ番刑事』『仮面ライダーBlackRX』で見た卑劣な作戦である。
 その作戦とは、ターゲットを孤立させる作戦で、主人公に関わった人々を前者では襲撃して怪我を負わせ、後者では主人公に親しい人々に主人公に「関われば殺す!」と脅した。両番組の主人公は無関係な人間や親しい人々に危害が及ぶのを恐れて周囲の人々から距離を置き、次第に孤立していった。

 チョット、ニュアンスは異なるのだが、蟻田が取った作戦にこれらと似通ったものがあった(勿論、前述の二番組は天然痘撲滅後の制作である)。
 蟻田は、天然痘患者が出るとその患者の発病一ヶ月前から接触した人々を種痘のターゲットとした。
 つまりは発病の可能性の濃厚な人間を次々と種痘することで天然痘の感染拡大を防ごうとしたもので、患者のウィルスは感染先を無くして孤立した。
 感染先亡きウィルスには「死あるのみ」である。細菌より遥かに小さな存在であるウィルスは宿主や感染先を持ってこそ恐ろしい存在だが、単体では代謝もエネルギー産出も行えない弱い存在で、感染している宿主の抵抗力で殺されるか、逆に宿主が死ぬとエネルギー供給源を失って死ぬ。つまり周囲に感染先が亡くなると滅びるしかないのである。

 作戦は効を奏し、最も困難と思われたインドから天然痘患者が激減した。
 それ以前にも天然痘常在地は次々と地球上から消滅しており、作戦開始二年目の昭和四三(1968)年にはまずアルゼンチンで患者数ゼロが報告された。
 更に二年後の昭和四五(1970)年では西アフリカ全域から患者が消えた
 翌昭和四六(1971)年に中央アフリカと南米から天然痘が根絶された。
 道場主がこの世に生を受けた昭和四八(1973)年の段階で患者が存在した国はソマリア、エチオピア、インド、パキスタン、バングラディッシュ、ネパールの六ヶ国を残すのみとなっていた。
 それに前後して当初四〇名で始まったプロジェクトは期限中間地点の五年目にして八〇〇名が参加するまでに拡大していた。

 肝心のインドでは患者と接触した人々に重点を置いた前述のプロジェクト発動一年半にしてインドから天然痘は撲滅された。既にパキスタン、ネパールで天然痘は根絶されており、昭和五〇(1975)年にはバングラディッシュで確認された三歳の女児の患者がアジアで最後の記録となった。
 その翌年である昭和五一(1976)年には必要性より万分の一の危険の方が大きいと見なして日本では定期種痘が停止され、更に翌年の昭和五二(1977)年、蟻田は世界天然痘根絶対策本部長就任した。
 インドを初めとする南アジアでの天然痘根絶でほぼ勝利が見えたかに思われた。だがその直後に蟻田に最後の難題が降りかかった。

 それはアフリカはエチオピアでのパンデミック(感染爆発)で、遊牧民によって運ばれたウィルスへの対応が跳梁跋扈するゲリラ活動の前に阻害され、プロジェクト発動以来蟻田の右腕となって協力してくれたクラウディア・アマラル(ブラジル出身)が行方を絶つ始末だった。
 だがアマラルは逆にゲリラ達を説得し、最後にはゲリラ達が種痘を請う様になった。

 そして昭和五二(1977)年、アフリカはソマリアで天然痘患者を病院に運ぶ為に車を運転したホテルの調理師が不幸にも僅か数分の同乗で感染してしまい、発病したのが史上最後の天然痘患者となった。
 昭和五四(1979)年ケニアの首都ナイロビでWHO世界天然痘根絶確認評議会が天然痘の根絶を確認し、昭和五五(1980)年にWHO総会にて「世界天然痘根絶」が宣言され、ここに蟻田功をリーダーに、のべ七三ヶ国、二〇万人が参加した戦い並びに六〇〇〇年に及んだと思われる天然痘との戦いは人類の勝利に終わった。道場主が天然痘に怯えたのはその翌年で、道場主の両親は我が子の臆病を嘆きつつ、この病が既にこの世に存在しないことを何度も言い聞かせたのを覚えている(苦笑)。
余生 天然痘を撲滅させ、日本に戻った蟻田功は昭和六〇(1985)年に故郷にて国立熊本病院長となった。
 平成四(1992)年には国際保健医療交流センター副理事長就任し、平成五(1993)年に国際保健医療交流センター理事長就任した。

 平成一四(2002)年三月、NHKの『プロジェクトX‐挑戦者達』蟻田達の天然痘との戦いのドキュメントが放映された。その熱き戦いは天然痘の撲滅が如何に人類にとって悲願であったかと言うことと、今尚地球上の多くの疾病との戦いとその為に多くの人々の尽力が大切であることを若者達に説く蟻田功氏の姿が流されていた。
 また平成一九(2007)年一一月二八日に同じくNHKにて放映された『その時歴史が動いた』にて緒方洪庵の天然痘との戦いが放映された際にゲストとして出演。御歳八一歳(当時)にして矍鑠たる姿を見せていた。

 それから一三年後の令和二(2020)年、世界は新型コロナウィルスによるパンデミックに襲われた。感謝の情報やワクチンによる副作用を巡って、様々なデマや誹謗中傷が飛び交い、薩摩守はかつて種痘が多いに恐れられたのも無理ないと思いつつ、精神的に当時と比して地球人が成長していないことに辟易もした。
 そんなコロナ禍が始まった時、蟻田氏は九三歳だった。令和のパンデミックに氏が何かをしたと云う話は寡聞にして耳にしていないが、恐らくは老齢故に引退同然だったと思われるし、もう充分戦われたと云って良かった。

 そしてコロナによる非常事態宣言がいよいよ解除されようとして矢先の令和五(2023)年三月一七日、熊本県内の高齢者施設にて老衰のために天寿を全うした。蟻田功享年九六歳。
 葬儀・告別式は長女を喪主として近親者のみで執り行われ、その逝去が世に公表されたのは逝去から二ヶ月近く経過した同年五月八日のことだった。蟻田氏の逝去が公表されたこの日は四三年前に天然痘の撲滅が宣言された日だった。
 恐らくは、蟻田氏が生前成し遂げた、歴史的偉業を再認識し、個人の偉業を讃え直す意味で敢えてこの日を逝去を公表する日にされたのだと薩摩守は捉えている。

 薩摩守が本作を制作したのは平成一六(2004)年のことで、蟻田氏が逝去する一九年前のことだった。蟻田氏は本作のみならず、戦国房全体で見ても採り上げた人物の中で唯一の存命者だった。それ故、氏の逝去により、記載内容は書き換えと追記を余儀なくされた。
 制作した時点で七九歳だった蟻田氏を薩摩守は「天然痘を地球から駆逐した生き仏」と評した。いついつまでも「生き仏」でいて欲しかったが、到頭「生き仏」でなくなったことは九六歳という充分に天寿を全うしたと云える享年を鑑みても惜しまれてならない。
 改めて、蟻田功氏が天然痘撲滅の為に為した尽力に敬意を抱き直し、人類が天然痘に怯える必要がなく日々を送れる事への感謝を深め、謹んでその御冥福をお祈りする次第である。

 蟻田功先生、本当にありがとうございました!!
関連した人物
ドナルド・A・ヘンダーソン……アメリカ人。蟻田の天然痘撲滅プロジェクトの中心人物。ジョンズ=ポプキンス大学公衆衛生学部長
フランク・フェナー……オーストラリア人。蟻田の天然痘撲滅プロジェクトの中心人物。オーストラリア国立大学名誉教授
クラウディア・アマラル……ブラジル人。多くの知人を天然痘のために失っており、蟻田の根絶プロジェクトに協力。エチオピアではゲリラに囚われの身になるも逆にゲリラ達を説得して種痘を施した胆力と誠意の持ち主。
アウバ・アマラル……クラウディアの妻。夫と共に天然痘撲滅に全ての時間を割くことを誓い、撲滅の日まで子供を作らないとした。天然痘撲滅の一年後に長男ルイスを産む。夫婦はルイスを通称「ゼロ」と呼んでいる。何を指して「ゼロ」なのか説明の必要はあるまい。



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令和五(2023)年五月二三日 最終更新